第8話
蜜の核酒の温もりがまだ舌先に残り、伶の涙を含んだ笑顔が今も目の前に浮かぶような気がした。だが、流刑の地は、そんな優しさに浸る時間など決して与えてはくれなかった。
ほんの二日後、冷徹な任務通知が我々の生活を突き破った――流刑の地の都市周縁に近い、旧鉱山の奥深くで、異常に高強度のエネルギー反応が検知された。波形解析の結果、それは鋼脊骸(スティールスパイン)の亜種、不安定な「孵化期」にある個体を示していた。
そのエネルギーの荒ぶりは、近隣の廃墟化した情報収集拠点を脅かすだけでなく、他の骸たちをも引き寄せる恐れがあった。
「骸が孵化だって? このクソったれな土地、ホントに俺たちを生き延びさせる気ねえんか!」
熊さん(クマ)は苛立ちを込めて唾を吐くと、新しく腐蝕加工を施した散弾を、改造散弾銃のドラムマガジンに、金属同士が鈍く殺気立った音を立てて詰め込んだ。彼は俺を振り返り、最初の審視の目はもうなくなりつつも、複雑な眼差しを向ける。
「小僧、今度のは探検じゃねえ、本物の戦いだ。死ぬのが怖けりゃ、今ここで辞退しても構わねえぜ。」
心臓が激しく鼓動した。恐怖からではない。伶の顔、蜜の核酒の甘い香り、生死の境を飛び交う熊さんや桐谷(キリタニ)の姿…それらが交じり合い、熱い力となって湧き上がった。
錆とオイルの匂いが充満する空気を深く吸い込み、同じく応急のエッチング処理が施された合金製ショートスピアを握りしめ、声は思った以上に落ち着いていた。
「俺は戦い続ける。奴らを根絶やしにするまでな。」
熊さんは一瞬だけ呆けたように止まった後、豪快で大きな笑みを顔いっぱいに広げた。
「行くぜ! やるじゃねえか!」
彼はゴツンと俺のショルダーアーマーを叩いた。
「鈴賀(スズガ)! 小僧の面倒、見とけ! 桐谷! 左前衛、道を開けろ! 静粛に、潜り込むぞ!」
旧鉱山の内部は、無数の世代のスクラップハンターやメカニカルワームによって既に空洞化され、巨大な岩窟は太古の巨獣の腹の内臓のようで、深く、複雑だった。
廃れた鉱車のレールは歪みながら闇の奥へと伸び、巨大な放棄された通風管は、頭上の天井に死んだ大蛇のように絡みついている。
空気には濃い鉄錆の匂い、染み出る水の生臭さ、そしてかすかにだが、総毛立つような酸っぱい腐敗臭が漂っていた。
「ストップ!」
桐谷の声が薄暗い光の中から響く。彼は振り返らず、我々に潜伏を促した。桐谷の視線の先を辿ると、巨大な洞窟の中央、比較的平坦な鉱滓(こうさい)の山の上に、その“何か”がうずくまっていた。それは無音無言ながら、息苦しいほどの威圧感を放っている。
「鋼脊骸・石剥き(いしはぎ)亜種だ…!」
熊さんがほぼ歯の間からその名を絞り出した。
「案の定、『巣作り』中か!」
目の前の化け物は、前に遭遇した“号哭骸(ごうこくがい)”よりも巨大で、より凶悪だった。
本体は巨大な機械蜘蛛のようだが、全身を覆っているのは単なる装甲板ではなく、ゴツゴツと入り組んだ、灰色がかった黒い結晶のような甲殻だった。これらの「岩」のような甲殻の隙間には、時折、暗赤色の生物組織がちらつき、まるで溶岩が流れているようだ。
八本の肢は橋脚のように太く、先端は鋭い刺爪になっている。
巨大な背骨は高くそびえ立ち、数十本もの鋭く不規則な角柱状の結晶で構成されており、その先端には危険な冷たい光と細かい電弧が走っている――防御だけでなく、これは主たるエネルギー器官だった。
最も恐ろしいのは、その腹部の下方だ。そこはもはや単なる金属構造ではなく、粘稠(ねんちゅう)な、半透明の琥珀色をしたゼリー状の物質に覆われていた。その層の内側には、心臓のように微かに鼓動する、ぼやけた巨大な卵状の影が見える。
無数の太い、半ば金属、半ば血肉のような管状器官が、化け物の体から伸びて、下の鉱滓に深々と喰らいつき、何かを貪るように吸い込んでいる不快な「ジュッ…ジュッ…」という音を立てていた。
ガシャガシャガシャッ…
辺りの悪臭が突然、一気に強まった。
「やべえ、目を覚ますぞ!」
桐谷の叫び声とほぼ同時に、山のようにうずくまっていた骸が動いた。
ドオーーン! ガシャッ!
予兆もなく、その右側の肢ががっしりと持ち上がり、我々の潜伏ポイントの前方10数メートルにある、洞窟を支える石柱めがけて轟然と叩きつけられた。
巨大な衝撃音はなかった。岩が高速で粉砕されるような、骨の髄まで震える鈍い響きだけだ。
堅固な石柱はその恐るべき怪力の前で一瞬にして蜘蛛の巣状の亀裂が走り、砕け散った岩塊が砲弾のように飛散した!
「散れ!」
熊さんの絶叫が道を示した。
ドオーン! ドオーン! ドオーン!
目を覚ました! 三本の肢は無慈悲な破壊機関と化し、狂ったように、無秩序に地面を、岩壁を、支柱を轟撃する。
一撃ごとに、小さな地震が発生する。砕けた岩が土砂降りのように降り注ぎ、緩んだ岩が天井からザアッと死の流星群のように落ちてくる。
「援護! 制圧射撃だ! 注意を逸らせ! 鈴賀、小僧にチャンスを作れ!」
熊さんが咆哮する。彼の手にした太い散弾銃の銃口が、化け物の結晶質の頭部めがけて火を噴く。
バン! バン! バン!
特製の蝕骨弾(しょくこつだん)が硬い結晶表面に灰緑色の腐蝕雲を爆ぜさせ、「ジジジッ…」という恐ろしい音を立てた。結晶は醜い凹みを溶かされてできたが、貫通はしなかった! 化け物は首を揺らしただけで、さらに多くの電弧が背中の結晶の間で激しく走った。
それは脅威を感じ取った。体中から、無数の岩が擦れ合うようなしわがれた咆哮がこだまする。攻撃はますます狂暴になり、一本の肢が宙を切るように振られ、凄まじい風切り音を立てて、熊さんの方向めがけて猛烈に打ち下ろされた。
熊さんは咆哮すると、退くどころか、千鈞一髮の間に驚異的な力を爆発させ、体ごと横に転がるような、危うくも正確無比な回避行動で、かろうじて攻撃を躱した(かわした)。
その瞬間、桐谷が青い閃光のように飛び出した! 高周波粒子刃が光る二本の短剣を両手に、彼の姿は降り注ぐ岩や爆発音の中を妖しくも飛び回り、化け物の相対的に脆い関節の隙間を目指して突き進む。
シュッ! シュッ! シュッ!
粒子刃の鋭鋒が鉱皮を覆った硬質の靭帯(じんたい)に刺さり、火花の束と焦げ臭い嫌な匂いを爆ぜさせる。骸は痛みと金切り声が混じったような咆哮を上げ、攻撃に僅かに乱れが生じた。
「小僧! 来い!」
鈴賀の声が混乱の中に響いた。彼のライフルは刻み打ちを続け、化け物の管状物の近くを正確に捉え、エネルギー伝達を妨害しようとする。
「奴の右側の二本目の足、付け根の辺りに巣胚(すはい)と繋がってるクソデカいパイプが見えるだろう? あれをぶっ刺せ! 力を込めろ! チャンスは一度だけだ、お前なら出来る!」
プレッシャーが山崩し、津波のごとく襲いかかる。足元の地面は狂ったように震え、頭上には岩の雨、周囲は熊さんが命綱を渡るような必死のローリング、そして化け物の耳をつんざく咆哮だ。
恐怖を振り払え。五感を極限まで研ぎ澄ませ。
視線は、無数の太いパイプや岩のような装甲の隙間に隠れ、かすかにうごめくあの一本のパイプに釘付けだった。
位置が尋常じゃなく厄介だ! 化け物の右側の二本目メイン肢の付け根裏にあり、前方は足肢自体が遮蔽し、側面も上部も分厚い結晶装甲と、ゆっくりと蠢く巣胚物質に覆われている。ごく短い角度とタイミングでしか触れられそうにない。
…うーん…
桐谷の粒子ダブルブレードが関節に刻んだ傷跡は、焼けつく烙印のようだ。粒子刃が奥深く突き刺さるたびに、化け物の傷ついた部位の生体組織が激しく痙攣し、覆いかぶさっている岩甲の隙間に微妙な開閉が生じている。
…そうか…
機会は関節が傷つく瞬間にある。関節にダメージを受けると、本能的に核となる筋肉群を収縮させ、損傷箇所周辺の防御を固める。しかしパイプはエネルギー供給ラインとして、エネルギーが急速に動員されることで、肉眼では見分けがつかない微細な「膨張」を起こす!
「鈴賀兄ちゃん! もっと騒音を! 奴の左前部の攻撃を引きつけてくれ!」
俺は通信機へ叫びながら、身体を既に山猫のように飛び出させていた。
「ちっ! 使いやがるなこの小僧!」
鈴賀が罵りを飛ばしたが、動きには躊躇がなかった。彼は隠れ場所から猛然と飛び出し、強力なスタングレネードを化け物の頭部左側にめった投げすると同時に、ライフルを構え、あの比較的細長い感覚触角に向けて狂ったように掃射した。
ドカーン!
スタングレネードが化け物の結晶頭部の側面で炸裂し、眼もくらむほどの閃光と鼓膜を裂く轟音が炸裂! 化け物の注意は一瞬にして左前方に向き、左前の二本の肢は鈴賀の方向へ向けて猛烈に打ち下ろされた。
ほぼ同時に、桐谷が、化け物の右側の一本の肢が鈴賀へ攻撃しようと引いた瞬間を捉え、粒子ダブルブレードを一本の青い彗星のように合体させ、肢と胴体を繋ぐ関節靭帯の最深部へめり込ませた。
ズッシャッ――! グシャリ!
生体組織の裂ける音と高温で焼け焦げる臭いが混ざり、鉱皮に覆われた生体組織の大きな塊が粒子刃で抉(えぐ)り取られた。暗緑色の、ねっとりとした血が一気に噴出した。
ガオオオオオオーン―――ッ!!
開戦以来、最も凄惨で、最も狂暴な悲鳴を上げた!
大きな痛みが襲い、右半身全体と破壊された一肢が一瞬止まり、痙攣(けいれん)のように引きつった。この激しい収縮が、中核部分の筋肉や組織に直接伝わった。
今だッ!
骸油管を覆う上層部の、分厚い、岩の皺(しわ)のような装甲の保護層が、下層組織の激しい痙攣に引っ張られ、通常よりも数ミリだけ、多くの隙間をむき出しにした。
その隙間から、巣胚に繋がる最も太い、生き物のように脈打つパイプが、くっきりと露呈した!
艶(つや)を帯びた管壁の下で、粘稠な黒い流体が狂ったように奔流となっていた! その隙間はナイフ一本が辛うじて入るほどの狭さで、しかも一瞬だけだ。
アドレナリンが血の流れを完全に燃え上がらせた。時間は無限に引き伸ばされ、また圧縮されたかのように感じられた。
足元は激しく揺れ、頭上からは岩が絶え間なく降り注ぎ、化け物の咆哮は実体化した衝撃波のように身体を叩いた。
躊躇(ちゅうちょ)のひとかけらもなかった。
俺はこの数日間、ぬかるみや廃墟、崩れ落ちた構造物の中で何度も鍛えた技を、極限まで発揮した。
一歩一歩、かろうじて安定した場所へと踏み出す――ひっくり返った鉱車の車輪の縁、半分地中に埋まった分厚い鋼梁(こうばり)、比較的頑丈そうな岩の盛り上がり…重心を独楽(こま)のように素早く調整し、スピードを爆発させる。
手に握りしめた合金製ショートスピア。目指すはたった一つ――瞬(またた)く隙間に、激しく脈打つパイプだった。
「どこへ逃げる!」
熊さんは、狂暴な戦神のように、我を忘れて化け物の腹の下へ突進する。巨大な散弾銃の銃口は、あの粘稠に蠢く巣胚物質に押し付けんばかりだ。バンッ! バンッ! バンッ! 彼は自らを盾にして化け物の最後の注意を引きつけ、俺の突進に最後のすきを裂いて見せる。
五メートル! 三メートル!
頭の上をかすめて落下してきた盆のように大きな岩が足元に叩きつけられ、衝撃波でよろめいた。
一メートルの距離!
化け物はついに側面後方から迫る危険を察知した。しかし傷ついた肢で即座に踏み潰そうとすることはできない。
ガシャッ!
振り向いた化け物が、巨大な尾のように振り回す一肢を振り下ろした軌道!
俺は体の重心を思いっきり後ろに倒し、足を目の前に飛んできた尖った鉱石の破片に強く食い込ませ、蹴り返す力と体重を利用して全速力で低姿勢を取り、紙一重のところであの恐ろしい横薙ぎをかわした。
同時に、突進の勢いとスライディングの慣性、角度を利用し、全身の力、スピード、そして背水の陣の決意のすべてを、握りしめたスピアに込めた。
短矛(たんほこ)は死の緑色の彗星と化した。
ブチッ!
ゼイーーン!
強靭なゴムと沸騰する液体が混ざるような、激しい摩擦と微細な爆発音を伴う鈍い音がした! 鋭い矛先が、関節の痙攣によって生まれた指一本分の幅にも満たない甲殻の隙間に、見事なまでに正確に滑り込んだ!
エッチング処理面がオイルパイプに接触した瞬間、目もくらむ灰色の緑色の光と激しい「ジジジジッ!」という音を爆ぜさせ、強烈な破壊エネルギーが怒濤(どとう)のごとく流れ込んだ。
ズッシャァアアアアン――!!
鋼脊骸・石剥きの咆哮が轟いた。もはや獣のそれではなく、崩れ落ちゆく鋼鉄の山脈が発するような凄まじい絶叫だ!
貫かれたパイプが激しく、癲癇(てんかん)のように収縮し続けた。
赤い、熔岩のように真赤で粘稠な、鋼鉄を溶かすほどの高温の蒸気と恐ろしい圧力を帯びた液体が噴き出した。
ガアオオオオオオオオオン――――ッ!!!!
石剥きの全身が瞬時に硬直(こうちょく)、引き締まった! 全身を覆う結晶甲殻の隙間から、流れる暗赤色の生体組織が突如、眼を見開けんばかりの強烈な赤い光を爆発させた。
矛の柄がその高温高圧の赤い流体に衝撃され狂ったように震え、恐るべき反動力が虎口(ここう)を引き裂かんばかりだ! 滾(たぎ)る、濃厚な硫黄と生温かな血の匂いを帯びた蒸気が容赦なく顔面を襲った。
「化け物…落ちた…!」
俺は後方へと飛び退いた。
ゴオオオオオオオオオオォン…
怪物の巨大な残骸が、その場に数秒間直立したまま動かない。残った一つの眼に混乱と絶望の光が乱射していた。そしてそれは、意味不明のしわがれた嘆息を最後に、全ての支えを失い、轟音と共に倒れ伏した。
地面に叩きつけられた瞬間、完全に破壊されていなかった結晶甲殻もろとも、粉々に砕け散った! 厚い鉱灰に覆われた無数の骨の山と化した。
はあ…はあ…はあ…
俺は荒れ果てた地面にへたり込み、荒々しい息を切らし、汗と血、化け物の噴出物が混じり合って頬を伝わり、チェストアーマーに滴り落ちた。先刻までスピアを握りしめていた手が今も意思に反して激しく震えている。
煙が徐々に晴れていく。熊さん、桐谷、鈴賀がそれぞれの掩体(えんたい)から姿を現した。皆無様(ぶざま)で(熊さんの胸当てには新たな深い凹みが、桐谷の両短刀の刃先は丸まりかけ、鈴賀の片側のゴーグルは砕けていた)、彼らの視線は一様に俺に向けられている。
桐谷は相変わらずの冷徹な表情だったが、怪物の残骸の傍に歩み寄り、俺のスピアの半分が溶け爛(ただ)れた矛を拾い上げた。
「トスッ」と、柄についた赤黒い汚物を拭い取ると、それを俺に差し出した。
鈴賀は、さっき火力を引きつけるために飛び出した時、飛んできた岩に直撃しかけた肩を揉みながら、
「小僧…普段は無口なくせに、やる時は早くて容赦ねえな!」
薄暗い光の中で、彼の口元に粗野な、それでいてどこか安堵(あんど)したような笑みが浮かんでいる。
熊さんが近づいてきた。硬いタコのある、鉱石の粉塵(ふんじん)だらけの大きな掌が、今度は肩ではなく、まっすぐ俺の頭を押さえ、ゴシゴシと何度か撫でつけるように揉んだ。
足元の残骸が湯気を立てている。空気は蜜の核酒の芳香に代わり、硫黄と熔岩と崩壊していく鋼鉄の鋭い臭いが充満していた。
クソ…
「行くぞ!」
短い沈黙を破った熊さんの声には、力が満ちていた。
「貰うべきものを受け取れ! ここの構造物はもたねえ! 腹いっぱい食いに帰るんだ! 老瘸(ろういざ)のところには、いいもんがあるかもな!」
彼の目が事実上廃棄状態のショートスピアを掠(かす)め、野性的な笑みが口元に広がった。
俺は、まだ熱を持った矛柄(ほこづか)を握りしめた。残るエッチング処理の模様が指先に微かに熱を帯びている。破壊と希望の混ざった空気を深々と吸い込み、汗と残骸の灰を顔から払いのけると、口元を歪ませて応じた。
「ああ!」
この刹那(せつな)、踏みしめる流刑の地は、まるで別種の熱い光に照らされているように見えた。
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