《Blue Note Bar》—─夜の余韻
「まずは、俺のから選んでいい?」
瑠衣は少し微笑んで、うなずいた。
律はカウンター横のジュークボックスへ歩いていき、慣れた手つきでコインを滑り込ませた。
そして、迷いなく一曲を選ぶ──T-Bone Walkerの《Call It Stormy Monday》。
針が落ちる音のあと、しゃがれた声と、心地いいギターがゆっくり店内を満たしていく。
ブルース特有の“語りかけるようなテンポ”が、空気を静かに染めていくのを、律は感じた。
「……これ、好きなんだ」
グラスを傾けながら、律が言う。
「深いけど重くない。ウイスキーみたいに、酔わずに元気でいられるブルースって感じ」
「うん、なんか……肩の力、抜けるね」
瑠衣は目を閉じて、小さく息を吐いた。
T-Boneのギターが、ふたりの間に静かな時間を編み出す。
切なさと、ほんの少しの優しさが入り混じった、音と言葉のない沈黙だった。
次に、瑠衣のために選ばれたのは、ライトニン・ホプキンスの《Trouble in Mind》。
しゃがれた歌声が、まるで雨上がりの夜にしみこむように響いた。
素朴で、飾らないギターの音色が、静かに心をなでていく。
「……優しくないけど、優しいね」
瑠衣が、ふっと笑った。
それはかすかに息ができるような、そんな笑いだった。
律はグラスの残りを見ながら言った。
「“心が沈んでる、でも太陽はまた昇る”……そんな歌詞だったと思う」
瑠衣は小さく頷いて、そのまま律の横顔を見つめていた。
「慰めたいとは思った。でも、言葉が多いと、かえって重くなる気がしてさ。これくらいの感じが、ちょうどいいだろ」
瑠衣は何も言わず、ただグラスをゆっくりと持ち上げた。
その仕草が「ありがとう」と言っているように見えた。
やがて、ふたりはグラスを空にして、重い腰を上げた。
──夜の街は雨上がりだった。
アスファルトに滲むネオンの色が、少しだけ暖かく見えた。
ジュークボックスで瑠衣のために選んだ、ライトニンの歌がまだ頭の奥で鳴っている。
掠れきったその声は、包み込むような温度を持っていて、静かに夜へと溶けていった。
「……送ってくよ」
律がそう言うと、瑠衣は首を振らなかった。
それだけで、十分だった。
彼女の新しい部屋は、東横線の各駅で三つ先の駅にあった。
古びたワンルーム。ドアの前で鍵を開ける彼女の手が、少しだけ震えていた。
「散らかってるけど」
「それが落ち着くんじゃん」
律は笑って、靴を脱ぎ、小さなソファに腰を下ろした。
キッチンで瑠衣が湯を沸かす。
「コーヒーでいい?」
「濃いめで」
やがて、カップがテーブルに置かれた。
ふたりはしばらく、無言でそれを飲んだ。
ブルースも、テレビも、音楽もない。沈黙だけがそこにあった。
けれど、その沈黙はなぜか、息苦しくなかった。
「……なんかね」
瑠衣がぽつりとこぼした。
「家、出てよかったって思いたいんだ」
律は答えを急がなかった。
「……思っていいだろ」
「でも、今はまだちょっと不安で。……だから、もう少しだけ、そばにいてくれる?」
その声のわずかな震えに、律は言葉を探さなかった。
ただ、彼女の肩に手を回した。
瑠衣の目元がふっと緩み、肩の力が抜けていくのがわかった。
長い間、張り詰めていたものが、ようやくほぐれたようだった。
律は、それを壊さぬように、そっと彼女を抱き寄せた。
ふたりは、唇を重ねた。
ぎこちなくて、あたたかい。少しだけ、塩味のするキスだった。
瑠衣の髪には、まだブルースバーの煙草の匂いがかすかに残っていた。
そして、その肌は──思っていたより冷たかった。
律はそっと彼女の頬を撫で、首筋に唇を寄せる。
彼女の手がシャツの裾を掴んだ。
その先に、言葉は要らなかった。
グラスの水が、ふたりの動きに合わせてゆっくりと揺れた。
それだけが唯一のBGMだった。
──そして、その静けさが、ふたりをつなぐ“ブルースのような時間”を、そっと支えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます