エピローグ
ドアを開けると、カラン、と気持ちのいい音が鳴る。
一日の営業を終えた店内は、まどろむような雰囲気に包まれていた。革張りの椅子、木製のテーブルやカウンターに、天井から吊り下げられたペンダントライトが暖かい光を注いでいる。カフェって聞いていたけれど、入ってみた印象はむしろ純喫茶って感じだ。
「やっほー」
すぐに奥からマナちゃんが出てきてくれる。
「なかなか雰囲気のいいお店だね」
とカオルは言った。
「だしょ? ここでバイト募集の張り紙みつけたとき、よっしゃ、ってガッツポーズしちゃったよ」
彼女はぎゅっと拳を握ってみせる。
「でも、ホントにこんな時間に来ちゃってよかったの?」
「大丈夫だよ。マスターがいいって言ってくれましたもんねー」
振り返りながらそう声をかけると、
「うーん、もちろんですよ」
厨房からふくよかな初老の女性が姿をあらわす。マスター、というよりミストレスですな。
「マナミちゃん、この人がお友達の、えーっと……」
「カオルです。よろしくお願いします」
と丁寧にお辞儀した。
「あーそうだ、カオルさん。マスターの野口です。こちらこそ宜しくね」
野口さんは朗らかに笑う。勝手に白い口髭のお爺さんを想像していたけれど、この人はこの人で、いいかんじに力が抜けていて印象はわるくない。
「ちょうどいま、あれできたところだから。マナミちゃん運んでくれる?」
「はーい」
マナちゃんが厨房に戻っていくと、カオルはすぐそこのカウンター席に腰かけた。昭和レトロな内装のおかげか、ちょっと時間の流れがゆったりしている感じがする。自分もこんなところで働けたら——と思いかけたけれど、コーヒーや軽食をこぼさずシャキシャキ運ばなきゃいけないのはわりと高いハードルな気もした。
「どーぞお待たせ。いやぜんぜん待ってないか」
帰ってきたマナちゃんは例のまかないを二皿置くとカオルの隣に座った。
「あ、ホントに巻いてない」
お皿の上ではキャベツの葉が広げられたままお肉を覆っている。これがあの、まかないの巻かないロールキャベツだ。
「では——」
二人はいっしょに手を合わせる。
「いただきます」
まずは小さなブロックに切りとり、フーっと冷ましてから口に運ぶと、春キャベツのシャキシャキした触感と共にスープと絡んだ肉汁が舌の上いっぱいに広がった。
——び、美味じゃ‼
「お気に召していただけました?」
もぐもぐしながらたずねるマナちゃん。
「サイコーです!」
とカオルは親指を立てた。
四月になり、大学はもうすっかり新年度に入っている。
カオルはいよいよ本格的になってきた生物科の卒業研究にだらだら取り組みつつ、哲学ゼミにもやる気を燃やして参加していた。先輩がいなくなると張り合いがなくなっちゃうなー、なんて調子に乗っていたら、最近マナちゃんが意外な実力を発揮し出して少し焦っている。
そういえば彼女はまた歌の配信を始めると言っていたけれど進捗はどうなっているんだろうか?
「あー、それね。これで歌おうと思ってる」
そう言ってマナちゃんは一枚の画像を見せてきた。もじゃもじゃしたタワシのようなものに真っ赤な顔がちょこんとついた謎のキャラ。ツノ……が生えてるってことは、ナマハゲかな? 下に名前らしきものが書いてある。樅並モナミ——上の方が読めぬ。
「もみなみもなみ、だよ」
「また相変わらず呼びにくいネーミング……」
みなもみもみな、と横書きで縦に並べてみると、なんだかギザギザした歯みたいになるかもしれない。
「今度は演歌にも挑戦するつもりー」
彼女はニコニコしながら大きな口を開けてロールキャベツを放り込んだ。ちょっとご機嫌な様子。
「すごいなぁ……マナちゃんはしっかり前に進んでて」
「カオルだって進んでるでしょ?」
「ゆーっくりだけど」
「それでいいんだよ。人生は競争じゃないかんね」
ついこのまえ頭を抱えてエントリーシートに記入していたマナちゃんがそう言ってくれることに、カオルは少しだけ温かい気持ちになって頷いた。
「……そういえばなんだけど」
と彼女は声のトーンを落とす。
「このあいだ、あいつから……坂本から手紙が来たんだよね。メールじゃなくて手紙だよ、手紙」
「へぇ……!」
意外と昔気質な人なのかもしれない。
「……筆で書いてあった?」
「いや普通にボールペンだった」
「あ、そう」
なーんだ、残念。
「内容は——けっきょく言い訳と、自分語り? だけどまあ、一応ちゃんと反省はしてるみたいだったよ。自分はただ甘えてただけでしたーって」
呆れ果てた表情になるマナちゃん。
「でもそう言われると、わたしも甘えてたかもって思うんだよね」
「マナちゃんが?」
「うん……。ほら、わたし、ひとに弱いとこ見せるの、ちょっと苦手だからさ」
彼女は照れくさそうに視線を逸らした。カオルの頭にイルミネーションの夜のことが思い浮かぶ。二人がどんなふうに付き合っていたのか知らないから何とも言えないけれど、あの日の様子からは、マナちゃんが誰かを傷つけるような甘え方をするようには思えなかった。
「どっちを向いてるか、なんじゃないかな」カオルは言った。「暗いところに閉じこもるんじゃなくて、いっしょに明るい方へ歩いていくためなら、誰かの肩を借りるのは決してわるいことなんかじゃないと思うよ」
「そう、か……」
彼女は遠くを見て何度も頷いていた。
実は近々、坂本さんと二人でオンライン読書会をやることになっている。きっかけは三月の中ごろにかかってきた一本の電話だった。
自分も大学院をめざして勉強しているんだが、一人では気づけないこともあるからお前の読んでる本を一緒に読ませてほしい——彼はそう言った。
正直、めんどくさいなぁ、と思った。「一人では気づけないこともある」ってとこでカオルの側にもメリットがあることをさりげなく主張してくるのが小賢しいと思った。けれど、その声からは緊張が伝わってきたし、芹沢さんがいなくなってしまった今はそのメリットも良さげに思えたしで、カオルはオッケーすることにしたのだった。
坂本さんは明るい方へ進もうとしているのかもしれない。そして、あのメッセージを読んだ限り、芹沢さんもきっと——。
「あ、この曲!」唐突にマナちゃんが言った。「あれだよ、ツリー見たときかかってたやつ」
カオルは耳を澄ませる。なんとなく懐かしい気分になるジャズの曲だ。名前は知らないけれど、なんども聞いた覚えがあるメロディーだから、けっこう有名やつなんだと思う。
「——たしかに、かかってたかも」
「でしょ?」彼女は目を細めた。「あの瞬間はたぶん、わたしの大学生活の表紙になるよ。これからさき、大学生だったころを振り返ると毎回あの景色が浮かんできて、ああ、わるくない時間だったなぁ、って思えるんじゃないかな」
同じ曲を聴いて、同じツリーを見て、同じロールキャベツを食べてみても、やっぱりカオルには彼女ほどの感動を味わうことはできない。それはきっと、マナちゃん自身の生きてきた日々が、そのきらめく結晶のような景色の中に閉じ込められているからなんだと思う。
「ごちそうさまでした」
と二人はまた手を合わせた。なんだか給食みたい。
マナちゃんが食器を下げてくれている間に、カオルはお財布を取りだして会計の準備をはじめる。
「おいくらになりますか……?」
ちょうど厨房から出てきた野口さんにたずねると、
「お代はけっこうですよ。巻いてないし」
と微笑んでくれる。
「ありがとうございます!」
カオルはペコッと頭を下げた。
「そのかわり、これからごひいきにね」
「は、はい……!」
残された一年、ここがカオルの第二食堂になるのかもしれない。
「よかったらマナミちゃんも一緒に帰りなよー。あとは一人でやっとくから」
「えー、いいんですか?」
出てきて言うマナちゃんに、野口さんは大きく頷いた。
「ちょっと待っててね!」
そう言うと、小柄な大学生はタタタッといったん奥へ戻り、トートバッグを肩にかけて帰ってくる。
「それでは、今日もありがとうございましたー」
「ごちそうさまでしたー」
二人はお辞儀をすると、
「うーん。じゃあねー」
と見送ってくれる野口さんに手を振ってカフェを出た。
外は少しだけ肌寒い夜。心地よい春の風が吹いてきて、コートの裾をふわりと揺らした。
「マナちゃん、あとでバイトに入ってる曜日と時間帯、教えてね。今度はそれに合わせて来るからさ」
カオルは言いながら歩きだす。
「えー、なんか営業スマイル見られると思うと恥ずかしいな」
「そう言われるとますます行ってみたくなったかも」
「変態だな、変態」
フン、とマナちゃんは鼻で笑った。
川沿いの開けた道に出ると、夜空が一段と広くなる。今日は新月のうえによく晴れているせいか、頭上にはたくさんの星が輝いていた。
カオルは見上げながら、告白のあと先輩が送ってくれたメッセージのことを思い浮かべる——。
こんなかたちでお返事することをどうか許してください。
カオルさんに、共にいたいと言ってもらえて、私は心から嬉しいと思いました。あれから、あなたに伝えたい言葉がいくつもあふれてきています。
ですが、カオルさんの誠実な気持ちを正面から受け止めて、返していけるだけの余裕は今の私にはありません。たとえあなたの側にいても、確かなものは何ひとつ積み上げていくことができず、ただ崩していくばかりになってしまうのではないか——そう恐れているのです。
私は何年も前から激しい不安と焦燥に悩まされていましたが、その正体はいったい何なのか、いままでつかむことができないでいた、というより目を背けてきました。カオルさんへの返事を書くにあたっては、これを避けて通ることはできないと考え、もう一度向き合ってみることにしました。すると、心の奥に眠っていたある記憶が蘇ってきたのです。
大学に入ってしばらく経ったある日の朝、悪い夢にうなされながら目を覚ますと、私はベッドのうえで毛布に包まりながら真っ白な壁をただただ見つめていました。そのとき思いました。もしかすると、自分はいつか死を迎える瞬間も、これと同じ寂しい景色を見ているのではないか、と。
そう考えると、怖くて怖くてたまらなくなりました。私は当時つきあっていた恋人に縋ろうとしました。同じ光景を誰かが隣で眺めてくれるなら、孤独は和らぐと思ったのです。
しかし、今あらためて考えてみると、どんなに親しい人であっても、私と同じ風景を見ることはできないのだと気づきます。それは、一つしかない心と身体で感じる、自分だけの風景なのですから。
私はこれから、その最期の景色をできる限り美しいものにするため、生きていこうと思います。
あの夜のキャンパスで、私が目にも留めていなかった星々に、あなたが気づかせてくれたように、いまだ知らない幾つもの輝きに出会うため、歩いていきたいと思うのです。
いつかその旅の途中で、カオルさんとばったりぶつかる日がくることを願っています。
気がつくと、となりでマナちゃんも夜空を見上げていた。彼女はそれから囁くような声で歌をうたいはじめる。〝見上げてごらん夜の星を〟……か。これならたしか、学校の行事かなにかで合唱したことがあった。
カオルは二番から、マナちゃんとべつのパートで歌いだそう——と思ったけれど、さすがに恥ずかしくてすぐに引っ込める。ふたりは一瞬ちらっと顔を見合わせて微笑むと、また前を向いて歩きはじめた。
フリップ・フロップ タツチキ @tatsu-kichi
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