四十話「幸運の駆逐艦、ふたたび帰る」
昭和十八年八月二十八日、雪風は損傷した重巡洋艦熊野の護衛として、ラバウルを出港した。コロンバンガラ沖海戦やそれに続く過酷な輸送任務を耐え抜いた雪風は、再び内地の港へと帰る任務を与えられた。
操舵手である伊豆涼介少尉の手は、舵輪に固く添えられていた。荒天の南海を抜け、熊野の進路に常に気を配る。夜間には波間に姿を現す敵潜の可能性もある。だが伊豆の感覚は研ぎ澄まされ、艦の微細な動きにも応じて雪風を走らせていた。
「敵潜発見、方位三二〇、距離四千!」 「総員、戦闘配置!」
爆雷が水柱をあげ、海面に砕ける。雪風の水測員と伊豆の操艦が一体となり、潜水艦を威嚇した。浜風と連携した対潜行動により、被害は最小に抑えられ、風早への魚雷も辛うじて大事に至らなかった。
九月二日、熊野を無事に呉まで護衛し終えると、雪風は整備に入った。25mm三連装機銃の増設も施され、戦いに向けての備えがまた一つ増した。
だが、伊豆にとってはこの一時の帰還は特別な意味を持っていた。
——横浜へ帰れる。
許された短い休暇。伊豆は軍帽をかぶり、呉駅から東海道線を乗り継いで故郷・横浜へと向かった。汽車の窓からは、秋の訪れを告げる田園風景が流れていく。
久しぶりの実家。母の笑顔と、弟妹たちのにぎやかな声に迎えられた。だが伊豆の心は、ただ一人の女性に向けられていた。
「涼介さん……お帰りなさい」
洋裁店の前で待っていたのは、婚約者の由美だった。制服姿の伊豆を見つけると、涙をこらえて微笑んだ。彼女の手には、手製の小さな包みがあった。
「何だい、これは?」 「防寒用の襟巻。夜戦ばかりだと聞いたから……南の海でも、きっと冷える時があるでしょう?」
「ありがとう。……本当に、ありがとう」
二人は短い時間を、大切に過ごした。喫茶店でコーヒーを飲み、近くの丘の上を散歩する。戦時下でのささやかな幸福。だが伊豆は、はっきりと心に決めていた。
——この人の未来を、守り抜く。
その思いを胸に、伊豆は再び呉へ戻り、雪風の甲板に立った。
十月六日、雪風は空母龍鳳を護衛し、再び南洋へと出港した。航海の途中、敵潜との接触が二度あったが、伊豆の冷静な操艦と迎撃により日本艦艇に損害は無かった。
十九日、無事にシンガポールに到着すると、コバルト、ニッケル、ゴムなどの重要資源を搭載し、折返しの護衛任務に就く。十月二十五日、再び龍鳳を護衛してシンガポールを出発。海南島の三亜を経て、十一月五日、呉に帰還した。
そして十一月二日深夜、原為一大佐が率いる第二十七駆逐隊は、敵空襲の予兆を感じてラバウル湾外に退避していた。夜明け、港に爆弾が降り注ぐ中、雪風の姿は遠くの洋上にあった。
「また、運に助けられたな……」
艦橋の士官が呟く。伊豆は舵輪に手を置いたまま、遠くの空を見つめた。
——運ではなく、皆の力だ。
それが雪風を生き残らせている。
伊豆はそう信じていた。
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