カイヘイ

開閉

──コップの中に水が半分あると捉えるか、半分ないと考えるか。


 そんなのは、それこそ眼前のグラスの通り、手垢のついた話である。……ハテ、昨晩──寝る前のことだから数時間前のことだが──その際は、こんなに汚れていただろうか。

 それはともかく、水の話だ。肝要なのはグラスを前にした時にどうこう思うのではなく、その理由にまで思考が行き渡るかである。


 更に咀嚼してやるとこうだ。果たして水が加えられたのか、減らされたのか。

 もう一つオマケに云うと、これを用意したのは本当に俺なのか。


 何を言っているか、要領を得ないだろう。アルコールが抜けきっておらず、自分も把握しきれていない。これから酔いどれの問わず語りのような形で、置かれた状況を整理していく。


 日中は喧しいエンジン音も夕陽が遠くへ連れ去り、空がスッカリと射干玉ぬばたまの黒に染まる頃。寝苦しさからなのか、それとも寝付けてすらいなかったのか。どこか夢現ゆめうつつで、脳の境界さかいが曖昧なまま目が覚めた。


 あかりを点けるまでもなく、枕元をまさぐって煙草を取り、体を起こす。節々がペキリパキリと乾いた悲鳴をあげる。どうもベッドでなく、ソファで寝こけていたらしい。

 箱から取り出したライターが、部屋中をボゥっと赤くする。その火が咥えた煙草へと立ち替わり、そこでやっとタールのしっとりした煙と共に一息ついた。フーッと紫煙を吐き出す度に、微睡まどろみが遠ざかる。


 手元すら覚束ないくらがりの中、前述のグラスがテーブルの上に現れた。部屋の主の自分がそこにある故を知らないのだから、本当に突如として暗闇から出現した心地だった。


──俺は、知らない。


 昨夜は確かにグラスを使っている。夕餉ゆうげの後は熱い風呂に入り、多少値の張るウイスキーを少量だけたしなむ。それに併せて煙草を三本ばかり吸うのが最近の愉しみだった。

 これはその時に用いるグラスだ。


 だが、只今ただいまグラスに注がれているのは無色透明のナントモ味気のない水だ。色に琥珀こはくのような深みはなく、佳酒かしゅたる芳醇ほうじゅんな香りもない。

 これで瓶の中のウイスキーが同じくらい減っていれば、まったく無価値な錬金術なのだが、そうでもない。そりゃアそうだ。天使の二重取りなんてたまったモンじゃない。取り分は樽の中だけでだ。


 酒が姿を変えたのでなければ、俺が手ずから蛇口を捻って水を注いだことになるが……。それもしっくり来ない。酔い覚ましにお冷やを頂戴するほど悪酔いはしてないし、水道水をチェイサーにするほど下戸ではない。


 では、この差し水をした──あるいは半分飲んだのは何者か。酩酊めいていしていたから身に覚えがない、と云ってしまえばそれまでなのだが。自分としてはこれっぽちも腑に落ちない。水の癖に喉でつかえている。


 深呼吸の要領で煙を深く肺に入れる。苛立ちのまま人差し指で叩くと伸びた灰が落ち、眩みそうな赤々とした火が覗く。


 なんだ? この半端はなんなんだ? 何が原因でこんな半ちくな事態に陥ってるんだ?

 一つそんな尻抜けに気付くと、普段の事柄が少しずつ崩れていく。日常が積み木崩しジェンガの如く横倒しになってしまう。


──用を足す時、サッサと済ませようと注意散漫だったが、扉は開いてやいなかっただろうか。


──レールの途中で止まったカーテンの影が、歪になっていたんじゃないか。


──本棚にあんな一冊くらい収まるようなの段なんてあっただろうか。


──寝る前に押入れから布団を敷く際、襖に手を掛ける前から隙間があって、何かが覗いていなかっただろうか。


 わからない。


 襖、扉、果ては壁側の棚や冷蔵庫までもがジッと見つめてくるような据わりの悪さ。思わず目を向けずにはいられない。放っておけばいいのに、怖いからこそ、確認しなければ気が済まない。

 恐ろしいと感じながら、それを除く為には立ち向かわねばならない主客転倒の様相である。


 気のせい気の迷いと放ってはおけず、グラスに左手を伸ばす。──ヒンヤリと。今し方んだばかりのように。

 ……違う。そんな気がするだけだ。これは俺が熱を持ってるからだ。寝起きから少ししか経っていなくて、ウイスキーのお陰で馬鹿に体が火照っているせいだ。

 グラスを取った手の震えの理由ワケもわからず、飲むわけにもいかない。半分の水は行き場を失う。


 背の短くなったタバコをグラスに放り、再びテーブルへ戻す。毎夜、晩酌に付き合ってくれていたが、もうこいつを使うこともない。

 まったく得体が知れない。気味が悪いんだ、灰皿にでもなっちまえ。


 不意に、風が吹く。

 冷たい癖に纏わりつくような、嫌な風だ。

 窓が開いている? 俺はちゃんと閉めた──いや、そもそも開けていたのか?


 風の来た方を見遣みやる。そちらにあるのは、庭へと通じる高い掃き出し窓だ。

 月明かりを受けたカーテンの切れ間、斜光が静かに揺れている。やはり、この窓から吹いているらしかった。


──これが恐怖モノなら、近づいたところでワッと驚かすんだろうな。


 思ってしまったモノは仕方ない。恐怖から逃れようとするほど、脳のシナプスは活発に輝く。

 頭と腕はカーテンを開け、何らかの正体を確認しなければならない使命に燃えている。しかしながら足のヤツはと云うと、今にも逃げ出そうと後ろへ後ろへと下がっていく。

 息を殺し、上半身は前のめりに。後退する足を牽引し、すり足モドキでにじり寄る。

 自然、へっぴり腰のような情けない体でカーテンに手を掛けた。

 そのまま手前に引いて剥ぎ取ってしまいたい衝動を抑えつけ、投げつけるように開け放つ。


──あおぐろい空。炊煙すいえんは無く、人気も失せた街。鼻腔に満ちるはシンと澄んだ空気。彼方では絵筆でなぞられたように青と白の境界線が混ざりあった、そんな夜明け方。


 周囲をうかがいながら、庭先へ体を乗り出す。

 目に飛び込んで来たのは、なんてことはない綺麗な東雲しののめの空だった。


 朝明あさけの冴え冴えとした大気が、アルコールが温めた頭をフッと冷静にさせた。

 この澄み渡る空が、心にかかっていた疑心暗鬼を晴らした。砂粒ほどの光明、虫食いのようだった光がパァッと広がった心地だ。


 今ならば出来る。この中途半端な有り様に、やっとこさ終止符を打つ決心がついた。


 俺はこのへや中の隙間を──

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