第37話
マネージャーの黒田さんとの会話を終えてから、俺の頭の中は一つの疑問符でいっぱいになっていた。
『本人だと思われたくないから、嘘をついているんです』
黒田さんの言葉が、何度も脳内で再生される。馬鹿な話だ。七瀬さんが、あの国民的アイドルの夕薙凪? ありえない。俺が会っているのは、あくまで彼女の「そっくりさん」のはずだ。
でも、頭の片隅で、今までの出来事がパズルのピースのようにカチカチと音を立てる。フェスで歌詞を飛ばしたこと。強烈なニンニクの匂い。そして、夕薙凪として俺の前に現れた、あの夜のこと。
……確かめなければ。
詮索するのは野暮だ。嘘を暴くなんて最低の行為だ。でも、この目でもう一度ちゃんと、彼女の顔を見て俺の中で結論を出したい。夕薙凪と七瀬さん。二人が、本当に「そっくりさん」と「本人」なのかを。
そんな決意を胸に、俺はいつもの河川敷へと向かった。そこには見慣れた後ろ姿がすでにちょこんと座っていた。
「七瀬さん、お疲れ」
「あ、陽介。おっつー」
俺は、彼女の隣に腰を下ろした。いつもなら、ここから他愛のない会話が始まるはずだった。でも、今日の俺は違う。ミッションがあるのだ。
俺は何も言わずに隣に座る七瀬さんの横顔をじっと見つめる。
街灯の淡い光に照らされた、長いまつ毛。すっと通った鼻筋。少しだけ、形のいい唇。頭の中に、雑誌で見た夕薙凪の顔を思い浮かべ、必死に比較検討する。
「な、な、なに? 顔に……ごはん粒とかついてる? それか芋けんぴ?」
俺の、あまりにも露骨で真剣な視線に気づいた七瀬さんが、居心地悪そうに身じろぎした。その声が少しだけ上ずっている。
「あ、いや、別にそういうわけじゃ……」
俺が言葉を濁すと、彼女はこれ以上ないというくらいにぷいっと顔をそむけて、川の向こう岸を眺めてしまった。その耳がほんのり赤い。まずい。これでは肝心の顔が見えない。
「七瀬さん」
「……なに」
「いや……なんでもないけど。呼んだだけ」
俺は、なんとかして彼女の顔を見ようと、体を少しずつ彼女の方へと傾けていく。それに気づいた彼女は、さらに頑なに、あっちを向いてしまう。
こうなったら、仕方ない。
俺は、すっくと立ち上がった。そして回り込み、彼女の正面に立った。
「ちょ、陽介どうしたの!?」
突然、目の前に現れた俺に、七瀬さんが素っ頓狂な声を上げる。その顔は、驚きと、羞恥で、もう、はっきりと赤く染まっていた。よし、今だ。俺は、その顔を、目に焼き付けるように、じっと、まじまじと見つめた。
SNSの写真は加工されているはずだが、比較には使えない。記憶の中の夕薙凪と突き合わせてみると、確かに似ている。それは前から分かっていること。ホクロや鼻、そう言った特徴づける決定的な要素が見つからない。
「……」
「……だからなんなのさっきから!」
耐えきれなくなったのか、彼女はまたしても、ぷいっと今度は逆方向に顔をそむけた。その猫みたいなしぐさに、俺の心臓が少しだけきゅっとなる。いかんいかん、今は調査中なんだ。
俺は諦めなかった。
そむけられた顔を追いかけるようにさらに回り込む。右に左に。彼女が顔をそむけるたびに、俺はそれを追いかけて回り込む。
河川敷のベンチの前で、顔を見たい男と絶対に見せたくない女の、静かで奇妙な攻防が繰り広げられていた。
そして、ついに、彼女の堪忍袋の緒が切れた。
「もうっ!」
悲鳴のような怒鳴るような声。彼女は勢いよく立ち上がると俺の目の前にずいっと迫ってきた。そしてその両手で俺の頬をがしっと掴んで固定する。
「や、わかった。わかったから。そんなに見たいなら、好きなだけじっくり見ていいよ。ただしちゃんと感想を述べること。いいね?」
やけくそになった彼女は、そう叫んだ。でも、その目は恥ずかしさで、ぎゅっと固く閉じられている。俺の顔に触れている彼女の手は、少しだけ震えていて、ものすごく熱かった。
俺は突然の出来事に、心臓が跳ね上がるのを感じていた。でも、これはチャンスだ。俺は目の前にある彼女の顔を、今度こそ穴が開くほど見つめた。
閉じられたまぶたが、ゆっくりと開かれる。そこには潤んだ大きな瞳があった。
その瞳が不安と恥ずかしさと、ほんの少しの期待が入り混じった、複雑な色で、俺のことだけをまっすぐに映している。
雑誌で見た、完璧に作り上げられたアイドルとしての「夕薙凪」の顔が、頭の中で、目の前の、この表情と重なって、そして、溶けていく。
長い、長い、沈黙。
やがて俺の口から調査の最終結論が静かにこぼれ落ちた。
「……やっぱ。本物より可愛い」
いや、そういう話じゃなかったわ! 口が滑った!
俺の言葉に七瀬さんの大きく見開かれた瞳が、さらに大きくこぼれ落ちそうなくらいに見開かれた。俺の頬を掴んでいた彼女の手から、ふっと力が抜ける。
「へっ!? ……あ……」
「あっ……い、今のはその……ほ、本音というか本音ではあるんだけれど、そういう目的じゃなかった! そっ、それにそういう意味じゃないというか……えぇと……の、飲もう!」
彼女は意味のある言葉を発することができずに、ただ唇を小さく震わせた。そして、次の瞬間、その顔は今まで見たこともないくらい真っ赤に染め上がっていた。
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