第52話「三人の指導力」

 翌日の放課後、古道具屋「目黒」を訪ねる予定だったが、雨が降り始めた。


「申し訳ありません」


 田辺先生が教室で言った。


「この雨では、八人全員で移動するのは大変です。明日に延期しましょう」


 みずきは内心ほっとした。一日延期になれば、目黒さんに事前に相談できる。


「それでは、今日は教室で稽古を続けましょう」


 恵奈えなが提案した。


「昨日の問題点を、みんなで解決してみませんか」


 八人が円になって座った。雨の音が窓を叩いている。


鶴田つるた君」


 みずきが優しく言った。


「昨日の演技の件ですが、一緒に練習してみませんか」


「でも、どうやって?」


 修一が困ったような顔をした。


「まず、台詞の意味を考えてみましょう」


 みずきが脚本を開いた。


「この場面で、鴉川からすがわさんはどんな気持ちなのでしょう」


「えーと」


 修一が脚本を見つめた。


「お客さんが困っているから、助けてあげたいと思っている?」


「そうですね」


 みずきが頷いた。


「では、あなたが誰かを助けたいと思った時のことを思い出してみてください」


 修一が少し考えた。


「妹が転んで泣いていた時かな」


「その時、どんな声で話しかけましたか?」


 みずきが聞いた。


「優しい声で、『大丈夫?』って」


「それです」


 みずきが微笑んだ。


「その気持ちで台詞を言ってみてください」


 修一が再び台詞を読んだ。今度は、昨日よりもずっと自然で温かい声だった。


「素晴らしいわ」


 まゆみが感心した。


「さっきとは全然違う」


 恵奈もみずきの指導法に感心していた。技術的なことを教えるのではなく、気持ちから入るアプローチだ。


雀部ささべさん」


 小瑠璃こるりが恵奈に声をかけた。


「あなたも試してみませんか」


「わたしが?」


 恵奈が驚いた。


「ええ」


 小瑠璃が微笑んだ。


「あなたは観察力が鋭いですから、きっと良い指導ができますわ」


 恵奈は鷲尾わしおたけしの商人役の指導を引き受けた。


「たけし君、この商人はどんな人だと思う?」


 恵奈が脚本を指差した。


「商売に失敗して、困っている人かな」


 たけしが答えた。


「そうね」


 恵奈が頷いた。


「では、あなただったら、どんな時に一番困る?」


「テストで悪い点を取った時とか」


 たけしが苦笑いした。


「その時、どんな気持ち?」


「情けないし、どうしようって焦る」


「それよ」


 恵奈が言った。


「その気持ちを思い出して、台詞を言ってみて」


 たけしが台詞を読み直すと、確かに困った人の心情が伝わってきた。


 小瑠璃は、まゆみの町の人役の指導を始めた。


「この場面は、最初は鴉川さんを疑っているのですが、だんだん理解していく過程ですわね」


 小瑠璃が丁寧に説明した。


「疑いから理解への変化を、台詞の調子で表現してみませんか」


「どうやって?」


 まゆみが聞いた。


「最初は冷たく、だんだん温かくなるように」


 小瑠璃が実演してみせた。同じ台詞でも、声の調子によって印象が全く変わる。


「なるほど」


 まゆみが感心した。


「青山さん、上手ですね」


 三人がそれぞれ指導している間に、他の生徒たちも互いに教え合い始めた。みずき、恵奈、小瑠璃の方法を真似して、気持ちを込めて演じる練習をしている。


「みんな、とても上達していますね」


 田辺先生が感心して言った。


「三人とも、指導が上手です」


 みずきは嬉しかった。万年筆の力を使わなくても、みんなで協力すれば問題を解決できる。


 一時間ほど練習すると、クラス全体の演技レベルが目に見えて向上していた。


「すごいじゃない」


 まゆみが興奮して言った。


「今日だけで、こんなに変わるなんて」


「三人の指導のおかげですわね」


 鷲尾たけしも感謝していた。


 雨が小降りになってきた頃、みずきは提案した。


「場面転換の問題も、みんなで考えてみませんか」


「そうですね」


 恵奈が賛成した。


「まず、どの場面でどんな舞台が必要か、整理してみましょう」


 八人で脚本を見直した。鴉川屋の店内、町の広場、お客さんの家。確かに、場面転換が多い。


「全部の場面で大道具を変えるのは大変ですわね」


 小瑠璃が指摘した。


「何か工夫が必要です」


「照明で表現するのはどうかしら」


 まゆみが提案した。


「明るいところと暗いところで、場面を分ける」


「それは良いアイデアね」


 恵奈が感心した。


「でも、学校の照明設備で可能かしら」


「象徴的な小道具を使うのはいかがでしょう」


 みずきが提案した。


「鴉川屋の場面では古い家具、町の広場では看板、お客さんの家では日用品」


「なるほど」


 修一が頷いた。


「最小限の道具で雰囲気を作るわけですね」


 田辺先生が時計を見た。


「今日はここまでにしましょう。明日、古道具屋の目黒さんを訪ねて、小道具について相談してみましょう」


 生徒たちが帰り支度を始めた時、恵奈がみずきに近づいてきた。


「みずきちゃん、今日の指導、本当に上手だったわ」


「ありがとう」


 みずきが微笑んだ。


「でも、恵奈ちゃんも小瑠璃ちゃんも素晴らしかった」


「わたくしたち、良いチームですわね」


 小瑠璃が嬉しそうに言った。


「それぞれの得意分野を活かして」


 三人は一緒に学校を出た。雨は止んで、夕日が雲の間から顔を出している。


「明日、目黒さんに相談するのね」


 恵奈が言った。


「少し緊張するわ」


「大丈夫よ」


 みずきが答えた。


「目黒さんは、きっと協力してくださる」


 でも、みずきの心には一抹の不安があった。クラス全体で古道具屋を訪ねて、万年筆のことは大丈夫だろうか。


「みずきさん」


 小瑠璃が気づいたように言った。


「何か心配ですか?」


「少しだけ」


 みずきが正直に答えた。


「でも、きっと大丈夫」


「そうね」


 恵奈が力強く言った。


「三人で協力すれば、どんなことでも乗り越えられるわ」


 家に帰って、みずきは万年筆を手に取った。


「今日は、あなたの力を使わずに問題を解決できました」


 みずきが万年筆に話しかけた。


「でも、明日は少し心配です」


 万年筆が、いつもより温かく感じられた。まるで、「大丈夫」と言ってくれているかのように。


 みずきは今日の出来事を振り返った。三人で協力して、クラスメートたちの演技を指導できた。万年筆の力に頼らなくても、みんなで知恵を出し合えば、困難を乗り越えられる。


 でも、明日の古道具屋訪問は、新しい挑戦になるだろう。みずきは期待と不安を胸に、静かな夜を迎えた。

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