《Blue Note Bar》──最後の夜
ジョニー・ウィンターの“Be Careful With A Fool”が流れていた。
ギターは鋭く、けれど冷たく響いて、
店内の空気は、湿ったバーボンの香りで満たされていた。
律はハーモニカを持っていたが、吹かなかった。
グラスの氷を指先で転がしながら、ただ黙って座っていた。
久しぶりに会った瑠衣は、いつもより濃い色の口紅をつけていた。
少し早く着いたのか、すでにグラスは半分ほど空になっていた。
「就職、決まった」
瑠衣が言った。グラスを持ったまま、目線は律に向かない。
報告というには、どこか気の重い声だった。
「……そうか」
律はゆっくりと相槌を打つ。
「大阪。広告代理店。……正直、音楽とか関係ないし、向いてるかどうかもわかんない」
律は、少し強がるように笑った。
「お前、昔から広告っぽかったよな。なんとなく華やかで、でも中身にこだわるとこ」
「褒めてる?」
「もちろん」
沈黙が落ちる。
クラプトンの“Have You Ever Loved A Woman”に曲が変わった。
ギターがねっとりと、感情を溶かしていく。
瑠衣が言う。
「律、さ……ずっと、優しかったよね」
「優しかった?」
「ううん……ちがう。律は、ずっと本気だった」
グラスを置く音が小さく響いた。
「それがね、ちょっと、しんどかったんだ」
律は黙った。
「律との“ブルースみたいな恋”って、最初はカッコいいと思ってた。でも……いつの間にか、
毎日、濡れた路地裏を選んで歩いてるみたいな気持ちになるの。
自分が生きてるこの世界とあまりにかけ離れてて……」
律は、自分の膝の上のハーモニカを見た。
吹けば、なにか変わるだろうか。いや、変わらない。もう何も。
律にとって、瑠衣とブルースは、いつも一緒にあった。
瑠衣は、音楽の記憶そのものだった。
ブルースの匂いをまとった、たった一人の存在。
それなのに今、まるでブルースが別れの理由みたいに扱われている。
(だったら、俺は何を手放せばよかった?
いつ、どこで選び直せばよかったっていうんだ。)
「……俺、変わるべきなのかな」
瑠衣は小さく首を振った。
「ううん。変わらなくていい。律は、そのままでいいと思う」
少しだけ笑ってから、続けた。
「でも、私が変わりたくなった。変わってしまう前に、ここを出たかった」
⸻
瑠衣が立ち上がる。
その背中に、律は言った。
「瑠衣」
振り返る。ゆっくりと。
「最後に、ひとつだけ吹かせて」
瑠衣は頷いた。律はハーモニカを口に運び、短いブルースのフレーズを吹いた。
コードはC。フレーズは“Goodbye Baby”の一節。
それは、誰にも届かない恋の終わりだった。
⸻
瑠衣が去ったあと、律は残ったグラスの酒を一気に飲み干し、
ギターを持って、外に出た。
涙の向こうに、六月の雨がまだ降っていた。
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