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二人は、かつて劇場だったものの傍に駆けつけると、すぐさま救助活動の手伝いを始めた。瓦礫を除けながら、埋まっている人がいないかを確かめ、発見したら引き上げる。文字にすれば単純だが、実行するとなると肉体的にも精神的にもひどく疲労するものである。それでも、崩壊から間がなかったこともあって、二人はかなりの人をその腕で助け上げた。彼らは皆、生命の恩人だと二人を拝まんばかりに感謝した。が、二人の心はその度に、複雑な思いに満たされる。自分達だけが危険を察知して回避できたのだと、崩壊に巻き込まれた人々が知ったら、同じように感謝を捧げてくれるだろうか……。
時間が経つにつれ、発見されても既にこときれているという人が、増えていった。そうした人々は、少し離れた所に並べて安置された。時々、家族や友人の安否を確かめに来た人々が、その中に尋ね人を見出して泣き叫んだ。
そうした声が空気を突き裂く間も、紗百合は懸命に瓦礫を除け続ける。と、ふとそこに、肌の艶々とした綺麗な子供が、埋まっているのに気がついた。目を閉じて、気持ちよさそうに眠っているといった風。――紗百合の唇に、久方ぶりに、笑みが戻った。愛らしい子供の顔に頬ずりして、弾んだ声を上げる。
「坊や! もう大丈夫よ、助かったのよ。さあ、その可愛いお目々を開いてよ。それともまだおねむかしら?」
……しかしながら子供は、目を開きもしなければ、ぐずりもしない。それどころか、寝息すら、聞こえてこない。紗百合は、抱いているその肉体がとうに冷え切っていることに思い至って、危うく腕の力が抜けそうになった。
彼女は子供の遺体を抱いたまま、瓦礫の上にくずおれた。
その膝近くに、ぴかぴか光るものがあったので無意識に目をやる。それは、劇場に入ろうと列に並んでいた時に何気なく眺めていた、金のプレートである。数多の絢爛豪華な柱やら屋根やらが崩れ去った中で、このプレートだけは、殆ど無傷で残っている。
ざくざくとした彫文字は、この劇場が如月家に支援されてできたものなのだと、今も誇示している。崩壊して、多くの人命を、彼らの尊い未来を奪った今となっても、なお、その施しぶりを誇示している。……ああ、今となっても!
紗百合はやにわに立ち上がると、例のプレートを力一杯蹴り飛ばした。
「これだから上流人種は大ッ嫌いなんだ! 金さえ出せば後は野となれ山となれ、か! こんなお粗末なもの施されたって、ちっとも嬉しくなんかないんだ、こっちは!」
突然叫び出した彼女を、人々は呆然として、遠巻きに眺めるばかり。ここがおかしくなったんだよ、と自分の頭を指差して首を振る者もいる。その間も続く、彼女の叫び……上流階級への憤り、この惨劇を阻止できなかった自分への憤り、何も知らずただ巻き込まれた人々への憐れみも入り混じる、悲嘆の声……。
「上流人種め、いくらだって自分の名前と富と、慈悲の心とやらを誇り続けるがいいや。けどそのために庶民を利用しないでよ! 庶民はいつだって、上流人種の思いつきに振り回されて、巻き込まれてばかりいる。……あんた達だけでやればいい。あんた達だけで自慢し合えばいい。庶民は決して、あんた達の道具じゃない。得点なんかじゃない。挙句がこんな大惨事を起こして……ああ、もう、大嫌い! 大嫌い! 上流人種め、私は一生かけても恨んでやる!」
……紗百合が蹴り飛ばしたプレートは、商売道具のギターを背中に結わえたまま、瓦礫と奮闘する瑶子の傍に落ちた。感覚が麻痺していたのか、当たっていたら危なかったなどと考えることもなかった。こんなところにあっても邪魔だから、片付けなくちゃ、という程度の気持ちで、彼女はそのプレートを拾いに行った。……
散々上流階級を罵って、子供の遺体に縋って泣き伏す紗百合。その傍に、そっと近寄る瑶子。
「ねえ紗百合。落ち着いて聞いてね」
「……」
「このプレート、裏面にも文字が彫られてあったのよ」
子供から目を上げた紗百合の前に、例のプレートを差し出してみせる。
「ね、これが私達の見ていた方。でもこの裏に、あったのよ。もっと丁寧に彫られたのが……」
全く瑶子の言う通りであった。元々壁に掛けられた方は、例の荒い、ぎこちない文字が連なっている。それによくよく見ると、誤字や脱字も多かった。「如月」が「奴月」になっていたり、「支援」が「支抜」になっていたりする。反対に、その裏面の方は、タイプライターを使ったように丁寧な楷書で彫られている。なお重要なことには、こちらには、露路の名などひとつも入っていない。代わりに、「央間道鷹」「富貴利男」の名が、出資者かつ発案者として大きく書かれている……。
「ということは、この裏面の方が本当で、表面のは後から作った偽の文だというの? でも何のために……」
「私、聞いてきてあげるわ」
いつも引っ込み思案の瑶子が、この時は別人のように、果敢に人々の輪の中に入っていった。彼女は数人の男達に話を聞き回った末、紗百合のもとに戻ってきた。
「やっぱり、そうよ。このプレートを作った職人さんの息子さんだって方がいらしてね。その職人さん、『朝早くにプレートの文面を書き換えるよう命令があった』『時間もないので裏面に大急ぎで彫った』って、愚痴っていらしたそうよ。元々は、この丁寧な方を表にして掛ける予定だったんだわ」
息せき切って報告する瑶子の声に、じっと考え込む。プレートに彫られた「央間道鷹」の文字……過去、彼は何事か、糸口になりそうなことを喋っていやしなかっただろうか。自分が、家の窓際で立ち聞きした時、彼らはどんな話をしていたか。
いつでも如月を内からも外からも切り崩すことはできるわけだ。
富貴の当主とも協力して事を運ばねばならんのだから。
「ねえ、瑶子! このプレートを作った職人の息子って、どこにいるの」
今まで黙りこくっていた紗百合が出し抜けに尋ねたので、驚きつつも、そこまで案内してやった。紗百合は子供を抱えたまま、件の男の前に立つ。
「あの、金のプレートのことをもっと詳しく知りたくて。プレートを掲げるのは、初めからそういう計画だったんですか」
「いや、後から俺らで決めたんだ。折角立派な劇場を建ててもらうんだから、この恩を永劫忘れないように証を残そうってな。で、俺の親父がそれを作る役を担ったわけよ」
「では、央間氏と富貴氏がこの劇場建設に一役買っているって文言も、あなた方でお考えになりましたのね」
「ああ。そのお二人が主体となって計画を進めていると、かねてから噂になっていたし、実際工事をしていた者にも確かめたらそうだと言うんでね。……だから、今朝になって、如月様の名を入れろと命令されたのが何故か、全くわからなかった」
「命令してきたのは、誰」
「さあ、そこまではなあ。人づてに聞いたようなものでね」
けれど、それだけ聞ければ十分すぎるくらいであった。紗百合は礼を言い、さて抱きかかえたままの子供を見下ろした。愈々この子も、地面の上に横たえなければなるまい。
彼女は少し考えて、自分のショールを丸めて枕代わりにし、その上にそっと子供を降ろした。それでもまだ立ち去りかねて、暫しぼんやりと佇んでいた頃。彼方から、車輪の音が轟然と近づいてきた。途端に、人々の慌てふためく声がそこここに湧き立つ。
「おい、如月様のお車だ!」
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