第33話

 その日の七瀬さんは、いつもと少し様子が違った。


 河川敷に現れた彼女はマスク姿で、どことなく、ぐったりと疲れているように見えた。


「七瀬さん、お疲れ。なんかあったの? 元気ないね……」


「ん……まあ。ちょっと、ね。元気になるアレで元気がなくなっちゃった」


 彼女がマスクをしたまま、ぼそりと答える。その声が、いつもよりか細い。よほど疲れているのだろう。


 俺が「無理しないでね」と声をかけた、その時だった。彼女が何かを言い返そうと口を開いた瞬間、マスクの隙間から、とんでもない臭いが俺の鼻を直撃した。


 それは、人類が兵器として開発したのではないかと疑うレベルの、暴力的なまでのニンニクの臭いだった。元気が出るアレというのはニンニクのことか。


 思考するより先に、俺の口からは、本能の言葉が漏れ出ていた。


「くっさ……」


 時が、止まった。


 七瀬さんは、石のように固まっている。俺は、自分が今、何を口走ったかを理解し、血の気が引くのを感じた。「しまった」と思ったが、もう遅い。


 やがて、彼女はゆっくりと、震える声で言った。


「それ、世の中の女の子に言ったらだめなことランキング、堂々の1位だからね。しかも『臭い』よりも『くっさ』の方がダメージでかいし」


「ご、ごめん! 本当にごめん! 悪気はなくて、なんていうか、あまりの衝撃に、つい……こんな可愛い人からしていい匂いじゃなくて……」


「可愛い衝撃……」


「そっ、そうそう! 衝撃。ニンニクの」


「……」


 彼女は、深くて長いため息をつくと、マスクを少しずらした。諦めの境地、という顔をしている。そして、自分の呼気の臭いで自分が「おえっ」とえずいている。


 なんでこのタイミングでマスクをずらすのかと言いたくなるのと、反射的に言いたくなる。「臭い」という言葉をぐっと飲みこみ、七瀬さんの顎に手を伸ばしてマスクを付け直させる。


「ちなみに、2位は何だと思う?」


「え、2位?」


 非難されるかと思いきや、まさかのクイズ形式。俺は、恐る恐る尋ね返した。


「……太った? とか」


「それはそれで、トップ5には入るけどね。正解は、『あれ、今日なんか雰囲気違うね』だよ」


「え、なんで!? それ、褒め言葉じゃないのか?」


 俺が素で驚くと、七瀬さんは呆れたように首を振った。


「や、『雰囲気』っていうのは、逃げの言葉なんだよ。例えば、髪を切ったり、新しい服を着たり、メイクを変えたりしたとするじゃん。その変化の具体的なポイントに気づけないくせに『とりあえず何か褒めとけ』っていう魂胆が『雰囲気』っていう言葉に透けて見える」


「なるほど……」


「それに、『いつもと違うね』っていうのは、『いつもの私はダメってこと?』っていう、面倒くさい深読みを誘発させる。褒めるなら、『その髪色、似合ってるね』とか、『今日の服、いいね』とか、具体的に言ってほしいわけ」


「勉強になります……じゃあ、3位は」


「『意外と家庭的だね』」


「ええ!?それもダメなの!?」


「ダメ。普段、私のことどういう目で見てるの?ってなる。『料理とか全くしなさそうなのに』っていう、無意識の偏見が隠れてるから」


「そんなつもりは……」


「陽介、色々と無意識だもんね。色々とさ〜」


 七瀬さんの口調は、いつもの皮肉っぽいものだが、目は笑っている。どうやら、少しは機嫌が直ってくれたらしい。俺はほっとしつつも、この危険な会話を続ける。


「じゃあ、4位は」


「『小さいのに、よく食べるね』」


「ああ……」


「小動物みたいに愛でてるつもりかもしれないけど、言われた方は、『小さい』と『大食い』っていう、矛盾した記号を貼り付けられた気分になる。あと、普通に、食べる量をジャッジされてるみたいで嫌」


「……もう、何も言えないね」


「そうだよ。褒める時も、地雷原を歩くくらいの覚悟を持って接するべき」


「地雷原!?」


「ん。そう。陽介はとんでもない地雷原に足を踏み入れたんだよ。逃げちゃだめだからね?」


 そう言って、彼女はにやりと笑った。その笑顔に、俺はもう、ひたすら頷くことしかできない。


「ふぅ……はぁ……」


「七瀬さん、なんか意識してため息を増やしてない?」


「や、気のせいだよ」


「そ、そっか……」


「や、結構悩んだんだよね。来るか来ないかさ」


「それは……来てくれて嬉しいよ」


「臭くても?」


「いやぁ……俺、鼻詰まってるし」


「ふはっ……もう遅いし」


 七瀬さんはケラケラと笑いながらマスクをずらし、俺に向かって息を吹きかけてくる。


「一周回って逆にありかも。ギャップがね」


 七瀬さんはドン引きした顔で「え゛っ……」と言い、缶チューハイ1本分の距離を開けた。今日の距離は缶チューハイ3本分。


 ◆


 数日後。俺は家で、スマホをいじりながら、だらだらとSNSを眺めていた。タイムラインをスクロールする指が、ふと、トレンドのハッシュタグで止まる。


 #凪ちゃん頑張った


 なんだろう、と思ってタップすると、短い動画クリップがいくつも並んでいた。再生ボタンを押す。そこに映っていたのは、バラエティ番組のセットで、涙目になりながら、巨大な業務用にんにくチューブに、直接かじりついている夕薙凪の姿だった。


「やー! 無理無理! ゔぉえ……ん……美味しいけど臭い〜!」


「うわ……」


 思わず声が出た。


 動画の中で、芸人たちが「アイドルに何させてんだ!」「でも、えらい!」と騒いでいる。彼女は、泣きそうな顔を必死に笑顔で隠しながら、チューブを口に運び続けていた。


 俺は、スマホの画面の中で健気に笑う国民的アイドルと、河川敷で「女の子に言ったらだめなことランキング」を語っていた、少しおせっかいな飲み友達の顔を、同時に思い浮かべていた。


 七瀬さんは単にニンニクマシマシラーメンでも食べたんだろうけど。


「アイドルも、そっくりさんも……どっちも、大変だなあ」


 俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。


 秋の夜長に、SNSのタイムラインだけが、煌々と光り続けていた。


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