第38話

 十一月も終わりに近づき、一層寒さが強まったこの日の夜の河川敷は、もはや修行の場と化していた。


「さ、寒い……さすがに、もう缶チューハイは厳しい季節になってきたね」


「ね。指先の感覚が、缶の冷たさで麻痺してくる。おぉー……寒い寒い。陽介ぇ……凍えるぞぉ……」


 俺と七瀬さんは、いつもの河川敷で体を縮こまらせていた。川を渡る風は、遠慮なくジャケットの隙間から入り込んで、体温を奪っていく。


「ね、陽介。今日はさすがに外はやめとこ。どこか暖かいところに行こうよ」


「暖かいところ?」


「ん。居酒屋とか、そういうとこ。ま、陽介が明日何もなければだけど」


「仕事くらいしかないよ」


「ふふっ……なら大丈夫だね。軽く飲んで帰ろ。私は……個室希望」


「探してみるかぁ……何系の居酒屋がいい? 焼き鳥とか、海鮮とか」


「ジャンルはなんでもいいけど、メニューに手書きの『本日のおすすめ』とかあると、ちょっとテンション上がる」


 二人で立ち上がり、店を探しながら駅前に向かって歩き出す。七瀬さんは駅前ということもあり、深めに被ったニット帽子にマスクに眼鏡と変装のフルセットだ。本人は防寒だと言っているけれどそっくりさんだというのにここまでしないといけないのは可哀そうにすら思えてくる。


 ふと、駅前の広場の方から、軽快で、なんだか楽しげな音楽が聞こえてきた。


「ね、陽介。なんだろうね、この音。祭り囃子とも違うし……」


「あれじゃない? アイリッシュ音楽みたいなやつ」


「あー……そういう系かぁ……」


 彼女はそう言って、音のする方へと足を向けた。広場には小さな人だかりができている。


 その中心にいたのは、アコースティックギターを抱えた男性と、ヴァイオリンを弾く女性の二人組。彼らが奏でているのは、陽気な異国情緒のある音楽だった。


 数名の男女が曲に合わせて踊っている。いずれもそこそこに酔っていそうな人達だ。


「あ、この曲知ってる。映画の『タイタニック』で、ジャックがローズを三等客室のパーティーに連れて行くシーン、あったでしょ。あの時の音楽だよ」


「ああ! あの、テーブルの上でつま先立ちで踊るやつ!なるほど、あれか!」


 荒っぽいヴァイオリンの音色が楽しげに駆け回る。それを追いかけるように、ギターが小気味良いリズムを刻む。


 自然と足でリズムを取りたくなるような、不思議な引力のある音楽だ。


 俺たちの体は一本だけの缶チューハイのせいで心地よく、そして、少しだけ大胆になっていた。


「ねえ、陽介」


 音楽に身を任せるように、体を小さく揺らしていた七瀬さんが、悪戯っぽく笑って、俺の手を引いた。


「え?」


「ちょっとだけ、踊ろ」


「いやいや、無理だって! こんなところで! 俺、踊れないし!」


 俺が慌てて手を引こうとするが、七瀬さんは思ったより強い力で俺を輪の中心近くへと引っ張り出す。


 そして、映画のワンシーンみたいにくるりと一回転してみせた。その動きに合わせて彼女の髪の毛先がふわりと夜風に舞う。


 周りの人々の視線なんて、もう気にならなかった。軽快な音楽とアルコールと、そして目の前で心から楽しそうに笑う彼女の笑顔。


 その全てが、俺の理性のタガを、いとも簡単に外してしまった。


 俺は、彼女の手を取り見よう見まねでステップを踏む。もちろん上手く踊れない。ぎこちなくて、不格好で、まるで盆踊りみたいだったかもしれない。


 でも、それで良かった。


 手を取り合ってくるくると回る。時々足がもつれて、よろけて、二人で顔を見合わせて笑い合う。寒いのも、人目も、明日が仕事だという事実も、全部がどうでもよくなっていた。


 やがて、一曲が終わり演奏していた二人組に、周りから温かい拍手が送られる。俺たちの魔法の時間も、終わりだ。少しだけ息を切らしながら、繋いだままだった手に気づいて、慌ててそれを離した。


「ははっ……七瀬さん、上手だったね」


「陽介、すごいぎこちなかったよ。ロボットみたいだった」


「俺なりに、アイルランドの魂を表現したつもりだったんだけどなぁ」


「や、魂は微塵も感じなかったよ」


「まじか……」


 軽口を叩き合いながら笑う。さっきまでの寒さが嘘みたいに、体の内側からぽかぽかと温かくなっていた。


 少しだけ名残惜しい気持ちを振り払うように「さて」と声を出す。


「ちゃんと温まりに行こうか」


 俺の言葉に七瀬さんはこくりと頷く。その頬は、寒さのせいかアルコールのせいか、それともダンスのせいか、ほんのりと赤く染まっていた。


 俺たちは賑やかな広場を後にして、駅前の灯りが並ぶ路地へ、個室の落ち着いた居酒屋に向かって歩き始めた。


―――――


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