《Blue Note Bar》──夢を語る律、瑠衣の想い

ある晩、マスターがかけたのは、オーティス・ラッシュの《Double Trouble》だった。

ギターがうねるように響いて、グラスの中の琥珀を微かに揺らした。


瑠衣が先に来ていた。律はその横に黙って座る。

二人の間には、しばらく音楽だけが流れていた。


「……どうだった、ライブ」

「まあまあ。客は少なかったけど、音はよかった」


「歌ったの?」

「少しだけ。あと、エッセイも書いた。ライブのこと、ちょっと残しておきたくて」


「……へぇ」


グラスの氷が、カランと鳴った。


「もう少し、形にしたいんだ」

律がぽつりとこぼすように言った。「演奏も、言葉も、ブルースで食っていけるように」


瑠衣は、何も言わなかった。

ただ、視線をグラスに落としたまま、少し息を吐く。


「夢みたいな話だけど……でも、できるだけ現実にしたいと思ってる。お前と一緒に、って考えたら、なぜか本気になってきた」


その言葉に、彼女の指が、ほんのわずか震えた気がした。


「……律は、真面目だよね」


「そっか?」


「うん。でも、その真面目さに、自分が負けそうになるときがある」


「……負ける?」


「ううん、なんでもない。……無理しなくていいよ」


律はそれ以上、何も聞かなかった。

聞くより、黙っていたほうが、きっと伝わる夜もある。


ジュークボックスが瑠衣の入れた曲へ移り変わる。

ジョン・リー・フッカーが、少し軽やかなリズムでギターを鳴らし始めた。


律はゆっくりとグラスを傾けた。

言葉はなかったけれど、瑠衣の言った「無理しないで」の意味が、律にはきつく感じられた。


その夜、律は瑠衣を自分の部屋に招いた。夜が深まる頃、照明を暗くし、律の部屋からは、静かなギターの音色が漏れはじめた。

B.B.キングの「The Thrill Is Gone」を思わせる切なく力強い旋律が、重く空気を揺らす。


律はゆっくりと指を滑らせながら、ぼそりと呟く。

「どう?この曲は、失ったものの痛みと、それをどう受け入れていくかを教えてくれるんだ」


瑠衣はソファの端に腰を下ろし、視線を床に落とした。

「いい曲だよ。でも時々、そんな重さが私には息苦しくなる。律は無理しなくていいよ」


律はギターの音を止めて、静かにため息をついた。

「俺は…お前を幸せにしたいだけなんだ、分かってくれよ」


その言葉は暖かく響いたが、同時に彼女には重くのしかかる風のようにも思えた。


瑠衣は小さく首を振り、目を伏せる。

「律、もう少しだけ肩の力を抜いてくれない?」


律は言葉を失い、そっと彼女の手を握った。


ブルースがふたりを繋いでくれたのに――

自分のいちばん得意なブルースが“重い”と言われたら、俺は何を信じればいい?


静寂の中で、二人の間にだけ濃密で重い空気が漂い続けていた。


その夜も二人は形だけの愛を交わした。

律の手は確かに瑠衣の体を抱き寄せていたが、彼女の瞳はどこか遠く、冷たい光をたたえていた。


律はその違和感に気づきながらも、言葉にできずにいた。

「ブルースでお前を幸せにしたい」――その想いが、いつしか彼女に受け入れられることをただひたすら願いながら……。行為に気持ちを入れることにだけ集中した。


夜の静寂に、二人の呼吸だけが響いた。

その呼吸の間にも、すれ違いの旋律が静かに流れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る