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「何、瑶子と婚約、ですって」
利男の顔は一時に蒼白になった――彼女が我が娘によって家を追い出され目下行方不明だと、どの口で言えよう。自分と央間氏とで結託し、無実の罪で指名手配をして捜索に当たらせているのだなどと、間違っても口にできない。ああ、どう誤魔化すべきだろうか……彼が必死になって、出そうにない知恵を絞り出そうとした時。
「御免遊ばせ、如月様」
突然、ノックもなしに扉を開けて入ってきたのは、若子である。露路は彼女の出現に驚き、また微かに嫌悪の表情すらその目元に浮かべかけたのだが、幸か不幸か、彼女は気づかなかった。彼女はあらん限りの媚を湛えて、露路に近づいていく……。
「ねえ如月様。真心から申し上げますが、あなたはとんでもない勘違いをしていらっしゃいますわ。瑶子さんは私達のする親切にもかかわらず、この家を飛び出しておしまいになったのです。私達は心配して方々を探させていますが、一向音沙汰もなく……最近人づてに聞いたところでは、旅芸人になって央間村の方をうろついているとかいうことです。仮にも富貴家の娘として過ごした時もあったのに、やっぱり血は争われぬものですわね。あの子は私達の血縁の者でなく、伯父が友人から引き取ってきたんです。噂では、その友人も、大陸から落ちのびた罪人どもの子供を拾って我が子にしたんだそうですわ。素性の卑しい血が、きっとこの頃になってあの子の中にうずいて、恩を仇で返すような行動に走らせたんでしょうねえ」
「……」
「如月様、あなたはとてもお優しい、ご立派な方だから、厳しいこともこうして申し上げねばならぬ私の気持ちを、わかって下さいましょう。瑶子さんは、可哀想な身の上ではありますけれど、到底あなたの妻になれるような娘ではありません。私、本当にあなたをお気の毒に思いますわ。真心のまるでない、薄情な瑶子さんを愛したばかりに、これから失恋の苦しみを嘗めなければならないのですもの。私でよろしければ、いつでも飛んでいって、まことの心からお慰めいたしますものを……」
今や若子は露路の隣に座して、その両肩に手をかけて、耳元で囁きかけるように喋っている。都合よく捻じ曲げられた物語が、二人の間に甘ったるく漂う。露路は自分の膝に視線を落としているので、若子には、彼の端整な横顔しか窺い知ることができない。
「ねえ如月様。いいえ、露路様と呼ばせて下さいませ。ここにも、あなたのお心を思いやるひとりの乙女がいるという証に……」
「どうぞ、ご勝手に。しかしながら、あなたが思いやって下さるのは、私の心ではなく、私の指輪の方でしょう」
「まあ、決してそんなことは――」
否定しようとする若子だったが、その目線は紛れもなく、彼の指輪にのみ強く惹きつけられている。彼はそんな彼女に、初めて目を向ける。そこには、軽蔑の色がありありと現れていた。
「瑶子さんが薄情な方でないことは、私はよく知っております。それどころか、瑶子さんは実に優れたお心の持ち主でいらっしゃいます。その血筋が、たとえあなたのおっしゃるような卑しい身分の者から出たとしても、私は一向差し支えないと思っております。……よいものをお見せしましょう。どうぞ、ご覧下さい」
彼が懐から取り出したものを一目見て、若子はアッと声を上げた。洋服の裏地のようなのを用いて作られた、西洋式の仮面……。それはかつて夜会で、あれが貧乏貴族の何某だと皆で散々馬鹿にしてきた青年のものに相違ない。しかしながら、あの青年は擦り切れた衣服で、目の前の露路は立派な身なりをしている。ふたりが同一人物とは、若子は俄かに信じられず、暫し相手の顔と仮面とを見比べてばかりいた。露路はそんな彼女に構わず、話を続ける。
「私はかねてから決めていたのです。如月家当主の地位にこだわらず、私という人間そのものを愛して下さる方を、生涯の伴侶にしようと。そのために、素性の明らかにならぬようこんな変装をし、信用のおける伴だけを連れて方々に出かけたわけです。……誰ひとり、本当の私に気づく者はありませんでした。どなたも私を貧乏貴族と信じ込んで、知らぬふりを決め込むか、あなたのように蔑んで馬鹿にするか、大方そんなところでした。しかしその中で唯ひとり、私と伴の者に親しく話しかけて下さる方がおりました。それが、瑶子さんだったのです」
「ホホホ……きっと瑶子さんは、あなたの正体をそれとなく嗅ぎつけたんでしょうよ。でなければ、自分がいつも独りきりだから気まずくなって話し相手を探しに行ったんですわ」
「私を知っているような態度は、あの方は少しもなさいませんでしたよ。それに私の見たところ、あの方は独りぼっちで時間を持て余すような人ではありませんでした。『明眸の君』と称せられて、大変に崇拝者が多かったようです。一体にあなたは、瑶子さんのこととなると何でもかんでも悪くお取りにならなければ、お気が済まないのですね」
後半の方は明らかに、呆れや嘲笑を含んでいる。彼は懐に仮面をしまいかけて、ふと思い出したように告げる。
「あなたは瑶子さんを薄情だとおっしゃいましたね。私からも一言、申し上げます。身なりや他人の噂だけで人間を判断し、態度をお変えになるあなたも、十分そのそしりを受けねばなりますまい」
そして、正面の席でおろおろしていた主人の利男に、頭を垂れる。
「どうも、客の分際で無礼をいたしました、お許し下さい。では私はこれでお暇いたします」
「はあ……」
「失礼いたします、富貴さん――」
椅子から立ち上がった露路。「待って下さい」と若子は、咄嗟に相手の手に縋る。大粒のダイヤモンドが彼女の目の前に閃く。
彼はうるさそうに、彼女の手を払いのけて、物をも言わず去っていった。
「……ああ、悔しい、悔しいッ」
彼女は手近にあった灰皿を床に叩きつけても収まらないほど、猛り立った。それは、名誉ある侯爵家の妻の地位を得られなかったからか。大きなダイヤモンドをみすみす手にし損ねたからか。眉目秀麗な婚約者にありつけなかったからか。彼女にもどれが真の理由か判別できなかったが、とにかく腹立たしくてならないのは確かだった。
「何が真心よッ、そんな目に見えないもののために、何で私の幸福が奪われなきゃならないのよッ」
絶叫するなり彼女は、二枚目の灰皿を、今度は壁に向かって投げつける。間一髪で避けた父の利男、諫めることも忘れてほうほうの体でそこを逃げ出した。
それから大分経って、やっと静かになった応接間は、原形をとどめぬほど荒れ果てていたということである。
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