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「おい、如月様のお車だ!」

「道を開けろー!」


 紗百合も瑶子も、そちらを見やった。――エンブレムの辺りに紋章入りの小旗がちらりと翻る、見るからに立派な自動車。運転手はハンドルを巧みに操って車を停止させ、颯爽と外に降り立った。脇に並んだ人々に敬礼する、その品の良さ、折り目正しさ。彼が単なる運転手風情でないことは誰もが感じ取ったであろう。いや、それよりも、その風体の異様さよ。仕立てのよい三つ揃いに、丈の長いコートを羽織っているのはよいにしても、首元に微かに覗くネッカチーフ、革の手袋、西洋風の仮面、そして耳を隠すように結われた長い髪。徹底して肌を見せまいとしているような彼の姿を、瑶子は少しの間凝視した後、「まあ、あなた」と声を上げて駆け寄った。富貴邸にいた頃、夜会で親しくなった二人の青年のうち、長身の方だと気づいたのだ。


「よく夜会でお会いした方ですわね、またお会いできて本当に嬉しく思いますわ。……如月家の方でしたのね」


 彼も仮面の奥の目を凝らし、微笑む乙女の姿をまじまじと観察する。その美しい黒眸、首元のブローチ……程なくして彼もまた、驚きの声を上げる。


「瑶子様ではありませんか。ああ、こんなに埃にまみれて、おやつれになって……では、旅の踊子となってさまよっていたという噂は、本当だったのですね」

「あの、お連れの方もご一緒?」

「いいえ、彼……ご主人様は邸で待っておられます。しかし、今のあなたをご覧になったら、何とおっしゃるか。お可哀想に」

「けれど、もっとお気の毒な方々がおりますのよ。ほら、ご覧になって……」


 思いがけず瑶子がいたのに気を取られていた彼だったが、促されて初めて、その奥に広がる惨状を目にした。瞬間、仮面の隙からヒュッと息を呑む音。そして、「遅かったのか」と呻く低い声が続く。


「誠に残念です。実は私がこちらに参りましたのは、秘密裡に如月の命令のもとに、元沼地だったこの場所に大建築を建てているとの報せがあり、その真偽を急ぎ確かめるためだったのです。車に乗っているのが、建物ができていた場合に安全性を調査させるため連れて来た者です。が、できているどころか、もう完成していて、このような大惨事を引き起こしていたとは……」


 彼は、瓦礫の山や、傍らに並べられた犠牲者達に目をやり、言葉もないようだった。隣に立っていた瑶子が見上げると、仮面の顎の下から、鮮血が細く滴ってネッカチーフに赤い染みを作っていた。無念さのあまり唇を噛みしめすぎて、食い破ってしまったものらしい。


 この人は本気で、悲しんでくれる人だ、と瑶子はしみじみと感じ入った。恐らくは、彼を視察に寄越した「ご主人様」――車の小旗や呼び名から、如月家の当主であることは明らか――もそのような人物なのだろう。ああ、その人こそ、瑶子がかつて夜会で会うたび、密かに胸ときめかせていた、仮面の青年のもう一方なのである。


(でも、なぜかしら。夜会では擦り切れた衣裳でいらしたのに、今のこの方の衣裳はとても上等なものだわ……)


 瑶子が思案する間に、件の青年は、車の中に待たせていた調査員二人に指示を飛ばしたり、居並んだ人々に詳しい話を聞いたりと、本来の仕事に精出していた。それが一段落した後、彼は、未だ子供の遺体を離れぬ紗百合の傍に、跪いた。


「あなたのお子さん?」

「いいえ、違いますわ。私は、瑶子と一緒に旅をしてきた東風紗百合という者です。偶然ここを通りがかり、すんでのところで私達は巻き込まれずに済んだのですが、この方達は……。引っ張り上げて、助かった方もいるにはいるけれど、それだけに、救えなかった方のことを思うといたたまれなくて。こんな小さな子まで死んでしまうなんて……」


 紗百合の目に、またも溢れくる涙。滲んだ視界の隅に、青年が手を合わせて一心に祈りを捧げる姿が、ぼんやりと映じる。それが決してポーズでなく、本心から亡き人々を悼んでなされた行為であることは、傍らの彼女にも理解できる。


(やっぱり、あのプレートからも読み取れる通り、露路さんの預り知らぬところでこの劇場建設は画策されたんだ。そうして、ぎりぎりまで秘匿して、最後の最後で露路さんに罪を被せようとしたんだわ。でなければ、説明がつかない)

(結果として間に合わなかったとはいえ、地元民の安全を守るために人を寄越してくるような露路さんが、悪事に加担するなんて絶対にない。そして、それに応えて全速力で駆けつけてきて、今ここで熱心にお祈りしているこの人も、同じくらい信頼に足る人間だと断言できる)


 紗百合は意を決して、彼が顔を上げるのを待ってから声をかけた。即ち、自分と瑶子とを、急いで露路に引き合わせてほしい、と。


「どうしてもしなければならない重大な話があるのです。私達はあなた方のもとへ秘密裡に参るため、長い旅を続けてきたようなものなのですから」

「なぜそれを早くおっしゃいませんか。ええ勿論、お連れ申します。私もこの惨状について報告しに、邸に戻るのですから、ご一緒に向かいましょう。さあ、あの車にお乗り下さい」

「ええ。……でも、少しだけお時間をいただきます」


 言うなり彼女は、かの子供の遺体をもう一度腕に抱き、涙とともに口づける。


「坊や、きっと敵を討つわよ!」


 青年はくるりと踵を返し、車の扉を開け放ってから運転席に向かった。仮面の奥の目には、今し方見た紗百合の慈悲深い、愛情のこもった光景が焼きついている。


 振り返って車内をちらりと覗くと、もう紗百合も瑶子も乗り終えて、ちょうど扉を閉じるところだった。


 自動車は再び、来た道を引き返して駆け抜けていく。二人の娘が旅の目的地にした、如月家の邸宅へ、全速力で――。

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