《Blue Note Bar》——ブルースだけが、残った
瑠衣がいなくなって、季節がひとつ過ぎた。
梅雨が終わり、蝉の声が街を包み始めても、律の時間だけは止まっていた。
それでも、ブルースは残っていた。
ギターとハーモニカ。濁った酒と、夜の匂い。
それらは、瑠衣のいない夜にも変わらず律のそばにあった──ただし、意味を失ったままで。
週に何度か、ライブハウスやセッションバーに顔を出した。
グラスを交わし、音を鳴らし、拍手を受け取る。
それでも、律の心は、どこにも触れていなかった。
演奏のあと、何人かの女が寄ってきた。
音楽が好きだと言う者。ブルースはよく知らないけど興味ある、という者。
酒を奢ってくれたり、やけに近い距離で話しかけてきたり。
何度かは、ホテルに行くこともあった。
けれど──
彼女らは、律のブルースなど二の次だった。
ただなんとなく盛り上がって、夜を共にするだけ。
律は、どの指にも、どの髪の香りにも、あの夜の温度を見出せなかった。
ベッドの中で目を閉じても、浮かんでくるのは、最後に見た瑠衣の笑いかけるような、泣きそうな横顔だった。
(……違う)
何人目かの女が眠ったあと、
律は風呂場で、自分の顔を鏡越しに見つめながら思った。
(違う。ちがう。違う。──全部、ちがう)
瑠衣以外じゃ、何も響かない。
律はそう感じた。
ギターのコードも、ハーモニカの一節も、
すべては瑠衣と重なっていた。
あの夜に流れていた音だけが、本物だった。
あの夜の匂い、音、温度。
全部にぶつかってくれたのは、瑠衣だけだった。
たとえ「重い」と言って離れていったとしても──あいつは一度、真正面から俺を見た。
だから、重さが分かったんだ。
他の誰も、自分にも、ブルースにも、本気じゃなかった。
ただ寄り添うフリをして、音の皮を撫でるだけだった。
──ある晩。
部屋の片隅に積んだレコードの中から、1枚が手に触れた。
《Louise McGhee》。サン・ハウス。
瑠衣にも何度か弾いたはずの曲だった。
針を落とす。
スライドギターのイントロが、ざらついた空気を切り裂いて流れ出す。
その瞬間、律は思い出す。
(そうだ。この曲が、あの夜を終わらせたんだった)
なのに、なぜか──今夜は、始まりのように聴こえた。
“Louise McGhee…”
律はギターを取り出し、スライドバーを指にはめる。
オープンDにチューニングを合わせ、静かに弾き始める。
目を閉じると、湿った空気の向こうから、あの香水とタバコの匂いが蘇った。
もしも、もう一度だけ、会えたなら。
何も言わなくていい。ただ隣にいて、同じ音を聴いてくれたら。
──それだけでいい。
律はギターをケースにしまい、古びたハーモニカをポケットに入れた。
雨が止んだばかりの深夜。
濡れた路地を選ぶように、
律はまた《Blue Note Bar》の前に立つ。
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