第四話 ファム・ファタールの幼体
「わア、大学デビューじゃん。おねえ、全然金髪似合ってないねー」
数ヶ月ぶりに対面した妹は、憎たらしいふてぶてしさで私を見つけて手を振った。不精をしていたらしく、栗毛の頭は根本からの黒ずみが目立つ。変わらず愛らしい
「家出したあの子を、自宅に連れ込んだ男がいたらしい。今、別の部屋で取り調べを受けているってさ」
淫行男は、あの日叔父の邸宅そばを車で通りがかった五十代の派遣社員だった。自分の父親より年上の男にバスタオル一丁で保護された笑美は、警察には行かずそのまま男の家へと住み着いた。彼は年老いた母親と二人暮らしだったが、笑美を自室へ隠す形で母親には存在を伏せたまま、長いこと蜜月を維持させていたようだ。
「おうちにね、そろそろ帰りたいなーって、タダシくんに言ったの。そしたら殴られちゃった。ひどいよね」
「タダシというのはお嬢さんと生活していた例の男のことで……その喧嘩の物音で、彼の母親が笑美さんの存在に気づいて通報してくださったんです」
「いやいや、ママさんが一番ひどかったからね。タダシくんをたぶらかすバイタ?って言われたもん。バイタってバカ女の意味のむずかしいことばでしょ、なんとなくわかるよ」
妹は、自分が誘拐・監禁・暴行の三重苦を浴びせられた当事者である自覚が欠落しているようで、この通り他人事でへらへらと事情聴取に応じている。私は叔父さんの背広の裾をギュッと掴んで寄り添った。こんな軽率な女のために、この人の人生をぶち壊されてたまるか。私に走る緊迫など知ったことかと、笑美は何をぶちまけるかわかったものではない唇で、あれやこれやとおしゃべりを続ける。
「ねえ刑事さん、タダシくん捕まっちゃうの? いい人だったよ、ずーっとここに居ていいって言ってくれたし」
「笑美さん、貴方はね、大人から一方的に搾取されていた被害者なんです。自覚させるのは、貴方の傷になるやもしれませんが……」
「いやいや、私から押しかけたんだってー! ぜんぜん、怒ってないからって伝えてください。誰に? えーと、えらい人に?」
まあ、よくある家出娘と、それに宿を貸していい思いもした成人男性の、未成年掠取に該当する爛れた生活。笑美はことの重大さが理解できていないようだった。刑事さんが片眉をあげてこちらを見るのを、叔父と揃って低く低く頭を下げてやり過ごした。
「ほんとう、優しかったんだよー。おせちも食べさせてくれた。大切にしてるファミコンも触らせてくれた。邪魔って言ったら、ベッドを捨てて床で寝てくれた。殴られたのは、私が怒らせること言ったからだし」
「……チ」
「叔父さん?」
淫行男を庇い立てる笑美の供述に、一人顔を顰める叔父の顔色の悪さに、私だけは気づいてあげられていたと思う。
◆
妹を引き取り、住み慣れた我が家に戻る頃にはとっくに丑三つを超えて黎明だった。埃を被って久しい妹のベッドからシーツを剥ぎ取り、新しいものに換えてやる。この手足に血の巡りが悪い気がするのは、換気のための寒さのせいではない。ようやく掴んだ黄金の幸福が、指の隙間から溢れる感覚。私は怖かった。血を分けた妹が、生きて帰ってきてくれたというのに。
「笑美ちゃんは?」
「すぐに寝たよ。お風呂も入らないで。ヘラヘラしてたけど、なんだかんだ疲れてたみたい」
「直美ちゃんも、寝た方がいい。飲み会明けにこの騒ぎだろ」
「あれ嘘。本当は車の中で時間潰しに寝てただけ。叔父さんに構ってほしかったの、ごめんなさい」
「……そう」
叔父さんこそ、寝た方がいい顔色だ。けど、今の彼にはらしくもなく持ち出したウイスキーの瓶を速いペースで空けることが優先されて然るらしい。据わった目つきでソファーに深く腰掛ける、彼の隣へ、私もそっと腰を下ろした。
「………………なんで、笑美を殴ったの?」
「…………なんでだろうね、ムカついたからとしか言えないよ」
今日まで突けなかった核心は、彼らしくもなく理屈や理性からかけ離れて曖昧なものだった。ロックグラスの大きな氷に、疲れた面差しがうすぼんやりと映り込む。
「姉さんがね、亡くなる少し前に、僕に電話をくれたことがあった。笑美ちゃんの話だ」
『――あの子を心から愛しているのに、日によって殺したくなる。けど包丁を背に笑美の顔を見ると、この子が私のもとに舞い降りた天使ちゃんだと思い出して、気の迷いだったとわかるの。そうして懺悔しながらあの子を抱きしめると、また脈絡もなく殴りたくなる』
「……お母さんが、そんな」
「ノイローゼだと思った。あの子が小さい頃から医療費のために共働きの働き詰めで、看病にまで追われていた。義兄さんに隠れて、うちに何度もお金の無心に来たりもしてたくらいだから」
それでも、彼女に頼られて嬉しかったと、叔父は氷をじっと見つめる。
「笑美ちゃんが世話になってたお医者の、宮本先生ってわかるかい? ひげの立派なおじさん」
「薄ぼんやりとは……だって中学の時の主治医さんは違う人だったはず……異動したの?」
「あの人ね、子供へのいたずらでトバされたんだよ。被害者は笑美ちゃんだった。あの子が小六の時だったかな」
ギョッとする。私が受験を前に自習室で勉強漬けだったあの時期に、そんなことが? まったくの寝耳に水だ。
「大問題になったけど、病院にも面子があるから。結構な額の示談金が提示されて、内々に処理されたんだ。だからね、ある時期から小林家の家計にはそれなりの余裕ができていた。姉さんは、何をノイローゼになったんだろう」
「……その隠蔽と、娘の性被害に心を痛めたとか?」
「うん、その可能性もあった。けど僕には、もっと具体的な心当たりがある。……更に遡るけど、あの子が宮本先生からいたずらを受ける一年ほど前のことだ」
叔父の話ではその時期に、私でなくて珍しく笑美の方を預かることがあったらしい。熱を出したあの子を、どうしても仕事で抜けられない両親の代わりに、と。私は学校に行っていたから留守で、日中を二人きりで過ごした。
「正直僕は、初めからあの子が苦手だった。あの子のことで姉さんが疲弊していくのを見てきたからね。仕方のないことだとしても、好意というのは持てなかった」
「……」
「それでも精一杯に子守りを頑張ろうとしたさ。メロンの形のカップアイスに、カラースプレー、桃のゼリー……色々買い込んで、熱の様子を見ながら食べさせようとした。そしたらね、平然と起きて自分で食べ始めたんだよ」
熱が下がってよかったと、叔父はあの子の頭を撫でてやった。あまり関わりのなかった大人の出現に、笑美は興味を持ったのだろう。そこから叔父にあれこれとおねだりをぶつけて、わがまま放題だったという。
『ねえヤスタカくん、よろしくねヤスタカくん、あれとってヤスタカくん、おもしろいことやってよ、ヤスタカくん』
「あの子を送り届けたのは義兄さんだった。僕を康孝くんなんて呼ぶのは、義兄さんくらいだったから、たぶん車の中で名を教わったんだろう」
『ヤスタカくん、ヤスタカくん、だっこして、肩車して、おねが〜い』
「小五にしたって、随分幼稚な子だと思った。それまで、僕が深く関わりを持った子供は直美ちゃんだけだったから。賢く、聞き分けのいい君を基準にしたら、あれはどうにも程度が低すぎた。僕は、苛立ちを覚える度に自分が家庭人に向かないことを再認識したよ」
そうして、叔父は慣れない悪童の保育に音をあげて、笑美を一言嗜めたそうだ。
『笑美ちゃん、年上の人を気安く呼ぶのは、失礼にあたるんだ。ヤスタカくん、じゃなくて、叔父さんと呼んでほしいな』
『なんで? イヤなの? パパはそう呼んでるのに。パパはいいの?』
『……良いなんて言ったことないけど、あの人が勝手にそう呼んでるだけだ。だから、そもそも君たちに名前で呼ばれたくない』
叔父は、うちの父とあまり折り合いがよくなかった。
「そしたらね、笑美ちゃん、目をくわっと見開いて」
『そっか、そうか、こうすればいいのか――嫌われるって』
妹は、そうして悪戯を思いついた子供の顔でくつくつ肩を震わせて、その後は迎えが来るまで大人しく布団を被っていたらしい。回想を語り終えた叔父の手元で、ロックグラスがカランと清涼な音色を奏でる。
「ちょっと話が飛ぶけれど。思うにあの子は、『愛される』ってことに天賦の才がある。顔立ちが可愛いなんて、単純なモテの話じゃないよ。仕草とか、態度とか、そこに無意識の計算が抜群に働いている」
「そう、言われたら、あの子は誰からも可愛がられて好かれてたように思うけど……そこまで? 私は、あの子を必要以上に愛おしく思ったことなんかない」
「それは、たぶん二人が姉妹だからだ。僕がある理由で効きが悪かったのもそうで、近すぎると効きがイマイチ翳るんだろう。ただ、君たちの両親はてきめんに魅了されてしまった。第一子の時から人が変わったように、第二子に手をかけるあの人たちの姿は、側から見ていて薄ら不気味に思えた」
深夜に叩き起こされても、真っ黒な目元で嫌な顔ひとつせず、妹を赤ちゃん抱っこで揺する母の姿を思い出す。小学生、中学生になっても変わらないあの溺愛。献身を惜しまない慈愛深き親なのだと思ったし、私は、そんな母の負担にならないよう一人寝の達人を目指したから、異常だと言われるまでその不全には気づかなかった。
「あの子が長年苦しめられた持病だけど、直美ちゃんは病名知ってる?」
「知らない……」
「原因不明、だよ。だって発作を起こすたびに熱だ、咳だ、蕁麻疹だと主訴がコロコロ変わる始末なんだ。宮本先生も首を傾げていたよ。ああやっぱり君は彼女に特別、無関心でいられるらしいね。それは笑美ちゃんにとって、興味を惹く唯一性だったのだろうなぁ……」
叔父はブツブツと、後半ほとんど独り言で考えをまとめている。
「これは憶測だけど、あの大騒ぎの病弱芸も、笑美ちゃんの『愛され』の才能の一環なんじゃないか」
「仮病だったってこと!?」
「いや、実際高熱は命に関わるところまで行ったし、宮本先生だってヤブ医者ではない。ロリコンではあったけど。だからまあ、『それ』を任意で起こせるのが、あの子の特技だったってことだろう」
自分の意思で高熱を出すなんてこと、果たして人間に可能なのだろうか? その魅惑の特異体質が罷り通れば、子供はみんなズル休みがし放題になるではないか。……ああ、だから愛されの才能なのか。甘やかされて、特別扱いされる、風邪を引いた時だけ辿り着ける平日午前のお布団は、確かに異世界の魅力を持っている。
「そして彼女は、生まれつき行使できた『愛される』という特殊能力に、いつしか物足りなさを覚えた。我々が二足歩行できるのは当たり前のことすぎて、特別な力だとは思えないだろ? あの子はあの子なりに、思春期につきものの自己実現を欲した。それは、まばたきくらい当たり前の『特技』では埋められなかった」
「……それが、誰かからわざと嫌われることですって?」
「たぶんね。好きも嫌いも対象へ注がれる情で、方向は真逆でも、分野としては似たものだ。そうしてコツを掴んだ彼女は嫌われることにおいても抜群に女優だった」
叔父の話はそのまま、元主治医の宮本先生の豹変や、お母さんのノイローゼへの言及に進んだけど、私はそのどっちにだって興味はなかった。やっとわかった。優しい叔父があの子の前では人が変わる理由が。よかった、やっぱり叔父さんはなんにも悪くないじゃない。
「あのタダシとかいう男も、手玉に取られて入れ上げた挙句、いいように使われた。内に篭りたければ大事にしたくなるよう魅了して、外に出たければ、蠱惑するベクトルを嫌悪に逆転させるだけ。あの子にとっては朝飯前だ」
叔父の納得は、荒唐無稽な仮説すらも実体験の重みで確たるものとなっていた。
「愛を欲しいままにして、憎悪を掻き立てて、笑美ちゃんは多くの人間から否応なくそれらを搾り取った。自律できない感情の暴走に心を病む人も少なくなかった。宮本先生は医療職を辞したらしいし、姉さんは……」
随分薄まった琥珀の液体を、叔父は勢いよく喉へと流し込む。
「叔父さんも、あの子に毒されたんだね。言ってくれればよかったのに」
「言えるかよ。まあ、君に対しては誠実であろうと……いや、今思えば君にだけ朗らかに接してるのも十分怖かったな。あの子と居ると、そのあたりの判断力まで鈍り出す……」
「煙草も、あの子のせいでストレス溜まって吸ったの? 叔父さんが喫煙者なんて全然知らなかった」
「……あれをやったのは、たぶん、姉さん」
『あれ』が笑美のうなじと前髪の下に醜く引き攣れた丸やけどのことを指すと、文脈を理解するのに数秒かかった。だって、私を動物園へ連れて行くって約束も、誕生日のケーキも、全部笑美の看病を優先して反故にしたような、あの子のために生きる女だったのに。それも、『あれ』も、笑美自身の洗脳による人形繰りだったというなら、私は母の何を知っていたことになるのだろう。
「けど、直美ちゃんはあの子のコントロールを受け付けないらしいね。僕は彼女を好きにはならなかったけど、嫌いのタネを拾われて、大きく育てられてしまったから、あんな形で己を失った。けれど君はまるでそんな気配もない」
「ううん、鞄を投げつけたくなったことも、シャワーで殴っちゃったこともあるよ」
「それはいつも? その二回だけ?」
「二回だけ……」
「なら普通の姉妹喧嘩の範囲だ。君はあのふざけた魅了に耐性がある」
その二回は、どちらも叔父さん関係で煽られての激昂だったとはひとまず伏せておく。
「僕の目からは、笑美ちゃん、よく怒らずにいられるなって思うことを君に対して山ほどやらかしてたよ」
「? 例えば?」
「朝から洗面所を占領してダラダラ髪をいじってるとか、玄関で君の靴を踏んづけて家に上がったとか、笑い方がカンに障るとか、なんでも」
「……それくらいでいちいち怒ってもだし、一応目についたら注意はしてるよ?」
「『それくらい』で他者にときめきも激怒も引き起こせるのがあの娘なんだよ……僕だって、あんな細かなことでキレる自分が抑えられないのが怖かったさ」
なんだか泣きたくなった。全知全能に思えた叔父が、卑しく小さなか弱きものに思えてしまって。同時に込み上げる、怒り。私のかっこいい叔父さんをこうも苦しめる、憎きあの女に向けての、混じり気のない殺意だった。
「ああ……笑美なんて、帰ってこなけりゃよかったのよ……!」
「……っ」
「叔父さん?」
酔いが回ったのだろうか、叔父さんは追加でお酒を作ろうと手を伸ばした先で、アイスペールを取り落としてしまった。テーブルに散らばる氷など意にも介さず、彼は、心配する私を幽霊でも見たような顔で凝視して――しばらく硬直していた。
「ちょっと、大丈夫? もう今日はお酒やめた方が……」
「……平気だ。ごめん、ちょっと水を取ってくる」
はっとして叔父は、グラスに残ったちょっぴりだけの琥珀を飲み干し、キッチンへと離席する。戻ってきた彼の手にはお水ではなく、黒革の小さなポーチ。
「これ、君の名義の通帳と実印。ご両親の保険金の全額と、僕からのおこづかいを入金しておいた。これからも、僕の命ある限りは定期的な送金を欠かさないつもりだ」
「ちょっと、何、急に」
「わからないかい。これからうちにはまた、あの悪魔が棲みつくんだよ」
叔父の声は切羽詰まっていた。この深酒は、その悲壮な未来を受け止めるための最後の晩餐と知る。
「きっと僕は、近い将来あの子を殺す。衝動で――けれどなるべく苦しむように心を尽くして。そうなる前に、君だけでも逃げなさい」
「嫌……嫌!! 逃げるって言うなら、二人で逃げよう!? これだけのお金があったら、やっていけるよ! 私、大学辞めて働く……叔父さんの娘にでも奥さんにでもなる! だから、私だけ蚊帳の外にしないで、お願い……」
「無理だよ。あれはどうやら、この家が気に入ったみたいだから」
住処を移ろうと、隠れ住もうと、きっとお得意の人心掌握術で人力の波に送られて、笑美はどこからともなく追いついてくるのだろう。
「第一僕は、君に俯いて裏通りを歩くような人生を送ってほしくない。君は、恐ろしい凶悪犯の井狩康孝とは無関係の女性として、お天道様のもとでしっかり胸を張って生きていくんだ。君の人生に影を落とさぬよう、あの魔女はちゃんと僕が道連れにするから……」
「馬鹿、叔父さんの馬鹿……! そんなの嬉しくない、わたしは、あなたと一緒がいいの……!!」
「決心がついたら、いつでも出ていっていい。アパートの手筈も、僕のツテに探してもらっておく」
叔父の決意は巌の如きそれで、小娘が泣き喚いたところで傷ひとつ入らない。私は、くしゃくしゃのワイシャツに縋り付いて崩れ折れるしかできなかった。
「これ以降、僕の言葉は正気のそれだと思わないでくれ。愛しているよ、直美ちゃん。この一年、色々あったけれど……嘘でも君の父親になれた気がして、僕は本当に誇らしかった」
おとうさん、と、呼んでやることもできず、私はただただ叔父のズボンに染みをつけて泣きじゃくり続けた。
◆
一階の天井が揺れるくらいの大喧嘩。泣き叫ぶ声は階下にまでよく響く。笑美の帰還後、警察の経過観察が終わって程なく、叔父はまた人が変わって暴力を振るうようになった。
『……!! 、!!! …!!』
『ゔぁあ、や、…む、あ゛ーー!!』
私は逃げなかった。叔父からは新居の提供も受けたけど、鍵は受け取るだけにして一度だって見に行っていない。今も、厳ついヘッドホンで音を殺しながら、春休み期間の提出課題を黙々と仕上げている。
『あ゛、あ゛、あ゛、あ゛』
ぎっぎっと、等間隔で揺れを受け止める柱。また馬乗りで殴りつけられているのだろうか。……余計な邪推が一瞬過ぎって、掻き消そうと好きでもないヘビメタのボリュームを上げる。
「やあ小林後輩、あの既婚者くんとはスッパリ縁切れたかい? あん? 彼が他の女に暴力を? そいつはヤベー、手を引いて正解だったでしょ。ドメバ野郎って、外面だけはいいもんなんだよ。円の内側に入らずに済んでよかったね」
学内ですれ違った橋田もそんなふうに揶揄をした。違う。叔父さんは、私を大事に想って遠ざけてくれたのだ。離れていても繋がっている、この尊い絆がわからないのか。
『死ね……さん…、僕なら……か……!!』
『いぎゃああああっ!!』
頭にのし掛かるドス黒いもや。彼は、私が安心して暮らせるよう、己が社会生命に代えてもあの女を道連れにすると宣言した。それを泣いて止めても、頑なに聞き入れてもらえなかった。対して、あの女はどうだ。叔父の意志をコントロールして、否応なく破滅へ向かわせている。……あの子にあって、私にない特技とやらが、そんなに違うのか。
「叔父さん、お風呂、追い焚きしておいたから」
「……、ああ」
生臭い、血と汗の生き物臭。おしっこの臭いもするかな。あの子、また漏らしたのかもしれない。一番風呂を余儀なくされた私から漂う、ホワイトムスクの芳香と匂いが交わらない。二人は、まるで別の世界の住人に思えた。
「ねえ、叔父さん――康孝さん」
「……」
湯上がりの、うっすら寒いのを我慢して。湯気の立つ手脚を剥き出しにしたまま、肩紐を吊るしただけのネグリジェ姿で彼の背に擦り寄る。
「……いいんだよ。私なら、全部受け止めてあげられる」
「…………髪、黒に戻したんだね」
「え、ああ……うん」
「よかった。そっちの方が、いい子の直美ちゃんには似合ってるよ」
向いてない不良ごっこは彼を悲しませるだけで、あばずれの真似事も、この通り空振りだった。愛されるとか、憎まれるとか、笑美はなんでそんなに簡単に手に入れられるの。愚鈍な私では、どうやったって彼を振り向かせることができない。
『が、あ、うおっ、がはっ』
ぎし、ぎし、また家が鳴る。幼い私の冒険が詰まった愛しき屋根裏へ繋がる天空の階段が、疑心と暗鬼と昏い嫉妬でで阻まれる。私に指一本触れてくれない男が唱えた、あの家族愛を矜持として十字を切るには、生憎この胸は信心の不足を訴えていた。
〈続〉
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