第39話

 居酒屋で個室の引き戸を閉めた瞬間、駅前の喧騒がまるで夢だったかのように遠ざかっていく。


 暖色の照明に照らされた、二人だけの空間。


 さっきまでの、路上でのあの不思議な高揚感が、今度はじんわりと体の芯を温めるような心地よい親密さに変わっていた。


 二人でタブレット端末を見ながら飲み物を選ぶ。レモンサワーを目にした瞬間、同時に手が伸びた。


「とりあえず、これかな」


「ん。私も」


 お決まりのやり取りで最初の注文を終えると、熱いおしぼりで冷えた手を温めながらメニューを眺める。


「手書きの『本日のおすすめ』あるよ」


「ん。良かった」


「達筆すぎてところどころ読めないけど……」


「や、でもさ、こういうのがいいんだよね。おっ、名物『げんこつ唐揚げ』だってさ。これいってみよ」


 七瀬さんは本当に楽しそうに笑っていた。路上で、見ず知らずの人たちと一緒に踊っていた時の、弾けるような笑顔とは違い、もっと穏やかで、安心しきったような優しい笑顔だ。


 やがて、運ばれてきたレモンサワーで乾杯し、いくつかの料理がテーブルに並んだ。その中でも、ひときわ強い存在感を放っていたのが、握りこぶし程もある鶏の唐揚げだった。


「や……でっか。見てよ。私の手より大きい」


 七瀬さんは握りこぶしを唐揚げの横に置いて大きさを比べている。


「それは七瀬さんの手が小さいだけじゃないの……?」


「手は小さいねって言われる方が褒められてるのかな?」


「うーん……そうじゃない?」


「なるほどぉ……小さい方が褒め言葉になるのって顔くらいだと思ってたよ。基本、デカいほうがいいじゃん? なんでもさ」


 七瀬さんは無意識に胸をテーブルの上に置くように身体を前に倒した。


「なっ……なんでも、ね」


「ん。なんでもだよ。例外は顔。一応、手も追加しといてあげるけどさ」


 七瀬さんはニシシと笑いながらパーにした手のひらを俺に見せてくる。


 深く考えずに手のひらを重ねると、七瀬さんは「そんなに変わらないよ」と言って笑いながら手を引っ込めた。確かに、そんなに手の大きさは変わらない。


「それだけ唐揚げがでかいってことか……」


「ん。でかいは正義……だけど、これ5個セットなんだね」


 七瀬さんは皿をじっと見つめる。更には唐揚げが5個盛られていた。


「うん。5個だね」


「5個って……一番中途半端じゃない?」


「そう?」


「そうだよ。だって、割り切るためには5人組で来ないといけない。二人だと最後の一つを取り合うことになるし、三人だと一人は負けちゃう、四人だと一人勝ち。六個にしとけば、二人でも三人でも割り切れるし、四人でも一つと半分にすれば全員に平等に割り振れるわけで」


「まぁ……確かに」


「つまり、この唐揚げはただの唐揚げじゃないんだよね。争いの火種だよ」


 七瀬さんは皿の脇に添えられたレモンこと、元祖『争いの火種』を別皿に避けながらそう言った。


「争いの……火種……」


「ま、とりあえず食べよっか。争いはこの後だよ」


 七瀬さんは肩を竦めると一つを取り皿に持っていき、豪快にかぶりついた。


 ◆


 時間はあっという間に過ぎていく。


 そして気づけば、唐揚げは一つだけぽつんと、皿の真ん中に取り残されていた。


 その最後の一個を俺たちは同時に視界に捉えた。


 これまでほとんど無意識にお互いが食べるペースを調整していたのかもしれない。最後の一個問題。これは人間関係において極めて重要な局面だ。


 普通、このシチュエーションではお互いに食べたいはず。そのラスト一個を譲り合うというのが七瀬さんの言っていた『争いの火種』なんだろう。


 しかし、でかい唐揚げを2つも食べた結果、3つ目は要らないというのが双方の暗黙の主張に感じられた。


「……七瀬さん、最後の一個、どうぞ」


 沈黙を破り、俺は権利放棄を宣言した。


「や、陽介が食べていいよ」


 七瀬さんは唐揚げはもう見たくないとばかりに小刻みに首を振りながらそう言った。


「おっ、俺はもう結構食べたし」


 七瀬さんは、にっこりと微笑みながら、綺麗に首を横に振った。


「や、男の人の方がいっぱい食べるでしょ。それに、私はさっきポテトサラダも食べたから」


「七瀬さんの方が、さっき路上でくるくる回って、カロリー消費したんだから。栄養補給しないと」


「陽介だって、あのぎこちない盆踊りで、無駄な筋肉いっぱい使ったでしょ」


「盆踊りじゃなくて、アイリッシュダンス!」


 不毛な押し付け合い。預言者七瀬さんの『争いの火種』という言葉はあながち間違ってはいなかったようだ。


「や……ほっ、ほら! 私はスタイルを維持しないといけないわけで! 仕事だから!」


「女の子は皆そうだとは思うけど……スタイリストでしょ? アイドルじゃあるまいし……」


「あ……じゃ、じゃ、じゃ、あっ、アイドルになる!」


「えぇ……」


 七瀬さんが流れでアイドルデビューを決心してしまった。


「このからあげによってアイドルたる私のビジュアルが損なわれるリスクがあると。それはだめだよね?」


「大丈夫。唐揚げ一つで崩れるようなビジュアルじゃないよ」


「ま……そ、それはそう……」


 七瀬さんは顔を赤くして照れながら頬をかいた。


 その隙に唐揚げの乗った皿を七瀬さんの方に押し込む。


「あ、陽介ぇ……それはズルいよぉ……これ、食べてくれたら陽介のこと大好きになるんだけどなぁ」


「唐揚げで買える愛に興味はないね」


「唐揚げで買える愛……?」


 七瀬さんが首を傾げたところで、二人してぷっと吹き出す。


「……じゃあさ」


 俺はついに画期的な解決策を思いついた。


「半分こにしようか」


 その提案に七瀬さんは一瞬きょとんとした顔をして、そして声を上げて笑い出した。


「ふふっ、なにそれ。子供みたい」


「だって、このままだとこの唐揚げ、永遠に食べてもらえないし」


「ん。そうだね。そもそも私が頼もうって言ったわけだし、むしろありがたい提案でもあるよね。ありがと、陽介」


 七瀬さんの合意が得られたので、箸を手に取り、皿の上に鎮座する最後の唐揚げを慎重に、そして、できるだけ公平になるように二つに分けた。


 そして、その片方を彼女の取り皿にそっと置く。


「はい、どうぞ」


「……どうも」


 顔を見合わせて、同時にそれぞれの唐揚げを口に運ぶ。ラスボスの討伐はこれにて完了だ。


「ね、陽介」


「何?」


「基本なんでもデカいほうがいいって言ったけど、そうじゃないね。ちょっと大きいくらいがちょうどいいんだ。デカすぎるのは大変だよね。なんでもさ」


「な……なんでもね」


「ん。なんでもだよ。平均よりちょっと大きいくらいが一番だよね」


「かっ、唐揚げの話だよね……?」


「当たり前じゃん。他に――」


 七瀬さんはそこで言葉を切り、顔を真っ赤にして「なーにを言ってんだか。そういうとこは反応が鈍くないね」と呆れた様子で俺を見てきた。


―――――


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