第11話
『院試、落ちちゃった』
春休みも半ばの三月一日。芹沢さんからメッセージが届いた。その日が合格発表だと聞いていたからカオルも心構えはしていたけれど、先輩は当然受かると思っていただけに、しばらくどう反応していいかわからなかった。
お疲れさまでした。なかなか厳しいものなんですね。……そんな感じで返信を入力しているうちに、
『来週には実家に帰るね』
さっそく次の一通が来てしまう。なんだか「慰めてくれるなよ」って言われてるような気がして、先輩をねぎらったり元気づけたりするような文言はすべて消去する。
『その前にもう一度、直接お会いしたいです』
ただそれだけ書いてカオルは返事を待った。既読はすぐについたけれど、なかなか反応は返って来ない。見逃してるのか、断るのが面倒なのか、そんなこと考えられないほど再起不能になってしまっているのか——心配でしかたがないカオルのもとに連絡が入ったのは三日後の夕方だった。
『よかったら、うちに来てくれないかな?』
入った通知を見るなり読んでいた本を閉じ、コートに袖を通しながら急いでアパートを出る。先輩はきっと今、いつかじゃなくて今、カオルに会いたいと思ってくれたんだ。こんなことなら自転車買っておけばよかった。そもそも乗れるようになっておけばよかった。カオルは橙色に染まっていく空の下をひたすらに走り続けた。
息を切らしながらやっとの思いでたどり着き、芹沢さん家の扉をノックする。
「カオルさん、ちょっと待ってて!」
先輩の声がした。運動不足でぜいぜいしちゃってる呼吸を整えて待っていると、ほどなくしてドアが開く。
「ごめんね……! まさかすぐ来てくれるとは思ってなくて」
たぶんすっぴんだ。かわいい。
「い、いえ。ちょうど近くを通りかかったもので……」
芹沢さんは「どうぞ上がって」とそのままカオルを招き入れてくれる。
「すごい汗……。だいじょうぶ?」
「ああ、いえ、暖房が、暖房が効きすぎてたんですよさっき寄ったお店」
「そ、そっか……。じゃあ温度少し下げるね」
部屋に入ると先輩はエアコンを微調整してくれた。
「ありがとうございます……」
その後ろでカオルは室内をぐるりと眺めてみる。ぱっと見の印象はなんというか……無色透明? 住んでいる人の顔が見えない感じの部屋だった。カーテンもクッションもベッドカバーも、その他の生活必需品も、ぜんぶがなんとなくプレーンで、このあいだ見せてもらったジュンヤの自宅とくらべると、趣味がわかるようなものはほとんど飾られていない気がする。
けれど、そのなかでただ一つ、天井まで届くほどの大きな本棚だけが存在感を放っていた。有名な哲学書や文学の全集、さまざまな分野の新書がぎっしりと詰まっていて、収まりきらない本が足元に重ねられている。積読(つんどく)の一番上で表紙を見せているのは去年ノーベル文学賞を受賞した作家の代表作。古典や話題の本はカオルの部屋の何倍もあるのに、やっぱりここからも先輩の読書傾向はぜんぜん見えてこないのだった。
「どうぞ座って」
気づいたら芹沢さんがテーブルにお茶を出してくれている。
カオルは小さくお辞儀をしてその手前に腰を下ろした。と、そこでうっかり背後のベッドに意識が向いてしまう。この上で、この部屋で、先輩は坂本さんと……カオルはそんな雑念を全力で頭から追い払った。
「院試、ちょっとあまくみてたかも」
芹沢さんは苦笑しながらコップを傾ける。
「残念でしたね……」
「まだまだ勉強が足りないのかな」
なんでも知ってるようにみえる先輩にそんなことを言われると、自分は入り口にも立ってないような気がしてくる。
「これからどうされるおつもりなんですか?」
「うーん……とりあえず実家に戻って、来年また院にチャレンジするか、就職するか、もう一度よく考えてみる」
「そうですか……」
大学にいると教授たちはみな博士号をとっていたりするから勘違いしがちだけれど、誰もがそういう場で学び続けられるわけじゃないってことを思い知らされる。しかも先生たちでさえ、面倒な雑務や学生指導に追われてるわけで、好きなことだけを追い求めるのも、社会から逃げるのも、おそろしく難しいことなんだもんな……。
「カオルさんは研究のテーマそろそろ決まった?」
とたずねる先輩。
「えーっとですね……。なんとなく方向は固まってきたかもしれません」
「そっか……それならよかった」
芹沢さんは微笑んで頷いてくれる。
「研究といえば、あの質問リストってどうなりました? まだ終わってないって言ってませんでしたっけ?」
「そう、だね。一つだけ残ってる」
と言いながらテーブルのノートを取った。
「よかったら、いま聞かせてもらってもいいかな?」
「はい!」
と姿勢を正す。
「えー、それでは最後の質問です」芹沢さんは言った。「あなたが今、苦しんでいることはありますか? あるとしたら、それはどんなことですか?」
……苦しい気持ちなら、いつもどこかに漂っている。だけどなんだか漠然としていて、振り払うどころかつかむことさえできない。この機会に言葉にしてみれば少しはその正体に近づくことができるかも——考えはじめたところで、カオルの頭にべつの問いが浮かんできた。
「この質問には、まずさきに先輩が答えてくれませんか?」
思い切ってたずねてみる。
「私のことはいいから」
と流そうとする先輩。やっぱり、この人は抱えている何かを決して話そうとしない。
「そんなー、聞かせてくださいよ」
「いいって」
「せっかく最後なんですから」
「だからいいんだって、もうどうせ——」
芹沢さんは声を荒げつつある自分にハッと気づいたように息を詰まらせる。
「これで、終わりなんだから……」
カオルは沈黙のなかで確信した。今こそ飛び込んでいくときなんだと。
「先輩っていつもそうですよね。見せてくれるのは表面だけ」
「違う。そんなこと——」
「ずっと知りたいと思ってました。わかりたいって思ってました。……だけどもうやめます」
否定しようとする芹沢さんを目で制すと、カオルは静かに語りかける。
「話してくれないならそれで構いません。ただ……遠くはなれていても、特別な関係じゃなくても、私(ぼく)は芹沢さんの気配を感じていたいです。先輩が一歩踏み出すと私の足元が少し揺れて、私がため息をつくと先輩の耳にちょっとだけ響いて……本当にそのくらいでいいので、どうか、またいっしょに歩いてくれませんか、芹沢誠さん」
先輩は、両眼を大きく見開いてカオルの言葉を聞いていた。そして何か言おうとしてくれたみたいだけれど、すぐにテーブルに肘をつき、両手で頭を抱え込んでしまった。
「……悪いけど、少し、考えさせて。きょうはもう、話せることないと思う」
そう呻くように言った。
「——分かりました。それでは、ここで失礼させていただきます」
カオルはゆっくり腰を上げた。芹沢さんが動く様子はない。
「あの……なにかと物騒なので、カギはすぐにかけてくださいね」
すん、と垂れた長い髪が揺れる。
「では……また」
カオルは小さくお辞儀をすると、先輩の部屋をあとにする。ドアを開ける前に一度だけ振り返ってみたけれど、芹沢さんは押しつぶされそうな姿勢のまま身動き一つしなかった。
アパートを出ると、もうすっかり東の空は暗くなってきていて、薄く重なる雲の隙間から気のはやい星々が顔をのぞかせていた。
それからしばらく扉の前で立っていると、街灯に明かりがともりはじめたところでようやくカチャっと鍵がかかる。その音をたしかに聞き届けてから、カオルは帰路につくのだった。
伝えたいことはちゃんと伝えた。あとはただ芹沢さん自身に任せるしかない。そう自分に言い聞かせてじっと待っていると、二日後の早朝、一通のメッセージが届く。
『こんなかたちでお返事することをどうか許してください——』
書き出しはそんな一文だった。
***
「センパイいままでホントありがとうございましたー!」
純也がバイトを終えてバックルームに戻ると、休憩中のミオさんが明日から地元に帰ることになっている坂本さんに最後の挨拶をしていた。
「ミオちゃん俺がいなくてもちゃんとできる?」
「えぇー、できるにきまってるじゃないですかぁ!」
笑うミオさんを横目で見ながら純也は制服を脱いでロッカーにしまう。
「ルールもちゃんと守んなきゃ駄目だよ」
「るーる?」
お前がそこできょとんとするなよ、と純也もさすがに突っ込みたくなった。
「ああ、ほら、欠勤連絡とかそういうの」
坂本さんは呆れ気味に言う。というより最初からその感じで喋っている。
「あぁーそれか! だいじょぶですよ。もーしませーん」
「ホント? あと、謝るときヘラヘラすんのよくないからやめなよ」
「えぇー⁉ そんなのしてませんよぉ!」
ミオさんは相変わらずヘラヘラそう言った。
「そっかー。自覚ないなら仕方ないよなー」
薄っぺらい作り笑いを浮かべる坂本さん。
「まあ、せいぜい頑張って」
「はぁい! がんばりまーす!」
そのままミオさんが仕事に戻ると、坂本さんの舌打ちが部屋中に響いた。
「……鈴木もいままでありがとうな。お前は仕事覚えるの早くて助かったよ」
黒いダウンジャケットを羽織った坂本さんは、すれちがいざまに純也の肩をトン、とたたく。
「……白崎にはもう挨拶したんですか?」
「——ああ。したよ、昨日」
それだけ答えると、
「じゃあ俺はこれで帰るからあとよろしくー」
坂本さんは逃げるようにバックルームを出る。その後ろ姿を追って、純也も急ぎ外へ向かった。
午後十時をまわり、通る車も少なくなり始めた道を二人は歩く。坂本さんが途中で住宅街の方へ向きを変えると、さらに辺りは静かになった。
純也にはこの機会にどうしても聞いておかなければならないことがあった。いまそれを逃せばきっと後悔してしまうことが。
ここでならきっと、この人もちゃんと答えてくれるだろう。そう考えた純也は一気に距離を詰めて声をかけた。
「待ってくださいよ、ホントに何も言わないで帰るつもりなんですか——芹沢さん!」
坂本さんの姿をした「その人」は何かにぶつかったように足を止めた。
「は?」
振り返らずに言う。
「芹沢って誰? 俺、坂本だけど」
「証拠ならありますよ」
純也はスマホを取りだして写真を表示させると背後から突きつけた。
「見てください。指紋が違います。芹沢さんが握ったドアノブとか、坂本さんが閉めたロッカーとか、何度も指紋とってみたんですけど、毎回形が違うんですよ」
同じ姿になっても、双子みたいに指紋やほくろで差が出てくる——カオルが言ってたことのまんまだ。
「ちなみに、ほくろは化粧で隠してるんですよね」
「その人」はしばらく押し黙っていたが、ついに大きなため息を吐くと、建物の隙間にできたまっくらな空間に身をうずめる。数秒後、何も見えていない純也の耳に声だけが響いた。
「どうして気づいたの?」
こっちへ一歩ずつ踏み出す足音とともに、その姿がうっすらと浮かび上がってくる。
「芹沢さん……」
細い黒髪は肩まで伸び、身長差のせいか服はダボダボ、手はダウンジャケットの袖のなかに引っ込んでしまっていた。
二人が付き合っているかもしれないと聞かされた純也は、カオルをもてあそぶようなことはやめろと文句を言ってやるため、両方揃った現場を押さえようと芹沢さんのアパートの前に張り込んだ。
だが、いくら見張っていても外出するのは毎回片方だけで、そのときもう片方は必ず家に残っている。しかも、確かにどちらかが在宅しているはずなのに夕方になっても電気が消えていたり、芹沢さんがいるところに坂本さんが平気で他の女性を連れ込んだりしている——これはどう見てもおかしい。そう考えた純也は、一つ調べてみなければならない可能性があることに気づいたのだった。
「カオルが……見たんですよ。芹沢さんのアパートに坂本さんが入ってくのを。それ聞いたときはオレも普通に二人が付き合ってるんだとばっかり思ってましたけど、そのあとすぐ——」
「ちょっと待って」
芹沢さんが遮る。
「それ、ホント? 自分自身と寝てるとか私にぴったりすぎるんだけど」
そう言うと声を上げて笑った。
「でー、なに。鈴木くんは私を脅してお金でも取ろうと?」
「しませんよ!」
純也は首を振って否定する。
「うそうそ。冗談だよ冗談」
芹沢さんはまた笑った。ゼミでの様子からは想像できない、痛々しい笑い方だった。
「オレはただ、先輩に聞きたいだけです。なんでカオルにこのことを話さないのか。……好きなんですよね、あいつのことが」
責め立てるようにたずねると、
「うん……好きだね」
余った袖をまくりながら芹沢さんが言った。
「だから話さないんだよ」
すると、先輩はバッグから煙草とライターを取りだして火をつけようとする。
「ちょ、ちょっとなにやってんすか! ここ喫煙所じゃないですよ!」
「……誰も見てないけど?」
きょろきょろ周囲を見まわして言った。
「それでも駄目ですよ! ってかオレが見てます!」
芹沢さんは舌打ちすると、
「めんどくせーやつ」
とつまらなそうに呟いて手を下ろした。指紋で裏がとれたときから分かっていたことだが、この二人が同一人物だとはどうしても思えない。カオルと違って人格まで二つあるみたいだ。
「怖いんですか? あいつにそういうとこ知られるの」
「いや、全然? カオルはきっと受け入れてくれるし、これくらいのことは我慢できるから」
じゃあいま我慢しろよ、と言いたくなる。
「それなら、なおさらどうして隠すんですか?」
純也がもう一度たずねると、先輩は呆れたようにため息を吐く。
「どうせ説明しないとバラすとかっていうんだよね?」
「いや、それは……どう、でしょう」
脅迫するつもりはないが、つい言葉を濁してしまった。
「仕方ないな。鈴木くんが納得できるかどうか知らないけど、最初から教えてあげるよ」
芹沢さんはポケットに手を突っ込んで語りはじめる。
「まず、出会ったときのカオルはただの紅林さんで、興味を持ったのは、他の学生に比べれば私と近い価値観を持ってるみたいだったから。そのころはまだ、ちょっと理解し合える友達として好きって程度だった」
「でも合コンに誘ったうえに……あんなことしましたよね? あいつ相当ショック受けてましたよ」
さっそく口を挟んでしまった。
「どうせそういう相手を探すなら——って思ってね。あれは本当に軽率だった。悪いことしたと思ってる」
先輩の言葉には意外にも苦々しい響きがあった。どうやら本気で反省しているらしい。
「それで、あとでゼミ仲間になった白崎くんのことは、話が合うとは思ってたけど、なんだか自分を頭よく見せようとしてる人に思えて気に食わなかった。これもけっきょく同族嫌悪ってやつだったのかな」
ある意味、紅林さんのときと真逆だ。この人は自分に似た相手が好きなのか、嫌いなのか、本当のところはどっちなんだろうか。
「だけど、二人が同一人物だと判明して——つまり私と同じ体質だとわかって、全てが変わった。運命だと思った。私たちならきっと、頭のてっぺんから爪先まで互いを受け入れられる。喜びも悲しみもぜんぶ分かち合える。そう確信した」
「あのとき、芹沢さん泣いてましたもんね」
「ああ、バレてた?」
芹沢さんは苦笑すると、
「カオルが私を救ってくれるんだって思ったら、つい、ね」
そう言って目を伏せた。
「救う? 何から?」
純也はたずねる。
「さあ……私にもよくわからない」
***
いったいどうして自分はこういう人間になってしまったんだろう、とよく思う。なにが不足していて、何が過剰だったのか。心理学の文献とかでそういうレシピをいくつも学んでみたけれど、どれもこれも当てはまるような、一つも当てはまらないような気がした。
性別のはっきりしない身体で生まれた芹沢誠は、とりあえず女の子として育てられた。両親は教育熱心だったけれど、娘の「良い子」でない面にはあまり興味を示していなかったと思う。だから身体が二つに分かれはじめたときには、家でも学校でも優等生でいることの窮屈さから逃れるため、これを最大限利用しようと考えた。
誠は身体のことを両親に隠し、普段は女の子の姿で過ごしつつ、放課後は男の子の姿で好き放題に遊ぶようになった。他の子の親たちから話がいく心配もせず、自由に過ごせることがただただ嬉しかった。やがて誠はその身体に「坂本誠二」という名前を付ける。今思うと「二」つ目の「誠」——つまりサブの姿として考えていたこと自体がそもそもの間違いだったのかもしれない。
中学に上がると、カオルも言っていたように朝から部活終了まで同じ姿を維持することが大変になってきたので、代わりに外部の習い事に通わせてもらえるよう親を説得した。まさか向こうで男子になっているとは夢にも思っていなかっただろうけど。
誠が選んだのは柔道の教室で、はじめてそこを訪れたとき、年上をばんばんなぎ倒す小学生女子の姿に圧倒された。それがマナミとの出会いだった。
入ってすぐは彼女とかかわる機会もそれほど多くはなかったけれど、中学生がほとんど所属していなかったこともあり、しばらくするとよく練習に付き合ってくれるようになった。
「そんなに強いのになんで大会とか出ないんだよ」
いつもマナミに負けてばかりの誠がそうたずねると、
「わたしは歌う方が好きなんだよ」とか「これは護身術兼ダイエットだから」とか答える。
せっかくの才能を伸ばそうとしない彼女の様子は、なんだかんだ言って他人より優れた人間になることに固執していた誠の目には新鮮に映ったのだった。
出会ってから四年後、二人は付き合いはじめる。告白したとき誠は高二、マナミは中三だった。彼女といると、誰になんと評価されても構わないと思えた。身体のことは隠していても、二人のあいだには確かなものがある。自分が何者かなんて気にする必要はないんだ、と。
けれど、そんな眩い時間はすぐに過ぎ去ってしまう。誠は第一志望の大学に落ち、後期入試で現在の大学に受かったものの、両親は「お前はもっとやれると思っていたのに」と失望を隠さなかった。数学科の授業もまったく楽しむことができず、頭にぜんぜん入ってこない。打ち込みたい趣味も、就きたい職業も、どんなに探しても見つからない……。
それは、誠がはじめて味わう特殊な孤独だった。人間関係から切り離される苦しみではなく、人生の足場を失ってしまった恐怖。まっくらな世界に放り出されて、どこを目指せばいいのかも、どっちへ進めばいいのかもわからない——そういう類の孤独だ。
残された道しるべはマナミだけだった。彼女はこちらへ来てくれるというけれど、それには最低二年かかる。誠はその長い時間をやり過ごすことだけを考えて大学生活を送った。
だけどあるとき、ついに寂しさに耐えられなくなって、ほんの出来心からマナミを裏切ってしまう。誠は深い罪悪感にさいなまれた。弱い自分が嫌で嫌でしかたなかった。でもそう思うとまたつらくなって、再び愚かな行為を重ねてしまう……そんなループに陥った。
そして、マナミの入学が決まった直後、全てが露見する。どんな言い訳も通用せず、なんど謝っても彼女が許してくれることはなかった。
とうとう誠は、みんな自分を理解してくれないんだと思うようになった。マナミも友達も両親も、自分が抱えている苦しみをわかってくれるわけがないんだと。
カオルに出会ったのはそんなときだった。
「救う? 何から?」
鈴木がたずねる。
「さあ……私にもよくわからない」
と誠は答えた。
「でもそれには鈴木くんたちがジャマだった」
「え? オレが?」
彼は自分の顔を指さす。
「そう、鈴木くんと……マナミちゃんが。カオルは二人と仲が良さそうに見えたから、あっち側の人間なんじゃないかって心配になったわけ」
「あっち側……?」
「だってさ、私とカオルは特別な人間なんだよ? 他の誰とも違う人生をおくってるんだよ? 鈴木くんみたいなどこにでもいるような男の子に理解できるなんておかしいでしょ? だからカオルは孤独じゃなきゃいけなかったんだよ」
誠はそう言い切った。
「あんた……最低だな」
鈴木は唖然とした表情でこっちを見つめる。
「それくらいわかってる」誠は返した。「だからこういう部分はぜんぶ坂本の方で見せてきた。芹沢のクリーンなイメージを守りつつ、私の醜い部分をカオルに提示して反応をチェックするのが目的。そして芹沢の方では研究と称して質問を行い、性格や価値観を詳しく分析することで私との共通点を見つけ出し——」
語っていると、なぜか鈴木がだんだんと笑いだす。ひとがせっかく親切に計画の概要を説明してやってるっていうのに。まったく失礼なやつだ。
「おい、何がおかしいんだよ」
とドスを効かせて言った。
「いや、あんたどうせ、植物とかすぐ枯らすタイプだろ?」
「なんでわかるの?」
忘れもしない小学二年生の夏。クラスに全員に与えられたトマトの苗を誠一人だけ駄目にしてしまったのだった。「マコちゃんにもニガテなことあるんだねぇー」とか言ってきやがった児童と教師——みんな許さねぇ。
「やっぱあんたたち似てんだなー。いや、似てた、か?」
「は? 意味不明なんだけど」
その顔、踏みつけてやろうかって思う。
「いまので芹沢さんがしようとしてたことはだいたい分かりました。けど、どうして正体隠すんですか?」
と鈴木がたずねた。いやそれこれから説明するとこだったのに口挟んでるのお前だろって言いたいけどここは我慢しとく。
「鈴木くんはさ、仮に私とカオルが付き合ったとして、うまくいくと思う?」
誠は静かに問いかける。
「えー、どうっすかね……」
「坂本の素行を考えてみてよ。薄暗い部屋の片隅でくっついてドロドロした塊になって終わるのが関の山じゃないかな?」
「あー、かもっすね……」
誠の一日は適当な相手を捕まえてラブホに行ったりSNSで社会への不満を呟いて憂さ晴らししたりしているうちにほとんど終わってしまう。満足に本も読めないような体たらくでは、院試に落ちるのも当たり前だ。こんな状態で本当のことを伝えようものなら、自分はカオルをずるずると暗がりに引きずり込んではけ口にしようとするに決まってる。
「最初はね、カオルならこんな私を変えてくれるんじゃないかって期待してたんだよ。だけど今は順序が逆だって思ってる。ちゃんと自力で立てるようにならなきゃ、ともに歩いていくことはできないんだ——って」
きっかけはカオルの告白だった。わかり合えなくても、理解し合えなくても、いっしょに——その言葉にハッとさせられた。あのときはじめて、自分の似姿としてではない、カオルという未知の人間そのものに恋することができたような、そんな気がした。
「癒されたいとか、受け入れてもらいたいとかじゃなく、ただ笑顔が見たいってやっと思えたんだよ。せっかく芽生えたこの気持ちを……私は今度こそ大切にしたい」
カオルに、そしてマナミに、届いてほしいと願いながら言った。
「……と、いうわけで、私はしばらく修行してから出会い直そうと思いますので、余計なお世話ありがとうね、鈴木くん」
「ちょ、ま、待ってくれよ!」
引き留める彼を無視して歩き出そうとしたとき、持ち上げた踵がカパッと靴から外れてしまう。やべぇ、と思った次の瞬間にはバランスを崩して前のめりになっていた。
「おわわっ——‼」
アスファルトに正面から倒れ込み、とっさに両腕で庇う。いま坂本の靴を履いているのをすっかり忘れていた。
「お、おい! 大丈夫か⁉」
身体はそこまで痛くない。が、腕や膝をちょっと擦った感がある。まさか、切れたか? お気に入りの上下組、まさか切れちゃったか⁉
「あーっ! チクショー!」
握った拳をダンと地面に叩きつける。
「あイタッ」
さすりながら顔を上げると、前にまわり込んだ鈴木がこっちに手を差し出していた。目が合ってしまって思う。ゼミメンバーに、こんな無様な姿は見せたくなかった。かっこよくて、きれいで、余裕があって、頭もよくて、そんな芹沢さんでいたかった……。
鈴木の手を取って体を起こす。
「どーもありがとう……」
暗くてよく見えないから手探りで服の被害を確認していると、
「一人で立つのって、難しいだろ?」
彼が言った。
「いや、私こうみえても毎朝ウォーキングしてるからね? おじーさんとかおばーさんとかじゃないからね? これくらいまったく——」
「いやいや、そうじゃなくてだな!」
と鈴木は手で制した。
「あんた、坂本的な生活やめたいって思ってんだろ? それ自分だけでなんとかできることなのかよ?」
……確かに、そうだ。これから実家に帰ったところで、なにか行動を起こすためのエネルギーをどこから調達すればいいだろうか。いままでの経験から考えると、この気持ちだけではきっと不十分なはずだ。そうなればまた、あの底なしの孤独に飲み込まれてしまうかもしれない。
「じゃあ、どうすれば……」
誠はかすれた声で呟いた。
「だれかの手を借りるのもたまには必要なことだと思うぞ」
またいっしょに歩いてくれませんか——そう語りかけてくるカオルの眼差しが頭をよぎる。
助けてほしい。背中を押してほしい。だけど……。
「俺(わたし)、は——」
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