ジガバチ
sunflower
第1話
自室の窓を開けると、フラフラと飛んで行く黒い蜂が見える。
獲物を抱えたその蜂は、屋根の陽炎の中にフッと消えた。
花巻時雨は窓辺にある目覚まし時計を確認する。
短針は6時を指していた。
「まずい、遅刻だ」
思わず声が出る。
セットしていた時間をはるかに過ぎ、集合時間の30分前になっていた。
昼過ぎに一度起きた感覚はあったものの、まさかの二度寝でこんな時間になるとは予想すらできない自分に腹が立つ。
着替えようとクローゼットに手をかけるも、部屋着でない自分に驚く。
今自分が着ている服は、夢でうなされた時に着ていた服と同じだ。
「いつの間に…」
時雨は記憶を辿るが、真相は皆目見当がつかない。
この服を着て寝たから夢を見たのでは。
そう結論付け、時雨は早々に家を飛び出した。
玄関先にあるガレージを覗くと、やはり妹のバイクが無い。
「また出かけたの?」
喧嘩ばかりしているとは言え、普段から気にはなるものだ。
時雨は止まりかけた足を進め、駅へと向かう。
今日は所属している美術部の肝試しだった。
野坂圭吾の失踪事件のあった家。
美術部顧問の野坂明美の息子だ。
掃除という名目で借りた鍵を使い、アトリエ兼自宅に侵入するのだ。正確には、翌日に掃除をする為に借りたそうなのだが、その前の日の夜に肝試しをすると言うとんでもない計画だ。
当初、時雨は激しく反対したのだが、他の4人の空気に抗えず結局は参加メンバーとして名を連ねてしまった。
最後まで、人の家で肝試しとか非常識な事をせず、前日から真面目に掃除をしようと訴えかけていたのだ。
正直言えば、肝試し等が怖くないのであれば平然とそのイベントに参加して、皆と同じように振舞い「子供時代に肝試しとかよくやったけど、久しぶりにすると案外楽しいもんだよね」みたいな感じの発言をしてみたい。しかし、家のトイレに夜中に行くのが未だに怖いくらいなのだ。夜に事件のあった場所に行くなど、想像するだけで意識が飛んでしまう。どう考えても面白半分にしていいはずはない…そう反論したのだが、結果は今の状況が語っている。
それにしても暑い。
全身黒で覆ったスタイルは、この時期としては自殺的な行為でもあったのだが、瘦せ色の魅力には勝てない。
体型を気にしていつも黒ばかり着ている事は、誰にも言ってはいなかった。それだけでは無く、黒は自分の色と言う周りへのアピールも兼ねていた。
黒色のジーンズに、黒のタンクトップ。二の腕を覆い隠すようなメッシュのパーカー。
しかし、メッシュだとは言えこの時期の黒色は、どうしてこんなに熱を持つのだろう。では冬は?と言えば、そんなに暖かくはならない。
一瞬、着替える事も考えたのだが時雨は約束を優先した。
電車を乗り継ぎバスを降りる頃には日も傾き、そろそろ肝試しには良いころ合いになっていたのだが、いかんせん待ち合わせ時間が気になりすぎてそれどころではない。
遅刻した事が無かったこともあり、どの様に扱われるのか未知の世界だった。
その他にも心配事はある。
友人である萩優子と仲の良い数名であれば言い訳も通じると思うのだが、今回の主催者はあの高畑楓だ。
時雨の天敵だ。
スポーツが出来て、テストの点も良く、何気に古風なマナーなども知っている。文学にも芸術にも明るく細身で美人…全てが羨ましくもあり、近づきたく無い条件を最も満たしていると言える。
しかし、メンバーの支持は絶大だった。
美術部は、いつも彼女の真似で始まり彼女を讃える賛美で終わる。
そんな雰囲気は不快極まりないのだが、居場所を無くす気はない。
恩師である、美術に生涯をささげている野坂明美先生が居たからだ。
彼女はいつも冷静な口調で指導し、修正してくれる。人物のディテールはいつも的確だった。教える時の視線は冷たく鋭いものの、口調はいつも品があり50歳を過ぎているとは思えないほどに笑顔がとても可愛らしい。
息子さんは有名な画家だったが、失踪事件以来あまり名前を聞かなくなった。そう、今から向かう洋館の所有者だ。
明美先生の息子である圭吾さんは何度か美術部に来ていたのだが、その時は一切声をかけられた記憶は無い。それはそれは悲しい物語である。まあ、自分自身イケメンで芸術的センスを持っていれば、輝くような女子にしか目を向けないだろうとは思う。少女漫画の様な展開など、自分にとってはファンタジー以上に現実世界からかけ離れているのだ。
しかし、明美先生には認められていた自覚がある。
コンクールで落選した時も帰り際に、
「その表現力は力強く、独特の個性が光る。ここで諦めるには惜しい人材よ」
そう言ってくれていたのを今でも覚えている。
ただの優しさだったとしても、時雨はその言葉を糧にすることによって力尽きる事は無い。挫けそうな時、いつも自分の背中をグイグイと押してくるのだ。
先生が自分に抱いている…かもしれない力を絶対自分のモノにする。
その為にも、息子である野坂圭吾さんの画力を、ほんの少しでも…いや、極微量でも吸収出来れば。
そう思い、この肝試しに参加したのだ。
彼の自宅には未発表の作品が無数に飾られている。その絵を見て、情景を切り取る感覚を取り込み、自分の中でリノベーションを行い、新しい自分の表現方法を手にする。まさに勝負をかけた学習の時間だ。
ただ、楓は違う。
裏では彼女を魔女と呼び、言動の矛盾や怪しさを、美術部のグループラインに拡散している。
呼び名だってそうだ。
明美たん。
インターネットにあるホラーゲームの呼び名で呼んでいた。あんな良い先生をよくその仇名で呼べるよね。
時雨は、ずっとそう思っている。
ただ、彼女の類稀なバランス能力と演技力、加えてわかりやすい絵心と整った顔立ちが周囲を引き寄せていた。
そう、引き寄せられた人間にとって自分の思考など一切関係ない。ただただ、その集団を盛り上げるためだけに発言し、それを行う事こそが自分の目的だと思う生き物になる。
それは、時雨にとって何一つ手に入れた事の無い物だ。
今回、強引に元アトリエである洋館に入ることは彼女が考えた計画であり、その計画に賛同したメンバーが多数いる事も事実であり、先生が現れないタイミングや時間調整をしたのも彼女の計画だった。
先生は今、美術関連の会合に参加しており、県外に出ている事も抑えていたのだ。
電車の中で、そろそろ彼女を認め長いものに巻かれるのも良いと思う自分と、今更そんなものに縋る自分を蔑む自分が争っていた。いや、争っているのでは無い。じゃれ合っていたと言うのが正しい。
すっかり暗くなったあぜ道。
舗装されている事が唯一の欠点だが、自分が映画監督になり田舎を演出するならば絶対にこの道を使おうと心に決めるほどの趣がある。街灯は無く、目に映るのは夕闇に消えゆく田園風景と昭和レトロな電線。アニメでしか見ない光景が目の前に広がる。
その先にあるバス停に立つ優子を見つけた。
あれ?
彼女は何時から待っていたんだろう。
不安に思いスマホでバスの到着時刻を調べると、1時間に1本であることが確認できた。
「そんな前から…」
無意識に発せられた独り言が気になる。
自分は今、何を感じていたのだろうか。
バスが停車する前から前方で降りる準備をし、停車と同時に外に飛び出す。
近くには街灯が一つしかなく、遠目で見れば生きている人間とは思わないかもしれない。そんな所にずっと立っている彼女が切なく感じた。
唯一、時雨が心を開く事が出来る友人。
ただ、彼女も例外なく楓信者だった。
したがって、あまり楓と仲良くない時雨は美術部の中では話すことが出来ない。
この状況なら良いか。
そう思った時雨はバスを降り、彼女に声をかけてみる。
「優子…」
声が聞こえなかったのか、反応は無い。
が、一瞬こちらを見て手を振ってきたことに安堵した。
時雨は笑顔になり、小走りで優子に向かうと、
「楓~」
優子が手を振っていたのが自分ではない事に気づく。
「私やないんかぁい」
聞こえるかどうかくらいの小声で呟き、彼女の脇を通り過ぎ少し後ろに立つ。まるでお芝居の小道具の様に。
屈辱だった。
扱いの差がこれほどまでとは思ってもみなかったからだ。
もう帰ろうか…。
時雨は今来たバス停の復路の時間を確認する。
「げっ」
後、二時間も待つの?
こんな暗がりに一人で?
周囲を見渡すと民家も少なく、昼間ならばのどかな田園風景なのだろうが、暗がりでは異様なまでに生えそろった稲の表層を闇が覆い隠しているのだ。
もし、遠くに生首が浮いていたら…その狭間を滑るように近づいて来るのだろう。
一瞬でも想像した自分を殴りたい。本気でそう思った。
楓と合流した優子は、どことなく居心地が悪そうにしている。
それは、石原恵美と西崎蓮と言う小うるさいのが付いて来ていたのが原因だろう。
二人は美術部においては異質で、石原恵美は筋金入りのゲームオタク。美術部に入った理由もゲームクリエイターになった時に絵を描ける方が良いだろうという徹底ぶりだ。
聞いている音楽もゲーム関連の物で、持ち物全てがその類だった。
着る服もどこかのキャラが着ていた服を着ている。今日はミリタリーファッションに見えるが、おそらくゾンビを撃つゲームのそれだろう。
しっかりとホルダーにはモデルガンが刺さっている。それが、彼女の拘りだ。
優子もゲームは好きだが、彼女と比べたら次元が違うのだ。
遊びに行った時に、その様な恰好で来られたら一緒に居る事は恥ずかしくて無理だと思う。だが、楓は違った。彼女のファッションも、持っている小物に至っても全てを理解していたのだ。
逆に、西崎蓮は逆方向に奇抜な服装…。おそらく、お洒落と認識されているのだろうと思われる面積の小さな服と、それに合わせるような短髪をしていた。
ジーンズは短く切り取られ、上半身も肩と胸以外全てがはみ出している。自分の体形に自信があるのか全てがむき出しなのだ。
どちらかだけを深く理解できるのならば、それなりに興味があるのだろうと思えるのだが、楓はその二つを均等に…いや、その二人と同等に語り合える知識を持っていた。
時雨にとって、それは怪物の域だ。
ちなみに、優子はそのどちらも良しとしていない。常識の範囲内が一番落ち着くタイプなのだ。それに関しては自分も同意見だった。ただ、全てに同意できるわけでは無い。
「楓は緩すぎ。ああいうタイプは早く取り除かないと美術部のイメージが悪くなるよ」
いつもと言うわけでは無いのだが、自身が楓のマネージャーの様に振舞っている事がある。
蓮が話す言葉も、
「何の略語か分からない。同じ日本人なの?」
そう言った攻める様な言葉を聞く事も珍しくない。
確かに、テレビ等で個性的な人間を見る分には良いのだが、実際目の前に居ると不快なのは十分理解できる。
理解は出来るのだが、それを面と向かって否定する勇気もなく、スルー出来る程大人でもない。本人が居ない所で言う事で、留飲を下げるのが関の山だった。
「早く行こうよ」
蓮はテンション高く先へと進もうとするも、目的地を知らないのか最初の曲道で先頭を楓に譲った。
時雨はつかず離れずの距離で、その異質な団体に付いて行く。後ろから見ると、タレントにオタクとギャルと敏腕マネージャーだ。
今日のロケ地は失踪した画家の家です。そんな台詞が見えてきた。
そこに何の取り柄もない私の居場所はあるのだろうか…。
俯き加減で歩いていてわからなかったが、左側はずっと高い塀が続いている。
「エグイって。楓!ここ、本当に明美たんの家なの?」
蓮が建物を見たのか、興奮気味に騒ぎ出す。
「不気味っしょ?正確には息子の圭吾さんの家らしいよ!」
「怖えぇ!こんな所に住むなんて信じらんない」
その受け答えに対して、楓は少々間を空けてから返す。
「どうなんだろうねぇ。ただ、ウチら肝試し界隈だから」
入口が近づくと、恵美がホルスターからモデルガンを抜き小走りで壁に張り付く。
「クリア」
意味不明な行動に言葉。何であなた達が来たのか分からない。
時雨は心の中で呟く。
「わかったから」
楓は笑いながら、今度は門中を背にした恵美を優しく確保する。
遠目で見ていたが、まるで幼稚園の先生だ。
あれ?
優子の表情がいつもと違う。
目が真剣なのだ。小走りで楓の傍らに立ち、
「楓隊長!目的地到着しました」
恵美に寄せているようだが、無理がありすぎだ。正直…痛い…。
「優子?」
時雨は思わず声を上げた。
恐らく、どの空気に合わせるか考えていたのだろう。
しかし、よりにもよって恵美とは…。
楓は優子の頭をポンポンと叩き笑みを浮かべ、慣れ親しんだ門を開ける様にスマートに建物へと入っていく。
優子が大きく外したことは触れずにいようと思う。
恵美は全力でやり切っていたのが傍目で見ていてもわかるのだが、優子はあくまで乗っかろうとした上での事故なのだ。
五人で門扉を抜けると、庭園だったであろう所を進んでいく。雑草が大きく茂り、花壇が飲み込まれている。噴水は停止しており水面は藻で覆われていた。生け垣は伸び放題で、その体をなしていない。たった1年とは言え、まさに廃墟と言って過言ではない。
先に見えるのは画家の元自宅だ。その建物は手入れがされていないにもかかわらず、その風格が蔦の浸食などもアクセントの一つだと言わんばかりの顔をしている。
レンガ造りの壁に、古風な木枠の窓。所々に白いタイルがはめ込まれている。
両サイドには塔のように見える造詣が施され、アシンメトリーな造りが古さを感じさせない。屋根は落ち着いた緑色をしており、急勾配の下方部には出窓が飛び出している。
悔しいが、昼間ならば素敵な洋館に見えた事だろう。
「皆様、こちらが本日の肝試しツアーの入り口でございます」
お辞儀をしながら楓が柱の横に立つ。
玄関先には白く塗装されたポーチがあり、古びた大きな木製の扉が自分たちを拒んでいる様に感じた。
楓は威圧的な扉にもかかわらず、慣れた手つきで素早く鍵を外す。
「さあ探検しましょう」
そう言いながら、両の腕で勢いよく開け放つ。まるで劇場に来たお客を誘い込むような演出だった。
「お邪魔しま~す」
蓮が一番に駆け込んだ。続いて恵美。
「クリア」
まだやっている…。
優子は…既に無言になっていた。
先ほどの言動が余程恥ずかしかったのだろう。
時雨は、不思議と見覚えのあるポーチを恐る恐るくぐる。
「もう止めようよ」
消え去りそうな小声で誰に言うでもなく声を出す。
ハッキリと自分が言ったと認識されれば言い出した人の責任になる気がするのだが、この声が聞こえ、他の誰かが同じ気持ちになれば良い。そして、同じように声を上げて欲しかった。
しかし時雨の声は全く届かない。むしろ事態は進んでほしくない方向へ進み出している。
「雰囲気あるね!」
既にホールに入っている蓮が、興奮気味に楓の肩を叩く。
「そりゃそうよ!一年近く誰も住んでない画家の家だよ?」
「パターン的には、絵の中の人物が出てくるタイプだな」
恵美がモデルガンを構え、左右の絵画を確認する。
「もしかして、絵に取り込まれたとか?」
その発言も行動も全く楽しくない。時雨は優子に視線を送る。
お願い、優子も帰りたいって言って。そしたら私も言えるから。
しかし、優子からこぼれた言葉は想像を超えていた。
「夜の美術館って感じで、素敵…」
優子の視線を追うと、一枚の油絵に向かっているのに気が付く。その絵は、開け放たれた玄関から入る街頭の光によって、怪しくも美しく照らされていた。青を基調とした初夏の田園風景。油絵具を使って描かれているその絵は、独自の凹凸が強調されている。それは、決して写真などでは感じる事の出来ない質感だ。
艶があり生命力溢れる稲の間に見える水面は、景色の映り込みまで細部に至って精巧に書き込まれており、見れば見る程に引き込まれる。さざ波が立つ水面によって頬を撫でるような微風を感じ、全体の色彩が朝日の訪れなのか夕闇の寸前を捉えた瞬間なのか、考える楽しさも与えていた。
ただ、時雨は絵画に違和感を持つ。
「なんだろう…どこかがおかしい…」
ディテールが間違っているのか、遠近法が狂っているのか分からないが、見れば見る程気分が悪くなった。眩暈がするのだ。
他の五人はどう見えているのだろうか…。もしかして私だけ…。
そんな中、楓がフラフラと絵に近づく。
山の端からは赤色の月が顔を覗かせ、ポーチは月明りで輝く。
「圭吾…野坂圭吾の絵…」
そう言いながら、楓はカンヴァスの表層を左手の中指で撫でる。
「えっ?ダメ!」
時雨は思わず声を上げた。
許可なく絵に触れる事は、自分にとってあまりにも耐えがたかったのだ。
ましてや勝手に入り込んでいる自分達がしていい事では無い。
一瞬、全員が時雨の方を振り向いた。
視線が刃物に感じる。
4人の表情から、何を想像しているかは読み取れない。ただ、何もない空間から声が聞こえたような顔をしている事だけは確かだった。
その瞬間、突風が窓を激しく揺らす。
「キャー」
「うわっ」
「えっ何?」
風の音に反応し、皆が叫びながら中央に集まる。
いや、楓を除いてだ。
楓は絵の前から微動だにしていない。
もしかして、楓はこの肝試しに何か仕込んだのでは…時雨はそう感じた。
そして、その雰囲気を壊した自分が、このメンバーに不必要だと楓に思われたと思う。彼女の視線が…異常なほどに冷たいのだ。
恐らく何故ついて来たのだろうと思っているに違いない。
楓の行動は絶対なのだ。少なくとも、このメンバーの中に居る限りは…。
「行こう」
気を取り直したかの様に、ホールの脇にある扉に向かって歩き出す。
「えっ?でも…」
蓮は傍から見てもわかる程硬直している。この中で恐怖とは無縁だと思っていたのだが、普段の威勢の良さは見せかけだったのだろうか。産まれたての小鹿の様な足を見て、時雨は自分が冷静になっている事に気が付いた。
「だって…聞いた?」
蓮の言葉を遮るように、恵美は右半分の口角を上げながら連に近づく。
「何してるの?ひよってる場合?」
そう言いながら、彼女の肩を掴み楓の向かった先の扉に向かい引っ張る。
いつも教室で蓮になじられていた恵美が、ここでは立場が逆転していた。
着ている服のおかげか、それとも普段から強気な蓮が、雰囲気に飲まれ動けないとわかったからなのか。どちらにしろ、恵美はいい性格をしている。
優子も、二人に遅れまいと奥へと速足で歩き出す。
時雨も続こうと歩き出そうとするが、足が前に進まない。
おそらく、迷いによるものという事はわかる。
置き去りにされるのは確かに怖い。
しかし…。
大きな古びた扉が、ゆっくりと外の世界を切り離して行く。
外に一人で居るか、皆で奥へと進むか…。
どちらにしても恐怖しかない事は確かなのだが。
…一人は嫌。
「待って!優子」
時雨は声をあげ走り出す寸前、一度後ろを振り返った。
あっ!
扉はあと数センチで閉まる。
「玄関開けっ放しにしとくよ」
皆に聞こえる程に大きい声で叫ぶと、ほぼ閉まりかけた扉を止めようと手を伸ばす。
確かに掴んだと思ったドアノブは、時雨の手をすり抜けそのまま閉じてしまった。
バン
絶望的な音がホールに響く。
「えっ?」
時雨は呆然とした。
確かに掴んだはずのドアノブに、何の感覚も無かったのだ。
「何か…おかしい…」
振り返ると、ホールの扉も閉まりかけている。
誰一人時雨を待つこともなく…先へ行ってしまったのだ。
「待って」
置いて行かれるのは怖い。
それ以上に、あの発言が雰囲気を壊した可能性がある事実の方がもっと怖かった。
必死に走る時雨は、閉まりかけた扉をすり抜ける。
「明るい」
思わず声が出るような、異様な明るさ。
「恵美!そんな物良く持ってたね。AESTIQUOじゃん」
楓の声が廊下全体に響く。興奮する気持ちは蓮にも伝染し、
「自撮りに使ったら白飛びするからメイク要らずやない?」
など、どうでもいい会話ができる程に気分を上げていた。
高光度の懐中電灯は昼間以上に廊下全体を照らしている。その光量は、先ほどまでの不安をかき消す程に頼もしい。
それに比べ私は…。
何も持たない。
「行くよ。優子」
楓は振り返り、手招きをする。
もう、名前すら呼ばれない…。
「しかし、恵美の懐中電灯があると肝試し感失せるよね」
気怠そうに蓮は恵美を煽る。
「消そうか?存在を」
「やんのか?」
格闘技を全く知らないであろう蓮の構えは、滑稽でコントのワンシーンの様だ。
「もう、そのぐらいにして」
噴出しそうな楓が二人を引き離す。
「あんたみたいなのがホラー映画で一番に死ぬんだからね」
蓮が突っかかる。
「ホラー映画で死ぬのはいきがっているあんたの様なキャラだよ。この、えせギャル」
恵美もそれに応戦した。
「大人しい人が一番最後まで残るみたいよ」
優子が恵美の腕を掴み引っ張った。
恐らく距離を取らせようとしたのだろう。
こんなに騒がしいにもかかわらず、先ほどから楓は一点を見つめている。
「どうしたの?」
恵美が楓を覗き込む。
視線の先には顔を半分だけ出したスクリームの面が、階段下にある真っ暗なホールからこちらを覗いていた。
ライトに照らされた無機質の面と、その眼の奥に反射する裸眼が不気味に光っている。
眼球がこれほど怖いと思った事は今まで無い。
皆、気が付いている…。その上で誰一人身動き一つ、声すら上げられない。
しかし、楓だけは駆けだしていた。
スクリームの面はそれを確認し、暗闇へ消える。その先に追っていった楓も消える。
ドンドンドンドン…。
階段を駆け上がる音だけがその場に響く。
そして、頭上付近を通り抜け、後方に過ぎ去った頃。
ドン!
大きな音が鳴り、静寂が訪れた。
「あれ、楓の演出じゃない?」
視線を上方に向けたままの蓮が、優子に語り掛ける。
「そうじゃなかったら、あの音…派手にコケてるよね多分」
含み笑顔でそう返す。
「ちょっと罠にかかりに行ってみましょうか」
恵美がいたずらっぽい笑みを浮かべ、ゆっくりと歩き出す。
半分は悪戯であって欲しいという願いと、実はそうじゃないのではないかという猜疑心が入り乱れた状況において正解はない。ただ、この場に留まれるほど心に余裕が無かったとも言える。
「楓~」
蓮が少々間の抜けた声で階段上方に向かって声をかけた。
それは冗談であって欲しいという願望だ。実際、それが完全に冗談だとは思えていない。少なくとも私は…。余りにも唐突すぎだ…。
例え、それが演出だとしていきなり走り去るだろうか?
メンバーを置いて、自分が脅かす側に?
あり得なくない?
それならば最初からそっと姿を消せば済むことで、あんな気持ちの悪いスクリームの面を付けている人間に突っ込むなど派手すぎる。いや、彼女らしくない。
それを、メンバーも薄々認識しているのではないか…。
階段をある程度上ると、二階に続く踊り場に出た。その上にも階段はあるのだが、聞こえて来た足音からして、おそらく二階の廊下だろう。全員がそう思ったのか、三人は揃って廊下側へ足を進めた。
「楓…どこなの…」
壁に手を這わせ廊下を覗き見る蓮の声は、聴きとれるかどうか程に絞られていた。
声がこぼれたと言って差し支えない。
彼女の背中越しに見た廊下には、既に人影はなく突き当りは深い闇に沈んでいる。
右手側には数多の窓があるが、空は陰り月明りすら差し込んで無い。
「先に進んでみる?」
優子は後方から自信なく二人に語り掛けた。
その問いは進もうと言う助言ではない。
ここに留まりたいが故の「進んでみる?」だ。
そこを汲み取ったのか、蓮は優しい声で、
「ここで待とうか…」
そう答えた。
今まで、部活以外においても、彼女の意見に賛同できる発言は無かったのだが、初めて彼女の提案に乗りたいと思った。
これ以上先に進んで生き延びるホラー映画など無い。むしろ、この場で留まるのがセオリー。
「誘っているのか、罠なのか…わからない時は、ただただ進めってね」
恵美は蓮の肩を引っ張り、後方へ押しやると同時に前へ出た。
なんて事を!
時雨はこの時ほど恵美を疎ましく思った事は無い。
まかりなりにも先生の所有する屋敷に侵入し、あろうことか肝試しをする。これだけならまだ許せるが、主催者は走り去り、イカレた人物らしき者が居るのだ。何よりも撤収が第一選択肢であるはずなのだ。にもかかわらず、先へ進むとか人類が取るべき行動ではない。
それ等を総称して、オブラートに包み、当たり障りの無くなるフィルターにかける。
「ホントに行くの?」
時雨はそう告げた。
最大級の拒否をするつもりだったが…口にする前に角の全てが取り払われ、深く考えなくともただの疑問だ。
その拒否…したつもりの問いかけに対して、視線すら返さず恵美は廊下の奥へと進んで行った。
窓から見える空は、あと一息で雲間から顔を出しそうな月が見える。
ただ、ちょっと色味が違う気がするのだが…。
「キャっ」
だいぶ先まで一人で進んでいた恵美が、小さな叫び声と共にフッと視界から消えた。
手に握られていたライトはその勢いで遠くに投げられたが、窓がある為か意外に視界はそこまで悪くない。
「何これ~ぬるぬるじゃんか」
床に着いた手を眺めながら、ねちゃねちゃと謎の液体で遊んでいる。
「恵美!汚いから止めなよ」
優子はカバンからティッシュを取り出しながら、小走りで駆け寄った。まるでお母さんと子供の様な情景に時雨は思わず噴き出す。
すると、
ドンっ。
優子も液体を踏み、派手にしりもちをついた。
「なにコントみたいなことやってんの」
笑いながら近づいた蓮は液体の溜まったところを踏んでしまい、初めてスケートデビューした子供の様におしりを突き出し上半身もくねらせる。あれは、コケるやつだ。
時雨は手を差し伸べようと蓮に近づくも、自分まで踏み込んだらまずいと思い直前で立ち止まった。
みんな得体の知れない液体を気持ち悪いとか思わないのだろうか。
思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込む。
せっかく嫌々ながらもここまで来たのだ。ここでも空気を悪くすれば何の為の我慢か分からなくなる。
「ほっ、はっ、おぁぁぁ」
蓮は体制を何度も変えながら気合で持ち直す。
スケート初心者からのトップアイススケーターへの変貌ぶりは感動的だった。全身で巧みにバランスを取り、最後まで手を付かなかった姿に思わず拍手する。
「動画撮ってれば良かった~」
蓮はスマホを振り回し悔しがった。
「3回転ジャンプもなかったし、もう一度やる?」
恵美はねちゃねちゃにした手を見せつけながら蓮に寄っていく。
「ちょっと!気持ち悪いから!」
蓮は真顔で恵美を睨む。
「冗談通じないなぁ」
不貞腐れた顔をしながらライトを拾い上げる。
そして、そのまま何事もなかった様に階段下を照らす。
「ここは上へ行けないのね」
先ほどまでの悪ノリが嘘のように冷静に告げる。いや、独り言だったのかもしれない。
「そうね、さっきの階段ならどこまで上がれたのか気になるね」
優子は返事とも独り言とも取れるように発言し、振り向いて今来た廊下の窓から見える屋根を眺めた。
たぶん…三階まで登れた…屋根裏的な…。
何故か時雨の頭に間取りが浮かぶ。
デジャブ?
鮮明な記憶のようにも思えるが、どこか間違いがあるようにも感じ発言を控えた。
「降りるよ。多分下に楓は居るはずだから」
「案外その扉の中かもよ?」
蓮が降りるのを拒む。
「そう?でもライトは私が握っているの。ごめんね」
それだけ言い、恵美は下階へ向かう。
「ちょっと待ってよ」
優子が何かを察し、蓮の手を引き階段を下っていく。連れられて歩く足元はどこか覚束ない。
あっ、あのぬるぬるを踏んで、まだ靴底がずるずるしているんだ。
しかも彼女の厚底サンダルはずいぶん歩き難そう。だから階段を降りたくなかったのか。
時雨は一人納得し、そろそろと液体の上を進んで行った。
階段下はそのままキッチンになっており、裏口が左手側にある。窓はステンドグラスで出来ており、一昔前の喫茶店の入り口が思い浮かぶ。
「なに?どうなっているの?」
ドアノブをガチャガチャと乱暴に回しながら恵美が苛立っている。
「鍵を回しなよ!てか、テンパり過ぎ」
優子に手を引かれていた蓮が恵美を横に押し退けドアの前に立った。
もう靴底は大丈夫の様だ。
「はぁ?どうなってんの?」
蓮がドアノブの周りを、必死に手探りで探っている。
そう、この屋敷はドアが両面とも鍵穴になっているのだ。そして、玄関もそうだった。
今、この状況で鍵を持っているのは走り去った楓だけで、全員ここから外へは出られない。
ただ、玄関を除いては。
「もう、面倒くさい事するよね…楓は…」
蓮が苛立ち紛れに吐き捨てた。
「完璧主義者なのよ、彼女は」
恵美が蓮の発言に被せてかき消す。
「なにが完璧なのよ!思いっきりこけてたじゃない」
「おかしいと思わない?彼女、ここへ来て一つも迷ってないでしょ?鍵穴一つ探さない。すなわち彼女は入念に下見をしていた。もしくはこの屋敷をずっと前から知っていた。だからここを会場に選んだのよ」
「そうなの?」
優子は驚きを隠せず恵美に詰め寄る。
「じゃあ、あのセンスの無いマスクは何だったの?」
蓮が割り込む。
「出番が早すぎた…もしくは私の持ってきたライトが明るすぎた?そう!明るすぎたが故に階段下まで鮮明に照らしてしまった」蓮はこめかみに指を当てながら言葉を繋ぐ。
「だからタイミング悪く見つかって、それを隠そうと楓は突撃した。私はそう思ってる」
優子は恵美の鼻先まで近づく。
「必死に追いかけて胡麻化そうとしたってこと?」
恵美はにやりと笑いそのまま続ける。
「そしたら自分が仕掛けた罠にはまって…派手にコケた…。まあ、私としては、恐怖が増す良い演出になったと思うけどね」
「それで行くと…玄関も既に施錠されているって事じゃないの?」
優子は焦り出す。
「たぶんね」
恵美は自身の推理に心酔しているようだ。
それなら…。
時雨は言いかけて口を噤んだ。
「まずは楓を探さなきゃなんないって事だね」
蓮がキッチンを見回しながら答えた。
「そんな事より、こんな所に隠れる方が肝試しなんじゃない?」
恵美はどこか冷めたような目で見渡す。
「確かに…」
優子は口元を押さえながら蓮の背中に張り付いた。
明かりの無い古びたキッチンは、背の高い位置にある嵌め殺しの窓から注ぐ月明りしか光が無い。この暗闇の中に一人…ないし二人で潜む、考えただけで背筋が凍る。
「とりあえず下の部屋から回りましょ」
キッチンのドアは、先ほど歩いた廊下の奥に位置していた。その正面には両開きの大きなドアがある。
「ここは…」
恵美は躊躇わずドアを開けた。
時雨はその、淡々とした行動に違和感を覚える。そう言えば、最初していた軍人の真似事は一切していない。恐らく楓が居る時だけのパフォーマンスなのだろうか。
その瞬間、どれほど楓は皆に好かれていたのか再び思い出し羨ましくなった。
「食堂ね…」
「大きなテーブル!宴が出来るじゃん」
蓮がテーブルに腰掛けて座る。
「蓮、降りなって」
優子が窘める。
「はいはい!」
手を突き飛び降りた蓮は掌をじっと見つめている。
「どうしたの?何か着いた?」
恵美が、蓮の掌を覗き込むように声をかけた。
「妙に…奇麗じゃない?」
「そりゃ、あの明美たんの性格ですよ…」
恵美は含み笑いを浮かべる。
「美術部でも掃除のバイトを募っていたし…」
優子が付け足すが、
「私、初耳!」
蓮が声を荒げる。
「それは、人を見て声掛けするの」
恵美が蓮の肩に腕をかけ、上から下まで視線を這わす。
足は剥き出し。何処を隠すか分からないほど際どいパンツに、キャミからは下着が見えている。女性でも恥ずかしくなるような露出をした人間に、掃除を任せる人は…想像もつかなかった。
腕を払いのけ、蓮は出口に向かって歩き出す。
「じゃあここ、空き家でも、廃墟でも無く人ん家じゃん」
「人の家と言うより」
恵美と優子は同時に告げた。
「野坂圭吾が一年前に失踪した事件現場…」
「なに?めちゃめちゃ怖いじゃん」
蓮は勢い良く帰って来た。
「最初から何度も言ってたのに、聞いてなかったの?」
恵美は明らかに蔑んだ目で蓮を見つめる。
「だからあのマスクが不気味だった。死んでいる人間より生きている人間の方が何倍も怖いもの」
優子は淡々と語る。
「次、行こっか。楓が居なきゃ帰れないから」
そう言いながら、恵美はさっさとダイニングを出て行った。
「みんなどうかしてる…」
時雨はそう呟き、皆の後から付いていく。
恵美が隣に位置するドアを開けると、油絵が飾られた玄関ホールに出た。
「玄関に繋がっているんだ…二か所もドアがあるとか、無駄じゃん」
一応ライトでその辺りを照らすが人影は見当たらない。
「私、帰る」
玄関を見た蓮は走り出し、ドアを押す。
ガッ…。
想像通りだと言えば想像通りだ。
開いている訳がない。
肝試し…いや、隠れんぼをしているのに、鬼を外に出しては元も子もないのだから。
「楓!マジウザい!」
そう言いながら蓮はスマホを取り出す。そしてそのまま地べたに座り込み、電話をかけだした。
おそらく楓にかけたのだろう。彼女がパニックに陥らなければ、私が同じようになっていたかもしれない。
ピロン♪ピロン♪ピロン♪ピロン♪
先ほどまで居たキッチンの方から、微かに着信音が聞こえてきた。
「音切って無いんだ」
優子と恵美は顔を見合わせて笑う。
ピロン♪ピロン♪ピロン♪ピロン♪
ゆっくりと音が近づいて来る。
そして廊下で響く着信音。
ピロン♪ピロン♪ピロン♪ピロン♪
自分達が入って来たホールの扉のノブが回る。
ガチャ…。
蓮が立ち上がり振り返った。
ピロン♪ピロン♪ピロン♪ピロン♪
「かえ…で…」
キィィィィ
木製のドアは軽く軋む音を響かせながら独りでに開いてゆく。
ピロン♪ピロン♪ピロン♪ピロン♪
手には着信を知らせる点滅と着信音が流れるスマホを持った、マスクを被った何者か…が立っていた。
上下黒のウインドブレイカーを着たマスクの不審者は、手から鳴り響くスマホを床に落とす。
ゴンッ
床に落ちたスマホはまだ鳴り響いているが、着信音など誰の意識にも無い。
不審者は手慣れた様子でスマホより大きな何かを、真っ赤なボディーバッグから取り出した。
バヂバヂッバヂバヂッ
不審者の右手に握られている何かから火花が散り我に返る。
「スタンガン?」
恵美はライトを手放し、ホルスターからハンドガンを抜き横向きに構える。
「楓を…楓をどうしたぁ!」
ホールは足元だけが照らされ、影は異様に伸び歪み、埃が鮮明にちらつく。
ゆっくりと迫るマスクの…女性?
指先のネイルが微かに見える。
恵美も気が付いたのか、先ほどより落ち着いていた。
男性ならば勝ち目は無いが、同性ならば何とかなる。
例え殺人鬼であったとしても…。
バシュッバシュッバシュッ
恵美は躊躇わず引き金を引く…が、所詮ガス銃。剝き出しの皮膚にでも当たらなければ痛みすら感じることは無い。
全く意に課さずマスクの女は近づいて来る。
GLOCK18Cのスイッチを親指で跳ね上げ、フルオートに変え連射した。
ババババババババババババ
一瞬だけ怯んだが、気にせずスタンガンのスイッチを再び入れる。
バヂバヂッバヂバヂッ
その瞬間、恵美はハンドガンをマスクの女に投げつけ、そのまま飛び掛かった。
ボンッ
ハンドガンはマスクに命中するも、お構いなしにスタンガンを振るう。
おそらく押し付けなければ意味の無い武器の使い方をわかっていないのか、大きく振りかぶり斜め下に大きく叩きつけた。
それをギリギリの所で躱し、後ろに転がりながらすり抜ける。
しゃがみ込んだ体制のまま、足首にあるホルダーから小ぶりダガーを引き抜く。
不審者の脇腹目掛けて一閃…。
立ち上がりざまに右手で突き刺そうとした瞬間だった。
バヂバヂッバヂバヂッ
突っ込んで行った恵美は、首筋にスタンガンを受け身体が仰け反る。
数秒の静寂が重くのしかかる。
ここで動かなければ…恵美は…。
しかし、時雨の足は一切反応しない。むしろ、自分の意志とは切り離された下半身。
駄目!
心の中で叫ぶも、自分ではない事に、いつも蔑まれていた記憶に、この屋敷での態度に、時雨は全ての因果を結び付けた。
覆い被さるマスクの女。
腰に差し込んでいる杭のような物を恵美に振りかぶる。
「キャー」
蓮と優子が叫ぶ。
時雨は…言葉を失い、呼吸すら忘れていた…。
「あっ…」
脇腹に深々と刺さる杭の様な物…。
恵美は一瞬痙攣し、そのまま力なく崩れ落ちた。
ほんの数メートル先で、友人が殺されたのだ。
マスクがこちらを向いている…。
恐らく向かって来るかどうかの確認だろう。
しばらく観察した後、恵美の襟首を掴み、脇腹に杭が刺さったままの彼女を引きずり出す。恐らく外へ連れ出すのだろうが、それを止める術は無い。
ホールの扉をゆっくりと開け、振り向きもせずそのまま恵美を引きずって行った。
「逃げよう」
蓮は優子に縋る。
すると優子は壁際に置かれていた椅子を無言で手に取ると、信じられない勢いで窓に向かって投げつけた。
無駄だよ…。時雨は小さく呟く。
全てが防犯シートで補強された窓は、生半可な力では破壊することは出来ない。
小さな罅が入っただけの窓を見て、優子は力なく笑い…その場に崩れ落ちた。
蓮は呆然としながら数歩歩み、ホール奥の扉に走り去る。
優子を見てみると、座り込んでいるその目は焦点が合っていない。
時雨はその横に座り込む。もう恐怖など忘れたかのように。
「逃げないの?」
出来るだけ優しく語り掛ける。
しかし優子は無言のままだ。
蓮が開け放した扉の奥。
そこにある窓から真っ赤な月が差し込む。
「早く」
時雨はしびれを切らし、優子の手を引く。
「えっ」
軽い。
優子の身体が、ふわっと浮き上がる。
しかし、立ち上がった後も優子の動きはまるで夢遊病者。
「ここに居たら危ないから!」
時雨は叫ぶ。
「…早く!早く逃げなきゃ」
優子はようやく、その言葉をはっきりと受け取った様だった。
意識を取り戻した野生の鹿の如く、そのまま開け放たれた扉へ走り去る。
「ちょっと…待ってよ」
また置き去りにされそうな時雨は、強い口調で呼びかけるも優子は振り向きもしない。
時雨の足はまだ、意識がしっかりと繋がらないのだ。
走るのは難しいけど…ゆっくりとならば動ける。
聴覚も上々だ。
階段を駆け上がる音が響く。
多分三階まで駆け上がったのだろう。
二階はあの液体があり駆け抜けるには困難だから。
ゆっくりと歩みを進める時雨。
階段ってこんなにも暗かったの?
足元すら見えない闇。
この時、恵美のライトの有難さにようやく気が付いた。
地獄の断頭台の様に続く階段。
普通に踏みしめると足音は響かない。
二人はどれほどの恐怖に駆られ、どれほどの絶望に飲み込まれていたのか。
想像すると少しだけ心が軽くなった。
三階に上がると、窓からは真っ赤に染まった月が煌々と輝いている。
「奇麗…」
一瞬で心を持っていかれる光景。
赤い月と流れる雲。
妙にプラスチックに感じる質感を持った山々。
描きたい空想に現れる情景が目の前に広がっていた。
その窓から見える風景に目を奪われていると、下階からゆっくりと足音が聞こえてきた。
ギシィ…ギシィ…ギシィ…
重く、そしてどことなく強い意志を感じる足取り。
恐らくあの殺人鬼だ。
廊下に見える左手の扉に手をかける。
ガッ
施錠されている。
誰かが中に入っているのだろうか、それとも最初から…。
そうこうしているうちに足音はどんどん大きく、はっきりと響いてくる。
月は雲に隠れ、漆黒が辺りを包み出す。
本当ならば焦る気持ちが勝つのだろうが、時雨は廊下を見渡す余裕がこの時まではあった。
ギシィ…ギシィ…ギシィ…
おそらく何の迷いもなくここへ向かっている。
逃げ延びるのならばどこかへ隠れなきゃ。
視界の先には二つの扉が見えるのだが、奥の方のドアに行く間に、廊下中央にある小さな扉が気になった。
普通に考えて、この中に隠れるよりも部屋に逃げ込むのが妥当なのはわかる。わかるのだが、あえてこの扉に逃げ込む方が、生存確率が高いように感じたのだ。
その背の低い扉は、おそらく掃除用具入れだろう。
手前に取っ手を引っ張るも、鍵がかかっている。
その間にも足音は近づいて来ていた。
ガタガタガタガタ
突風が窓を揺らす。
不意に聞こえた音が現在の状態を再認識させる。
この、追い詰められている状況を。
3階は行き止まりなのだ。
ここに逃げ込まなければあの二人の様に…そのような思考に囚われ、気が付けば扉にしがみついていた。
すると、どういう造りなのかはわからないが、掃除用具入れの中に入っている事に気が付く。
「どういうこと?」
モップや掃除機などギッシリ詰め込まれた用具入れの中は思ったよりも狭く、ほとんど扉の前から動けなくなっていた。
身を隠そうとしゃがむと、扉の下に5センチ程の隙間があることに、ここでようやく気が付く。
間違えた。
これでは足が見えてしまう。
しかし、今更外に出る事は出来ない。
そもそもどうやってここに入れたのだろうか。鍵を開けた記憶がないんだけど…。
ただ、他の場所に行く時間は無い。
殺人鬼はもう、すぐそこに居る。
トン…トン…トン…
足音が木材の軋む音から靴底が床に当たる音に変わる。
乾いた軽い音は太鼓の面を叩いているように廊下に響く。
来た…。
時雨の思考実験では、たくさんの扉があれば逃げ込むに値するであろう扉から調べるはずだ。
だからこそ、廊下の中ほどにある用具入れなど気にもしない筈。
奥の扉に入った瞬間に逃げ出すか、それともこのまま朝まで隠れるか…。
その事だけを考えていた。
ガチャガチャガチャ
予想していた事とはいえ、一瞬で空想から現実へ引き戻される。
生き残る事がこんなにも困難だと考えもしない日常がまるで空想だったように感じられた。
ドアノブを回し、階段近くのドアを開けようとする音さえ凶器なのだ。
もし中に侵入されれば楓や恵美の様に…。
すぐに諦めたのか、殺人鬼は再び歩き出す。
トン…トン…トン…
隙間から見える靴。
声こそ出さなかったものの、顎の下が引きつり激痛が走る。
ホラー映画論争で、一番怖いのは相手に認識され追われている時か、認識されずに一方的に眺めている時かと言う話があるが、殺人鬼の認識される範囲に入る事が絶対的な恐怖なのだ。すなわちどちらも最大限の恐怖であり、太陽と溶鉱炉に入るとしてどちらが熱いのかと言う論争と同じである。どちらも瞬間的に死を迎えるのだ。
体重の乗った靴は、軽やかにスッと引き上げられる。
そして次は音だけ聞こえた。
おそらく右足…。
助かった…。
殺人鬼は物置の前を過ぎ去り、時雨はホット胸を撫でおろす。
奥に誰か居るのだろうか…。
安心感から不意にそう思った。
殺人鬼の目が扉の隙間から現れる。
現実の事象に理解が追い付かない。
人間とは思えないマスク越しに見えるギラつく目。
瞳孔は開ききっている。
声すら出ない。
息も吸えない。
思考は完全に停止している。
逃げる場所など無いのだ。
この狭い掃除用具入れは身動き一つできない。
黒く塗られたネイルが、勢いよく扉の隙間にねじ込まれる。
ガン…。
激しく揺れる扉。
その間、殺人鬼は時雨から視線を外さない…。
ガッガッ…。
扉を引いている手は、まるで魔女の様に古びており血が滲んでいるのが見える。いや、そもそも殺人鬼は人間なのだろうか…。
激しく揺らす扉は軋み、限界を迎えそうになったその時。
ドーン
重量物を倒した様な大きな物音。
音に反応したのか、スッと手を引くと、靴が今来た廊下を引き返していく。
正直、時雨は助かった…そう思った。
一体…誰…。
優子…それとも蓮…。
布の擦れる小さな音。
コンコン…。
小さくノックする。
もちろん反応は無い。
一瞬間を置くと…耳を疑うような…
ダンッ…ツ
何かで木を叩く音が響く。
スプラッター系の映画が脳内に浮かぶ。
ダーン…ツ…ダーン…ツ…ダーン…
何が起こっているのかは容易に想像できた。
映画で見た…。
扉を破壊しているのだ。
メキメキ…メキメキ…。
木を剝がしている。
斧を持っているのだろうか…
破壊した扉から覗くホラー映画があったのだが、覗く事が恐怖でないと今なら分かった。その行動を取っている者に対する恐怖。そして、そこまでして追いかけて来る殺人鬼に対する恐怖の両方なのだ。
ガッ、ガン、ガン…メキメキ…。
まさか、ドアが壊された?
逃げ出したい…。
何でこんな所に来たのだろう…。
本物の殺人鬼ではないか。
他人の家で出来る行動なんかじゃない。
常軌を逸している。
本気なのだ。
「キャーいや!来ないで!」
蓮だ。
彼女の声が聞こえてくる。
ドン…ドン…。
歩き出す殺人鬼。
ごめん、私行けない…。
強い吐き気を催しながらも、その場で指先すら動かない…。
「キャーお願い…止めて…」
ドン…ガッ…。
友達の悲鳴を隣で聞き続ける。
今すぐ行けば助けられる…かもしれない…。けど…私じゃどうにもならないから。
そう言い聞かせる。
「お願い…助けて…こんな事して何になるの?」
蓮の声が耳元で聞こえる気がした。
ごめんなさい。蓮…ごめん…なさい。
…ドン…ドン…
「止めて…お願いだから…」
ドッ…トン…トン…トン…。
「悪かったから!すぐに出ていきます…許してください…やめて…お願いします」
トン…トン…トン…。
「たす…け…て…」
バタバタバタ…。
暴れる音だけが響いてくる。
いま、彼女はどんな目に遭っているのか。
考えるだけで全身が震える。
怖い。
ごめんなさい。
時雨は声にならない吐息を吐く。
バヂバチバヂ
「ギャー」
ドン…ドゴッ……
何かが激しく倒れる音が響く。
蓮…蓮…。
どうなったか分からないが、彼女の声はもう聞こえてこない。
彼女は逃げられた…そう思いたくなる自分と、現実問題本当にそうなのか…。
そう思う自分。
目を瞑ると彼女の笑顔だけが瞼に映る。
静寂が流れ…そして、聞きなれた音が聞こえてきた…。
ズリッズリッズリッ
蓮…やっぱり…。
ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…。
手を合わせ祈るも、そう近くない運命として、多分私にも訪れる未来…。
あまりにも無力だという事実…。
そして、逃げられないと言う絶望…。
扉を押し退けると、不思議とそのまま廊下に出る事が出来た。
その不思議な状況よりも、窓から見える景色に目を奪われている。
最後になると思われる景色。
月は夕日の様に赤く、されど雲は昼間の様に青く照らされている。
風の流れは速く、月が空を渡っている様に見えた。
「赤い月なんて初めて見た…こんな夜景があると知っていたら、描いてみたかったなぁ」
独り言なのか、自分の思考が口を経て外へ漏れ出す。
窓だけでも開けば…。この歪みが取り払われるのに。
そんな中、頭痛が始まる。
ドクッドクッと血流が圧迫する様な痛み。この頭痛からはいつ解放されるのだろうか…。
それとも、生きている事から解放されることが先なのか…。
靄がかかったような思考の隅に、カチャ…金属の触れ合う音が響く。多分、優子がドアを開けたのだろう。
振り返らずに声をかける。
「優子…元気してた?」
もう、何だって良いのだ。どうせ運命は決まっているのだから。
「時雨?時雨なの?」
優子は不安そうに聞いてくる。
「風前の灯と書いて、時雨で~す」
普段とは違い、一切の思考作業を放棄したまま答える。
「何でここに居るの?」
失礼極まりない問いに違和感を覚える。優子から発せられる言い回しではない。
「そりゃあ肝試しに呼ばれたから…あれ?呼ばれてなかった?」
自分がこの肝試しに呼ばれてないのに来た場合の事を考え、あえておどけて見せた。内心では、ラインの履歴を片っ端から全て確認したい。
「時雨…明美たん…あっ明美先生に言われて、今日の昼間にこの屋敷の掃除のバイト受けたんじゃなかった?それも、たった一人で」
「そうだっけ?」
時雨は記憶を探る…。
今朝の話だ。
掃除のバイトを頼まれたのだが、会合の予定が早まり先生から鍵を受け取ったのだ。
「あっ先生から鍵預かった…」
本当にすまなさそうに渡す明美先生の表情を今でも思い出せる。
一人にしてごめんなさいと、何度も頭を下げられたのだ。
「…ずっとここに居たの?」
優子の問いに自分でも納得が出来ない。
今まで居たじゃないか!
屋敷に入る時も、楓が走り去った時も…部屋を探索する時も恵美が…連れ去られた時も…蓮が…たった今攫われたその瞬間も…。幻だったというのか…。
記憶の扉から状況が漏れ出す。
先生に頼まれた、防犯シートの貼り付けとか…部屋の掃除とか…。
ゆっくりと今朝の状況が降りて来る。
「私、今朝も来ていた」
「でしょ?ラインの返信が全く無いし、肝試し…嫌なんだろうなとか思って…そのままにしていてごめんなさい…」
優子が表情を曇らせるが、感情と仕草と本心が別なのが女子だ。
「ううん、いいの。いつも気が付かない振りしていたもん」
「そうだよね。わかっている。けど…肝試しは参加したかったんだ!」
優子は日常の様に話しかけて来る。この状況で…。
「今朝は居た…かも…。先生に渡された窓ガラスの防犯シートとか、掃除とか…本当は二人でする予定だったんだよ…今朝までは…」
そこで思い出した…肝試しは…見なかった事にしようとしていた事を…。
「あれ、時雨がやったの?あの割れないガラス」
「そうそう!一人だとすっごく難しいの!空気とか入るからね」
「もうプロだよ!全く分からなかったもん」
「時雨のシートは最強って言うからね」
「それは、メーカーの力。手柄を横取りすな」
そう言いながら、優子は笑い出す。
「けど、貼った人の努力は?」
「無い!貴方は無力です」
相変わらず厳しい返しに、次の言葉が続かない。
初めて心が緩んだ瞬間だった。そして話したい事が次々浮かんでくる。
忘れないうちに離さなきゃ。
「…でね、屋根裏から猫が入ってきてね…」
「続いてる様に話すな」
いつもの様に肩を抱き寄せた優子は、現世で生きる者の感覚では無かったのだろう。
彼女の目からは涙が零れていた。もしかすると、ずっと前…会話の最初から知っていたのかもしれない。
「んで、どんな猫だったの?」
笑い泣きの様な声で優子は涙を拭う。
「えっ?あっチャトラ?」
「そう!写真とか無いの?」
「ない!無いけど…その子猫が…」
時雨は何かを思い出しそうになる。その隙間に優子は言葉をねじ込む。
「言おうと思った事あるの。あの…妹さんに、時雨がどこ行ったか聞かれたんだよ…」
「優子の苦手な五月に?」
その状況を考えると、少し笑えた。
「今までどこに居たのよ?早く家に帰りなさい」
涙に目をはらした優子は笑いながら聞いてくる。
「それがね…気が付いたら…家に居た…」
「帰った記憶無いんだ。それが時雨の死後の世界ってわけ?」
優子はいつもそうだ。聞きにくい事を勢いに任せた風に聞く。
「皆と屋敷に来た記憶はあるのに…」
窓にから見える月は再び雲の中に消える。
「時雨!」
ホログラフを連想させるような消失感が襲う。声が届かない。
「消えないで!」
優子は時雨に、すがるように崩れ落ちた。
「大丈夫…ずっとここに居るよ」
まだらに現れる時雨。
「ごめんなさい。私も朝行けばこんな風にならなかったはずなのに…」
「死体が二つになっただけだよ」
動揺している優子を落ち着かせる為に言った言葉だが、一人だったので誰に殺されたのかが皆目見当がつかない。一人だったから昼間に殺された…そう考えると妙に納得がいく。
それと同時に、あまりにも無視されていた理由もわかった。そもそも見えていなかったのかもしれない。
「じゃあ、今は見えるつて事は、優子も殺された後だったりする?」
「私は生きてる!」
強く否定した後、申し訳なさそうに
「ごめん…」
そう呟いた。
優子はいつだってそうだ。
雲がまた、激しく流れ出す。嵐の前触れなのだろうか…。
「あっ時雨」
「どこにも行ってないってば…」
「月に照らされた所しか、時雨が見えないみたいなの…」
不安がる優子を、時雨はそっと抱きしめた。
「わかってるよ」
「一階にいた私の手を引いてくれたのも時雨でしょ?あの時びっくりしたんだから!不意に手が現れて、時雨の声で早くって、立たせてくれたでしょ?」
「めっちゃ怖いね。友達でも」
想像すると、かなりの恐怖だ。自分だったら逃げ出している。
「ううん。嬉しかったよ。会いに来てくれて…助けてくれて…」
優子はまた、涙交じりの声に代わっていた。
「あっそうだ!奥の部屋の窓、鍵がかかって無いの。そこから外に出られる…かも?子猫がね、三階の窓の近くをウロウロしてたの。そしたらその子猫、キッチンの屋根の上から降って来たんだ。多分歩ける道があるんじゃない?」
「大丈夫かなぁ?」
「人間でも通れるかは不安だけど…」
「にぁ~ご」
優子は威勢よく鳴き、急いで奥の部屋に戻りかけた。しかし立ち止まり、振り向き様に声をかける。
「時雨も行くよね?」
時雨は廊下から静かに手を振り、ドアをそっと閉める。
部屋に入ると、優子は時雨を見る事も話すことも出来ない。月明りだけが私を映す光だ。
優子がんばって。私にしか出来ない事をするの。
「そういや先生、絵筆を使った事が無い人が絵画を語るのは、命が無い者が人生を語るのと同じ。絵筆を使って絵を感じる様に、命を使って人生を感じなさいって言ってたなぁ」
今の私は、人生を語るに値するのだろうか。
ドン…ドン…ドン…
足音が再び響いてくるが、今回は恐怖が全くない。
ガガガガガガ
優子が窓を開けた音が響く。
その音に気が付いたのだろう、足音の間隔が狭まる。
殺人鬼が現れたと同時に飛び掛かれば幾分かは時間が稼げる筈だ。もしかしたら、捕まえられるかもしれない。
「優子…幸運を」
後頭部が痛い…ダメ…立っていられない。
せっかくのタイミングにもかかわらず時雨は廊下の脇に座り込んだ。
私が…優子を守るはずなのに。
想いとは裏腹に、分厚い雲が真っ赤な月を容易く隠す。
階段を上り終えた殺人鬼は、時雨を全く認識できないまま奥の扉に猛進する。
痛みを堪え、廊下の脇から飛び出すも、月明りが陰った時の時雨は見えないだけでなく、誰にも触ることも出来なかったのだ。
ドアを後ろ手で閉めた殺人鬼が窓を開ける音が聞こえる。
時間が無い!
時雨はドアを何度も引いた。
もしかしたら、ドアぐらいは開ける事が出来るのではないか。
今朝、目覚ましを止めた様に。
実体のない仮想現実に挑み続ける。
カチャン…
ドアノブが回る。
ゆっくりと開くドア。
殺人鬼は物色するのを止めた。いや、止めざるを得なかったのだ。
室内はベッドに簡単な本棚に小さくシンプルな机。おそらく客用に作られた部屋と思われる。その、ベッドの下を確認していたのだが、それを止めすぐさま廊下へ向かう。
ゆっくりと開け放たれたドア。
誰の気配も無い廊下。
近くを通って認識したが、殺人鬼は明らかに焦りを感じている。
異様なマスクの奥に恐怖を感じ、ある種異世界の生き物の様に感じていた殺人鬼だが中身は普通の人間なのだろう。
「私は本物の幽霊。貴方とはモノが違うの」
聞こえない声を発し、背筋を伸ばし軍人の様に歩き室内に入る。
ピリリリリリリ!
その時、優子のスマホがけたたましい音量で鳴り響く。
何で?
時雨は一瞬理解が出来なかったが、スマホを取られてはまずいと思い即座に反応した。
辺りを見渡すも光源が無い。そうなるとベッドの下だ。
殺人鬼よりも先に取ろうと、ベッドの下に滑り込む。だが、現実はそう甘くない。
勢いをつけすぎた身体はベッドの下を通り抜け、反対側へと流れて行く。
どうにか勢いを殺すために、仰向けに体をひねりベッドの裏側を掴む。
潜り込んだ後に思ったのだが、この高さのベッドの隙間に身体が入っている事がそもそもおかしい。高さ20センチ程で普通に考えて頭すら入らない筈だ。にもかかわらず身体が入るだけではなく、勢いで反対側まで抜けてしまうとは…。
そして改めて自覚した。
自分はこの世の中では異質の存在であることを。
ベッドに張り付いたまま、携帯を探している時雨の頭頂部に視線を感じた…。
殺人鬼が開け放した扉から月明りが部屋に差し込んでいたのだ。
逆さまになった時雨は、天を仰ぐように頭を上げ確認する。それと同時に目が合った。
自分でもおかしな感覚だが、首の角度は自分が認識していた以上に曲がる。
これを利用しようと、目線を切らないでベッドの裏にしがみ付いたままの時雨は、身体だけを回しそのあと首を戻す。そしてベッドに当たらないように低い姿勢のままゆっくりと這いずって出ていく。
昔に見たホラー映画の悪霊は実に理にかなった動きだったのだ。
そう考えると、その製作者が何故それを認識していたか気になるのだが…。
勢いよく後退りした殺人鬼は壁に背をぶつけていた。
この万能感。
生きている時に感じたかった。
殺人鬼の視線は自分から一瞬も離れていない。
最大級の警戒態勢だ。
マスクの下は汗が滲み、呼吸は浅く、思考はフリーズしているに違いない。
這い出したままの態勢でじんわりと寄っていく。
このまま行けば、この部屋から追い出せるかも。
「去れ」
強い口調で威嚇する。
傲慢だった。
殺人鬼は部屋の隅の陰になる部分まで後退ってしまったのだ。
そっちじゃない。
いつの間にか鳴りやんだスマホ。
部屋の隅で微動だにしない殺人鬼。
ゆっくりと距離を詰めるも、影に差し掛かったところで身体が消えていく感覚に襲われる。ただし、輪切り状のフルカラーCTスキャンだったに違いない。
脳や眼球が剥き出しの顔。
そして内臓までが透ける。
殺人鬼は取り乱し、半分ほど開いた窓に身体をねじ込む。
「そっちじゃない」
時雨も窓の方に飛び込むが、どうも安定しない身体はベッド脇にあるタンスの中に突っ込んだ。
身体がタンスの内部を感じる。そして、残された頭だけが殺人鬼を目で追う。首だけがタンスに乗った状況で殺人鬼を睨んだ。
「友達に手を出すな」
威嚇を続けるが殺人鬼の半身は外に出ている。
ガタガタガタガタ
焦った時雨は思い切り暴れ、タンスは激しく揺れた。
邪魔だ!
ようやく手が外に出たところで、窓から延びる殺人鬼の足を急いで掴む。
しかし光の弱くなった時雨の手には殺人鬼の質感が伝わってこない。
苛立ちながら叫ぶ。
「何でそっちに行くの?」
優子の居る方へ行くのを止めさせれば。
焦る時雨はバルコニーに出るが一瞬下を見てしまった。
高い…。
落ちたとて大丈夫そうなのだが、生きていた時とは違うと言う感覚がいまいち体に染みついていないのだ。
そう自覚した途端腰が引け、屋根の上を這いつくばりながら殺人鬼を追う。
先を行く殺人鬼が振り向きながら叫ぶ。
「来ないで」
殺人鬼から発せられた声は、今朝電車のホームで聞いた声と同じだった。
「なんで…なんで…なんで…」
信じていたのに…。
この人がわたしを…。
感情と思考がごちゃ混ぜになり声が上手く言葉の体をなさない。
「ゔぁぁぁぁあぜぇぇ」
ごめんねと言われた今朝…。
貴方ならできると言われた事…。
丁寧な仕事が期待できるから…。
そんな言葉…先生以外から聞いた事無かったのに…。
気が付けば時雨は屋根を上り切っていた。
360度の夜空。
街灯の少なさが星を際立たせている。
そして真っ赤な月は地球に落ちそうなくらい近い。
先生は屋根の淵に立っていた。
マスクの奥底から醸し出される恐怖が鼻に付く。
この女がわたしを殺し、楓を殺し、恵美を殺し、蓮を殺し、優子を狙っているのだ。
「掃除は終えました。言われた通り、防犯シートも貼りました。絵の勉強として圭吾さんの絵の模写までしました。他に何が必要だったのですか?」
風は激しさを増し、雲が月夜を拭い去る。
一面の闇。
不気味な音を唸らせる激しい風。
風の影響がない身体に慣れてはおらず、楓は這いずりながら進む。
悔しさもあるが、それ以上に聞きたいのだ。
自分が何故殺されなければならなかったのか。
先生の足にしがみ付き、時雨はそのまま立ち上がろうと足を伝い上へと進む。
月明りが再び彼女を照らした時には、腰ほどの高さまで迫っていた。
「………」
先生の金切り声はとうに振り切れ、人が聞き取れる限界を超えていた。
振り払おうとする先生と、しがみ付きながら這い上がる時雨。
その顔は胸の位置まで来ている。
気が触れた様に暴れる先生は両手で見えない何かを叩こうとしていた。
その激しい動きでバランスを崩す。
ドドドドドドドド
聞いた事の無いような音を立て、人体が転がってゆく。
そして、庭の生け垣にドザザザザッという大きな音を立て視界から消えた。
声も上げる暇もなく。
時雨はその光景を呆然と眺めていた。
「めっちゃ怖かったよ」
背後から優子の声が聞こえる。
一部始終をキッチンの屋根の上からずっと見ていたのだ。
「這い擦りながら追いかけて、足からにじり寄るって、どんだけ怖がらせるの」
そう言い、今までで見たことが無いぐらい笑っていた。
ただ、時雨の心は晴れない。
「明美先生が…殺人鬼…だったよ」
そう悲しそうに告げたが、優子はキョトンとしたままだ。
聞き取れなかったのだろうか。
時雨は空を確認するも、満月はまだまだ顔を出している。
「もしかして…」
現世に留まれる時間には限りがあるのかも知れない。
そう思うと、もっとあの時に優子と話しておきたかった。その後悔ばかりが噴き出す。
「時雨?」
優子も異変に気が付く。
降りられそうな段差を時雨は指さす。
優子は無言で頷き段差を進む。
残された出来る事は少ない。
そのうち消えるのだろうと覚悟するも、不思議と今になって自分の身体の位置を感じる事が出来た。
噴水の下にある小部屋。
言語化出来ないのだが、確かに感じるのだ。
普通そんな所に入口があるなど思わないのだが、今自分の死体があるのはその方向だと魂が告げる。
そこを指さす。
「何かあるのね。わかった」
優子…声も伝わらなくなったの。
けど、私を見つけて…。
このまま放置されたくない。
わたしを…私を助けて。
優子は何かを感じ取ったのか、指さす方へ無言で歩いてゆく。
進む先は不思議と雑草は倒されており、思いの外歩きやすい。
草の背丈が高く、外からは歩く事が不可能に見えるような道だ。
「誰かが毎日歩いていたのかしら…」
優子が独り言を言いながら先に進む。
時雨はその先回りをしながらずっと体の位置を指さし続けた。
意識が消える…その前に。
後頭部が痛む。
吐き気がする。
そして不意にするかび臭い匂い…。
石の床がやけに冷たかった。
目を開けると、小さな小部屋に捨てられた自分と、麻色の拘束着を着せられた楓と恵美と蓮が同じ部屋に寝かされている。
痛む後頭部をさすってみると、バラバラと血の塊が砕けて落ちて行く。
生きている?
その確認よりも足元の楓に駆け寄った。
「楓…」
呼び起こしながら、拘束着を外す。
固いベルトで縛っている拘束着はなかなか外れず、時間だけが過ぎていく。
「ごめん…手に力が入らないの…」
謝りながらベルトと格闘している。
「し…ぐ…れ…よかった…」
拘束されたまま目を覚ました楓の一言は、今まで彼女を遠ざけていた自分を嫌いになるくらい響いた。この状況であって、私に…良かったとか…私には…私には到底言えない。
楓には彼女なりの優しさがあったのだ。それに気が付かなかった自分に腹が立つ。
「大丈夫…楓…」
心から声が、涙と共に溢れる。
扉の向こうには優子が待っているはずだ。
皆と行くよ。優子…びっくりするかな?そんな想像をしながら恵美と蓮の拘束着も外す。
「蓮、恵美!起きなさい!」
鋭い口調と共に二人の身体を揺さぶる。
その手慣れた手つきは何度も経験したものなのだろう。
そんな風景を見ながら、時雨はポケットに残されていたスマホの電源を入れた。
ピロン♪ピロン♪ピロン♪ピロン♪ピロン♪ピロン♪…
無限に続く通知音。
すごい数のメッセージだ。
しかし、そのほとんどが五月だった。
今まで姉ちゃん殺すとか言ってたのに…。とんだツンデレだ。
丁度、助けを呼ぼうとしていたので五月に電話をかけてみた。
するとワンコールも鳴らないタイミングで電話に出る。
「何やってんだよ!バカ姉貴!」
いつもの悪態だが、声からは五月の安堵を感じ普段の様に返せない。
「今日は、ありがとね」
「意味わかんねえし!すぐ連れに行くからな!」
その後にものすごい騒音が響く。
まだまだ時間がかかりそうな気がしたので、取り急ぎ周りを確認する。
石造りで出来た奇妙なこの部屋…。
窓には格子が嵌められていた。見た感じ、まるで独房だ。
奥には古びたベッドが置かれている。何か不安を感じたのだが、このまま放置するのも余計に怖い。
時雨は恐る恐る近づいてみる。
すると、かけられた布団が激しく動き出した。
布団の中から、激しく動く芋虫の様な物体が飛び出したのだ。
焼け爛れた様な皮膚。
力なくだらりと下げた両の腕。
異臭を放つ真っ白な物体に一瞬意識が遠のく。
「キャー」
三人は声を上げ、膝から崩れ落ちる。
ただ楓だけは、その芋虫の様な存在を躊躇なく抱きしめた。
「圭吾…ここに居たんだね。…探したよ」
画家は激しく振りほどこうと動くが、両手はだらりと下がったままなす統べなく抱き寄せられている。
その光景を見ながら、時雨は119番へ連絡を入れた。
彼は何故ここに居たのか…。そして、楓はなぜ彼を素早く認識できたのか…。
そんな疑問を抱きながら…。
救急車が到着するまで10分程かかりそうだと告げられた。さすがに田舎なので仕方がない。時間はどうあれ、現実的な希望は時雨に安堵を感じさせる。
「優子!とりあえず救急車は呼んでおいたよ」
壁越しに語り掛ける。
ただ、大声を出すと後頭部の痛みはさらに増し意識が飛びそうだ。
「えっ?時雨?時雨!しぐ…れ」
明らかに感情が高まっている返答に、彼女と友達で良かったと心の底から思えた。
「ねぇ…悪いけど…中からは開けられないよね?」
テンションが上がっていた先ほどまでとは打って変わって、優子はどことなく焦った声質に変わっている。
「どうしたの?何かトラブル?」
蓮がそう言いながら、ドアを調べ出す。
屋敷と同じだ。両側の鍵…。
一瞬頭に過る最悪のシナリオが、現実になりつつある。
「優子さん…圭吾に何の御用?」
血まみれになった、明美たんが月光を背に包丁を構え立っていたのだ。
「明美たん…」
月光を背にギラギラと輝く刃物。
どう考えても正気とは思えない出で立ち。
その傷の深さを見ると、普通ならば病院へ直行しても不思議ではない。
ただ、明美たんは流れ落ちる血を拭う事すらせずに歩いて来る。
「冷静に相手と会話をして!誘わないで!拒否しないで…同じ方向に誘うの!」
蓮は扉越しに優子に語り掛ける。
どうにかして明美たんの気持ちをいなし、時間を稼ぐしか無い。優子はフル回転で会話をひねり出す。
「誰がこの奥に居るのですか?」
この異常な状況において、理性的に振舞う事が出来たのは蓮のおかげだった。
強い彼女の言葉は優子に強さを与える。
生きている人間相手ならば蓮がどうにかしてくれる。そう思い出させるのだ。
例え教頭先生であれ、彼女を目の前にすると言葉を失ってしまうのだから。
蓮ならばどう発言するか…それだけを考え、そして自分をトレースさせる。
「そうね~高畑楓、石原恵美、西崎蓮、花巻時雨…はどうかしら?生きていればそこに居るんじゃない?それと…野坂圭吾だった者も」
「だった者?死んでいるって事ですか?」
「彼はね、生まれ変わるの!世界最高峰の画家となって」
高笑いをしながら、まだフラフラと近づいて来る。
「圭吾さんは認められた画家じゃないですか?生まれ変わる必要なんてあるんですか?」
「ディテールは狂っているし、遠近法は未熟…忌々しい美術部員の誰かに唆され、家を出ようとしていたのよ?それはもう、言語道断!世界最高峰に挑む覚悟が全く足りないの。なのに病院に連れていけですって?ほんと、病気や不遇な環境こそが人を人外の者へと進むべき道なのに…ねえ」
明美たんは少女のように笑いかける。
「御病気ならば病院へ行くべきです。大前提として、こんな狂気じみた環境から抜け出す事が、体を治す一番良い選択になると思いますが?」
優子には武器は無く、恵美の様に戦えるわけでは無い。出来る事と言えば、言葉で押し返すだけなのだ。だが、10分は…持ちそうにない。
「あら?貴方が圭吾を手引きしたの?」
「違います!けど、こんなのおかしいじゃないですか?」
「可笑しい?何が可笑しいの?まともな環境って何?それは美術の発展につながるの?」
「まともな環境こそが芸術に気持ちを向ける良い土台になると思います。ルネッサンスにしても芸術が発展したのは心理的安全性です!…そして、人の命の方がそんな物よりも大切です」
「そんなもの?芸術を知らないちょっと絵が上手かった程度で満足するような凡人が何を偉そうに!何百何千年をも超え残り続ける芸術に発明。その表現者が如何なる者でも、その具現者の如何なる罪をも背負わない。いや、背負う事は無い。ピカソが何をした?ゴッホはどうだったかしら?エジソンはどんな人だったかしら?心理的安全性?そんなくだらない物など、芸術の前では無力よ」
持論を語る明美たんは高らかに笑う。
その背後で怒りを抑えた低い声が響く。
「よう!おばさん、グダグダうるせぇんだよ!」
短く切り落とした赤髪に、真っ白な特攻服。
身長は180センチ程。
そして、その手には鉄パイプ。
いかにもな集団が噴水の周りを取り囲んでいたのだ。
花巻五月。
この辺りでは名前を知らない者は居ない問題児だ。
「なによあんた達!ここは誰の家か分かっているの?」
包丁を振り回し明美たんは威嚇する。
「あ?うるせぇ!そんなこと関係あるか!」
取り囲んだ集団が品無く笑い、一人が叫ぶ。
「あんた、包丁で殺せる人間とそうでない獣の差がわからないのかい?」
「貴方達、タダで済むと思わないで!」
強がっているが本能が理解している。包丁如きで何とかなる相手ではない。
月夜に照らされた彼女の声は平静を装っている。しかし、その奥に孕んだ怒りを誰もが理解し、呼吸すら止めさせていた。
「まだ、本気で生きて帰れると思っていんのか?」
吐き捨てる様に言い放つと、ずかずかと五月は近づいていく。戦意喪失した明美たんは急いで包丁を手放す。
しかし、五月は止まろうとしない。
「来ないで!」
叫びながらしゃがみ込む明美たんなど、そこに居ないかのようにその横を通り過ぎ、五月はドアの方に歩いていく。
「そこに居んだろ?」
何処から出ているのか不安になる程の大声。
「ああ、その声で頭痛が止まらないけどね」
時雨の言葉には強さがあるのだが声がとてもか細い。
恵美が代わりに叫ぶ。
「出血が酷いの!早く救急車を!」
「姉貴が?」
人間がオーラを纏うのを優子は初めて見た。
蒸気なのか陽炎の様に揺らめく空気。
その表情は阿吽像の表情が友好的に見える程に怒りに満ちていた。
ドォン!
木製の重たい扉に前蹴りを入れた。
空間が丸ごと揺れるような衝撃波が走る。
木製の扉は半壊し、もはや扉としての機能を果たしていない。
それも、一撃で…だ。
「…中の事考えた事あんの?」
扉の脇にうずくまっている時雨が五月を横目で見ながら吐き捨てる様に言う。が、血まみれの彼女を見て五月は駆け寄る。
「姉ちゃん」
時雨を抱きかかえ扉から出てきた五月は、まるで月光に照らされた赤毛の王子様だった…優子はこんな状態でありながら、宝塚を想像してしまった。
五月は一瞬立ち止まる。
そして視線を落とし、隅の方で震えている明美たんを横目で見ながら、
「姉ちゃんに何かあってみろ…お前の一族郎党消し炭にしてやる」
そう言い放ち月明りの中に消えて行った。
「あんなのと暮らしてる時雨…すごいね」
蓮は優子にそう声をかけた。
「うん…すごくかっこいい」
優子の反応が想像と違い過ぎて思わず蓮は吹き出した。
「優子、そんな趣味だっけ?」
「男性ならよ!男性なら!」
「男だとしても、めちゃくちゃやべぇ奴じゃん」
「私は子犬の様な男子が良い」
恵美が突然混ざってきた。
「はいはい。恵美は子犬で、優子はゴリマッチョね。今度皆で合コンする?」
「ゴリマッチョは違う!」
優子は蓮を揺さぶり訂正しようと必死だ。
「はいはい、あんた達あまり羽目を外さないようにね」
奥から出てきた楓が、座り込んでいる三人を見ながら微笑みかけた。
そして視線を出口へと向けるが、歩き出す素振りは見せない。
楓の横顔を見ながら、三人共彼女が何を思っているのか想像すらできなかった。
ただ、もう彼女は振り向く事は無い。それだけは皆が理解していた。
10分ほどすると、辺りは野次馬と警察と救急隊員が入り乱れる事態となり、明美たんは勿論そのまま連れていかれた。警察の人も会話を試みようとしたが、
「来ないで…」
と繰り返し呟いている。
それともう一人、警察に悪態をついて殴りかかった五月も一緒に連れられてしまった。
優子は、五月がどんなに活躍したかを必死で説明していたが、
「どんなにいい事をしても、警察に襲い掛かるのはダメなんだよ。今回は一応お話するだけだからさ」
そう諭されていた。
時雨は、救急車の準備の為に寝かされた状態のまま、心の中で優子がんばれ!と応援していたのだが、それはそうだ。ダメでしかない。
ようやく準備が整い、担架に載せられた時雨の手を楓が握る。
「病気の彼を…連れ出したかった…だけだったの。ごめんね」
彼女が誤るべきではない事はわかっている。何故ならば、私は行く予定では無かったのだから。
時雨は不意に疑問が湧く。
「なんで…あのマスクが見えた時、走って行ったのよ…」
「見られていたんだ」
一瞬にして耳まで赤くなった楓は小さい声で呟いた。
「彼と…ハロウィンで被ろう…と言って買ったお揃いのマスクだった…から」
「楓…趣味悪いよ」
「もういいですか?」
長身の救急隊員が、時雨から楓を引き離し救急車に乗せる。
「心配しないでください。彼女は我々が必ず救います」
そう言い残し、彼女達を残して時雨を載せた救急車は走り去った。
「かっこいい」
誰かがそう呟いた…。
夏休み明け全員が揃う中、明美たんは教職を辞め美術部はほぼ解散となった。
「短くしたねぇ~」
優子が時雨の髪の毛を触りながら笑顔で絡んでいく。
「されたの!後頭部、めっちゃ縫ったんだからね!」
「妹さんとお揃いやん」
「だから嫌なの」
今では五月のファンクラブがこの学校で出来てしまっている。
別の高校にもかかわらずだ。
「そんな貴女に、気分転換の美術展チケット~」
「どこの?」
「市内の展覧会!貰ったんだ」
「チラシのやつ?行く行く!」
色々あって絵は描けないが、やはり絵画は好きなのだ。
優子は時雨の手を引いて、市内の大きめの展覧会に向かう。
「あれ?この絵…」
展示品の中に、野坂圭吾の油絵がひっそりと紛れ込んでいたのだ。
誰もが足を止めるそのタッチは、初めて見た時の感動を超え時雨の語彙を空白にさせる。
「でも…あれ?ディテールが…変?遠近法も狂っていない?」
そう呟くと、時雨は吐き気を抑えトイレに駆け込んだ。
ジガバチ sunflower @potofu-is-sunflower
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