第10話

 抹茶アイスって、なんだか無性に食べたくなるときがある不思議な味だ。苦みと甘みが見事に融合したあのテイストは、たぶん他のものから摂取できない希少な栄養素を含んでいるんだと思う。

 駅前にあるアイスクリームチェーンで「二つ頼むと三つ目無料!」と書かれたのぼりを見つけたカオルは、衝動的に入店してトリプル抹茶アイスを注文してしまった。透明なカップに入ったマリモのような三つの球体を眺めてほくそえんでいたところ、窓の外を通りかかるスーツ姿のマナちゃんを目撃して急ぎ店を出た。

「マナちゃーん!」

 肩で風を切りながら夕暮れの街を歩く彼女は、カオルの声に気づくと訓練された無駄のない動きでクルッと背後を振り返る。

「おー、久しぶり。元気——みたいだね」

 春休みがはじまってから二人は集中講義も被ることがなくてぜんぜん会っていなかった。もう三週間ぶりくらいになるのかな? カオルにとってはたったの三週間だけど。

「それなに? 就活?」

「ああ、これはね、インターンだよ。インターン」

 マナちゃんはトントン、と胸をたたく。

「へえ……」

 カオルは頷きながらアイスをすくって口に運んだ。あのお仕事体験みたいなやつ、みんないつ行っているのかと思っていたけれど、こういう長期休みに実施されるものだったとは。

「すっごく似合ってるよ。カッコいい」

「それならよかった。向こうではちょっと変な目で見られたかもだから」

 彼女は少しはにかんで言った。

「変な目で? どうして?」

「へー、そっかー、スーツとか着ないカオルには分かんないか」

 なぜだか意外そうな目をするマナちゃん。その服装はフツーに常識的に見えるけれど……。

「えーなになにどういうこと?」

「よーく見てみ。どっかがイレギュラーだよ」

 彼女はいったん歩みを止めてカオルに向き直ると、腕を組んで脚を肩幅に開いた。黒のジャケットやブラウスは問題なさそうだし、スカート丈もたぶん短すぎず長すぎず。ローファーはきれいに磨かれていて、とくにおかしな点は見当たらない。

「うーん。わっかんないなー」

「ほら、これこれ」

 と言ってマナちゃんは顎をくいっと上げる。え、のど⁉ いや、その下にある——、

「——ネクタイだ!」

「正解デス!」

 彼女は小さくパチパチと手を叩いた。

「社内でネクタイしてる女の人ぜんぜんいなくて、すれ違うときとかチラチラ見られちゃったよ」

「でも、それは覚悟の上だったんじゃないの?」

「まーね」マナちゃんはニヤリと笑う。「昔大好きだったマンガのヒロインがマフィアの一員でね、いつもネクタイしてるんだよ。大人になったらあれで仕事したいってずっと思ってたんだー」

「な、なるほどね……」

 そんな攻撃力の高い職業の人に憧れるあたりが彼女らしいといえば彼女らしい。

「あそこの仕事の内容には、正直言ってあんまり熱意とかはないんだけど、こういうちょっとした自分だけのコダワリがあるだけで、モチベーションもぜんぜん違うんじゃないかって思うんだよね。休みの日に歌うたいたいなー、とかもその一つ」

 時間とれるかどうかわかんないけど、とマナちゃんは苦笑する。

「自分だけのコダワリか……わたしはまだ見つけらんないなー。ないことはないんだろうけど、どれもなんとなく、そのはしっこだけかすってるような感じなんだよね」

 カオルはため息まじりにそう言った。仕事も、趣味すらも、「これだっ!」っていうほど夢中になれそうなものはまだ見つからない。ゼミで哲学やってるのはわりと楽しいけれど、じゃあ何を哲学したいかって聞かれると答えに困る。

「わたしにもそういうもの、本当にあるのかな?」

「いやいや、カオルはむしろこだわり過ぎてる方でしょ」

 とマナちゃんは笑う。

「ほら、つま先立ちで花びら避けたり、この間は落ち葉ふまないように歩いてたでしょ」

「え、気づいてたの⁉」

「気づいてたよ」

 ——ああ、イヤだ。自分でもちょっとバカみたいって思ってるのに。

「あれはべつに、歩きたくない道を歩いてないだけだよ。歩きたい道を歩いてるんじゃなくてさ」

「……ん? 今なんかメンドくさいこと言った?」

 顔をしかめるマナちゃん。

「ヒールが痛いからって適当なローファーを履くより、よだれが出るほどカッコいいスニーカーを履きたい、的な?」

「あ~、なるほどね」

「でもいい感じのスニーカーが、なっかなか見つからないんですよねー、これが」

 二人の足が交差点で止まる。信号が変わるのを待ちながら、行き交う車の流れをぼんやり眺めていると、

「果たして変わるべきなのは、スニーカーを好きになれないカオルか、カオルが好きになれないスニーカーか」

 彼女は神妙な面持ちでそう呟いた。

「うむむ。そこは問題ですな」

 カオルは呻きながら答えを探す。

「……まずは、そう、世界中の靴屋さんを巡りめぐって、それでも好きなスニーカーが見つからないなら——もう自分で作るしかない、かな」

「おー、いいね」

 そしてマナちゃんは言った。

「それならわたしも履かせてもらえるし」

 彼女の些細なひと言に、眼から鱗がぽろっと落ちた。

 正直言って、自分の未来が「だれか」に向かって開いているかもしれないなんて、今まで一度もイメージしたことがなかった。どこかのだれかに届けることを思うと、自分を中心に広がっていた輪が少し膨らんで楕円になって、まだ名前も知らない星たちがそこにたくさん飛び込んでくるような気がする。

「ありがとね。マナちゃん」

「へ? なに?」

 戸惑う彼女に目を細める。

「おかげでまた少し、自由になれた」


***


「鈴木がいつも休憩のときに見てる動画、お前どんなのか知ってるか?」

 店内にお客さんがいなくなったところで、カウンターの坂本さんがたずねてきた。

「はい。ちょっと見せてもらったことはありますけど……」

 お弁当類を陳列しながらカオルは答える。今回はついにジュンヤが標的か。

「なら話は早いな」彼はなんだか嬉々とした様子で言った。「あの若手起業家がだらだら喋ってるやつ、あいつはビジネスの勉強だとか言って見てるけど、実際それっぽいワード使ってるだけで中身なんもないよな」

「そうですかね……」

 なんて、よくわからない体を装ってはいるけれど、正直なところカオルもあの動画はうさんくさいと常々感じていた。タメになる話みたいに見せかけてるだけで、聞き終わったあと残るものが何もないような気がする。ジュンヤにもこの間はっきりそう伝えていた。

「大半の人間はああいう雰囲気だけで満足するからな。適当なこと言ってるだけで儲かる楽な商売だよ」

「どうなんでしょうね……」

 そうやってとぼけつつも、カオルは心のなかだけで何度も頷いているのだった。

 坂本さんのことを嫌いになる理由がバンバン出てきた最近でも、こうやって話だけはフツーに聞いちゃってる自分がいる。好意的に接してはくれてるから、もともと冷たくする気もないんだけれど、問題は彼の話にけっこう同意できてしまうことだ。

 彼はよく時事問題や身近な人たちについて辛辣なことを言う。それはたいていカオルも気になっていることで、しかもジュンヤやマナちゃんはそこまで関心を持ってくれなかったり、芹沢さんはあんまりきついことを言ってくれなかったりするものだから、坂本さんのコメントにはむしろスカッとさせられることさえあった。

 だけどカオルはその裏で複雑な気持ちになる。彼のSNSを見ていると感じる、あのヒリヒリしたものが伝染してきているのか、なんとなくつらい気分になることがあるのだけれど、なぜそうなってしまうのか自分ではよく分からないのだった。

 よいしょ、としゃがんで最下段にお惣菜を並べていると、自動ドアが開いていくつかの足音が店内に入ってくる。振り返って見ると、大学生らしき女性が六人。カオルはお買い物のジャマにならないよう彼女たちに注意を向けたまま陳列を再開した。

 カゴを持った一人を先頭にかたまって動く六人は、賑やかにしゃべりながらお菓子を選び、続いて飲み物を手に取りはじめる。カオルはその隙に商品を並べ終えると、いったん逃げるように後ろへ下がった。

 彼女たちは群れのように隊列を組んだまま移動して、坂本さんの待ち構えるレジに向かう。会計をするのは先頭の一人だけなのに、やっぱり残りもわらわらとカウンター前に集合していた。

「ありがとうございましたー」

 坂本さんが小さくお辞儀をすると、彼女たちはまるで一つの生物みたいに足並みをそろえてお店を去っていく。彼はカオルを横目で見ながら、外に見える六人の背中をあごで指し、フッ、と鼻で笑った。

 遠くへ消えていく彼女たちの姿がこのあいだのサイトーくんたちと重なったとき、カオルはようやく理解した。坂本さんは「線」を引きたいんだ。俺はお前らとは違う——そう叫ぶことで自分が誰なのか確かめたいだけなんだ、と。

 その気持ちは、痛いほどわかる気がした。だってカオル自身もきっと、ジュンヤがいなければそうしていたから……。

 坂本さんの言葉から感じるヒリヒリの正体はたぶん、「線」の向こうにある大切な何かから引き離される痛みなんだと思う。身体の一部を、少しずつ少しずつ削り取っていくような痛み。それがいつか彼をとても暗いところへ追い詰めてしまう——そう思ったとき、言葉が口をついて出た。

「あ、あの……!」

「ん?」

 彼はこちらへ向き直る。

「坂本さん——の毒舌、僕はけっこう嫌いじゃないっていうか、わりと激しく同意しちゃうものも多々あります。はい。でも、その……なんか最近、イヤなもの数えるのちょっと疲れてきちゃった、っていうか……」

「…………」

 たどたどしく語りかけるカオルを、坂本さんは無表情のまま見つめている。

「たとえば何か、坂本さんが好きで好きでしかたがないものの話とか、とても忘れられないような衝撃を受けたエピソードとか、そういうの僕は聞かせてもらいたいんですが、な、なんか、ないですかね……?」

 カオルは首を傾げながら、彼の瞳を恐るおそるのぞき見る。

 凍り付くような沈黙が数秒ほどつづいたあと、

「……さあな」

 と坂本さんは低い声で言った。その目にあったのは困惑にも怯えにも似た何かだったと思う。

 彼が俯いてしまうとすぐに次のお客さんが来店し、二人は何事もなかったかのようにいつもの業務に戻る。

 この日以来、バイト中、坂本さんがカオルに自分から話しかけてくることは一切なくなった。

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