《Blue Note Bar》──沈黙のブルース
春が終わりかけた頃、《Blue Note Bar》の空気は少しだけ軽くなった。
梅雨入り前の夜。湿り気を含んだ風が、都会の喧騒をゆるやかに洗い流していた。
グラスの氷も、いつもより長く持っている気がした。
その夜、律はギターを持ってきていた。
小さなボディのアコースティック──ブルースを弾くための一本だった。
ピックは使わず、爪で弾くタイプ。
マスターに許可をもらい、カウンター奥の古いスツールに腰かける。
隣に、瑠衣がいた。
何も言わず、ただ黙って聴いていた。
音楽の前では、二人とも少し素直になれる気がした。
「Robert Johnsonの“Come On In My Kitchen”、知ってるだろ」
自然に口をついて出た言葉。
「この曲、チューニングがちょっと特殊でさ……スライド使わずに、喉の奥みたいな音を出すんだよ」
「……うん、知ってる」
瑠衣の声は、柔らかかった。
けれど、それがどこか遠くの音みたいに感じた。手の届かない距離感が、そこにあった。
律は短く息を吸い、弦を鳴らした。
指先は確かだった。
音が空気をすくいあげるように、静かに響く。
ギターは語るように鳴った。少しかすれて、でも真っすぐだった。
間奏に入ると、ポケットからハーモニカを取り出す。
ブルースハープ。C調。
唇にあて、息を吸い、吐く。
横顔は見なかった。
でも音に託して言った。
「… there’s going to be raining outdoors」
──届いたかどうかは、わからなかった。
グラスの氷がひとつ、音を立てて沈んだ。
しばらくして、瑠衣がぽつりと呟いた。
「律……すごく上手だし、ちゃんと伝わってきたよ……。
でもね……ちょっと、重いかな」
声は軽く聞こえた。けれどその奥には、小さな溜息のような迷いがあった。
何も否定しているわけじゃない。
ただ――
まっすぐすぎる律の夢や想いに、自分の歩調を合わせ続けるのが、少しだけ息苦しくなっていたのかもしれない。
律はギターの弦に触れた指を止めた。
ハーモニカをそっと膝の上に置く。
“重い”という言葉が、静かに胸に沈んだ。
「……ごめん。でも、俺、こういうのしかできないんだ」
それが精一杯だった。
ほんとうはもっと言いたいことがあったはずなのに、
音よりも雄弁になれる言葉なんて、どうしても浮かばなかった。
スピーカーから、マディ・ウォーターズの“Trouble No More”が流れ始める。
律はその音を背中で受けながら、少しだけ俯いた。
言葉にしても、きっと無駄なんじゃないか──そんな気がしていた。
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