第40話

 天気の気まぐれで一桁まで気温が落ち込んだある日、俺と七瀬さんは、いつものように河川敷に座ってはいるものの、会話も途切れがちだった。


 言葉を発するたびに、口の中の温かい空気まで奪われていくような気がしたからだ。


「……寒いね」


 俺がぼそっと呟くと、隣の七瀬さんも「私も」とマフラーに顔をうずめながら頷いた。


 彼女の首には、上品なクリーム色の、厚手で、見るからに温かそうなマフラーが巻かれている。


「陽介、寒いのは平気な方だと思ってた」


「平気かどうかと我慢できるのは違うんだよね。多分、ここアラスカだよ。それか北欧」


「ふふっ、大げさだなあ。オーロラなんて見えないよ」


 彼女はくすくすと笑った。そして、次の瞬間、思いもよらない行動に出る。


「じゃあ特別に。温かさをお裾分けしてあげよう」


 そう言うと、彼女は自分の首に巻かれていたマフラーの端をするりと解いた。そして俺の方へと体を寄せる。


「え、ちょ、七瀬さん!?」


 俺が戸惑うのを気にも留めず、彼女はそのマフラーを俺の首にくるりと巻き付けた。2つの首が一セットになる。


 心臓が、どくんと、大きく跳ねる。


 一本のマフラーが、俺と彼女の首を、一緒に包み込んでいる。必然的に、俺たちの顔の距離は、今まで経験したことのないくらい、近くなっていた。肩と肩が触れ合い、彼女の体温が、マフラー越しに、じわりと伝わってくる。


「……どう? 温かいでしょ」


「あ、うん……温かい、けど……」


 温かいのはマフラーのせいだけじゃない。急接近した彼女の存在が俺の体温を急激に上昇させていた。


 どこを見ればいいのか分からない。視線を彷徨わせた先、俺の頬をかすめる彼女の髪。潤んだ大きな瞳。ほんのりと赤らんだ頬。その全てが、俺の思考を麻痺させていく。


 その時だった。


 俺の首元に巻かれたマフラーの端に、小さな刺繍が施されているのが、目に入った。


 丁寧な、それでいてお洒落な筆記体で、アルファベットが一文字、『N』と縫い付けられている。


 N。七瀬さんのN。


「この刺繍……」


「あ、これね。お母さんがくれたんだ」


「『N』って七瀬のNなの?」


 俺の問いに、彼女はすぐには答えなかった。ただじっと俺の目を見つめ返す。


 その瞳の奥は、いつものようにキラキラと輝いていて、何を考えているのか全く読めなかった。


 やがて、彼女の唇の端がゆっくりと持ち上がる。


 それは、小悪魔的で、楽しんでいるような、にやりとした笑み。


 彼女は俺たちの間の数センチの距離を、甘い吐息で満たしながら口を開いた。


「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」


 謎めいた、肯定でも否定でもない、絶妙な答え。


「どっち!?」


「ふふっ、さてさて、どうだろうね。気になる?」


「うん。だってさ、お母さんからのプレゼントだとしたら、刺繍に入れるのは名前のイニシャルのはず。だから、七瀬さんの七瀬っていうのが名前なのか、あるいは名前は別のNから始まるのか、とか考えてた」


「あ、そういうことぉ……じゃ、名前はナナってことで」


「ナナセナナ!? 名前がほぼ『な』で構成されてるよ!?」


「ふはっ……『な』が4つもあるね。名無しだ、名無し。名前があるのに名無しだよ」


「そんなずっと付き合ってきた名前で今新しい発見をしなくても……」


「や、言えてるね。ま、そもそも私の名前、ナナじゃないし」


「そうなの!?」


 結局七瀬さんのフルネームはわからずじまい。謎ばかりが深まっていく。


「七瀬さんって未だに謎だらけだ……」


「や、私からすれば陽介もだよ。思考回路がブラックボックスすぎてさ。だから面白いんだけどね」


 七瀬さんはそう言って更に俺の方に身体を近づけ、頭を傾けて俺の横につけてきた。


「なっ……何!?」


「テレパシーを送ってみてる」


「ゼロ距離テレパシーじゃん」


「や。確かに。遠隔じゃないし、ただのパシーだね」


 パシーってなんだ?


「あ、陽介。今『パシーって何?』って思った?」


「えっ!? 本当に分かるの!?」


「ふはっ……当たった。ただのまぐれだよ。テレパシーで私の名前を送ってみたんだ。受信できた?」


「いや……七瀬さんは七瀬さんのままだよ……」


「ん。ならそれで」


 七瀬さんは隣で微笑むと空を指さして「あ、オーロラだ」と言った。


「本当に!?」


 俺は慌てて空を見上げる。


「ふはっ……引っかかった。陽介は素直で可愛いなぁ」


 七瀬さんはケラケラと笑いながら、犬でも愛でるように、俺の頭をクシャクシャにしてきた。


―――――


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