第9話
新しい年がはじまって、そろそろ期末レポートの内容もひととおり判明してきたころ、カオルは翌日のいちご狩りに持っていくお菓子類を買うため最寄りのコンビニを訪れていた。
バイトしているのとは別のところなので、もちろん品ぞろえは違うけれど、商品の並べ方とかはけっこう参考になったりする。ただお客さんとして買い物をしていたときにはぼんやりと眺めているだけだったけれど、バイトを始めてまあまあ経った最近は、その裏に潜む店員の意図がちょっとだけ透けて見えるようになった。
それはどことなく、星座をみつけるのに似ている気がする。星々のなかにひとたびある図形を覚えてしまうと、いつもなんとなく見上げていた夜空がまったくべつの景色に変貌してしまう。オリオン座を知ってから、とくに意識しなくてもあの形に見えるようになったのと同じに、カオルはこれからもコンビニを訪れるたび配置が気になるように改造されてしまったのかもしれない。
いちご狩りのことを意識していたら、ついイチゴ味のチョコを手に取っていた。うーん、さすがにそれは避けないとな、と一瞬思いかけたけれど、逆に徹底していちご三昧にするのもありかもしれない。一緒に参加するジュンヤがどんな顔するか楽しみになりながら、いちご系統の商品を買いそろえる勢いで片っぱしからカゴに入れていった。
新発売のいちご飴をじーっと凝視していたところ、お客さんがもう一人来店する。ちらっと見てみるとそれは坂本さんだった。
紅林で来ていたカオルはとっさに商品棚のかげに身を隠す。店内には防犯カメラもあり、トイレで姿を変えるのはちょっと危険なので、彼がコンビニを出るまでこうしてやりすごすしかない。——まあ、紅林の顔なんてもう覚えてないかもしれないけれど。
店員さんに怪しまれないよう気をつけながら様子をうかがっていると、彼はおにぎり二つと……えー、なんといいますか、避妊具をですね、持ってレジに行き、唐揚げ六個セットとタバコ三箱を頼みました。
あ、それ、今からご使用なさるおつもりなんですね。見てはいけないものを見てしまった感のあるカオルは遠くで唖然とする。そりゃあバイトしてれば同世代が買ってくのとかフツーにあるけれど、袋に入れるのもそこまで緊張しなくなったけれど、でもやっぱり知り合いのそういう一面を目撃するのはとてもショッキングだ。……ラブホに連れてかれたときの次くらいに。
彼がお店を出たところで、カオルは大量のお菓子が入ったカゴを持ってレジに進み、さっきなぜか美味しそうに見えてしまった唐揚げを注文した。
外に出ると、夜の街のどこにも彼の姿はない。吐く息が白くなるほどの寒さのなか、念のため建物のかげで白崎になってから帰路につく。
坂本さんに言われて、最近SNSを交換した。カオルは企業のお知らせを見るくらいでほとんど使っていないけれど、彼はわりと頻繁につぶやいているようだった。その内容は意外や意外、きょうも飲み会たのしーうぇーい、というようなものではなくて、「日本は○○後進国だ」みたいに社会問題を扱ったり、「こんな記事を書く人間の気が知れない」なんて言いながらネットメディアを批判したりとシリアスなものばかり。しかも、これがなかなかよく書けていて、特にリンク先のブログに掲載されている文章はよくできた小論文みたいな読みごたえがある。おまけに参考文献つき。知識や論述力にしても、大学生のなかではわりと真面目なはずのカオルをひょっとすると上回っているかもしれなかった。
そんなしっかりした文章だけれど、一つだけどうしても気になってしまうことがある。それはなんというか、全身がヒリヒリするような印象。読んでるこっちがヒリヒリするだけじゃなくて、坂本さん自身も書きながらヒリヒリしているんじゃないか、そう感じさせる何かが文字と文字の隙間からしみだしているようにカオルには思えた。
そのアカウントの投稿やプロフィールにはマナちゃんがこのあいだ見せてくれたような顔出し写真は一つもなかったから、もしかすると裏アカってやつなのかもしれない。だけど、それを自分から教えてくるなんてどういうつもりなんだろう。そういうものって普通、匿名で呟きたいから顔見知りには伏せておくものじゃないんだろうか。
マナちゃんのこともあって、あまり関わるべき相手じゃないとは思うけれど、最近なんとなく気に入られているみたいだし、どこか嫌いになりきれない人だしで、カオルは正直なところどうしたらいいのか分からなくて困りはてていた。
身体のかわりに心が一つだけになっていたら自分はもう少し楽に生きられるのに——なんて不毛なことを思いながら歩いていると、角を曲がったところで少し先に彼の後ろ姿が現れる。あの人もこっちの方に住んでるのかな、もしくは彼女のアパートがあるとか、などなど考えつつ、追いついてしまわないようにカオルは少し歩調をゆるめた。
坂本さんはしばらくカオルの自宅へつづくルートを歩いていたけれど、川沿いを直進せずに途中で橋を渡る。すると、彼を無視して帰る気でいたはずなのに、カオルはそこから後を追ってしまうのだった。
いくつもの街灯が照らす夜道を抜けて、歯科医院の看板が立つ交差点に出ると、坂本さんはまっすぐ横断歩道を渡る。そのときカオルの頭に浮かんでいたのは、イルミネーションを見に行った翌日、マナちゃんが知らせてくれたあのことだった。
白崎とマナちゃんの両方を知っていて、なおかつ芹沢さんとも接点がある人物。そんなのジュンヤと堤先生をのぞいたらぜんぜん思い当たらなかったけれど、ただ一人だけ、ぎりぎり可能性のありそうな人がいた。白崎のバイト仲間で、マナちゃんの元カレで、芹沢さんとは同じ合コンで出会うはずだったように友達づてで知り合っているかもしれない人物——。
二軒並んだ立方体型のアパートがあらわれると、坂本さんは一階左端の扉まで歩き、コンコンコン、とノックした。少しの間があってドアが開き、彼は漏れた明かりの中に吸い込まれていく。
立ち尽くすカオルの目の前で、ばたん、と閉じた扉に鍵がかかった。
***
もう何も考えたくない。どこにも行きたくない。
いまごろ、二人はおにぎりを食べて、唐揚げを分け合って、そして……。毛布のなかでうずくまっていたら、いつの間にか夜が明けていた。たぶん一睡もできなかったと思う。
カーテンの隙間から差し込む青い光が、強引に朝へひきずりだそうとしてくる。しばらくそれに背を向けて暗い煩悶に閉じこもっていたけれど、気づいたときにはベッドから出てあのとき同時に買ってしまった唐揚げを口に入れていた。
ふと部屋の隅を見ると、お菓子が山ほど詰まった袋が置きっぱなしになっている。そうだ、今日はいちご狩りの日だった。
出かける気力もなかったし、行ったところで家に帰るまで精神が持たないような気がしてキャンセルの連絡を入れようかと悩んだけれど、やっぱり昨夜の出来事をだれかに話したい、吐き出したいという気持ちが結局は勝り、モミナさんの歌を聴きながら身支度にとりかかった。
集合場所の駐車場に向かうと、去年みかん収穫のときにご一緒した非公認サークル「フルーツ☆ばすけっと」の方々——といっても、顔も名前もほとんど覚えてないけれど——がわらわらいらっしゃって、やっとジュンヤを見つけても会話するチャンスが来ないうちにバスが来てしまった。
出発したあとも、内容が内容なのでせまい車内では話しづらいし、休憩タイムにもそんな暇ないしでどんどん時間だけが過ぎていく。カオルは会話や雑音をイヤホンでカットすると、窓の外を眺めながら、芹沢さんが今まで口にした言葉や見せてくれた表情の一つひとつを思い返した。その裏に隠された本当を描き出そうと何度も何度もためしたけれど、記憶のなかの先輩はなぜかとてものっぺりとしていて、何一つ答えを返してはくれない。つみ取った新鮮ないちごの爽やかな甘酸っぱさだけが、延々と繰り返す作業に疲れた心をほんの微かにいやしてくれた。
大学周辺にやっと帰還すると、案の定、飲み会が開かれることになったので、会場を包むわちゃわちゃした空気の苛立たしさに耐えに耐え、ぜんぶ終わったあとで二人きりになれるのを待った。
なのに——。
「なんで歩けなくなるまで飲んじゃうかなー」
「いやぁ、そんなのんれないっすよ」
カオルはべろんべろんに酔っ払ってしまったジュンヤに肩をかしながら、彼のアパートまで歩いていた。この様子じゃ、なにを話してもちゃんと聞いてもらえそうにない。
千鳥足のバランス感覚がいかに恐ろしいかを思い知らされながら、やっとの思いで玄関前にたどりつく。
「ジュンヤ、鍵どこ?」
「えぇっと……ここだ!」
バッグの中をあさるジュンヤの手が、しばらくして力なく浮上する。彼から鍵を受け取るとドアを開いて中に入り、さっそく電気をパチッとつけた。
「はーい、ただいまだねー」
「おー、おかえりぃ!」
部屋に入って鞄を置くと、そのままいったん二人でベッドに腰かける。
「ふー、つかれたー!」
カオルは背中を壁にもたれて一息つきながら、ぼんやりと室内を見まわした。実はジュンヤの部屋を訪れるのは、というより他の大学生の部屋を訪れるのは今回がはじめてだったりする。閉じられた黒いカーテン。壁に貼られたアメコミ映画のポスター。その下にはケースに入ったヒーローフィギュア。隣の本棚に並んでいるのは教科書と——タイトルから推察するにビジネス書や自己啓発本かな? カオルの知らないアーティストのCDも表が見えるように立てて置かれている。それらはわりときれいに整頓されていて、よく片付けられた机の上や汚れの目立たない台所といっしょに彼の意外な几帳面さをあらわしている気がする。
大きなクマのぬいぐるみとニセの多肉植物くらいしか飾っていないカオルの部屋よりも、どことなく「オレ仕様」って感じがする。他の大学生はどうなんだろう。一件じゃサンプル数が少なすぎて傾向がみえてこない。マナちゃんの部屋とか、芹沢さんの部屋、とか……。
「ねぇ、ジュン——」
もうただ聞いてくれるだけでいいや、とカオルが昨日のことを伝えようとした途端、がばっ、とジュンヤが体を半回転させて覆いかぶさってくる。
「わっ、ちょっ!」
逃げる暇もなく、カオルは胴をつかまれてしまった。完全にセクハラ認定ものだ。
「うー、しらさきぃ」
頭が押し当てられた左肩に声の振動が直接ひびく。ここまで密着されたら、こっちの心臓の音だって彼の耳に——。
「やめてよ、こんな……」
毒々しいものが身体の奥でじわりと滲む。まずいと思ったカオルが腕を強引にひきはがそうとすると、
「ごめん、ほんとに……」
ジュンヤがつぶれたような声で言った。
「オレ、お前みたいに強くないから……。なんにも、助けてやれなくて……ごめん」
何のことを言っているのか、すぐにわかった。このあいだサイトーくんたちと会ったときから——いや、もしかするとそのずっと前から伝えようとしてくれていたのかもしれない。
「ちがうよ。ジュンヤは強い。僕の味方でいてくれて、ちゃんと自分も守れて、そういうの、簡単にできることじゃないよ」
「そうじゃない……そうじゃないんだよ。オレは、ただ、怖かっただけで……」
彼は腕に力を込めて言った。
「いいんだよ……ジュンヤ。その言葉だけで、僕はじゅうぶん、嬉しいよ」
カオルは彼の頭に手をのせると、なだめるようにゆっくりと撫でる。それをしばらく続けているうちに、ジュンヤの唸るような声はだんだん掠れて沈んでいき、静かな呼吸へと変わっていった。
「……寝ちゃったかな」
カオルは反応がないのをたしかめると、すぐそこにある形のいい耳をそっと唇に咥えた。その感触は思っていたより硬くて、熱い。……これくらいならきっと、マナちゃんも許してくれるよね。
「ジュンヤ……」
彼の頭に首をもたれて、短い髪に頬をうずめる。ちょっとお酒くさいなかに混じる、あのころ大好きだったにおいが、心の時間を少しだけ戻してくれている気がした。
あふれ出る感情をしまっておける棚があって、いつかそれを本当に求めるときに、自由に取りだせたらいいのに。
あのままずっと、好きでいたかったな……。
カオルはしがみつくようにジュンヤを抱きしめた。
***
目を開けると、知らない天井があった。首を持ち上げて周囲をキョロキョロ眺めると、ジュンヤの部屋のベッドに横になっていることが判明する。大きな窓から差してくる光に思わず目をくらませていると、
「お、おう、起きたか」
台所の方から彼の声が響く。
「うわー、うっかり寝ちゃってたよ」
カオルが上半身を起こすと、ラフな格好に着替えたジュンヤがこっちに出てくるのが見えた。
「うっかり、だったのか。そうだよな……」
少しおどおどした様子のジュンヤ。
「それ以外のなにをお疑いですか?」
とカオルはたずねる。
「あー、いや、その」彼はうろたえて言った。「さっき、起きたらオレ、お前の上……で。もしかして、昨日、なにか変なことしたんじゃないかって……」
「……なにもなくてそんな寝かたしないよね、普通」
「や、やっぱそうだよな! どど、どこまでしてた、オレ⁉」
とジュンヤは顔を赤らめる。
「どこまでって……友達として、みたいだったから許すけど、今度からはあそこまで飲まないでほしいなって程度」
「すんませんでしたホント!」
彼は手を合わせて頭を下げた。
「いいよ、べつに」
お互いさまだしね、と聞こえないくらいの声で呟く。
「まあ……そのお詫びってわけじゃないけど、いまお前の分の飯もつくってるから、よかったら食ってけよ」
「ああ、うん。ありがとう」
カオルが頷くと、ジュンヤはさっそく台所に戻って行った。すると間もなく、油のはねる威勢のいい音とともに美味しそうな魚のにおいが漂ってくる。今日は和食とみた。
きのう家を出たときから白崎のままでいるせいか、なんだか身体がムズムズしてしかたがないので、カオルはとりあえずぐっと伸びをして紅林になった。そのまま脚を持ち上げてベッドから出ようとすると、腰から下を覆っている毛布に気づく。彼がこれをかけてくれてたんだと思ったら、ついつい口元が緩んでしまった。こういうの、ドラマで見てずっと憧れてたな……。
四角いローテーブルの前でとりあえず正座しているうちに、ジュンヤが両手に紙皿を乗せてやってくる。
「よーしお待たせ——って紅林かよ」
「あーゴメンごめん。白崎でいるのツラくなってきたから」
そういえば、こっちの姿でジュンヤと会う機会は正体バレ以来ほとんどなかったから驚かれても仕方ないかもしれない。
「まあ、べつに構わないけどな」
と言いつつ、彼は視線を逸らして台所とテーブルを往復する。はんぶんこしてくれた焼き鮭、お味噌汁、大盛りのごはん、そしてお茶。最後に二人分の割り箸を持ってくるとカオルの向かい側に腰を下ろした。
「え、まさか、自分の箸とか食器とかないわけ?」
カオルのだけでなく彼の分まで、お茶は紙コップ、シャケやごはんは紙皿に、お味噌汁にいたってはコンビニで売ってるおでんの容器に入っていた。友達が遊びに来るのにそなえてこういうものを用意している大学生は多いとどこかで聞いたけれど、まさかみんな使い捨てオンリーってこと? うーん、たしかに、それだと面倒な洗い物もしなくてすむかも……。
「いや、あるけどさ、オレだけってのもなんかあれだろ?」
ジュンヤが言った。そっか、いっしょがよかったのか。
「……お気づかい、どうも」
カオルはこくっと頭を下げる。一瞬だけ変な間があったあと、「いただきます」と手を合わせて二人は箸をとった。
それからしばらく、無言の時間が流れる。割り箸が紙皿をたたく乾いた響きと微かな咀嚼音だけが聞こえるなか、カオルはその沈黙にどこか噛み合わなさを感じていた。二人はもとからそんなに話す方ではなかったけれど、それはむしろ会話がなくてもいっしょにいるだけで何かが通じている気がするという、わりとポジティブなものだったと思う。なのに今は、というか最近は、どことなく雰囲気が硬い。
「……お味噌汁、美味しいよ」
顔を上げて言った。
「そ、そうか……よかった」
ぎこちない様子で返すと、ジュンヤはすぐに視線を下してしまった。やっぱり、まだ意識されてしまっているらしい。
でも、噛み合わなさの原因はたぶんそれだけじゃない。昨日酔っぱらって言っていたような高校のときのいろいろが、同性から半分異性に変わってしまった関係と重なり合うことで、この気まずさを生じさせているに違いなかった。
なんだか所在ない感じになってしまったカオルは、ぼんやりと部屋のなかに視線を泳がせる。けっこう新しそうな掃除機とか、大学で配られた非常用持ち出し袋とか、なんてことないものを発見しているうちに、窓際においてある鉢植えに目が留まった。緑の部分がぜんぜんなくて、なんの植物なんだか分からない。
「……これなに? 枯れてんの?」
カオルは指さしてたずねた。
「それ、ベゴニアだぞ。このあいだお前がくれた」
「え……⁉」
もう一度よく見てみる。けれど、やっぱりこの変わり果てた姿からあのきれいな黄色い花を想像するのは難しい。
「それにたぶん枯れてないはずだけどな。いま休眠期ってやつだろ?」
「あー、そっか、球根が残ってるんだよね……」
母と弟に任せて実家においてきてしまったあの紅白ベゴニアも、こんなかんじになっているんだろうか。
「っていうか、こっちまで持ってきてくれたんだ」
「ま、まあ……せっかくもらったんだから自分で育てたくてな」
ジュンヤは照れた様子で頭を掻いた。
「すごいね。わたしはいつも水やり過ぎたり、逆にやらな過ぎたりしてすぐ枯らしちゃうよ」
「あー、お前らしいな、それ」
そう言って彼は笑う。
「ど、どういう意味?」
「いや、ほら、お前ってなんでも離れたところから見ようとするだろ? 水をやる量とかタイミングとか、病気だとこういう色になるとか、ちゃんと検索したりはするんだろうけど、こいつ今どんな調子なんだろうなーってつついてみたり、あんまりしなさそうだよなってこと」
「なるほど……」
そう言われてみると、たしかに自分は動物や植物に直接触れるのにいつも抵抗を感じているところがある。生きているものと正面からかかわることにはなにか独特の緊張があって、どうしていいんだか分からなくなってしまうから——。
カオルはそこでふと気づく。これはたぶん、人間が相手でも同じことなんだ、と。
思えば最近はいつも、ジュンヤのことを考えるとき「昔」とか「あのころ」とかそういう言葉ばかり頭に浮かんでいる気がする。昨日だって、ただ懐かしさに独りで浸っているだけだった。それじゃあ、まるで押し花を手のなかで眺めているみたいなものだ。勝手につみ取って、勝手に思い出にしてしまっている……。
本当にこの関係を大切にしたいと思うのなら、きっと、いま目の前で生きている彼と直接向き合わなきゃならない。踏み込んでいかなきゃならないんだ。
「あのさ、ジュンヤ」カオルは語りかける。「このあいだ、わたしの正体がバレちゃったとき、それでも友達でいたいって言ってくれてすごく嬉しかったよ。身体のことが知られちゃったら、きっと今まで通りの関係じゃいられなくなると思って、ずっと怖かったから」
「お、おう……」
彼は照れくさそうに少し視線を落とした。
「でもね、いま考え方をちょっとだけ変えてみることにしたよ。これまでと同じじゃなくてもいいやって思うことにした。だから……よかったらジュンヤもそうしてほしい」
カオルは静かに微笑んだ。
「もう一度はじめから、どんなかたちで付き合っていったらいいのか、いっしょに見つけていこうよ。……ゆっくりでいいからさ」
どんな想いも、どんな関係も、長い時間のなかでは変化から逃れることなんてできないのかもしれない。だけど、心からいっしょに生きていきたいと望む限り、相手を大切に思う気持ちはきっと形を変えながら続いていくんだと思う。
そうすればいつか、隠していたあの頃の気持ちだって、笑って話せる日がやってくる、はず。
「ああ……そうだな。ゆっくり、いこうな」
カオルの言葉を一つひとつ確かめるように、ジュンヤは何度も頷いていた。
「それではご馳走さまでしたー」
カオルはスニーカーにかかとを入れながら軽く頭を下げる。ちゃっかりおかわりまでさせてもらったので若干胃が重い。
「忘れ物とかないか?」
ジュンヤが玄関まで出てきて言った。
「ない——けど、言い忘れてたことあった」
少し長い話になるので、手に持ったバッグを床に下ろす。
「芹沢さん、坂本さんと付き合ってるかもしれない」
カオルは一昨日の夜目撃してしまった光景について、できるだけ感情を入れずに見たことだけを淡々と語った。ジュンヤは最後まで黙って聞き終えると、
「み、見間違いじゃないんだよな?」
とたずねる。
「何度も表札を確認したけど芹沢としか書いてなかったよ」
「そ、そうか……」
彼は何と言っていいか分からない様子で口を閉ざしてしまった。
「もしジュンヤが好きな人のこういうところ知ちゃったらショック?」
「いや、そりゃあ……そうだろ」
「あー、ならちょっと安心かな」
カオルはひとり苦笑した。
「あの人、このあいだ中川と話してたときは彼氏いないって言ってたんだけどな」
とジュンヤが言う。
「つい最近付き合いはじめたのか、単に隠してるのか、あるいは彼氏じゃなくてセフレってやつなのか……」
そうカオルが推察すると、
「せ、せふ⁉」
ぎょっとした顔になるジュンヤ。
「……まあ確かに、あの坂本さんならありえるかもな。そーとー遊んでるって聞くし」
子供のころは微笑ましかった「遊ぶ」って言葉が、いつのまにかドロッとした響きを帯びていて驚く。
「それならいいんだけどね……」
「だよな……って、おいおい⁉」
彼はまたぎょっとした顔になってこっちを見る。
「いいのかよ! あの二人がそんなんで!」
「べつにいいでしょ。彼氏だったら嫉妬しちゃうかもだけど、セフレだったら何人いても構わなくない?」
「……やっぱお前って何考えてるかわかんねーな」
ジュンヤは唖然とした表情でそう言った。
「ああ、ただし、芹沢さんがそれを本当に望んでいるなら、だけどね」
とカオルはつけ加える。
「先輩、ときどき思いつめた感じになったり、なにかごまかしてるように見えたりするからさ。その原因が坂本さんなら放ってはおけないよね」
「いや、それ……危険なんじゃないか?」
彼は眉間にしわを寄せた。
「芹沢さんがホントにそういう人ならゼッタイお前とは合わないだろ。わるいこと言わないから、深追いするのはやめとけよ」
ジュンヤが心配するのもよくわかる。カオル自身もこれからどうなるか考えると不安でしかたがない。それでも——、
「……忠告してくれてありがとう。だけど、せっかく先輩のこと好きになれたわけだし、そう簡単には引き下がりたくないかな」
カオルはしっかりと目を見開いて続ける。
「ただ、わたしの心にいるのは芹沢さんだけじゃないからね。ジュンヤやマナちゃん、堤先生や哲学、モミナさんの歌にチーズ入りチキンカツ……そういうのがいっぱい詰まってるから、先輩にぜんぶ持ってかれたりしないんで、そこだけは安心しといてよ」
そう言うと、ぐっと拳を握ってみせる。
「なんだよ、それ」
と彼は笑った。伝えたかったことは、ちゃんとわかってくれたみたいだ。
「あ、ちなみに」カオルはふたたび鞄を手に取る。「この件はもちろん他言無用だからね。マナちゃんとかにも言っちゃダメだよ?」
ジュンヤは「おう」と頷いた。
「それじゃ、わたしはこのへんで——と、その前に白崎になっとくか。ヘンな噂にならないように」
カオルは意識を集中させて白崎に姿を変えると、ドアを押し開けて外に出た。眩しい朝の光が目に飛び込んでくる。
「じゃあ、またねー」
「お、おう。じゃあな……」
閉じた扉にジュンヤがカギをかける音が聞こえたところで、ようやく一区切りついた感じで息をつく。なんだかんだ言って、やっぱりまだ彼の前だと緊張してしまうのかもしれない。
とりあえず時間を確認しようと思ってポケットのスマホを探したそのとき、
「あれ? カオルさん?」
背後から声がかかる。とっさに振り返ると、すぐそこの歩道にまさかの芹沢さんが立っていた。パーカーワンピにスニーカー。普段よりちょっと軽やかなイメージだ。
「せ、先輩、どうして——」
思わず後ずさってしまう。
「ああ……ここ私の散歩コースだから」
「そ、そうですか……」
「というか、カオルさんこそどうして鈴木くんのアパートから出てきたの?」
なんと、これじゃあまるであのときと真逆の立場じゃないですか! ここは焦らず、誤解を招かないように正直に答えよう。
「き、昨日いちご狩りに行ってきたんですけど、その帰りに酔っぱらったジュンヤをここまで連れてきてやったんです。そしたら急に疲れが出て、気づいたら朝になってたので、ごはんまでご馳走になっちゃって今に至ります」
カオルはそこまで一息に語り終えた。
「ふーん、そっか……」
頷く芹沢さんからはどことなく不穏な雰囲気が漂っている。
「そ、そんなことより、先輩って、もうすぐ修士課程の入試があるんじゃなかったでしたっけ?」
と急いで話題を変える。
「あー、そうそう。今週末なんだよ。よく覚えてたね」
「そりゃあ先輩のこと応援してますから」
二人とも笑って、少しだけ空気が柔らかくなった気がした。
「カオルさんも期末試験あるでしょ? 実は私も少しあるんだけど、お互い頑張ろうね」
「はい! ベストを尽くしましょう!」
手をグーにして差し出すと、先輩も一瞬おくれてそれに合わせてくれる。二人は拳をコツンとぶつけて互いの勝利を祈った。
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