西の森の賢者

紅月蔵人

西の森の賢者

それは、一つの悲劇とも言えた。



◆◇◆


騎士は今にも倒れそうだった。目の前がかすむ。



「水……。」



どうも道に迷ったらしい。深い森に、そのかすかな呟きも吸い込まれていく。


怪我した馬を捨てて二日。

食べ物はおろか、水すら口にしていない。


森には泉があるはずなのに、同じところをぐるぐると回るだけでいつまでも見つけられないで居た。

ふらつく足をぴしゃりと打って、なんとか道を探そうと進んでいた。その時。



空耳……? 声が聞こえる。


楽しそうな女性の笑い声。

わずかな希望を托して騎士は歩いた。



「こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。

この書を必ず、王に届けなければ……。」



うっそうと茂る木々が太陽を隠し、方向を見失う。

が、騎士は声を頼りに懸命に進んだ。


もう、なにも聞こえない。

やはり空耳か……。



諦めかけたその時、女性が誰かに呼びかける小さな声が聞こえた。


……姫……!



やはり、誰か、居る。

最後の力で騎士は走った。

木々をわけ、声のしたほうに走ると、やがて水音が耳に入った。


騎士は見た。


きらめく川面。

美しい衣装をまとった姫君の姿。


川面よりまぶしく輝くブロンドの髪と、すけるような白い肌。

健康そうな薔薇色の唇。まだ少女のあどけなさを残す姫君の笑顔……。

かすむ目に、その姿はしっかりと焼き付いた。


遠のく意識の向こう側に女性たちの悲鳴が聞こえた。




目を覚ますと、そこは柔らかなベッドの上だった。

驚いて飛び起き、あたりを見回す。



「ここは……どこだ……。」



豪華ではないが、よく手入れのされた部屋。白い壁にはシミひとつない。

窓にかけられたカーテンは木綿のようだったが、

美しいドレープをつけて落ち着いた雰囲気をかもし出している。


ベッドサイドに置かれた台の上に、水差しと杯がある。

豪華な装飾がされているわけではないが、どうやら外国製のもののようだ。

それを見ると、唐突に喉の乾きを思い出した。


そうするともう我慢ができない。

騎士は震える手で水差しを持ち、もう片方の手で杯を持って水を入れようとした。

が、手の震えがひどく、うまく杯に入らない。

ガチャガチャと大きな音を立て、水を周りに撒き散らすようにこぼしながら

何度も、何度も水を杯に受けて喉を鳴らす。



「あら、お目覚めでしたのね。」



夢中になって、人の気配に気付いていなかった。

扉の側にはメイドらしき女性が、水瓶を持って少し驚いた様子で立っていた。



「お召し物は濡れませんでした?すぐに拭くものをお持ちしますね。」

「あの……ここはどこでしょう?」



はしたない姿を見られたバツの悪さに、騎士はうつむきながら彼女に問う。

彼女はふふと小さく笑い声をたてながらも、朗らかに答える。



「ここはシア国ですわ。あなたはトーキ国の騎士様ですわね。

鎧の紋章で、そうお見受けしました。

あなたは森で倒れられて保護されましたのよ。

王様から、あなたを十分におもてなしするよう仰せつかっております。

すぐに用意いたしますので、ひとまずお食事なさってくださいな。」



すると、ここはシア王宮。城の作りはトーキにくらべれば質素だ。

しかし、こうしたメイドでさえも上品で、教育が行き届いている。

貧しいが気品にあふれた国なのだろう。



「あっ、あの!私の持っていた書簡は……?」



それへ、メイドはにっこりと微笑む。



「ご心配なさらないで。

あなたの剣も鎧も、もちろん書簡もちゃんと保管してございます。

お食事なさって元気になられたらお返ししますわ。

その前に王様にご挨拶なさってね。」



彼女はベッド脇の水差しに水を注ぎ足し、一礼してから扉を出て行った。



騎士はベッドに腰をかけ、ゆっくり考える。

ここがシアだとすると、馬を失ってからまったくの反対方向に進んでいたことになる。



これほどまでに時間を無駄にしたのは自分の責任だ。

重要な仕事を任されていたというのに……。

戻れば騎士の地位ははく奪されるに違いない。

もしかすると、最悪の場合は打ち首!



背筋がゾッとする。どうすれば良いだろう。


このまま他の国に逃げるか……いや、それは騎士のプライドが許さない。

ましてこの書簡を届けなければ、トーキは戦を仕掛けるかもしれない。

友好条約を打診する書簡……相手国からの返事を持ったまま、

自分は迷ってしまった。できるだけ早く戻らねば……。

 


「お待たせしました。着替えとお食事をお持ちしましたよ。

さあ、ゆっくり召し上がれ!……あら、ごめんなさい……?

考え事の邪魔でしたかしら?」


 

驚いて目を上げると、さきほどのメイドがワゴンいっぱいの食事を運んできていた。

温かい湯気に、良い香りがただよう。

騎士は自分の空腹を激しく思い出した。



「本当に申し訳ございません。この恩は一生忘れません。」



 たっぷりと食事をいただいたあと、騎士は丁寧な礼を述べる。

メイドはまた、柔らかな笑みを返した。



「お礼なら王様におっしゃって。

私は王様のご命令でおもてなしさしあげただけですわ。

ちょうど良い具合に王様もご公務を終わられた頃合です。

案内さしあげますからおいでになって。」


 

騎士は広間に通される。

赤いじゅうたんにひざまづき、シア国王のお出ましを待つ間、ずっと考えていた。

 


このまま国に帰ったら、自分はどうなるのだろう。

罰を受けるより、シア国王に嘆願して亡命したほうが良くはないか。


いや、それでは自分を信じて重要な仕事を任せてくれたトーキ国王を裏切ることになる。

それならなにか、トーキ国王に有益なものを

持ち帰るより他に手はない……。



シア国王が姿を現わす。

騎士は勇気を出して、言った。


 

「このご恩はトーキに戻り、国王に報告いたします。

まことに申し訳ございませんが、早馬を一頭、お貸しください。」



騎士は借りた馬で懸命に駈けた。

己の首をつなぐには、もうこれしかない……。

 



◆◇◆

「無事でなによりじゃ。

しかし、これほど遅れたのじゃから覚悟はできておろうな。」



トーキ国王は厳しく騎士を見つめる。騎士はゴクリとなまつばを飲んだ。



「まことに申し訳ございません。

道に迷い、シア国に世話になりました。そこで……。」



言わなければ、命が危うい。トーキ国王は眉をピクリと動かした。



「とても美しい姫君をお見かけいたしました。

年の頃は十五、六。

王子とお似合いになるかと存じます。

シアは貧しいながらも広大な領地を持つ国。

まことに僭越ながら、婚姻にて友好条約を結ぶのも悪くはないと存じます。」



大臣たちが、ざわとさざめく。

たかが騎士の分際で陛下に意見するとは生意気な、と息巻く声もあった。



「まあ、待て。」



王がそれを制した。王が興味を示さなければ、騎士の命はないに等しい。

騎士の額に冷や汗が伝う。



「どのような姫であった?」



騎士は顔をあげる。王の目は興味に輝いていた。


 

「はっ。金色の長い髪にま白き肌、美しい薔薇色の唇に大きな瞳が印象的な、

健康そうな姫君にございます。」



ふむ、と王はひげをなでる。しばらくの無言の後、王は言った。



「そちの処分は追って沙汰する。自室にて待つように。」



ほんの少しの間、首はつながった。騎士は胸をなでおろし、自室へと下がった。



◆◇◆

「姫君?シアの?」



若い王子はすっとんきょうに聞き返した。王の、年老いてからの一粒種。

多少奔放に、しかし素直に優しく育った王子だ。

年嵩の女官が王子の前に食事のセッティングを済ませ、うやうやしく頭を垂れる。


王子の前には冷めた料理が並ぶ。

内心「またか」と思った。


王子の食事は3人の毒見を経て出される。

そして、王子の前に出てくるときには、料理がすっかり冷めているのだ。


王族なのだ。それは仕方がない。

しかし、街に様子見に出かけた時に屋台で売られている焼き立ての肉や野菜を見ると、

一度は行儀悪く頬張って食べてみたいと思うことはあった。


料理を見つめた後、頭を下げたままの女官を見て本題を思い出した。

そう。シアの姫だ。

女官に話の続きを促した。



「騎士の言うには、たいそうお美しいお方だとか。

シア国王は姫君を表に出されておりませんが、

お美しいゆえに大事になさっておられるのでしょうね。」



王子は少し考える。

王にとっては王子の婚姻など、国を繁栄させるだけの手段に過ぎない。

それならば相手は美しいほうが良いに決まっている。



「もし婚姻すれば、どうなる?」



女官は少し戸惑いながら、そしてしばらく考えて答える。



「私は難しいことは判りませんが……

婚姻をされればシアとの友好条約が結ばれることになるでしょう。

ただ、シアはトーキより位の低い国。

事実上、シアはトーキの従属国になると思われます。」



「つまりは姫は人質ってわけか……。」



それでも、美しい姫なら慈しんであげられる。

幸い、トーキは豊かな国だ。

名産の宝石は文字通り売るほどある。

女性なら宝石で身を飾るのは好きだろう。

充分に幸せにしてあげられる。王子はそう確信した。


 

「よし、じゃあそれで話を進めてくれ。」


 

かくして騎士の首はつながり、トーキ国からシア国へ、騎士を含む友好大使の一団が送られることとなった。



◆◇◆

「ひっ、姫をご所望とな?」

 


シア国王は焦ってトーキ大臣に聞き返す。


 

「さようにございます。王子が乗り気になっておられますゆえ、

ぜひともシア王女をトーキにお興入れさせいただきますよう。

むろん、この婚姻はシア国にとっても悪い話ではございません。」


 

いや、しかし、とシア国王は言葉をにごした。



「恐れながらシア国王は、トーキに姫君をさしあげるのが惜しいと、

そうおっしゃいますか?」


「そ、そんな!めっそうもない!」


 

シア国王は声をあげる。そして、考えこんだ。


確かにこの話は悪くない。

トーキ国王からの文書には、婚姻による友好条約の確約が記されている。

むろん経済的支援も約束され、シアの国は格段に富むだろう。

しかし……。



「王子のお人柄を心配めさるか?

確かに王子はなに不自由なくお育ちになられて多少奔放なところは

あらせられますが、気は優しく、なにより思慮深い方でいらっしゃいます。」



大臣の言葉に嘘はない。近隣の国にはトーキ王子の評判が知れ渡っている。

まだ若いが努力家で国民の言葉をよく聞き、王になっても良い政治をするだろうとの噂。



「しかし……。」



シア国王の心配はそれではない。

だが、こんなに望まれて、それを言い出すことができなくなった。


なによりシア国の繁栄。

それこそが国王として望まなければならない事ではないか……。


姫に、他に良い話があるわけでもない。

いや、このチャンスを逃したら、こんな良い条件の縁談はもう一生ないかもしれない。

引っ込み思案で臆病な姫の性格は、もう変わることはないかもしれないのだ。



シア国王は無言のままうなずいた。これが最善の選択だと信じて。




◆◇◆

騎士の早馬が駆け抜ける。

シアからの良い報せを持って。


シア国王の承諾が得られた。

王子も喜んでくれるはずと、騎士は懸命に駆けた。


この一報はトーキ国を湧かせた。

国をあげての祝い事として、国民すべてが明るい笑みを浮かべる。

街中の人々は、信頼する王子にふさわしい姫であるよう願い、さまざまな噂が飛び交った。


 

「シア姫はたいそう美しいお方だそうな。」

「聞いたさ!王子にふさわしいお方だろうな。」

「あの王子のお相手だ。賢く優雅な方に違いない。」

「きっとお似合いなんだろうな。」

「明るい方だと良いな。」

 


他愛のない噂。

それが、悲劇を引き起こすきっかけになろうとは、まだ誰も知らずに居た。

 



◆◇◆

その日は晴天だった。トーキの人々は、それを神の祝福と受け取った。

城下町の人々は沿道にあふれ出し、警備の兵士たちが懸命に彼らを道に押し戻す。

街がこんなにぎわいを見せるのも久しぶりだ。

 

大通り。ここに、シアからやって来る姫君の馬車が通るはず。

それを一目見ようと、朝から人々がくり出したのだ。


 

「いったいいつ頃おいでになるのかね。」

「姫君ともなれば、さぞ立派な馬車でおいでになるんだろうね。」


 

女たちは集まり、噂話に興じる。

男たちは早々と酒を酌み交わし、子供たちは両国の旗を振って走り回った。



しかし、太陽がてっぺんまで昇っても馬車は現れなかった。

大通りにはすでに数十人の酔っ払いが寝転がろうとしている。

女たちはだらしない亭主を叩き起こし、昼食の用意に、家路についた。

通りに残ったのは、まだ飲み足りない男たちと子供だけ。

しかし、昼食を取り終えた人々が通りに戻っても、まだ馬車は通らなかった。



「事故でもあったのだろうか……。」

 

人々の間に不安がよぎる。

それは警備の兵士にも、もちろん城で待つ王子たちにも波及した。



◆◇◆

「遅すぎる!なにか連絡はないのか?」


王子がほんの少々の苛立ちを見せながら膝を打つ。 

騎士は王子の側に控え、不安を覚えていた。



あの半ば脅迫めいた交渉にシア国王が気を悪くしたのではないか、と。

そのことは王子には知らせていない。

大臣が己の保身のために騎士に口止めしたのだ。

 


辺りはすでに日が落ち、大通りに集う人々もまばらになった。

城内に用意されていた盛大な歓迎の料理もすっかり冷え、誰もがあきらめかけた、その時。


 

大通りに一台の馬車が通った。とても小さな、地味な色合いの目立たない馬車が。

闇にまぎれて、目では馬車だと気付くものも少なかった。

ただ馬の駆ける音だけでそれだと判断できる、そういう馬車だった。


 

その馬車にひっそりと、姫は信頼できる女官をたった一人だけ伴って乗っていた。

なにも話さず、ずっとうつむいたままで……。



◆◇◆

「シア姫のお着きでございます!」

 

城内にその声が響いたのは夜半過ぎてからだった。

王と王子は喜びに瞳を輝かせ、大臣と騎士は胸をなでおろした。

そして、うやうやしく大広間に通されたのは、女官のただ一人であった。



「恐れながら……姫は長旅のお疲れでお具合を悪うなさいました。

誠に申し訳ございませんが、今宵はご挨拶をご容赦願いたいと申しております。」



「良いでしょう。ゆっくりと旅の疲れを癒されるよう望みます。誰か。姫を案内申せ。」

 


王子の言葉を、女官はさえぎった。



「恐れながら王子様、私が姫君のお世話をさせていただきとうございます。

私は姫の乳きょうだい。生まれた時からずっと一緒で気心も知れておりますゆえ。」


 

若く、美しい女官は毅然とそう言った。王子は軽く微笑み、答える。

 


「よろしい。見知らぬ国に来られてさぞ心細いことでしょう。

城のものは自由に使ってかまいません。

姫にとって心地良いように、尽力を頼みますよ。」


 

女官は一礼し、姫の元に駈けてゆく。

与えられた部屋に、姫をゆっくりと誘った。


 

「姫……王子はとても良い方に見えます。きっと、このまま……」

「言わないで。なにも言わないで。」



姫は小さく呟いた。黒く長いベールを深くかぶり直し、うつむいたままで部屋に進む。


 

「あなたが居てくれたらそれでいいの。一人でも寂しくない。だから、なにも言わないで。」


 そして、部屋の扉が重く閉じられた。



◆◇◆

「話が違うではないか。」



王子の言葉が苛立ちを隠しきれず、大臣を責める。

温厚な王子はめったに怒ることはなかったが、今回は我慢の限界を超えていた。


さきほどから、大臣は「あの、その」とか、「それは判りかねます」とか、王子の求めていない言葉しか言わない。

さすがの王子も焦れて、目の前のテーブルをバン!と叩いた。


 

「いや、しかし、女性には予想以上に辛い旅だったのかもしれませぬ。

決してそのようなことはないと存じますが……」


 

苦しい言い訳も通用しない。

もう一週間も、姫は床に臥せっているのだ。


 

「若くて健康な姫、という話だった!」

「しかし王子!見知らぬ国に来られては体調も悪くなると言うもの。もう少し……」

「この国が気に入らぬと申すか!」



火に油を注いでしまった大臣は恐れおののき、慌てて椅子から転げ落ちるように広間にひれ伏した。


 

「誰か!様子を見て参れ!」



◆◇◆

姫付きになるはずだった女官達が呼ばれ、廊下を一団になって進む。

誰からともなく、不平が口に出た。



「だいたい生意気よね。国から連れて来た女官だけしか部屋にも入れないんだから。」

「そうよ。私達をなんだと思ってるのかしら。」

「望まれて来たからって、お高くとまってるんじゃないの。ワガママよね。」

「挙げ句に病気でしょ。トーキを馬鹿にしてるのかしらね。」


 

ふだんはおしとやかにしている女官も、女ばかりになれば喧しい。

姫の部屋は後宮にある。ここには王族以外は女性しか立ち入れないのだ。


 

「外に連れ出して、お散歩でもすれば気分が良くなるわ。

これ以上王子をお待たせするのはお気の毒ですもの。今日こそは私達、頑張りましょう。」


女官の一人がそう言うと、他の者たちもうなづいた。



姫君の部屋の前で、一団は立ち止まる。

媚びを売るような猫撫で声で、一人が中に話し掛けた。

 

「ねえ?良いお天気ですわよ。私達と一緒に、お庭でも拝見しませんこと?」


続いて口々に、つとめて明るく、そして優しく話し掛ける。

 

「おいしいお菓子がございますの。中庭でお茶になさいません?」

「先日、フォア国から珍しい動物が献上されましたの。ふわふわしていて、

とても可愛らしいんですわ。姫も御覧になるわよね?」

 


中からは返事はおろか、物音一つしない。それでも根気よく話し掛け続ける。



「外の空気をお吸いになったら気分も良くなられるんじゃなくて?ねえ?

お付きの方も、姫にそうおっしゃってよ。」

 


なんの反応もない。一人が困って懇願した。

 


「聞いていらっしゃる?このままでは私達、とても困るの。

王子は辛抱強い方だけど、もう一週間ですわよ。

せめて一度だけでもご挨拶なさっていただかないと、私達が叱られてしまうの。」


「そうですわ。未来の王妃になられる方が、いつまでも王子とお会いにならないなんておかしいじゃありませんの。」


「ドレスもたくさんご用意してありますの。袖を通していただかないとサイズも合わせられませんわ。」


「ご病気なのは仕方ないけど、王子の気持ちも考えてくださらないと!王子がお可哀想だわ!」



つい、感情のままに声が高くなる。他の者がその声を制した。


 

「とにかく、王子に一度会ってくださらない?

一度でもお会いになったら、王子の人柄の良さがお判りになるわ。

あのお方を困らせないで。」

 


そんなこと……!


 

「申し訳ありませんけど!姫は誰ともお会いできませんの。お引き取りくださいませ!」



扉の中から激しい声が返す。気持ちを抑えていた女官たちは思わず声をあげた。


「んまあ!んまあ!んまあ!なんですって!」

 

「なんてお行儀の悪い女官なの!お話しにならないわね!」



しかし、扉の中からはそれ以上の言葉は聞こえてこない。



彼女達の悪口は王子の耳にまで達する。

女官は口々に王子に訴えた。


 

「あたくしたち、あのお方にはお仕えできません!

あんな気難しい姫は、王子様のお相手に相応しくありませんわ!」



王子は眉をひそめる。今、彼の感心はここにはない。

もっと大きな問題が、彼の前には立ちはだかっていた。



「判った。姫の世話はシアから来た女官がやってくれている。

そなたたちは今まで通りにしていてくれれば良い。」



気のない素振りで王子は女官達を払う。

そんな小さな問題は、今は遠ざけておきたいのだ。



それより、今は王位継承の問題が先。

トーキの王は年老いて、王子が姫を迎えたと同時に王位を譲るつもりだった。

現に、今では王政のほとんどを王子が取り仕切っている。



もろちん、王子は王位が欲しいわけではない。

ただ、早く父を「王」という重責から解き放ってさしあげたいだけだ。

年老いてようやく生まれた王子を王はとても大切にしてくれた。

王子は早く孝行がしたいだけだ。


 

ただ、問題はある。

姫という妃を迎えているのに、戴冠式に姫が顔を出さないのはまずい。

 


「やはりそこか……。」


 

王子は一人ごちる。その小さな呟きに、側に控えていた騎士が顔を上げた。



「いや、気にしないでくれ。

ん……少し気晴らしがしたいな。つきあってくれ。」



姫と過ごすために空けていた時間。一人になると、心配事が首をもたげる。

王子は騎士を伴って街に出た。民の声を聞くために。



突然に姿を現した王子に、街の人々は驚き、しかし喜んだ。

よその国の王や王子は城にこもって民のことなど気にもかけないというのに、

我が国の王子はこんなにも国民のことを考えてくれる。

良い姫も迎えて、この国の未来は約束された。


……と思っていた。

そんな、純朴で優しい国民の期待を、王子は裏切りたくはなかった。

彼等に不安を与えないよう、太陽のように輝く笑顔をうかべる。



「王子様!姫はお美しい方なんでしょう?」

 


平和な国の、ことに女性たちの関心は新しく迎えられた姫君に集中する。

 


「王子様!どうぞお幸せに!」

「そんなこと言わなくても幸せに決まってるさ!これだから女ってやつは!」



集まった人々から明るい笑い声がもれる。

王子は努めて自然に見えるよう、しっかりと笑顔を作った。


「どうもありがとう。私のことはさておいて、みなさんはどうですか?以前と変わった点は?」


「もう婚儀はお済みですの?この通りをパレードしていただきたいわ。」

「そいつぁいい!パッと明るくなるやな!」


 

王子は小さくため息をつく。

今日のところはたいしたニュースもなさそうだ。

これ以上ここに居ても姫のことをつつかれるだけ。

王子は早々に退散を決め込んだ。



◆◇◆

城に戻り、王子はいつものように国政を執る。

時に街に出て人々の声を聞き、時に気晴らしに狩りに出、時に祭りを行い、

忙殺される日々はいつしか一ヶ月になっていた。


 

ある日、王は王子を呼び、ほんの一握りの腹心を残して人払いした。


「時に王子、姫との仲はどうなっておるのじゃ。

そろそろわしの気力も尽きそうに思う。

できれば今すぐにでもそなたに王位を譲りたいと思うんじゃが。」



王子はなにも言えずに黙りこむ。この一月、忙しさを言い訳に、姫のことを考えずに居た。

街からも、姫が姿を現さないことをいぶかしんでの口さがない噂が流れているのを、王子はわざと耳に入れずに知らぬ顔をしていた。



「そろそろ……婚儀と戴冠式の日取りをつめてくれんか。わしももう年じゃ。」



王子は是とも否とも答えず、ただ一礼をして自室に戻った。

ただぼんやりと天井を見つめ、迷う。



どうすれば良いだろう。




一人きりの部屋は静かで、空気の流れる音さえも聞こえそうで、寂しい。

王子は孤独に耐えられず、扉の外に控える騎士を呼び入れた。

 


「姫のことを考えていた。

騎士よ、姫はどんな方なんだ?

女官の言うように、気難しい方なのか?」



騎士は畏まり、ひざまづいたまま頭を上げることができない。


 

「教えてくれ。この城で姫に会ったことがあるのはお前だけだ。」

「恐れながら王子……。」



騎士の額に冷や汗が流れる。



「申し訳ございません。私はお見かけしただけで、お会いしたわけではございません。」



姫を健康そうだと言ったのは自分。

だが、姫は現に一ヶ月も寝込んでいる。


 

「騎士よ、責めているわけではない。どんな方だったか聞きたいだけだ。」

「も……申し訳ございません。」



騎士は再び、更に深く頭を下げる。


 

「一目お見かけして、私はすぐに気を失ってしまったのでございます。

実はどのような方だったかも、もう記憶が定かでは……。」



はぁ……。



王子の深いため息。

その言葉に怒るほど、もう王子には元気が残っていなかった。

 


「そうか……。もう手はないな……。」


 

王子はそう言い、静かに椅子から立ち上がる。


 

「ありがとう。誰もお前を責めないよ。そんなに気にしないでくれ。」


 

更に畏まった騎士を部屋に残し、王子は廊下へ歩き出した。

すでに薄暗くなった廊下をゆっくりと歩いて後宮に辿り着く。

なんとなく、気が重い。



その扉を、王子はゆっくりノックした。なんの応えもない。もう一度ノックする。

しばらく返事を待ち、もう一度、ノックしようとした時に、

その扉は突然、乱暴に大きな音をたてて開いた。



「行儀の悪い女官と気難しい姫になんのご用ッ?」



あっけに取られる王子の目に映ったのは、姫の女官の激しい憎悪の表情だった。




「あッ……お!王子様!ま、誠に失礼をいたしました!」



彼女の顔色が一瞬で青くなり、バタン!と音をたてて、女官は床にひれ伏す。

王子は苦笑した。



「楽にしてください。こんな時間に訪ねた私も悪いのです。

いったい、誰の訪問だと思ったのです?」



女官は答えない。ただ、床に額をこすりつけて震えているだけだ。



「そんなことであなたを罰したりしない。こちらの女官たちですね。

口さがない者たちだとは思っていたが、あなた方にそんな失礼な口をきいていたとは。

私からも注意しておきましょう。」


「いえ……そんな……あの……」

 

「構いません。楽にしてください。今日は姫にお話があって来ました。

取次いでいただいても?」



女官は思わず、顔を上げて王子の顔を見た。ここは王子の住む城。

王子の妃になる姫の部屋に王子が入るのに、誰の許可がいるだろう。

女官のことなど気にせずに押し入って来ても誰も文句は言えないはずだ。

それなのに王子は姫を気づかっているのだろうか。



答えがないことに、王子は軽く笑って見せる。


 

「私がそんなに恐いですか?それとも、姫のお加減はそんなにお悪いのですか?」



なんて美しいほほえみだろう。女官はそう思った。

そしてその眩しさに、ほんのわずかな罪悪感に目をそらす。


 

「お話とはいかようなことでしょうか。ここでお話しくだされば姫にも聞こえます。」



王子は少し困ったように眉を寄せ、話し始める。



「実は、婚儀の日取りを決めろとせっつかれているのです。

王もお年。婚儀を済ませ、出来るだけ早く王位継承をして

ゆっくりさせてさしあげたいと考えています。

もし、お身体の加減が良いようなら話を進めたいのですが。」



部屋の奥からチリンと鈴を鳴らす音が聞こえ、女官がそちらに戻った。

なにやらぼそぼそと声が聞こえた。

彼女がまた来て、姫の言葉を伝える。



「できればもう少しお時間を……」

「それでは、困るのです。」



きっぱりと、王子は答えた。


「これが私個人の婚儀なら問題はありません。しかし、私は王子という立場。

国の安泰を、私は一番に考えなければならないのです。」



美しく整った顔の眉一つぴくりとも動かさずに王子が言うのに、女官は少し反発を覚えた。



「それでは王子は、姫様のことは一つも考えてくださらないのね!」



部屋の奥で、姫は一つ息を吸い込んだ。こんなことを言ったら、

王子は怒って女官を殺してしまうかもしれない……。



王子はしばらく目を瞬かせ、大きな瞳で女官を見つめる。

彼女も、怒りの表情のままで王子を睨み付けていた。

姫は息を飲んだまま。

ただ、待つことしかできない。



王子は少し視線を泳がせてから目を閉じる。

そして眉を寄せてとても悲しい表情になった。



「すまなかった……。」



王子はそのままうつむいてしまう。

こんなに激しい拒絶を受けたことがないのだ。

どうしていいのか判らず、ただ謝ることしかできなかった。



「病気は姫のせいではない。悪かった……。」



そのあまりの落胆ぶりに、女官の胸はぎゅっと締め付けられた。

つい、本当のことを口走ってしまいそうになるほどに……。



「姫も本当は王子様にお会いしたいのです。でも、でも……」


「良い。十分に休んで体調を整えてください。

必要なら薬を届けさせましょう。なにが必要ですか。」



女官ははっと我に返る。いや、言ってはいけない。



「薬は国から十分に持って参りました。ただ時間が必要です。」

「時間……。」



深いため息と、そして疲れたような微笑。



「判りました。私も時間の許す限り見舞いましょう。

ゆっくりと身体を休めて、この国になじんでください。」



王子はそう言い、軽く一礼をとった。明日も公務がある。

彼も、自室で休むよりほかはない。

寂しそうな背中が去って行くのを、女官は辛い気持ちで見送った。

部屋の奥で震えている姫の傍らに腰掛け、その細い背中を撫でる。



「姫……。」


 

女官が殺される。そう思った姫の心はまだ凍えていた。

女官は姫の心が痛いほどに判る。



「……。」



姫はなにも言わない。それほどに、王子の態度は姫の心を冷たくさせてしまったのか。


 

「ねえ……?」



小さな、震える声で姫がようやく言う。



「王子はどんな方……?」


王子!女官に喜びが戻る。



「ええ!ええ!それはそれは美しい方でしたよ!

まるで太陽のように明るい、とても素敵な笑顔!」



まるで小娘のように女官ははしゃぐ。

もとより姫とは旧知の仲。まるで姉妹のように育ったのだ。

今までもこんなふうに、おしゃれやお菓子の話を幾度となくしてきた。

今日も同じように、美しい王子の話題を共有できる。そう、思った。

 


しかし、姫はそれを聞いてうつむく。



「姫……?」

 


姫は答えず、目を伏せたまま床へともぐりこんだ。



「姫?ねえ?」



もう、返事はない。女官は悟った。



「ごめんなさい。姫の気持ちも考えないで……。でもね、あの方は良い方だわ。

きっと判ってくださると思うの。ねえ、姫?」



姫はそれ以上、なにも言えなかった。





◆◇◆

その次の晩も、次の晩も、王子は毎夜姫の部屋を訪れた。

公務を終えてからになり、いつも夜遅くになってしまう。



「そんなこと、お気になさらないで。」



いつ行っても、変わらず女官が相手をした。



「まだ、姫とは直接お話はできないのですね。いや、構わないのです。

あなたも姫がすっかり健康になられてからと思っているのでしょう。」



女官とはもうすっかり打ち解けた。王子はそう思っていた。

女官は誰よりも姫のことを大切にし、王子にも親切にしてくれる。



「今日は果物の蜜漬けを持ってきました。気に入ってくださると良いが。」



小さな瓶を差し出す王子に、女官は少し困ったような顔を見せる。



「あの……申し上げにくいんですが……

いつもなにかをお持ちくださいますけど、

姫の心は物では動きませんわ。」



王子は言葉を失い、手を差し出したそのままの姿で女官をただ見つめる。



「あ……あの、申し訳有りません。いつもなにか戴いて心苦しいのです。」

「それは姫のお心か?」



王子の心は哀しみに押し流されそうになる。ようやくでこらえ、尋ねた。



「その……恐れながら……左様でございます。」



泣きそうな王子を気の毒に思いながらも、女官はそう言うしかなかった。



「そうか……。そんなつもりではなかった。

姫がなにをお好きか、知りたかった。

お好きなものを差し上げて慰めてさしあげるつもりだった。

なにも要らないとおっしゃるから……なにを差し上げて良いか判らなかった……。

そうか……。迷惑だったんだな。悪いことをした……。」



王子の瞳から大粒の涙がこぼれそうになる。

王子という立場でなければ、まだ幼いただの少年なのだから。

しかし、その涙を落としてしまえば王子はただの少年になってしまう。

プライドだけが、王子の顔を保っていた。



「これだけは聞かせてくれないか。」



ようやく、王子は声を絞り出す。



「大臣は、姫が仮病を口実に国に帰ろうとしているのだと言う。

もし、あなたが姫でなければ……国の同盟や他の理由を考えないなら、

そうしたいと望むか?」


「そんな……!」



女官が叫びそうになった時、部屋の奥から小さな声が答えた。



「わたくしのわがままでございます……。」

 


それは小さな声だった。が、王子の耳にも十分に届いた。



「それほどまでにあなたは私を嫌うのか……。」



ひと粒の涙がこぼれ落ちる。王子はそれ以上を許さず、瞬く間に背を向けて駆け出した。



「王子……!」



女官は叫んだが、もう、王子の姿はなかった。



「姫!あれでは王子が誤解なさいます!」

 

行き場を失った女官の想いは姫にしか向かうところがない。思わず声が高くなる。



「誤解でもいいわ。

どうせ私……王子に理解なんてされっこないもの……。」



小さな、消え入りそうな言葉。姫の想い……。

女官はそれ以上なにも言えず、ただ黙ってまた、姫の背中をさするしかなかった。




◆◇◆

朝議の席で、王子はいつものようにむっつりと口を結んでいた。

ここしばらくの議題は決まって王子を責めるものだ。



「王子!真面目に考えてくださっているのか?」



大臣の一人がいきり立ち、机を叩いた。



「私はいつでも真面目だよ。」



ふてくされて王子が答える。それにますます激高して大臣は続ける。



「よろしいか?いまや近隣諸国からも、王子の不評が聞こえて参るのです!

妃一人御しえない、ふがいない王子と!」



周りで怒号が飛び交う。



「なんと不遜な!」

「よもやそなたがその噂を流しておるのでは!」



毎朝繰り替えされる同じ話題が、今日は度を越しただけのことだ。

王子は軽く手を挙げて怒号を制する。



「良い。私も聞いている。」


「ならば尚更ではございませんか!他国へのしめしがつきません!」


「ではどうしろと?」



そう。それを一番望んでいるのは王子自身なのだから。一同は静まり返る。




「他に議題がないなら今日は解散だ。」



王子はイライラと立ち上がり、その場を去った。


 

そんなことは判っている。

姫の問題が解決しなければ王位継承も国民の望むパレードもなく、対外のしめしもつきはしない。

しかし、姫の心はここにない。

彼女の心は遠く、彼女の故郷に残されているのだから。



「王子……」



王子が自室の扉を開けようとした時、おずおずと騎士が声をかける。

朝議のあとの自由時間、王子はここのところずっと自室に閉じこもることが増えたのだ。



「なにか急用か。」



いくぶん沈んだ、しかし刺のある口調で王子は返す。

騎士は畏まり、その場でひざまづく。

騎士もいくばくかの責任を感じているのだ。



「その……西の森の賢者に頼んでみてはいかがでしょうか。」



騎士は幼き頃の寝物語に聞いたことがある。

西の森の賢者にはできないことはない。

昔、国を救った偉大なる魔法使いだと。



「西の森の賢者?そんなお伽話……。」



王子は笑いかけ、そして思い直す。

国史を習った時、それは歴史上の事実として聞いた。


王の父、すでに亡くなった先王の時の大戦争で、賢者は国を救ったのだと。

その賢者が生きていれば相当の年令だろうが、もしかするとその弟子が今でも居るかもしれない。



「ダメで元々だな……。よし、使いに行ってくれ。」



ほんの少しの希望を託し、騎士は久し振りに明るくうなづいた。



旅支度もそこそこに騎士が城を出て三日。長い旅ではないのに、まだ戻らない。

毎朝の怒号は聞き飽きた。王子のイライラが頂点に達した時、ようやく騎士は戻って来た。



「どうだった?」



期待に満ち、王子は騎士に尋ねる。が、騎士の表情は暗かった。




「その……弟子らしい若い青年にしか会えなかったのですが、その……」

 

またしても失態だ。しかし、言わずに済むはずがない。


「頼みごとがあるなら本人が来いと……」



自分と同じ年頃の若い青年に言われ、騎士はかっとして剣を抜いた。

しかし、青年は平然と言い放ったのだ。



「できるもんなら殺してみろ。」



その時の青年の瞳が、今でも目に焼き付いている。

とても人間とは思えない冷たい輝き。


もしかするとあの噂は本当かもしれない。

森の賢者は怪物に成り果てて今でも生きているのだと。

だから、西の森には近付いてはいけない。魔人の棲む森なのだと……。




「も、申し訳ございません。やはり西の森は危険でございます。

別の方法を考えたほうがよろしいかと。」

「馬鹿な!」



王子は椅子の肘掛を叩く。

たかが弟子の青年に脅されたくらいで退くとは、騎士も思ったより頼りがいがない。


「分かった。私が行こう。」


「お、王子!あの森にはなにか潜んでいます!」


「馬鹿を申すな!怪物など私が叩き切ってくれるわ!」



剣の腕には自信がある。が……もしも……。


王子はその日のうちに大臣達に仕事を割り振り、この旅が長引いても支障のないように心を砕いた。

その晩に、王子は久方ぶりに姫の部屋を訪れた。


森の怪物を恐れたわけではない。しかし、万が一ということもある。もう、戻れないかもしれない。

扉を開けた女官は、その王子の悲痛な面持ちに驚いた。



「しばらく城を空けます。

その間不自由がないよう、大臣には強く言い付けておきました。」


ますます驚き、女官は問う。



「しばらくって、どれくらいですか。」



王子は遠い目をした。



「いつになるか判りません。もしかしたら……戻らないこともあるかも……。」

「も、戻らないって、どういうことでしょう。」

 


王子は答えない。一度うつむき、また、今度は強い光を瞳にたたえた。

 


「もし私が戻らなければ、この婚姻は無効になります。

その時には姫の希望通り、国に戻ってかまいません。

シアに対する援助の条約もそのまま残ります。

なんの心配もしないでください。」


 

王子はそれだけを一方的に言って背を向けた。早く出かけたい。

女官の声も、もうその背中には届かない。



廊下を奥の角に消えた王子の背を目に、女官は部屋の中へ声をかけた。



「姫!王子様が行ってしまいます!」



悲痛な叫びに似た声に、姫は小さく返した。



「良いのです……。これが、神の下した最善の道。いっそこのまま王子が戻らなければ……。」



思わず。

カーテンを閉じたままの薄暗い部屋に、頬を打つ乾いた音が響いた。



「姫……!あなたはなんてことを……!」



女官の瞳に涙がにじむ。

その時、姫と、そして女官自身も初めて気付いたのだ。



女官は、王子に、恋している……。



姫の頬に涙が流れ落ちる。打たれた頬が痛むのではない。その小さな胸が痛むのだ。



「ああ……あなたと私が入れ替わっていれば良かったのに!

どうして私が姫で、あなたが女官なの……?」



姫は王の娘に、女官は乳母の娘に生まれた。同じ年の、同じ季節。

姫が綺麗な衣装を着て庭の花をつんでいた頃、女官は乳母を手伝って台所の掃除をしていた。

同じ年の娘同志、なんでも話し合える姉妹のようには育っていたが、

身分の違いは変えることはできない……。




「姫……あなたは姫なの……。

私がどんなに望んでも手に入れられないものをあなたは持っているわ。

お願い……王子を止めて……。」



女官は泣き崩れてひざをつく。それでも……

それでも!姫はその勇気を持つことは出来なかった。



「姫ぇぇぇっ!お願いぃぃぃっ!!」



それはすでに叫びだった。

越えることのできない大きな相違。

女官は伏せて床に額をこすりつけながら泣き叫んだ。


その声に突き動かされるように、姫はようやく立ち上がる。

小さく扉に駆け、それを勇気を以て開いた、その時にはもう王子の姿はどこにもなかった。




◆◇◆

臆するな……ただの噂だ……。



ようやく王子は、寂しい森の外れにさしかかっていた。

うっそうと茂る木々が光を奪い、昼間だと言うのに行く先も見えないほど暗い。

生き物も居ないような、静まり返った森……確かになにか、出そうな雰囲気を持っている。

 

ガサ……

物音に、王子は馬上で剣を抜いた。冷や汗が額を伝わり落ちる。

 


……いや、ただの風だ……



それはただの風……?

不安を勇気で拭い去る。臆するな。恐れは判断力を奪うのだ。

王子は剣を抜く。今はただ、馬のひづめが土を蹴る音しか聞こえない。



フワリ……

首筋に何かが触れた。反射的に剣を振る。

……が、枯れ葉が一枚、二つに別れて落ちただけだ。

 


……馬鹿馬鹿しい。幽霊の正体見たり、というところだな。



王子は自嘲し、剣を納めた。その時。

目の前に大きな影が立ちはだかる。

もう一度、剣を抜く手は間に合わなかった。



……熊っ……!

 


大熊の太い腕が腹にめり込んだ。

強い衝撃を受けて王子は落馬し、地面に叩き付けられる。



剣!



落ちた衝撃で、剣は鞘から吹き飛んだ。

大熊は勝ち誇ったように咆哮を上げる。


その一瞬のすきで、王子は自分の剣の在り処を見つけられた。

が、脇腹から吹き出す血の痛みに呻き、そこまでたどりつけそうにない。



やはり……死ぬのか……



大熊の真っ赤な口に並ぶ鋭い牙。

血の匂いに高ぶる咆哮。

もう、死を覚悟するしか……。


突然、熊の動きが止まった。ように思えた。

いや、己の意識が止まっただけかもしれない。

最後に聞いたのは……声。


……それはやめな……

 

…… …… …… ……



◆◇◆

深い、深い眠り。それはもしかすると、永遠と呼ばれるものだろうか。

甘い甘い誘惑に導かれるまま、王子は深く息を吐いた。

 


うっ!



脇腹に走る激痛が王子の眠りをさまたげる。頼む、このまま静かに眠らせて……


耳元に囁くのは小鳥のさえずり。頼む、このまま静かに眠らせて……



「死にたいのか?」



幻聴にしては、やけにはっきりした声だ。

薄らいで行く意識を、突然走った冷たさが呼び覚ます。


王子は小さく叫び、大きく目を見開いた。

まず目を刺すのは光の洪水。



「死にたくはないようだな。」



さっきの声だ。まるで笑っているような調子に聞こえる。

目を細め、光を背に立つその人の姿を見ようとする。

が、まだ目が慣れない。



「眩しいか?じゃあ窓を閉じよう。」



小さく何かが閉じる音がし、光の洪水はせき止められる。

今度は暗すぎて、目が慣れない。



「まあ、ゆっくりやんな。俺はなにか食べる物を探して来るよ。」

「あ……。」



ゆっくりと開きかけた扉の前で、その人は首をかしげる。



「どうした?」

「あの……ここは……?」



起き上がろうとして激痛にむせる。

その人の小さな笑い声が聞こえた。



「焦るなよ。死にたくないんだろ?」

「あの……私は……」

「知ってる。王子だろ。で?」



ようやく目が慣れて来る。

その人は軽く微笑み、まだ首をかしげたままのポーズでこちらを見下ろしていた。



「あ、あの……」

「熊に襲われて瀕死の重体だ。腹は減ってないってか。じゃあ水は?」



開きかけた扉の隙間から漏れ出る光に、その人の姿が徐々に明らかになる。

肩まで伸びた柔らかなハシバミ色の髪が風に揺れている。

射した光が照らすのは、白い肌の顔の半分。

やはりハシバミ色の瞳には優し気な光がたたえられ、王子を気づかうように覗き込むその視線がなぜか眩しく感じられた。



「まだ眩しい?じゃあ扉も閉めようか。」



パタリと音をたてる扉。

その人は物静かな所作で、王子の横たわる寝台のそばの椅子に腰掛ける。



「食べ物も水も要らない。なら何が必要?」



なんだか意識がはっきりしない。まだ頭がぼんやりしている。



「今、必要なのは休息と見える。

じゃあゆっくり休んでな。子守唄が必要か?」



最後の一言に強烈な悪意を感じる。

王子はつい、傷の痛みも忘れて飛び起きた。



「私は遊びに来たのではない!」



その人は驚いた様子もなく、ただ笑っていた。



「その軽装で森に入り、熊に襲われ死にかけた。

俺には遊びに来たとしか思えないな。」



悪意なのか、冗談なのか。王子は出ばなをくじかれて首をかしげる。



「まあ、薬草も効いて来たようだ。

痛み、治まってるんだろ。

元気なことで何よりだな。」


「あの!私は賢者に会いに来たのだ。そなた、なにか知らぬか。」



立ち上がろうとしたその人の袖を、王子はようやくのように掴む。



「ほお?賢者、ねえ?

『呪われた西の森には賢者が住んでいる』ってか?」



まるで馬鹿にしたような調子でその人は言う。王子は少し気分を害した。



「いけないか……?」

 ……弟子らしい若い青年にしか会えなかったのですが……



その人は笑いながら部屋の奥に入り、小さなたて琴を手に戻って来る。それへ、王子は疑問を投げた。



「あなたが賢者の弟子か?」

「賢者、ねえ?」



もう一度それを言うと、その人はたて琴を手に椅子に腰掛ける。

少し弦を張りながら、その人はゆっくりとたて琴をつま弾いた。

城で毎日聴いているはずの音曲が、その人のつむぎ出す物だけは特別であるかのようにとても美しく響く。



 西の森の賢者 古き昔 人の子を助け 世を救う

 人はそれを神と呼び 長く讃えたが

 やがて忘れ去り 怠惰に暮らした

 賢者は世を疎み 森に呪をかけた

 人と森とは相容れない

 平和と戦争が 相容れぬように



その人の声は、まるで猛禽類のいななきのように聞こえた。

幻想的な調べは残酷な詩を歌う。



「賢者は居ない、と言うことか……。」



落胆した王子の言葉に、その人は軽く鼻で笑う。



「さあね。信じる者は救われる、かな。」

「言ってる意味が良く判らないのだが!」



思わず声を荒げた王子に、その人は笑いながら手を振る。



「痛みは取れたようだな。良く効くだろ、その薬。」



言われて自分の腹を見ると、薬を漬した布が巻いてある。先ほど感じた冷たさはこれだったか。

いや……。



「話をそらすな。私の質問に答えろ!」



その人は少し笑い、たて琴を大事そうにもう一度さらりと鳴らすと言った。



「人にものを頼む態度じゃないだろう。

まあ、ひさしぶりにこれを鳴らしたから、それで許してやるか。」



立ち上がり際、ちらりと笑みをこぼし、彼はそのたて琴を手にまた奥の部屋へと消える。

そう言えば、傷の手当てをしてもらった礼も言っていない。


彼が戻って来た。王子は口を開こうと、彼の顔を見た。



「まあ飲め。ちったあ元気も出るだろ。」



彼が手にしていたのは湯気をたてる木のカップ。中には温かいスープが入っている。

手渡されるまま、カップを受け取る。

王子にとって生まれて初めての、温かいスープ。



「ありがとう。」



それへ、彼の軽い笑い声が答えた。



「お前の良い所は素直なとこだな。」



それを褒め言葉と受け取って良い物か、王子は判断をつけかねながらももう一度言った。



「ありがとう。」



優雅な所作で、彼はまた椅子に腰掛ける。

にっと笑うと言う言葉が、その優雅な所作とは激しくギャップがある。



「バカがつくくらい正直だな。

で?西の賢者が居たとして、何を頼みに来たんだ。」

「その……ある人の病気を治して欲しくて。」



それへは小首をかしげ、軽く眉を上げて見せる。



「病気?賢者は医者じゃない。病気なんか治せないだろうよ。」

「でも!賢者にできないことはないって!」



彼は笑い、王子の手のカップを指差す。



「まあ飲めって。」



湯気をたてるスープは、とろりと温かくうまそうな香りを放つ。

言われるまま、王子はそれを一口含んだ。


…… …… ……!


果てしなくマズい。


が、目の前にそれをふるまった人物が居るのだ。吐き出すこともできず、

王子は目を白黒させながらどうにかそれを飲み下す。



「ぶ……あっはっはっは!」



目の前で、彼は大きな口を開けて笑っていた。悪い冗談にからかわれたのだ。



「ひどいじゃないか……。」

「俺、うまいなんて一言も言ってないぞ。

まあ、王子様の口には合わないだろうが傷にはいいさ。

化膿止めの薬草を入れてある。そんなにマズけりゃ砂糖でも入れてみるか?」



この、苦いとも辛いとも言えないものに砂糖を入れた味が想像できず、王子は大きく首を横に振った。



「そう。じゃガマンして飲め。」 



彼は笑いながら足を組み、ひざにひじを突くと、その手で頬杖を突きながら呆れたような顔で

王子を見つめていた。王子はそのマズいスープを無言のまますするしかできない。



「お前って、ホントにバカがつくほど正直だよね。

もう少し危機感持ったらどうよ?

そのスープに毒が入ってるかも、とかは考えないわけ?」



そう言われて、初めて王子はその手を止めた。

香ばしい良い香りのスープが、期待外れにマズかったのだ。

ここで彼に悪意がないとは言い切れない。



ちらり。王子はその人を見つめる。

その真意をはかり知れない無表情がそこにある。

いや。この人に悪意があるなら、もうとうに手を下しているだろう。

血で汚れるのを厭うなら、わざわざこれが毒だとは言わないはずだ。



「信用するなということですか。」



そこで彼が破顔する。



「て言うか。あんまり頼んないでって言ってる。依存されるの、嫌いなんだ。」



彼はそう言い、またにっと笑った。その笑みが、彼を善人に見せている。



「まあ、俺もちょうど小間使いが必要だって思ってたとこだ。働いてもらおうかな。」

「こっ、小間使い?」



王子は慌てて、手にしたカップを取り落としそうになった。



「おやおや。ありがとうは平気で言えるのに、感謝の意を表すのは苦手と見える。」



おどけたように彼は言い、笑いながら立ち上がった。



「さて……と。何してもらおうかな。取りあえず水汲みだな。

飲み水用には北の泉、掃除用には西の川だ。」

「ちょ……ちょっと待って下さい。私は水を汲みに来たわけでは……。」



すがるように身体を起こした王子に、彼は厳しい調子で人さし指を突き付ける。



「お前、死にかけたんだ。誰が治療した?放っておけば確実に死んでた。

命を救ってもらった恩を返したくはないのか。文句言わずにとっとと立てよ。」



文句を言っているわけでは……。

王子は独りごちたが、彼に追い立てられるように寝台をおりる。



「さあさあ!水を汲むには何が必要?」



言われて王子は必死で考える。何しろ今まで、水汲みなどしたことがないのだ。



「ええと……桶……」

「正解。それから?」



それから?……



「ひ、ひしゃく?」

「ブッブー!ハズレ!」



言いながら彼は王子に桶を手渡し、扉の方へと追い立てる。

何が起こったか理解できぬまま、王子は桶を手に扉の前に突っ立つ形になった。



「これでしょ。」

 カラーン……



彼が投げて寄越したのは王子の剣。



「なっっ?なんで剣???」



驚く王子に返されたのは、皮肉を込めた笑顔。



「さっき何に襲われた?俺の知る限り、熊は一頭じゃない。

それに、森に住む肉食獣は熊に限ったわけじゃないだろ。

水汲むたんびに助けに行けるわけじゃない。自分の身くらいは自分で守ってくれ。」



彼は冷たく言い放つと、王子を扉から追い出してしまう。

閉じられた扉にどんなに声をかけても、中からカギがかけられて開くことはなかった。


孤独な気持ちになりながらも、王子は片手に桶、片手に剣を持ってとぼとぼ歩き始めた。

とても心細い。



だいたい。北の泉に西の川と言われても、それがどこにあるかさっぱり見当もつかない。

王子は大きくため息をつき、なすすべもなく空を見上げると、かん高い声で鳴く小鳥が一羽。


なんとなく。

その鳥が自分を応援してくれているような気分になって、王子は元気を取り戻すと歩いた。

鳥は王子の上を回りながら飛び、王子はそれに導かれるようについて歩く。

 

浮かれた気分で進んで行くと、遠くに水音が聞こえるではないか。

その一瞬で鳥のことなど忘れてしまい、音の方へ進むとようやく川を見つけることができた。


王子は嬉しくなって川に駆け寄り、剣を放り出して桶に水を汲む。

が、意外に流れが早く、うまく桶に水を汲み出すことができない。

軽く桶を沈めると中に水が入らず、深く沈めるとその流れに身体を取られてしまいそうになる。

王子は困ってしまった。



みんな、どうやって水を汲んでいるんだろう。



思いを馳せるのは城の下働きの人たちのこと。

彼らは歌を歌いながら桶を手に元気に出て行って、笑いながら水をたっぷり汲んで帰って来る。

どこへ行っているかまでは聞かなかったが、同じようにどこかの川へ汲みに行っているはずだ。


しかたなく。

王子は腕を捲り、桶を両手でしっかり掴むと、川の中に足を踏み入れた。

川の流れを受けるように、足を踏ん張って水を汲むことにしたのだ。

が、滑る川底に足は流れ、思わず尻餅をついてしまう。



「あ痛ぁ……カッコ悪……」



頭からずぶ濡れになり、思わず辺りを見回す。

誰も見ていないが、なんとなくバツが悪い……いや。

 

川の周りに生える低木に光る目がある。

気付けばそれは無数に増えており、王子を取り囲むように近付いてきた。それは……



狼……。



驚いて息を飲み、思わず桶を取り落とす。

必死で剣を探すと、それは川岸に何気なく放り出したままの姿で光っていた。


あれを取らなければ……


が、剣を取りに行くのは狼の群れに向かって行くのと同じことだ。


しかし……。

ここで何もしないのは抵抗もせずに食われるのと同じこと。王子は勇気を振り絞った。



が……!



岸へ上がろうと足をあげるが、またも流れが自由を奪う。

王子は大きな水音をたてて川に倒れた。

その瞬間、狼達は木々から飛び出し、王子目掛けて飛びかかった。



もう……だめだ……!



王子は流れにそよぐ自分の髪と、顔を引っかく狼の爪とを感じながら、堅く目を閉じた。

狼の歓喜の吐息を、耳の真横に感じる。



突然。狼の動きが止まった。

ように感じた。



王子は恐る恐る目を開けると、狼が自分の上から飛び退くように去るのを見た。

そこへ聞こえたのは、あの時と同じ声。



「だからやめなって。人間はマズいよ。」



馬のひづめの音。王子は流れから身体を起こす。



「はいはい、残念!今回はラッキーな御馳走はナシ!

だからぁ~、人間はマズいんだって。腹こわしたくないでしょ。

さあ、行った行った!」



狼は何匹かが甘えたような声で鳴いていたが、やがて王子を一睨みするように振り返ると、群れごとどこかへ立ち去った。

後に残ったのは……。



「お前ね。水も一人で汲めないの。」



呆れたように馬から見下ろす、あの青年だ。



「あの……狼と話ができるんですか?」

「とんだ厄介物拾っちまったなあ。」



彼は独り言のように呟き、遠くを見つめた。



「あの……ラッキーな御馳走って……」

「お前ね!」



彼は馬を降り、ざぶざぶと水の中に入って来て王子の腕を乱暴に掴んだ。



「ここはお前の住んでた安全な城じゃないの。

気を抜けばいつでも死は隣にある。

熊に襲われて何も学ばなかったの?

お前の命を肩代わりしてくれたのは、あの白馬なんだぞ?」



力任せに王子を引き上げ、王子は岸へどすんと尻餅をついた。

ラッキーな御馳走……それは……王子が乗っていた白馬……?



「俺はね、猛烈に怒ってんの。

この森で、人間の不注意で生き物が死ぬのは許せないんだ。

あの時だってお前がもっと注意してれば、罪もない馬が死ぬことはなかっただろう。

どう贖うつもり?」



その言葉の激しさに恐ろしくなり、王子は上目遣いに彼を見上げた。

が、彼の視線は言葉ほどには激しくはない。


前髪から水が滴る。

頬を伝う水が頭から流れているのか、

それとも目から流れているのか、

王子は自身では判らなかった。



「ごめんなさい……」

「俺に謝ってもしょうがないだろ。ホント、バカだな。

とりあえず立て。壊した桶はどうしてもらおうかな。」



壊した、桶?

王子は首を巡らし、彼が眉を寄せて見ていた所を見る。

そこには放り投げて大破した桶の残骸が散らばっていた。



「うわ……ご、ごめんなさい……」

「それについては謝るまでもない。自分で修理しろ。

さて、俺は一足先に帰ってる。お前は自分で歩いて帰って来い。

ああ、そうだ。自分の食う分は自分で取って来いよ。

用意してるのはあのスープだけだぞ。」



あの、スープ。王子は戦慄した。


彼は乗って来た馬の首を軽くたたき、ひらりとその背に飛び乗る。鞍はなかった。

馬は軽やかに駆け、振り返ることなく走り去った。


王子はみじめな気分になりながらも、歩き出すしかない。

帰りは鳥の道案内もなく、気を抜けばバラバラと落ちてしまう桶の残骸にも翻弄されながら、王子の足取りは重かった。

どうにかあの小屋の前に辿り着いたのは、日も傾いた頃だった。



◆◇◆

王子が差し掛かると、小屋の前に群れていた小鳥たちが騒がしく鳴き声を上げながら飛び立つ。

入口の段に腰掛けた青年が、最後の一羽にパン屑をやっていた。


青年の小鳥を見る表情はとても優しく、人外の美しさを持っていた。



「あの……帰りました……」



おずおずと声をかけると、驚いたように小鳥が飛び立った。

ちらり、青年は王子を見る。



「ずいぶん遅かったな。こっちはもう食事も済んじまったよ。」



手に残ったパン屑をはたき、彼は扉を開ける。



「なにも取って来なかったんだな。夕食は要らんと見える。」



そんなことをすっかり忘れていた王子は、とりあえず桶の残骸を置き、きびすを返そうとした。

が、彼がそれを止める。



「もう日が落ちる。鳥もねぐらに帰ったよ。お前を守るものはなにもない。明日にしろ。」

「え……?」



思わず聞き返す。



「さすがにね。暗くなっても鳥たちを働かせられるほど、俺は暴君じゃないんだ。」



その言葉で、王子はようやく自分が守られていたことに気付いた。

とてつもなく情けない気分になる。



「あなたはいったい……。」

「さあ、入ってスープを飲め。」



扉が開け放たれる。中からは温かい光が漏れ出る。

スープは嫌だが、そんなことを言える立場ではない。

しょんぼりと、王子はあのカップが置かれた食卓につく。まだ温かい。

ふと。彼がその向いにゆっくりと腰掛ける。



「あの、なにか……?」



思わずそう言うと、彼はおどけたように肩を竦めた。



「甘ちゃんの王子様は一人で食事もできないかと思ってね。」


 

…… む ……



「御迷惑をおかけしました。一人で食事くらいはできますよ。

お休みになるなり、どこかへ出かけるなり、お好きなようになさってください。」



ふてくされ、王子はカップから一口スープをすする。目の前で、彼は笑っていた。



「そう?じゃあ休ませてもらおうか。暗くなると眠くなるたちでね。」



彼はそう言うと大袈裟にあくびをして見せ、立ち上がる。

そして、思い出したように言った。



「飲んだら洗っておけよ。

それから、どんなにうまくてもそれは薬だ。おかわりは止めとけ。」



おかわりなんて、こんなマズいもの!

……?



彼が笑いながら奥の部屋へと姿を消す。

言われるまで気付かなかった自分が情けない。

青臭さはほんの少し残るものの、あの嫌な苦味がさっぱり消えている。



どうして私はこうなんだろう……。



城で、与えられることが当たり前だと思っていた。

いや、当たり前、とさえ思いもしなかったのだ。


水を汲みに行く人が居て、初めて自分は水を飲める。

食事を作ってくれる人が居て、初めて自分は食事ができる。

その食事さえも、誰かが毒見をして安全だと証明されてから自分の前に出されるのだ。



「私は一人では何もできない……」



思わず呟いた。その背後で突然、声がした。



「そりゃそうだろ。一人でなにかできる人間なんか居るわけない。」


 驚いて振り向くと、バフッと顔に柔らかいものが触れた。



「い、居たんですか。」


それを払い除け、王子は焦りながら言うと、彼はまた笑っていた。



「今来たの。気付かなかった?」



払い除けた手の中には、柔らかいクッション。



「ソレ要るでしょ。王子様は床で眠ったことなんかないだろうから。」

「ゆっ、床?」



目を白黒させながら、冷たく堅い床と青年とを見比べる。

 


「一人で何もできないやつは床で充分。」



彼は笑い、投げるようにシーツを手渡す。

王子はしかし何も言えず、ただ頭を下げるのみだ。



「今、知ったんだから、それでいいんじゃない?」

「え?」



なんのことだか……と思いを巡らし、王子は思い当たった。

『一人で何もできない』だ。

それを思い出し、青年に声をかけようとしたが、彼はもう居なかった。



不思議な人だ。王子はそう思う。

歩くのに、足音一つたてない。

それに、動物と話をできるようだ。

それに。

不思議なのはそれだけではない。

まるで、王子の望むこと全てを、すでに知っているかのように振る舞う。

それは……。

 

どこかで聞いたような話だ。

軒先に入り込み、家人を手伝い、時に報酬を欲し、時に災いを起こす。それは、



魔?



西の森の魔物……



いや、その話は妖精物語。

家人の望むことをし、報酬を与えられなければいたずらをする。

そんなお伽話。


では、王子は何の報酬を与えられるだろう……?


王子は眠気の襲う中、静かに笑った。

軒先に入り込んだのは王子の方だ。

報酬はいずれ、城に戻れば彼の望むだけ与えられる。

何の心配もない……。

 

 …… …… ……


◆◇◆

「こ~らっ!起きろ!」



耳元で怒鳴られ、王子は驚いて飛び起きた。目の前に青年の呆れたような顔がある。

どうやら。知らぬ間に眠っていたらしい。

クッションを抱くようにして、床に突っ伏していた。

腰をゆがめて青年の方へ身体を向けると、激しく傷が痛んだ。



「洗っとけって言ったのに!」



なんのことだか判らない。王子は痛む傷をかばいながら、ゆっくり起き上がる。

彼がしかめっ面で指し示したのは、夕べ王子がスープを飲んだカップ。

アリや他の虫が、たくさんたかっていた。



「ハチミツとクレールの葉を入れたんだよ。人間にとって甘いものは虫たちにも御馳走だ。

まったく、カップをダメにしてくれて……。」



その言葉の最後の頃には、彼は怒っていると言うより呆れている様子で眉を寄せていた。


カップをダメに?洗えばいいだけではないか。

王子は思い、そしてすぐ考え直す。

彼は虫を、いや虫に限らず生き物を殺すのがきっと嫌なのだ。



「自分のカップは自分で作れよ。俺はもう知らん。」



彼はそう言い、くるりと背を向けてしまう。

王子は見放されたような気がして少し居心地が悪い。


彼はそのまま窓に向かい、小さく開いたそれから外を眺める。

そして、何かに向かって小さくうなづくと、窓をパタリと閉めた。



「さて。薬は残り一回分だ。どうする?」



誰に言うともない調子で彼は言い、窓に向かったままで黙り込む。

王子は続きを待ち、首をかしげた。



「布ももうないな。どうする?」



もう一度。彼は独り言のように小さく呟く。

王子はそれを誰に言っているのか、そしてその意味を尋ねるために口を開きかけた。

が、突然に彼が振り返る。



「決めた。立て。」



あまりの突然さに王子は呆然とする。

すると彼はツカツカと足音を立てて王子の側に立ち、シーツをはぎとった。



「うわわ!」

「俺にできることは、もうこれだけだ。」



彼はそう言いながら、手にしたシーツを縦に裂いた。

王子は彼を怒らせてしまったかと驚き、床に転がったままの姿勢でそれを見上げる。


彼は少し首をかしげると、そのシーツを更に裂く。

なんとなく納得したような顔をして、それから眉を上げて王子に言った。



「立てってば。薬、替えないと痛いんでしょ?」



薬?言われて傷に手をやる。そう言えば痛い。



「もう時間がない。ちょっと傷を見せてみろ。」



傷の痛みと、なにがなんだか判らないのとで、王子はゆるゆると立ち上がる。

彼は少し乱暴に腹の包帯を剥ぎ取ると、しげしげとその傷を眺めた。



「やっぱ古いから効きが悪いな。」



言いながら、彼は手早く薬を端切れの布に塗り、傷にぺたんと貼り付ける。

さっき裂いたシーツを、腹にきつく巻いた。



「あの、きつくて痛いんですけど……。」

「痛みはすぐに治まる。きついのは仕方ないから諦めてくれ。そうしないと傷が開くんだ。」



彼は何かを気にするように、扉へと視線をやる。



「あの、傷が開くって?あ、ひょっとして重労働させるつもりですか?」



昨日の水汲みは結局失敗した。

もっと辛い仕事を言いつけるつもりなんだろう。

王子はそれを考えると気が重くなる。



「ちょっと待ってろ。俺は忙しい。」



彼はそう言うと台所に立つ。

棚からビンをいくつも出し、中の葉っぱを片端から鍋にぶちこむと薪をくべて火の勢いを強めた。


すぐに、薬のような強い匂いが部屋に充満する。

今まで飲んでいたスープとは違うものを作っているようだ。

彼はそれを軽く混ぜ、棚から革袋を取り出してゆっくり詰めた。その瞬間。



突然、乱暴に音を立てて扉が開いた。



「王子はここにおいでか!」



現れたのは、銀色の全身鎧。兜の中から響くのは、王子の騎士だ。

騎士は王子を見ると、兜の前を開ける。汗だくの顔が必死の形相を作っていた。



「王子!今すぐ城へお戻りください!王がお倒れになりました!」

「なに!王が?」

「熱っち!」



 王子の叫んだのと同時に、背後で青年が叫んでいた。鍋の液体を手にこぼしてしま

ったらしい。



「王子!」



振り返った後ろで、また騎士が叫ぶ。



「いや、しかし……」



まだ、この森に住むという賢者に会っていない。

このまま王にもしものことがあったら、姫のことはどうすれば良いのだろう。



「これを使えばいい。」



 不意に、王子の手に温かいものが触れた。それは青年が手渡す革袋。



「殺しちまえばいいだろ。

姫は病弱で、嫁いだとたんに死んでしまいました、と。

それからどこかの国から新しい姫を迎えれば、なんの問題もない。」



青年の、冷たい声がそう耳元に囁く。



「な、なぜそれを?」



焦って王子は振り返る。青年は口元だけで薄く笑っていた。



「そのために来たんだろ?」

「ま、まさか!姫を殺すためになんて!」



叫びながら、王子は思う。この人に姫のことなど話しただろうか……?



「どうしようもねえんだよ。カドを立てずに解決したいなら、これを飲ませて殺しちまえ。」



王子は、その手に握らされた袋を眺める。まだ熱い。



「そ、その……王子、お急ぎください!」



言われ、王子は扉を抜ける。

なんとなく、後ろ髪を引かれるような思いをしながら。

しかし、手にはしっかりとその熱い革袋を握りしめていた。


騎士の馬に二人で乗る。二人分の体重を支える割には馬は速く走った。

日が暮れる前に、二人は城に着けた。



◆◇◆

すぐに王子は、王の寝室へと向かう。

薬湯や水の入った瓶を持った侍女たちが忙しく走り回っていた。



「まあ!王子様!」



その一人が王子を見つけ、泣き出しそうな顔をしながら敬礼する。



「挨拶はいい。作業を続けて下さい。」



そう言うと、侍女はまた奥へと駆けて行った。


王子は重い足取りで寝室の中へ入る。

医者や大臣達が寝台を囲んで心配そうな顔で覗き込んでいた。



「お具合はいかがですか。」



寝台に横たわる王はいつにも増して弱々しく見える。



「おお……王子……。わしはもう駄目なようじゃ。

早う二人の婚儀を……そして戴冠をせねば……。」



 王は咳き込み、それ以上を続けられない。

王子はその血の気のない手を握り、言った。



「そのようなことをおっしゃらないで、いつまでも元気でいらして下さい。」

「王子よ……人はいつまでも生きておられるわけではないぞ……わしはもう……」



ふっ、と王の意識は遠のく。

王子の前へ医者が手を出した。



「王子様、これ以上は王のお身体に障ります。」



大臣達が大声で王を呼ぶ。が、王はすでに深い眠りについてしまった。

医者は首を振り、彼等を全て、寝室から追い出してしまった。



廊下で、大臣達はすがるように王子の肩を掴んだ。



「王子!どうぞ今すぐ姫との婚儀を!」



そう……言われたところで……。



「王子!聞いておいでですか!」

「少し……時間をくれ……。」



王子はそれだけをようやく言い、きびすを返す。その背後に大臣達の諦めたような声を聞いた。



王子はあの森に行かれて、おかしくなられた……



結局。賢者など居なかったのだ。そう思うしかない。

王子は、まだ握りしめていた革袋を眺めながら歩く。

寝室へ……向かおうと思った。が……。



 ……殺しちまえばいい……



あの声がこだまする。ふと立ち止まり、王子はその革袋を見つめた。

殺してしまえば……。


姫を殺してしまえば。

とりあえず、目前の戴冠式は問題なく行える。

ほとぼりが覚めてから、どこかから新しい姫を迎えれば良い。

戴冠式に姫が、妃が居ないことが問題なのだから。


王子は再びきびすを返す。

姫の居る後宮へ。

歩きながらずっと、そのことだけを考える。

そう。それは国の為だ。仕方のないことなのだ!



ノックに応じたのは、いつものように女官だった。

突然の王子の訪問に一瞬微笑み、そしてすぐに表情を引き締める。



「よくぞ御無事でお戻りくださいました。それより王様のお具合がよろしくないとか?」

「うん……姫のお具合は?」



伺うように、王子は女官の肩ごしに奥を覗く。

相変わらずカーテンが引かれ、暗くて様子が判らない。



「姫は……その……」



女官は口ごもると、やはり奥を覗き込む。奥からはなんの反応もない。



「そうですか……。」



王子は革袋を握りしめる。

やはり、やるしかない。

そう決意した瞬間、女官が奥に向かって言った。



「姫!王子がおいでですよ!あんなに心配なさっていたじゃないの!

御無事にお戻りになられたのに、なんのお言葉もおかけにならないの?」



女官が激しく叱咤する。王子は自分の耳を疑った。

私を……心配?



「んもぉ!姫は人見知りが激しくていらっしゃるの。許してあげて下さいましね。」



人……見知り?



「姫ったら!」

「あああ、あの……」



ようやく、奥からおずおずと声が聞こえる。震える、小さな声。



「……あの……あ、あんなことおっしゃるから何をなさるかと……

わ、私のことは……その……ご、ごめんなさい……私……あまり

……うまく話せなくて……お、王子様……ご、御無事でなによりでございます……」

「姫ったら、そんなこと言いたいんじゃないでしょ?もう。じれったいなぁ。」



女官が呆れたように笑う。姫はそのまま、ネジが切れたように沈黙を守ってしまった。

どんなに待っても続きが出て来ない。



「もう!姫が言えないんなら私が言っちゃうわよ?

あのね、姫ったら毎日、王子様のことばかり!

そんなに気になるなら自分で聞きなさいって言ってるのに!おかしいでしょ?」



王子も、黙ってしまう。嫌われているわけではなかった……。



「あら?王子様、それは?」



女官が視線で指したのは、王子の手に握られた革袋。

中身はもう冷めているはずなのに、それ自体が熱を持っているかのように、まだ熱かった。



「いえ、これは……なんでもないのです。邪魔をしました。」



王子はそれだけを言い、くるりときびすを返す。後ろに女官の呼ぶ声が聞こえた

が、もう構わなかった。

 

やはり、そんなことはできない……。



◆◇◆

城中が、蜂の巣をつついたように大騒ぎになっているのを、姫と女官は気配で察していた。

王子の訪問からわずか数時間後のことである。



「王様がどうかなさったのかしら。」



女官はたびたび廊下を伺い、ため息混じりに姫にそう言った。



「王様が亡くなったりしたら、王子が王になられるのよね。」



まるで他人事のような調子で姫が言うのを、女官はいら立ちながら聞く。



「だから王子様が困ってらっしゃるんでしょ!

戴冠の儀式に、妻である姫が不在だとおかしいじゃないの。

いいかげんハラをくくりなさいよ!」



姫は怯えたように黙り込んでしまう。

女官がため息をつくと、廊下にたくさんの女性の泣き声が遠くから響いて来るのが聞こえた。

まるで叫びのような泣き声。



 ……泣いてもしょうがないでしょう!早く用意をするのよ……



女官は慌てて扉を出、向こうに見える女官に声をかける。



「王様がお亡くなりになったのですか?」



激しく泣き崩れる一人を支えながら、年嵩のいった女官が答えた。



「なにを言ってるの!王子が亡くなったのよ!」



泣き声とともに、女官達は角の向こうへと姿を消す。

いったい、なにが起こったというのか。

他の女官達が白い絹の反物を抱えてまた通り過ぎた。

その布の模様は、まちがいなく死出の装束……。



「私、様子を見に行ってまいります。」

「えっ?ま、待って……」



姫を独りにするのは不安だが、女官はともかくも廊下へ出た。

ざわめく回廊では大臣達が頭を抱えている。



「なぜあんなことを……!」

「この国はどうなるのだ!」

「このまま王が亡くなったりしたら……この国を継ぐのはあの姫か?」

「それはいかん!まだ婚儀も済ませておらんのに!」



とても話し掛けられるような雰囲気ではない。

女官は首を巡らし、事情を聞けそうな相手を探すことにした。

そして、その目に捕らえたのは銀の鎧の騎士。彼には見覚えがある。



「もし……。王子様はいったいどうなされたの?」



騎士は今にも泣き出しそうに、その目を真っ赤に腫らしていた。



「あなたは姫のお付きの……。王子は毒を飲んで自殺なされたのです。

……くそぅ!西の森の魔物に取り付かれたのだ!

私がついていながらお止めすることができなかった!」



騎士は悔しそうに拳をわなわなと震わせた。


王子は……自殺なされた!



女官の頭に、その言葉がぐるぐると巡る。

大きな槌で打たれたようなショックがあった。目の前が一瞬で暗くなる。

 


西の森の魔物……?

 

女官はそのまま、ろくに言葉を発することもできずに元来た廊下を走り戻る。



西の森の……賢者ではなかったのか?



彼女は思う。毎日、姫が、そして自分が王子の無事を願っていたのが賢者ではなく魔物だったとは。



ひどい……!



扉を開け、女官は姫の寝台に突っ伏すと、大声を上げて泣いてしまった。



「ど、どうしたの?」



うろたえた姫が問うのへ、女官はまるで子供のように首を振りながら叫んだ。



「お……王子様が……!王子様がぁッ!亡くなっただなんて……うそよぉッ!」



それ以上、姫がなにを尋ねても女官はただ泣き叫ぶばかりでなにも言えなくなってしまった。



「王子が亡くなったって……どういうこと?」



姫は考える。王子がここに来たのはつい数時間前のことだ。

声はほとんど聞こえなかったが、こんなに突然に命を奪われるようなそぶりはなかった。

しかし、目の前で女官が泣いている。



私……いったいどうすれば……?



ふらふらと、姫は立ち上がった。泣いている女官の背を柔らかく撫で、歩き出す。



「……姫?どこへ……?」



女官が背後に声をかける。

どこへ?姫自身にもよく判らない。

扉を自分の手で開く。

廊下は光にあふれ、久しぶりに部屋を出た姫の目を射す。

明かりに慣れていなかった。



「姫、しっかりして。」



すぐ後ろに女官の声が聞こえる。廊下の角の奥に、人がざわめく気配がする。

姫はそのまま、ふらふらと力ない足取りで声のするほうへと向かった。



立派な部屋の中に、たくさんの人達が居る。

ただ泣きつくして立ちすくむ者、白い布を縫う者、数人は寝台の側でなにかしている。



「新しい布をちょうだい。水を替えてもう一度拭くわ。

それから櫛を……あなた、誰?」



年嵩のいった女官が振り向き、姫に言った。

そして、姫の後ろに控える女官を見、息を飲む。



「あなた、もしかして……シア姫?」



その言葉に、一同は一瞬でざわめきに満たされる。こうなることは判っていた。

だから……。


今はそれどころではない。かぶりを振って姫は目を見開いた。

自分の女官から聞いた、そのままの姿で王子が横たわっている。



「ちょっと待って?あなたがシア姫なの?どうして?私達はあなたが……」



若い女官がそう言いかけると、年嵩の女官がそれを制する。



「もうどうでもいいことよ。王子は亡くなってしまったの。

私達の決めることじゃないけど、この方はきっと国にお帰りになるでしょう。」



その言葉の端々に怒気が見え隠れする。

彼女達がなにを言いたいか、姫はいやというほど解っていた。

が、今は恥を忍んでも事情を聞きたい。



「あの、なにが起こったのか教えてください。」

「あなたさえ居なければ!」



若い女官の一人が、突然に姫の肩を掴んだ。あまりに突然のことで姫は驚いて声を上げる。



「おやめ!」



年嵩の女官が一喝する。一同はしんと静まり返った。



「姫のせいと言うわけには参りません。しかし、王子は追い詰められておいででした。


王子は、姫の病気を治してもらおうと西の森においでになったのです。

しかし賢者には会えず……騎士の言うには青年の姿をした魔物に取り付かれたそうです。


魔物は王子に、姫を殺せと毒を渡したそうです。

しかし王子はお優しいお方。そんなことお出来になるわけがありません。

ご自分でその毒を飲んでおしまいになりました……。」



その言葉で、女官が一斉にわっと泣き出す。そのうちの一人が喚くように言った。



「姫が死ねば良かったのよ……!」

「おやめと言ってるでしょう!」

「あなたさえ居なければ、王子はこんなに苦しまなくて良かったのに!」

「おやめなさい!」



堰を切ったように若い女官達が泣きながら叫び出す。もう、誰にも止められなかった。



その言葉は姫の心を激しく揺さぶる。一人の女官が叫んだ。



「嘘つき!」



その言葉が、姫に突き刺さる。



「姫が嘘をついたわけではありませんわ!」



姫の後ろで、女官が叫んだ。



「姫だって苦しんだわ!あなた達が勝手に勘違いしたんじゃないの!

いったいなぜ、あんなことになってしまったの!」



「だから~、全部が勘違いだったんだよ。」



 突然、男の声が響いた。男子禁制のこの部屋に。



「あッ、あなたは誰ですかッ!」



ヒステリックに女官が叫ぶのを、長身のその男は笑いながら制した。



「西の森の魔物、とでも呼んでもらおうかな。」



とたんにその場に居た人たちが叫び、部屋から逃げ出そうとパニックになる。

その騒ぎを聞き、騎士が駆け付けた。



「全てはこいつの勘違い。」

「あっ、あなたは!」



騎士はその男に見覚えがある。腰から剣を抜いた。



「後宮で剣を抜くなんて、場当たり的なことしかしないからこんなことになるんだよ。

俺を殺したいんならあとにしろ。」



青年はそう言うと、恐怖で動けなくなった女官達をかき分けるように寝台の側に歩み寄った。



「ふうん……こいつもバカだね。自分で飲んじまうなんて。ところで。」



青年は振り返り、姫を睨むように見つめた。



「あんた。こっちに来な。」



まるで魔法にかけられたように、姫は青年の側に歩いていく。青年の指し示すのは王子の遺体。



「これが王子だ。なんか言うことあるでしょ。」



目の前の王子は、まるで眠っているように安らかな顔をしている。

その肌に触れると、とても冷たかった。



「ご……ごめんなさい……私……もっと早く言ってしまえば良かったのね……?

でも……恐かったんです……私……私……」



「嫌われるかもしれないと?


金色の髪じゃないから?

白い肌じゃないから?

それとも大きな目じゃないから?


いいか?王子はそんなこと気にしなかったよ。ただあんたが健康であればいいと、それだけを願ってた。

あんたを心配するあまり危険な西の森にまで出向いたんだ。

居るかどうか判らない賢者にまで救いを求めるほどにな。」



青年の瞳は、優しく姫を見つめている。姫の黒く長い髪が、さらりと流れ落ちた。

青年は不意に笑った。そして騎士を振り返り見る。



「全てはこいつの勘違いから始まった。

あの時、姫は女官と『ごっこ遊び』をしていたんだったな。

二人で衣装を交換し、誰も居ないからとふざけてただけだ。


そう。誰も居なければ何の問題もなかった。

でも、そこへ登場したのが、この迷惑な騎士だ。」



木々をかき分けて、騎士が倒れこんできた。

姫と女官は慌てて衣装を着替え、城へ人を呼びに行ったのだ。



「で、では、私が見たのはこの女官……?」

「その通り。その娘見て気付かなかったの?」



青年に言われ、騎士は記憶を手繰り寄せる。

しだいにはっきりする記憶に、騎士は思わず声を上げた。



「もっと早くに気付いてればこんなにややこしいことにならなかったのにね。

とにかく、みんなが美しいだとか言うもんだから、この臆病な姫さんはなにも言えずに居たんだ。

なにしろ自分の容姿に自信がないんだもん。」



そう。姫は自分の容姿を恥じていた。


母は金髪なのに自分は黒い髪。低い鼻にそばかす。

もっとパッチリとした大きな目にも憧れた。

そしてなによりも……


いつも側に居る女官のように、はっきり堂々と話せるようになりたかった。

いつも側に居る女官はお姉さんのようで憧れであり、そして常に密かな嫉妬を懐いていた。



「でも……もう遅い……」



姫の後ろで悲しそうに女官が言う。女官の瞳から大きな涙の粒が流れ落ちる。



「だって、王子様は死んでしまったんですもの。」

「そうだな。どんなに嘆いたところで、こぼれたミルクはもうカップには戻らない。

それにしても王子はバカだよな。」



青年の言葉に、一同は反感を覚える。

死者を罵倒するなどもってのほかだ。騎士は怒りのまま剣を構える。



「だ~か~ら~、俺を殺すのはあとにしなさいって。じゃないと後悔するよ?」



青年は笑い、腰に下げた革袋を手にする。



「ホント、こいつバカだよ。自分が飲んだクレールの味も覚えてない。

クレールは大量に飲むと気を失うんだよな。ほれ、気付け薬だよ~。」



おどけたような調子で、青年は王子に革袋の中身を飲ませた。


 

 …… …… ……

「う……ぐあっっ!」



王子が叫んで起き上がる。激しく咳き込んだ。



「な、なに?マズっ!」

 


青年が爆笑する。皆は一様に驚き、互いに顔を見合わせた。



「お前が飲んでた化膿止めの薬だよ。

だいたいお前、バカじゃないか?クレールの効用も知らんかったわけ?

一口飲んだら気付くだろうによ。それを全部飲んじまってさ!」



恥ずかしそうに、王子がうつむく。小さな声で抗議するように呟いた。

 

「だって……信じてたんだもの……。」

「それはそれは!

俺のこと信じてたってか?あんなに騙されたクセに?

ホント、お前ってバカ正直だな!」



青年が爆笑と共に返す。そして続けて言った。



「ま、それがお前の良い所だって言ったけどな。」



笑いが収まると、青年は王子に言う。



「初対面だろ。自己紹介はいいのかい?」



青年の示したのは、寝台の側に呆然と立ちすくむ姫。



「あ……あなたが姫ですか?」



王子の問いかけに、姫は身を堅くする。恐怖に目を閉じてしまった。



「良かった……!お元気になられたのですね!」



その声に、姫は恐る恐る目を開ける。

そこに映ったのは、王子の明るい笑顔。



「全ては少しずつの誤解からだったんだよ。お互いに思い込みすぎて、自分を責めてた。

それだけのことだ。まあ、俺の最初の意図とは違ったけど結果オーライだろ?

さて……俺はめんどくさいことになる前に消え……ようと思ったけど遅かったな。」



青年が見た先に、大臣達が走って来るのが見えた。

騎士が呼んで来たらしい。



「王子が生き返ったとは誠か!」



口々に言い、部屋へと駆け込んで来る。その、一番後ろに居た大臣が青年を見、はっと息を飲んだ。



「あ……あなたは!」



まるで悪戯を見つかった子供のように、青年がバツの悪い顔をする。



「見つかっちゃったなぁ……。」

「あなたは賢者様ではありませんか!なぜここに?」



『賢者』と呼ばれた青年は、ごまかすように笑う。


 

「あんた長生きだねぇ。久しぶり~。」

「久しぶり、ではございません!では、王子を生き返らせてくださったのは賢者様ですか?」



賢者は肩をすくめ、また笑った。

 

「あんたねぇ、俺にそんな力があるわけないでしょ?

そういう思い込みがいけないの。

だいたい、人を賢者だなんだってサンザン持ち上げといて

俺のことなんてすっかり忘れちゃってんじゃないの。

いい加減、なんかあった時だけ頼んの、やめてくんないかなあ?」



彼のその毒舌も照れ隠しの冗談だ、と王子は笑った。賢者はその王子に優しく微笑む。



「まあ、お前たちはこれから始まるんだ。せいぜい幸せになってくれよ。」



じゃ、と彼は軽く手を振り、皆があっと言う間もなく突然に窓からその身を投じる。

小さな悲鳴が部屋中で起こり、皆は呆然と窓を眺めて立ちすくむ。


窓の外に、大きな鷲が一羽、優雅に翼をはためかせて飛び去った。

王子はその動きに、なぜか賢者の姿を見い出していた。

 

〈完〉





◆----◇ あとがき ◇-----◆


最後まで読んでくださり、誠にありがとうございます。

この作品、初出は2003年(だったと思う)。


自分のホームページを作ることが流行っていた時期に書いたもので、拙いながらもネット上で公開していました。

童話風に書いてみたくて、各キャラクターに固有名詞を付けず書く、という実験的な方法(←自分の中で)を使ってました。


現代によみがえらせるに当たり、もともと童話風なので「今時の表現に合わない!」なんてことも少なく、ちょっと手直ししただけで公開しました。


もしかしたら、これの続編があるかもね?

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西の森の賢者 紅月蔵人 @kraud_k

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