第8話

 今日、直接会って話したいことがあるんだけど——朝起きたらマナちゃんからそんなメッセージが届いていた。わざわざ待ち合せるなんてどんな用事なんだろう、と気になって気になって仕方がないまま午後の授業を終えると、指定された通りいつもの駐車場脇に向かった。

「ごめーん、待っ——」

 遠くに彼女を見つけるやいなや呼びかけようとしたカオルは、その立ち姿から漂う異様な重苦しさに思わず口をつぐんでしまう。これ、かなり、ヤバいやつなのでは……?

「……ああ、カオル。来てくれてありがとね」

 と言ってマナちゃんは顔を上げる。一瞬、にらまれてるんじゃないかと思うほどその瞳には力が入っていた。

「ど、どうしたんすか。いったい」

 カオルがたずねると、

「……誰かにツケられてない?」

 彼女は低い声で言った。

 ひとまず背後を振り返ってキョロキョロ見まわしてみたけれど怪しい人影はない。カオルが無言で頷くと、

「じゃ、こっちへ」

 マナちゃんは手招きしながらさらに奥まった方へと歩き出す。そそそっと後を追っていくと、理学棟の裏、緑にかこまれたところで彼女は足をとめた。

「ここなら誰かに聞かれる心配はない——かな」

 そう言ってもう一度あたりを目視すると、マナちゃんは大きく息を吸って口を開いた。

「カオル、二四日の夜、予定ある?」

「……はい?」

「十二月二四日の夜、予定はありますかって質問してるの」

「べつに、ない、けど……」

 彼女はその答えに、ふぅ、と安堵の息をつく。

「じゃあ、今からする話をよく聞いてもらえる?」

「う、うん」

 カオルが謎の圧を感じながら頷くと、

「昨日の、ことなんだけどね」

 マナちゃんはゆっくりと語りはじめた。

「授業終わった帰り道、交差点で信号変わるの待ってたら、隣で電話してるやつがいて、元カレに声似てんなー、やだなー、って思って見てみたら、ホンっトに元カレだったんだよね」

「ほ、ほう……」

 これまでの発言から、過去に交際していたことがあるっぽい感じはしていたけれど、実際に聞くのはこれが初めてになる。

「でね、イブにどこで何時に待ち合わせ、みたいなこと話してるわけ。うわ、これゼッタイ今カノだわ、と思ったらめちゃくちゃムカついてきて、もう、どうしてやろうかってなって!」

 彼女は片手で髪を搔きむしると、

「そこでお願いなんだけどさ、カオル」

 こっちを真直ぐに見据えて言った。

「バイト代はらうから、彼氏役やってくんない?」

 カレシヤク……? その耳慣れない単語の処理にとまどって文の意味がなかなか理解できなかったけれど、一拍おいてようやく頭のなかで全てが整う。

「ええぇー⁉」

 とてつもなくすっとんきょうな声が漏れた。

「デートしてるあいつに、ちらっと見せるだけでいいからさ、じゃないとこの怒りが——」

「いいよ!」

「——えっ?」

 今度はマナちゃんが間の抜けた顔になる。

「そんな、あっさり、いいの?」

「いいに決まってるじゃないですかマナちゃんさん!」

 カオルはそう言って両手の親指を立てた。

「でもその代わりにちゃんとお作法は教えてよね」

「お作法……?」

 彼女はきょとん、と首を傾げる。

「デートのお作法だよ。クリスマスデートってどんなものなのか、そもそもデート自体どうやってするものなのか、ぜんぜん知らないからさ。いつか芹沢さんと行くかもしれないし、予習だね、予習」

 というわけでマナちゃんからのオファーはちょうど願ったりかなったりだった。

「でも、なんでわたしに?」

 カオルは聞いてみる。

「いや、あんたってさ、どっちでもあるっていうか、どっちでもないっていうか……だからギリギリありかなーって思って……」

 自分でもよく分からない様子で彼女はそう答えた。

「ほー。そういう感覚なんだね」

 同性なら抵抗を感じないことでも異性が相手だと全然ダメ、みたいなことはたぶん多い。今回はそのあいだをうまくすり抜けられたのかもしれない。

「っていうか、ジュンヤに頼まなくていいの? せっかくいい口実になるのに」

「鈴木くんとは本物で行きたいの!」

 ちょっと腹立たしげにマナちゃんはそう言った。……偽物でも、けっこう楽しいと思うんだけどな。

「それに交友関係せまいカオルの方が、あいつと知り合いの可能性低いし」

「ああ、そっか。その心配があるのか」

 うっかりしていた。いろいろごまかしながら生きるのには慣れてるつもりでいたけれど、それは白崎と紅林を切り替えるだけのお手軽なウソに限った話で、一つの身体でひとを欺くのはけっこう面倒なことらしい。

「一応、確認しておきたいんだけど、その元カレの写真とかある?」

「ゲッ⁉」

 まさに苦虫をかみ潰したような顔になるマナちゃん。

「……見せなきゃダメかな?」

「口裏とか合わせる必要でてくるかもだからね。バレたときのリスクを考えるとその方が賢明じゃない?」

「えー」

 彼女は強くためらいながらも、

「写真全消去したからな……。ちょっと待っててよ、あいつのSNSなら——」

 スマホを取りだして操作しはじめる。そしてすぐに、

「——ハイ。これ」

 と画面を見せてくれた。

 のぞき込むと、黒いTシャツのひょろっとした男性が一人、ベンチに腰かけている。カオルはその顔を知っているどころか、むしろ毎週のように目にしていた。

「さ、坂本さん……だ」

「……マジかぁ」

 頭を抱えて俯くマナちゃん。

「白崎でいっしょにバイトしてる。ちなみにジュンヤもね」

「あー、あー、あー」

 エラーを起こした機械のように彼女は首をゆすりはじめる。意外過ぎる取り合わせに、正直いってカオルもまだ現実感が持てていない。この二人がどうやって出会い、くっつき、そして別れたのか……謎はあまりにも大きい。

「あの人にはたしか半年くらい前に、彼女いませんって言っちゃったから、今年の夏がはじまる頃に付き合いはじめたって設定でどうかな?」

「え?」マナちゃんは我に返る。「協力してくれんの? 知り合いなのに」

「しますよ。それで失うものもたぶんないし」

 彼女はハッとした表情で、

「あんた、いいやつすぎ」

 と褒めてくれた。

「でも、それでカオルの印象わるくなったりしない?」

「まあ心配ないとは思うけど、マナちゃんこそ、わたしみたいなのが彼氏ってことになって大丈夫なの?」

 カオルがそう問い返すと、

「うーん。そこはいちおう、及第点かな」

 彼女はちょっとはにかみ気味に笑った。


***


 三日後、作戦決行の夜。万が一でも遅れるといけないと思ったカオルは、約束の時間より二〇分も早く高架下のバス停に着いていた。ひとつ前の便が出てからまだほとんど経っていなかったからか、到着したときにはまだ誰も並んでいなかったけれど、そのうち少しずつ人が——というよりカップルが増えはじめて、今ちょうど六組目が歩いてくるのが遠くに見える。マナちゃんはその背後からひょっこり姿をあらわした。

 彼女は黙々と大股で突き進み、目前の男女をさっさと追い抜いてカオルのまえで足を止めた。

「こんばんは。今日はよろしく」

 とマナちゃんは会釈する。丈の長いニットコートのおかげか、いつもよりふんわりした印象にはなっているものの、首に巻いた真っ赤なマフラーがひとたび風になびくだけでヒーローに変身してしまえるくらいのポテンシャルは残していた。

「こ、こんばんは……」

 カオルはさっそく彼女といっしょに列に並ぶと、あんまりジロジロ見すぎないように気をつけながら周りのカップルと自分たちの様子をくらべてみる。

 はたして、二人はちゃんと恋人どうしに見えてるんだろうか。何かが大きくズレてしまっているような気が……。

 ほかの組と違うのはまず、距離。このあいだ芹沢さんとチャレンジしたみたいに、しっかりとくっつかなくてはならない。カオルは隣のマナちゃんに一歩近づいてみる。すると途端に彼女がキロッと鋭い眼光をむけてきて、一瞬、石にされてしまいそうになった。

 次は——と周囲を見渡していると、やってくる七組目が手をつないでいることに気づく。そうだ、手つなぎだ! おたがい手袋をしているから汗だって気にならない! ……けれどその手前でなんとなくイチャイチャしている六組目は腕を組んでいる。うーん、悩みどころですねこれは。

「マナちゃんさん」

「はい?」

「手、つなぎます? 腕、組みます?」

「べつにどっちでもいい」

 どっちでも……か。ドリンクバーではいつもオレンジジュースとグレープジュースどっちを飲むか決められず半分ずつ混ぜてしまいたくなるカオルにとって二者択一ほどつらいものはない。でも、こうなったときはいっそのことメロンソーダにするという手があった。

「これでは……いかがですか」

 カオルはマナちゃんの腰に手をまわし、もう片方を腕にそえた。

「それなんか介護されてるみたいなんですけど」

「ダメですか」

「駄目です」

 ああ、もうお手上げ……と思いかけたところではたと気づく。そうだ、混ぜちゃえばいい!

 カオルは彼女の手を掴みながらぐっと腕も絡ませてみる。

「さあ、これでどう——」

「駄目です」

 つないだ手が離れるのとほぼ同時にバスが到着する。開かれたドアから次々と乗り込んでいくカップルたちを見ているうちに、二人から恋人っぽい感じがしない一番大きな原因にふと気づいた。

 マナちゃんは笑っていない。今まで眺めていたカップルたちはみな楽しそうなのに。この状態では坂本さんに見られたとき、何かおかしいぞ、幸せそうじゃないぞ、と思われてしまうかもしれない。

 そのときまでに、彼女には笑顔になってもらなくちゃ……そう考えながらカオルはバスに乗り込んだ。

 中はとても空いていて、二人ならんで座ることができた。空調のおかげでまあまあ暖かい。となりのマナちゃんがマフラーをほどく瞬間、白い首筋がちらっと見えてなんだか少し色っぽいな、と思った。

 バスが発車してしばらく、カオルはぼんやりと前方を眺めていたけれど、途中で乗ってきたカップルが席のゆずり合いをしているのに目が留まる。

 すわれよー。いいってー。簡単にレディファーストにならないところはジェンダー平等でいいのかもしれないけれど、隣に座っている女性のことがどうしても気になってしまう。横であんなふうにされたら、あんたがどけばぜんぶ解決なんだけど、って言われてるみたいに感じちゃうんじゃないだろうか。どっちも立ってるなんて選択をされたら特に。

 ぼくたちわたしたち今セカイの中心にいますって顔の男女はそんなこと気遣うようすもなく、最後には手をつないだまま女子のほうが座ることで決着した。

 自分も芹沢さんといっしょのとき、ああなってたらやだな。ため息が出そうになったとき、はぁー、という微かな音がとなりから響く。見ると、マナちゃんが窓ガラスを吐息で白く曇らせていた。彼女は手袋をはずし、細い指先できゅっと小さく丸を描く。それはやがて帽子になり、下には豊かな口ひげをはやしたお爺さんの顔があらわれた。

 カオルはマナちゃんに体を寄せると、そのまま腕を伸ばして窓に触れる。指に注がれる視線を感じながら、横の空白をそっとなぞり、小ぶりなツノのトナカイさんを描いてみた。ちょっと鹿っぽいかも。

 彼女は気だるげな目でゆっくりとこちらを振り返る。

「近い」

「あ、ご、ごめん」

 カオルが急いで背中をシートに戻すと、マナちゃんは小さく鼻で笑った。


***


 乗り込んでから三〇分ほど経ったころ、バスはようやく目的地に到着する。降りると目の前すぐのところにゲートがあり、塀にそって長蛇の列がつづいていた。そのむこうからはイルミネーションの光がちょっとだけ顔をのぞかせている。大学の周辺で一番大きいこのレジャー施設に、坂本さんたちはこれから出没するらしい。

 カオルはマナちゃんといっしょに列の最後尾にならんだ。集まっている人々をよくよく観察してみると、男女の二人組だけではなく同性のグループや家族連れもけっこうな割合で混ざっていて安心する。カップルだけ集合すると怪しい儀式みたいに見えてちょっと気味が悪くなっていたかもしれない。

 列はゆっくりと、でも着実にじわじわと進んでいく。けれど、ちょうど半分ほどきたところで、

「……ねぇ」

 とマナちゃんが俯いたまま言った。

「うん?」

「わたし……やっぱりやめる」

 そう言うと彼女は背をむけて、そのままふらっと列を抜けでてしまう。

「あ、ちょ、マナちゃん!?」

 せっかく並んだ時間を惜しみながらも、カオルはそのあとを追った。

 彼女は車でいっぱいの駐車場を横切ると、たぶん行くあてもないだろうに暗い夜の道を歩き続ける。カオルは何も口にしないまま、その後ろ姿にただただついていった。いつもと同じまっすぐに伸びた背中が、そのままカタンと倒れてしまいそうな気がして、無性に怖かった。

 ゲートから遠くはなれて、塀が途切れるところでマナちゃんは歩調をゆるめはじめると、やがてゆっくりと足をとめた。カオルがそっと歩み寄ると、

「……付き合いはじめたの、中三のとき、なんだよね」

 彼女はぽつりぽつりと語りだした。

「だけど受験とかで忙しいうちに、あいつはすぐ大学いっちゃって、わたしも同じとこ入ろうと思って、めちゃくちゃ頑張って勉強した。……合格したらここのイルミネーション、いっしょに観にいこうねって約束して」

 マナちゃんはそこで一度、深く息を吸って吐く。

「それで、まあ、なんとか受かって、引っ越しのとき驚かそうと思ってあいつのアパート行ってみたら、なんか、知らない女の人が出てきて……要するに、浮気されてたってこと」

 なんとなく、そんな気はしていた。彼女の様子や坂本さんの素行から想像するに、あまりいい別れ方はしてないんだろうな、と。

「このまえ、交差点で会ったとき、あいつうしろ振り返ってさ。目、合っちゃったんだよね。仕方ないからすぐ隣の横断歩道わたって遠回りしたんだけど……あ、わたし、逃げてる……って思ったら、もう、悔しくて、くやしくて」

 彼女は震える声で、絞り出すように言葉を紡ぐ。

「わたしだけ、あのときのまま止まってるように見えたんじゃないか、って思ったら、それだけで、もう、どうにかなっちゃいそうで……。なんとかして、自分は前に進んでるんだって証明してやりたかった」

 そう言って、マナちゃんは鼻をすすった。

「だけど、こんな必死になってること自体、まだ立ち直れてません、って言ってるようなもんだよね」

 彼女は眼を真っ赤にして振り向くと、

「あんたもやめた方がいいと思ってるでしょ。こんな馬鹿げたこと」

 カオルを見つめてそう言った。

「それは……」言葉を探しながら答える。「自分がもしマナちゃんだったら、やめなきゃって思うかもしれない。でも、僕自身の勝手な気持ちとしては、なんとかあの人に思い知らせてやりたい。うちの真波は元気です! ……って、大声で叫んでやりたいよ」

「でも、わたし……元気じゃない」

「元気だよ! この前だってたくさん歌ったし、よくいっしょにコーヒー飲むし、いつもご飯大盛りだし……。そういうのみんな元気って言うんだよ」

「カオル……」

 マナちゃんは指で目をこすると、

「……ありがとう」

 ちょっとかすれた声でそう言った。表情にほんの少しだけ晴れ間をのぞかせながら。

「やっぱり、今回は彼氏のフリするのやめてもらうことにする」

「……うん。わかった」

 カオルは大きく頷いた。

「でも、その代わりに一つお願い……っていうか、提案があるんだけど」

「提案?」

「あの塀のむこう、これから二人でいっしょに観にいかない? ……あくまで友達としてさ」

 彼女はニッと微笑んだ。

「行きたい……!」

 カオルも思わず頬を緩める。

「よし……じゃあ、並びにいくとしますかね」

 マナちゃんはそう言うと、遠くに見えるゲートの明かりをめがけてふたたび歩きはじめた。

 二人はまた列の最後尾についたけれど、なんだかさっきよりも早く進んであっというまに入場できてしまう。

 受付を抜けてまっさきに目に飛び込んできたのは、一面お花畑のように広がる色とりどりの光の群れ。そのなかを縫うように走る道を行くと大きな広場があり、樹木や動物をかたどった輝くオブジェの数々がカオルたちを出迎える。ちょうどそこで行われていた七色の噴水ショーを堪能すると、二人はさらに奥のツリーをめざして歩いた。

 こういう明るい夜のなかにいると、心と身体の輪郭が曖昧になっていくような、なんともいえない不思議な気分になる。そうなると、自分はいったい何者なのか、となりを歩く彼女は誰なのか、二人はどんな関係なのか……ぜんぶがぜんぶ、いま初めて出会うものみたいによく分からなくなってしまう。

 マナちゃんはさっき「友達として」って言ってくれたけれど、カオルには「友達」という感覚がいまいちつかめない。男女の間で友情は成立しないっていう人がたまにいるけれど、もし仮にそうなんだとしたら、誰とでも「男女」の自分には「友情」ってものが一生理解できないことになってしまう。そういうのはとてもムカつくので、最近はそもそも「友情」なんてものこそまやかしなんだと思うことにしていた。

 ただ、この人に触れたいって思う気持ち——人が生まれたときから持ってる一番純粋な性欲が、ありとあらゆる「好き」の根っこのところで流れているというのがカオルの実感だ。そう考えだしてからは、人を好きになることに罪悪感や戸惑いみたいなものを感じることはほとんどなくなった。

 「友情」なんて無味無臭の言葉じゃきっと、彼女に感じてるこの気持ちを少しも表せやしない。いろんな感情すべて込みで、ただマナちゃんとしてのマナちゃんが、だいじ……それでいいんだとカオルはあらためて感じていた。

「おー。ホントに本物だ」

 人だかりの向こうから近づくツリーを眺めていると、少しずつその細部があらわになっていく。イルミネーションもたしかにキレイではあるけれど、カオルが思わず感嘆の声を漏らしたのは、その下で密かに息をしている樹齢百年のモミの木の方だった。

 ネットでちらっと見かけたときは、よくあるイメージ画像みたいなウソくさい本体を想像していたけれど、ライトの向こう側をよく見ると、ところどころ枝や葉が落ちていて、生きてきた歴史がちゃんとその身体に刻まれている本物のモミの木だった。

 故郷から遠く離れた土地に独りで立つのは寂しかろうに、それでも直立不動を貫いてしまうシルエットは、どことなく誰かさんを思わせる。

 いつかイルミネーションがやってないときに、生の姿のこの古木に会いにきてみたい。……できたら芹沢さんもいっしょに。

 奥まり、暗くなっているデコボコした根本を観察していると、ちょうどその向こう、トイレのそばにあの人が立っているのが目に入った。今カノが出てくるのを待っているのかもしれない。

 どうしよう、無視するべきか、それともさりげなく伝えておくべきか……。

「マナちゃ——」

 となりを振り向くと、彼女は瞳をきらきらと輝かせながらツリーを見上げていた。その眼差しが注がれているのは、枝や葉を包む光のヴェールなのか、てっぺんに掲げられた大きな星なのか、カオルには見当もつかないけれど、マナちゃんのどこか深い部分を震わせる音が、この胸にも少しだけ響いているような気がした。

 しばらくのあいだ一緒にツリーを眺めると、ふいに二人は顔を見合わせる。

「記念に一枚、いかがですか?」

 スマホを取りだしてカオルがたずねると、彼女は口元をほんの少し緩めてそばに寄った。

「これ、で……どうかな?」

 画面に入るように体をぐいっとまげると、マナちゃんはそれを支えるように腰に腕をそえてくれる。介護のポーズだ。カオルも彼女の肩に腕をまわすと、慣れない自撮りをパシャっと撮った。

「写真あとで送るね」

 そう言いながら、ちゃんと撮れたか確認していると、

「カオル、もう一か所よってみたいとこあるんだけど——」

 施設内のマップを指さして彼女が言った。

 二人はツリーの広場から少し丘を登ったところにあるスタンドに向かい、クレープを買って近くのテーブルに座る。車椅子のおばあさんを連れた家族が楽しそうにしているのを横目で見ながら、カオルは生クリームをたっぷりはさんだ生地にかぶりついた。

「さっきツリー見てたらロールキャベツ食べたくなっちゃったんだよね」

 とクレープ片手に言うマナちゃん。いったい、どうつっこめばいいんだろうか。

「わたし今カフェでバイトしてるんだけど、そこのマスターがまかないで作ってくれるロールキャベツがすっごく美味しいわけ。あれを目当てに働いてるって言ってもいいレベルで」

「う、うん……」

「でね、まかない食べる休憩時間によくかけてくれる曲があって、まさにそれが流れてたんだよ。ツリー見てたとき」

「ほう……」

「そしたら、お肉とキャベツのハーモニー的なあれが、口の中にじゅわーって広がるわけ。そういう記憶がね、ぜーんぶあのきれいなツリーと重なって、一枚の絵みたいになって輝いてた」

 彼女はちょっとだけ切なそうに目を細める。それはきっと、誰にも奪えない、誰もいっしょに味わえない、マナちゃんだけの景色なんだと思う。なんだか少し羨ましいけれど、たぶん自分にもこれからさき、そういう瞬間がきっと訪れるんじゃないかな、という予感がカオルにはあった。

「あ、ちなみにそのロールキャベツ、まかないで出るときは巻かないんだよ」

「マ、マカナイ?」

「そう。マスターが面倒臭がって、バイトに出すやつはみんなお肉のうえにキャベツが乗せてあるだけなんだよ」

「ああ、そういうことね」

 カオルは頷きながらクレープをパクっとほおばった。

「それでも味は変わんな——」

 と言いかけたところでマナちゃんは急に吹き出してしまう。

「そ、それ、やばい……!」

「え? ええ?」

 後ろを振り向いてみるけど特に変わったことはない。

 すると、彼女はスマホを取りだしてカオルをパシャっと撮った。

「……あんた、今こうなってるよ」

 見せてくれた写真には、鼻の先に真っ赤なイチゴソースをつけた自分がとぼけた顔でうつっている。

「うーん、完全にやっちゃってますねー」

 カオルがティッシュを取ろうとすると、

「あ、待って! 拭かないで!」

 マナちゃんはテーブルのこっち側へまわってきた。

「いっしょに撮らせてもらえませんか? 赤鼻のトナカイさん」

 そう悪戯っぽく笑って首を傾げる。

「うむ、よかろう」

 二人は肩を寄せてフレームに収まった。


***


 あと数日で、年が明ける。せっかくの正月休みを安心して過ごすためにも、実家に帰るまえに今出ている課題はぜんぶ終わらせてしまいたい。

 翌日のお昼ごろ、真波は自宅にこもってパソコンのキーボードをたたいていた。頭を捻りながらなんとか完成させたゼミのレジュメを一足先にみんなに共有しておこうとすると、開いた画面に今朝の芹沢さんとのやり取りが表示される。

『昨日、カオルさんといっしょにイルミネーション行ってきたらしいね! 友達が見かけたって言ってたよ!』

 続けてもう一通、

『二人ってつきあってたの? ぜんぜん気づかなかった!』

 そして最後にびっくりした顔のスタンプがならぶ。そのとき遅めの朝食をとっていた真波は、手にしたコーヒーをうっかりこぼしそうになりながら急いで返信を書いた。

『いえ! わたしが観たかっただけなんですけど、一人で行く勇気がなかったんでカオルも誘ったんです! カップルに見えて便利なので!』

 大丈夫かな。必死さが変に伝わってるとマズいかも……ビクビクしながら返事を待っていると、

『なんだ~! 私の早とちりか!』

 爆笑のスタンプ。ふぅ……危ないあぶない。真波は思わず背もたれに倒れ込んだのだった。

 あのまま誤解を解くチャンスがなければカオルに大迷惑をかけていたかもしれない。わるだくみはするもんじゃないな、と真波はあらためて反省する。

 だけど、さすがに先輩の耳がここまで早いとは思わなかった。だいたい、真波とカオルの両方を知っていて、それを先輩に伝えようとするようなレアな人物があんなところにいたなんて。壁に耳あり障子に目ありってこういうこと言うんだ……。

 そんなことを考えながら作業も忘れてぼーっとしていると、カオルからメッセージが届く。

『昨日はありがとね! とっても楽しかった!』

 ツリーの前で撮った写真がつづく。……うん。二人ともいい笑顔。

 そういえば、こっちもあれ送ってなかったな、と思い出し、クレープのときのやつを開く。

 まったく美味しそうな鼻しやがって。見ながらまた笑っていると、ふと、その端に写り込んでいる顔に気づく。

「ウッ!」

 坂本だった。カメラの方に視線がむいているから、ひょっとすると真波にも気づいていたかもしれない。

 ほぼ反射的にゴミ箱をタップしようとして、とめる。

 あのきれいなツリーを見たとき決めたんだった。忘れようとか、上書きしようとか、塗りつぶそうとか思うの、もう全部やめるって。

 のどに魚の小骨がささっても、ごはんを食べてればそのうち抜ける。そしてぜーんぶ胃で溶けて、気づけばみんな自分の一部。たぶんそれが元気の秘訣だ。

 ——とはいっても、いましばらくは画面外に引っ込んでいてもらいますかね。

 真波はニヤッと笑って写真をトリミングした。

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