第36話
仕事終わりの金曜の夜。解放感に浸りながら会社のビルを出ると、待ち合わせでもしているかのように、一人の女性が俺の前に立っていた。黒いパンツスーツにフレームの細い眼鏡。
「相川陽介さん、ですね。こちらへ」
温度のない、ビジネスライクな声。知らない人だが、名前を知られているため、素直に従って物陰に向かう。
「は、はい。そうですけど……どなたでしょうか?」
「夕薙凪のマネージャーをしております、黒田と申します。単刀直入に申し上げます。今後一切、夕薙凪と会うのはおやめください」
冷たく、有無を言わせぬ口調。ドラマでしか聞いたことのないような台詞に、俺の頭は真っ白になった。夕薙凪と会うな? 俺が? 一回だけじゃないか?
「え……っと、人違いじゃないでしょうか。俺、夕薙凪さんとは会ったことないですけど」
「とぼけないでください。河川敷で、夜な夜な密会を重ねていることは、調査済みです」
「あぁ……いや、あれは夕薙凪さんじゃなくて……」
俺は、ようやく状況を理解して、慌てて説明した。
「俺が会ってるのは、七瀬さんっていう、彼女のそっくりさんです。職業は、確かスタイリストとか……」
「スタイリスト?」
黒田さんは、心底呆れたというように、ため息を一つ吐いた。
「相川さん。あなたが『七瀬』と呼んでいる人物が、夕薙凪なんです。仕事の休みの日が、夕薙凪のオフと完全に一致していること。この前のフェスで、あなたの顔を見て、凪が歌詞を飛ばしたこと。先日、凪がバラエティ番組の罰ゲームで食べたニンニクを、その日の夜、あなたと会っていた『七瀬』さんも、同じように……臭わせていたんじゃありませんか? これだけの共通点があって、まだ、そっくりさんだと?」
黒田さんが挙げる事実は、確かに俺が経験したり見聞きしたりしたことだった。しかし、納得はできない。
「ええ。だって、そっくりさんなんですから。オフの一致は知りませんけど……ニンニクだってたまたまラーメンを同じ日に食べただけじゃないですか? 歌詞を飛ばしたのは……理由は分かりませんけど、その後、一回本物さんと会ったんです。二人は違う人だと思います」
俺があまりにも真剣にそう言うと、黒田さんは、こめかみを指でぐりぐりと押さえた。その顔には「この男、話が通じない」と書いてある。
「そもそもですけど……仮にいつも会っているのが本物だとして、なんで彼女がそこまでして『そっくりさん』のフリをする必要があるんですか?」
「それは……」
「七瀬さんが、七瀬さんじゃないって証拠を出してくださいよ」
俺は、思わず、そう言い返していた。黒田さんは、一瞬、虚を突かれたような顔をする。
「証拠、ですか?」
「はい。だって、俺は七瀬さんから、自分が夕薙凪だなんて、一言も聞いてない。本人が違うって言うなら、違うんじゃないですか」
俺のあまりにも単純な理屈に、黒田さんは、今度こそ天を仰いだ。そして、作戦を変えたのか、少しだけ声のトーンを落として俺に語りかける。
「相川さん。彼女には、メリットがあるから、そうしているんです。国民的アイドルである夕薙凪が、正体を隠してまで、あなたに会っている。それは、あなたといる時間が、彼女にとって、唯一、ただの女の子でいられる時間だから。本人だと思われたくないから、嘘をついているんです」
その言葉は説得力があった。七瀬さんの時々見せる寂しそうな顔。俺とのどうでもいい会話を心から楽しそうに笑う顔。それらが頭の中をよぎる。
もし、万が一、本当に、黒田さんの言う通りだとしたら。俺が「そっくりさん」だと信じ込んでいるだけで、本当はあの国民的アイドルが俺なんかのために、必死に嘘をついてくれているのだとしたら。
俺が、すべきことは、一つだけだ。
「……もし、本当に、黒田さんの言う通りなんだとしたら」
黒田さんをまっすぐに見つめ返した。
「その嘘には、俺は、乗っかるべきですよね」
「……え?」
「信じられないし、まったく信じてはいないですけどね、俺は。でも、もし本人が、そうやって嘘をついてまで俺に会ってくれてるんだとしたら、俺がその嘘を暴くなんて一番やっちゃいけないことじゃないですか」
息を吸って更に続ける。
「というか、正直、どっちでも良いんです。俺にとっては、七瀬さんは、七瀬さんだから。彼女の仕事が、スタイリストだろうがアイドルだろうが、そんなの俺には関係ない。ただの職業の種類の違いじゃないですか。本人が、自分は『七瀬』で、スタイリストだって言うなら俺にとってはそれが本当のことなんです」
俺が言い切ると、黒田さんは、何も言わずに、ただ、じっと俺の顔を見ていた。その厳しい目に、ほんの少しだけ、違う色が混じったような気がした。驚き、呆れ、そして、ほんのわずかな、感心のような。
やがて、彼女は、ふっと、これまで見せたことのないような、柔らかい息を吐いた。
「……分かりました。今日、私がここに来たことは、凪には内密にお願いします」
「はあ……話す機会はありませんけどね……」
「それと、これだけは。彼女を、傷つけないでください」
「それは……七瀬さんのことですよね?」
「えぇ、そうです」
「もちろんです」
黒田さんは満足気に頷くと、俺に背を向け、夜の雑踏の中に消えていった。
一人残された俺は、まだ心臓がドキドキしているのを感じていた。
「なんだったんだ、今の……」
とはいえ、河川敷ではいつものように七瀬さんが待っているはず。俺は少し駆け足で向かう。
途中、広告のラッピングをしたトラックが横を通った。そこには夕薙凪がデカデカとプリントされている。
確かに七瀬さんとそっくりだ。瓜二つ。
その夕薙凪としっかりと目が合う。
もしかしたら本当に七瀬さんは――
一瞬だけそんなことが頭をよぎるも、別にどっちでも良いこと。
(むしろアイドルだったら酒ばかり飲んでられないだろうし、週刊誌に撮られたらマズイだろうし、スタイリストの方が気楽だよなぁ……)
そんな事を考えながら河川敷へと向かった。
◆
その場を去った黒田は、スマートフォンの連絡帳を開き、ある人物の名前をタップしようとして、指を止めていた。それは、事務所の社長への報告。
そして、今後の対策。しかし、彼女の頭に浮かんだのは、そんなビジネスライクな思考ではなかった。
(あの朴念仁……本物だ。狂気じみてる鈍感……いや、むしろそれを超えた何かをもっている……)
夕薙凪という商品を、守るべき存在を、脅かす危険人物。その認識は、完全に覆された。彼が隣にいる限り、凪は、きっと大丈夫だ。危険など何もない。
黒田の脳裏に、むしろ別の考えが浮かび上がっていた。
(……むしろ、サポートしてあげたほうがいい? あの鈍さでは『七瀬』も色々と苦労しそうですし。相川陽介、面白い人ですね)
敏腕マネージャーは、心の中そう呟いて、少しだけ、笑った。
―――――
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