第6話

 紅林で出るか、白崎で出るか。急に電話がかかってきたとき、カオルが真っ先に考えなきゃならないのはやっぱりそこだ。これをミスると「えー、いまの彼氏/彼女?」とか言われて面倒なことになってしまったり、相手によってはトラブルに発展しかねない。

 まあ、知ってる連絡先からの電話なら基本的に間違えることはないけれど、あるタイミングだけは細心の注意を払う必要がある。頭の中がぼんやりして思考がまったく働かないあの瞬間——つまりは眠いときです。

 電話の音に起こされたカオルが寝ぼけ眼(まなこ)でスマホの画面をのぞくと「坂本さん」と出ていた。まず体にざっと触れてみると紅林らしいことが判明したので白崎になってから電話に出る。

「もしもし」

 喉から出たその声は、白崎のものにしては明らかに高すぎた。

『ん? 白崎……だよな?』

 慌ててベッドサイドの鏡をとって見ると、くっきりした眉と力強い瞳、高い鼻の下にぽってりと厚い唇という、女性(?)の顔が映っている。

 ……今回は普通にいけると思ってたのに、またまた失敗しちゃうとは。

 カオルが再び目をつむってもう一度丁寧にイメージすると、鏡には今度こそ白崎の姿があった。

「す、すみません、いま寝ぼけてて変な声に……」

 わざと声を裏返してみる。これで疑われると姉とか妹とか言うしかなくなってくしまう。

『そうか』

 どうやら坂本さんは納得してくれたらしい。

『っていうか、いつまで寝てんだよお前』

 時計を見るともう十一時を過ぎていた。ついつい夜更かししてしまう習性のカオルにとってはフツーに「朝」だけれど……この程度で夜遊び常習犯のあなたにまでそんなこと言われなきゃならないんですか?

「昨日、遅くまで起きてたので……」

 カオルがそう言うと、

『……ちゃんと早く寝とけよ』

 うちの母みたいなことを言われてしまった。

「し、承知しました……!」

 むこうには見えもしないのにペコっとお辞儀をする。

『で、要件なんだけど』彼はようやく本題に入った。『ミオのやつが明日休むって、ついさっき連絡よこしてきた。人足りてないんだけどお前入れる?』

 スマホをいったん耳から離してシフト表を開く。——まあ、大丈夫かな。

「はい。行けます」

 カオルは答えた。いつもスケジュールが空いているのは自分の長所だと思う。

『おお、ありがとな。助かる』

 坂本さんの冷淡な声がいつもより少しだけ明るくなった。

「それにしても、ミオちゃん最近ちょっとひどいですね。また直前なんて」

『だよな。あいつホント終わってるよ』

 彼はフンと鼻を鳴らすと、

『まあクビだな』

 とだけ言って通話を切った。

 ——こ、こわっ!

 こういうマナーだけは絶対守ろう、とカオルはあらためて気を引き締めた。

 それから鏡をもとに戻そうと手に持つと、さっき誤って変化してしまった顔のことがふと思い浮かぶ。なかなか意志が強そうでかっこいい感じだったけれど、いくら惜しんだところでどうにもならない話なので、頭をぶんと振ってはじき飛ばした。

 カオルは意識がもうろうとした状態で身体を変化させると、思っていたのと違う姿になってしまうことがある。これを利用すればいつか理想の身体になれるんじゃないか、なんて昔は考えていたけれど、そこに未知のリスクが潜んでいるかもしれないことを理解してからは、むしろなるべくこうならないよう注意するようになった。

 もしも、元の姿に戻れなくなってしまったら——そんなことを心配している自分は、なんだかんだ言って紅林や白崎の身体に愛着を持っているんだと思う。

 この二つの身体を、できれば手放さずに生きていきたい。これから先ずっとそう思えるかわからないけれど、とりあえず今はちゃんと大事にしてあげよう。

 カオルは白崎の右手を開くと掌のしわをそっと指でなぞった。


***


 まだ九月の後半で夏休みはあと少し残っているけれど、カオルは集中講義を受けるために一足早く大学の方へ戻っていた。

 集中講義というのは、ふだん毎週一回ずつ四カ月かけて行われる規模の授業を、四、五日にぎゅっとつめこんで終わらせてしまおう、というもので、夏休みや春休みのあいだに開かれることになっている。

 今日はちょうどその一日目なので午後からスタートしたのだけれど、明日からは朝八時に起きないとたぶん間に合わない。昼夜逆転モードがなかなか抜けないカオルにはそれがちょっとした恐怖になっていた。

「ほわ……」

 寝不足気味のせいか、一番前の席なのにうっかり大きなあくびが出てしまい、とっさに手で隠す。まわりの様子をきょろきょろ伺うと、先生は後ろの方を見ていて、隣の芹沢さんは手元のノートをのぞき込んでいて、こっちに気づいた気配はない。カオルはほっと胸をなでおろす。

「えー、演劇では空間をつかって人物の関係を表現します。たとえば、警戒し合っていれば距離は遠く、恋人どうしのように親密であれば近く、というように——」

 講義のテーマは演劇。高校のとき授業の一環として観せられたくらいで馴染みがないうえに、ちょっと苦手なくらいの演劇だけれど、やっぱり芸術の重要ジャンルだし、一応は押さえておかなきゃかな、と思って受講してみた。

 生物科のカオルが、特別好きというわけでもない人文系の授業をとっているのには深い訳がある。

 そもそも生物科に入ったのは、この奇妙な身体の仕組みについて研究するためだったのだけれど、仮にそれがわかったところで、じゃあ自分はいったいどう生きていったらいいのか、そう問いかけてみても、科学は納得のいく答えを返してくれないということに、あるとき気づいてしまったのです。

 これからを歩いていくための、地図と羅針盤が欲しい。それらを手に入れるために、今まで触れたことのない学問や芸術にどんどん飛び込んでいこう。——そういう、期待と焦燥が入り混じった、けっこう切実な思いをかかえて、カオルは今日も黙々と学んでいるのだった。

 先生が次々と板書していく参考文献を、スマホの「読みたい本リスト」にさっそく書き込んでいると、芹沢さんの方からカタッと何かが落ちる音がする。隣を見ると、先輩が目をぱちぱち瞬かせながら机を転がるペンを拾っていた。

 まさか今、あの芹沢さんが寝ていた⁉ さっきはメモに集中していたのかと思ったけれど、ただウトウトして下を向いていただけだったとか? これはなかなかレアなシーンを目撃——いや目撃しそこねてしまったかもしれない。

 あくまで平静を装いつつ慌てる先輩を温かい目で見守っていると、

「——それではそこのお二人、立ってもらえますか?」

 と先生が言った。カオルと芹沢さんに呼びかけているみたいだった。

 あれです、あれ。先生が講義の途中にときどきはさんでくる、体を動かして眠気を吹き飛ばそう的なコーナー。ちなみに大抵は寝ぼけている学生に目立つことをさせて見せしめにする役割も兼ねています。うたたねしてしまった先輩と、その様子にスマホを持ったまま気を取られていたカオルは、今回のいけにえに選ばれてしまったのです。

 立ちあがった二人が顔を見合わせていると、

「これから、さっき話したことを実際にやってみてもらおうと思います」

 と先生が告げる。

「まず、それぞれ教室の両端(りょうはし)に立ってもらえますか?」

 指示の通り、カオルは窓側の、先輩は廊下側の壁際まで移動した。

 まさか、さっき話したことって……。

「では私が合図をしたら、そこから相手に向かってゆっくり歩きはじめてください。視線も合わせましょうね。これ以上近づくのは照れるな、気になるな、というところまできたら止まってくれて構いません」

 先生は「いいですか?」と二人の目を見て確認する。

 こんな学生同士の友好度を試すようなマネをしてくるとは……。この先生、なかなか侮れない。

「それではいきますよ」

 カオルと芹沢さんは静かに頷き合う。

「よーい、はじめ」

 二人は同時に踏み出した。先輩はこちらを睨むように見据えながら、平均台のうえを進むようにまっすぐ距離を詰めてくる。カオルもそれに応えるように唇を引きむすんで堂々と歩む。

 ……この試練でもっとも重要なのは、おそらく芹沢さんより先に止まらないこと。怖がってもし先に足を止めてしまえば、たとえ先輩がもっと近づこうと思っていてくれても、それが適切な距離なんだと理解されてしまう。

 ——あと四メートル。

 思っていたより早く足を止められたりするのはショックなことかもしれない。でも相手の距離感を知る勇気を持たないと、いつまでたっても遠くから見ているだけになってしまう。

 ——あと二メートル。

 たぶん、ここからが正念場だ。芹沢さんが発する声なき声に耳を傾ければ、止まるべき時はきっとつかめるはず。

 ——あと一メートル!

 先輩は表情を動かすことなくどんどん迫ってくる。それならこっちも止まるわけにはいかない。でも……。

 ——あと五十センチ‼

 もう一歩というところで、ついにカオルの勇気は尽きはてた。けれど芹沢さんはそのままのスピードで突っ込んでくる。

 ぶつかる! 思わず身構えた次の瞬間、コン、と音を立てて二人の額が圧着する。大きく見開かれた先輩の瞳が超至近距離で訴えかけた。離してはいけないよ、と。

 カオルは息もできないまま、ひたすら芹沢さんと見つめあった。グロテスクなほど細かく筋の入った光彩。すべてを引きずり込む漆黒の瞳孔。おそろしくも美しいそのぜんぶが、いまカオルだけに向けられている……。

 途方もなく引きのばされた一瞬がすぎ、教室にざわめきが広がった。

「……は、はい! ブラボーです!」

 先生は呆気にとられたようにそう言うと、罰ゲームのプレイヤーたちに拍手を送った。受講生たちもそれにつづく。

 先輩はフッと鼻を鳴らすと磁石のようにくっついていたおでこをようやく離した。ちょっと背伸びしてくれていたことがそのときわかった。

 カオルはさすがに恥ずかしくて、すぐに一歩下がってしまったけれど、もっとあの距離でいればそれだけで何かが二人のあいだに生まれたんじゃないか——そんな気もした。

「お二人は仲がいいんですか?」

 たずねられた芹沢さんはカオルを横目で見ながら微笑んだ。

「ええ、とても」


 集中講義の初日をなんとか切り抜けた二人はいっしょに文学棟を出て山を下りた。林を通る小道を抜けて横断歩道をわたると、坂に沿って段々と連なる理学部の建物が晴れた空の下に広がった。

「好きなだけ近づいていいですよ、って言われたら、ああでもしないとつまんないよね?」

 階段を下りながら先輩が言う。

「それはわかりますけど……わたしはやっぱりちょっと恥ずかしかったです」

 カオルはまだ芹沢さんと額を押しあいながら歩いているような気分だった。

「まあ、しかたないよ。恋人の距離だっていうから」

 そう言って先輩は笑った。この人にカオルはいったいどう見えているんだろう。ある程度の親しみは感じてくれているんだろうけど、まったく意識されてないんじゃないかって気もしてくる。

「……そうだ!」

 芹沢さんは、ぱん、と手をたたいて言った。

「今日の質問、恋について聞いてもいい?」

「こ、恋⁉」

 カオルは思わず足を止めると、

「いいですけど……」

 照れながらそう言った。最近の質問は、けっこう個人的な価値観や信条をたずねるものが多くなってきている。これ研究になるんですか、っていう問いも少なくないけれど、ひとの特殊な部分だけを切り出してくるよりも、感じていること全体を眺めた方がいいのだと何かの本に書いてあった気がする。先輩はカオルを総合的に理解しようとしてくれているのかもしれない。

「では伺います」

 芹沢さんは声を落として言った。

「カオルさん、あなたはどんな恋がしたいですか?」

 ちょ、直球ですかっ……⁉ こりゃヘタなことは言えんな、と思いつつ、カオルは「うーん」と顎に手を当てて考え込む。

 しばらくすると、ぼんやりと浮かんできたイメージが一つの姿をなしはじめた。

「ブロッコリースプラウト」

「え……?」

「ブロッコリースプラウトです」

 とカオルはふたたび真顔で告げた。めずらしく先輩の目が点になる。

「毎日少しずつのびていくのが楽しみで、朝ちょっとだけいい気分で起きられるようになったり、いつか大きく育ったらシーザーごまドレなにかけて食べよっかな、なんて妄想についつい浸ってしまったり……そんな感じだといいな~って思います」

 うっとりしながら語り終えて隣をうかがうと、

「ふーん……そっか」

 芹沢さんが空(くう)を見つめたまま、あまりしっくり来ていない様子で相槌をうっていた。

「ではその……先輩はいったいどんな恋がしたいですか?」

 カオルは聞いてみる。こっちばかり答えるのもなんなので、最近はこうやって質問を返すようにしていた。

「どうだろうね……?」

 芹沢さんは少し首を傾げたかと思うと、

「うーん。よくわかんないな」

 すぐにそう言って肩をすくめた。カオルの目にはどうにも、ちゃんと考えているようには見えなかった。

 先輩はそのまま、

「そういえば、見せたいものあったんだよね」

 と早々に話題を切り替えてしまう。

「ちょーっと待っててよ……」

 そう言うとリュックを前に抱えて何かを探しはじめた。

 芹沢さんはときどき質問に答えてくれないことがある。もちろん、たくさんしゃべってくれて会話がはずむときもあるけれど、こうやってはぐらかされてしまうことも少なくない。そのせいか、先輩はいつも自分の中心を避けるようにして話しているんじゃないか、とカオルは感じていた。

 そこまで親しくもない人間が相手だと、なかなか自分のことを語る気になれないというのはよくわかる。でも、もともと透明な壁の向こうから付き合いつづけていくつもりなんだとしたら、それはとても悲しい話だと思う。

 問いかけと答えとが、ほとんど一方通行で進んでいくこの奇妙な関係を、芹沢さんはいったいどこへもっていくつもりなんだろう。

「あった!」

 先輩はリュックの中のクリアファイルから一枚の紙を取り出す。

「カオルさん、こういうの興味ある?」

 受け取って見ると、東京の美術館で開かれている現代アート展のチラシだった。

「いけなくなった友達がチケット二枚ゆずってくれたんだけど、今度の日曜よかったら一緒に観にいかない?」

「行きます!」

 もちろん即答。わたし現代アートに興味あるんです、なんて言うひとを見かけると意識高い系アピールしてるみたいでいつも気に食わなかったけれど、いずれ勉強しなきゃとは思っていたからちょうどいい。

「前提知識ないですけど……」

 カオルがそう言うと、

「じゃあ予習しとく?」

 先輩はリュックから本を三冊だして手渡してきた。

「私が最近読んだ入門書でよかったら——」

「読みます!」

 丁寧にバッグにしまう。週末までに読みきるのはちょっと大変かもしれない重さと厚さだった。

「現代アート、難解だっていうからね。カオルさんがいっしょに観てくれると心強いかな」

 先輩はリュックを背負いなおす。

「お力になれれば幸いです」

 カオルはさっそく予定をメモしておこうとポケットのスマホを探した。が、右にも左にも入っていない。

「あれ……?」

 バッグの中にもないようだった。もしかしたらさっきの教室かもしれない。

「ちょっと忘れ物したっぽいので戻ります」

 今しがた通ったばかりの横断歩道に足を向ける。

「そっか。じゃあ、また明日ね」

「はい。また明日!」

 せっかくここまで来たのに、また山登りしなきゃいけないのか……。心のなかで愚痴を言いながら、カオルはあくまで笑顔のまま先輩と別れた。


***


 スマホはカオルが座っていた席の端にぽつんと残されていた。うっかりポケットから出てしまっていたらしい。美術館デート(ということにしておく)をカレンダーにしっかり記録したあと、先輩が貸してくれた本をちょっとだけ読んでから再び文学棟を出た。

 さっき林を通ったとき小さく蜂の羽音が聞こえたので、今度はべつのルートで下りることにする。法学部の建物の合間をぬってつづく道は、ふだん通ることがなくてどこにつながっているのかよくわからないけれど、とりあえず低い方に進めばなんとかなるのがこのキャンパスのいいところだ。

 せまい階段を下りたところで車道に出る。もしかして、ここを左に行ったところにいつも通っている横断歩道がある、のかな? そのまま道路をよこぎり、理学部の事務所に用があるとき使っている渡り廊下を見上げながらくぐったところで、カオルは思わず足を止めた。

 坂の下の方から、かすかに歌声がきこえてくる。ひとに聞かれないように、あえて少し抑えているような声だ。知らない曲のはずだけれど、なんとなく覚えがあるような気もする。カオルは足音をたてないように気をつけながら、恐るおそる先へとすすんだ。

 そこに現れたのは、高い建物に挟まれた小さな木立だった。ほの暗い空間には柔らかな木漏れ日がさしこみ、神社の境内みたいな静謐な気配で満ちている。背の高い木々が立ち並ぶ坂の中央には灰色のタイルが敷きつめられているけれど、根の力にまけたのか、どれもぼこぼこと掘り返されたようになっていた。そんな、だれからも忘れ去られたかにみえる道の真ん中に、歌声の主がひとり立っていた。

 カオルはそこでようやく気づく。この穏やかで透き通った声も、しゅっと伸びた背筋も、ずっと前から聴いて、見て、知っていたのに、どうしていままで一つに重ならなかったんだろう。

 歌が終わり、残された余韻があたりに染み込んでいくのを感じながらカオルは言った。

「水面水モミナさん……ですよね?」

 びくっと身を震わせて振り返ると、

「な、なんで、その名前……⁉」

 マナちゃんはいつもの声にもどって言った。

「高校生のときからよく聴いてるからね。でも——」

 足元に気をつけて坂を下りながら、カオルはゆっくりと歩み寄っていく。

「——まさか、こんな近くにいらっしゃったとは」

 彼女は両手で表情を隠すと、

「なんで今日に限ってこんなとこに……」

 くぐもった声で言った。

「ぼろが出るときっていつもそうらしいよ」

 彼女の横に立つと、カオルはちょっとしゃがんでその顔をのぞき込む。

「……だれにも言わない?」

「もちろん」

「……鈴木くんにも?」

「うん。……でもなんで? そんな素敵な歌声、べつに隠さなくたっていいのに」

 カオルがそうたずねると、彼女はダースベーダーみたいな呼吸音を響かせて、だらんと力なく手を下ろした。

「……それ聞いちゃうんだ」

 ゆだったように真っ赤な顔には、ふてくされた感じの表情が浮かんでいた。

「なにか飲みながら話しません?」

 カオルが首を傾げると、

「おごってくれるんなら」

 マナちゃんは少しだけ頬を緩めた。

 休業中の食堂の前で自販機からコーヒーを買うと、二人は樹木がつくる日陰によけて肩を並べた。まだ夏休みのキャンパスには人通りがほとんどないから、モミナさんの秘密を聞くにはちょうどいい。カオルはわくわくしながら彼女の横顔をながめていた。

「わたしの歌きいてるってひと、はじめて生で見た」

 マナちゃんは照れた様子でそう語る。

「いまでもよく聴くよ。落ち込んだとき〝上を向いて歩こう〟を流すのは定番だし」

 カチッと缶を開けながらカオルは続ける。

「ずーっと思ってたんだよ? あれからモミナさんはどうしてるかな? 元気でいるのかな? わたしはわたしで、しっかり生きなきゃなぁ……って」

 それを本人に直接つたえる日がくるとは夢にも思っていなかったけれど。

「気にしてくれてて、ありがとう。ぜんぜんしっかり生きれてないけど」

 彼女はちょっと目を伏せてそう言った。

「マナちゃんがそれなら、わたしなんて半分寝ながら生きてるようなもんだよ」

「なにそれ。逆にうらやましいんですけど」

 二人はくすくすと笑い合う。

「……カオルみたいな人がどうやってわたしの動画にたどりつくのか想像つかない」

 マナちゃんはコーヒーをぐいっと一口飲んで言った。

「ああ、たしか検索ワード間違えちゃって、たまたま出てきたんじゃなかったかな?」

 とカオルが言う。

「なんだ。じゃあ昭和歌謡が趣味とかじゃないの?」

「まったく聴かないわけじゃないけど、どっちかっていうと少し昔の洋楽がメインかな」

「えー、どんなのどんなの?」

 彼女の目はいつにも増して輝いている。歌のことになるとこんなに食いつきがいいのか……。

「最近はシャカタクとかよく聞くけど、マナちゃん知ってる?」

「ああ、名前は知ってるけど、曲は、聴けば思い出せるかな……」

 音楽はいつだって、その時代に生きる人々の気分をスナップ写真のように切り取るんだと誰かが言っていた。それぞれ目的地は違っても、二人は「今」ではないどこかに憧れる旅人同士なのかもしれない。

「ねえ、このあとカラオケとかいっしょにどう?」

 マナちゃんが瞳をキラっとさせて言った。

「その曲、よかったら歌ってほしいんだけど」

 あれ歌詞ぜんぶ英語ですよあなた正気ですか、と思いながらも、

「間奏、長いやつでもいい?」

 カオルはモミナさん目当てで引き受けてしまうのだった。


 上機嫌のマナちゃんに案内されながら、カオルは駅の近くにあるカラオケ店を訪れた。カラオケは大学に入ってはじめてで、ちょっとした異文化体験みたいな趣がある。彼女に半ば強制されて「NGHIT BIRDS」を歌ってしまったけれど……まあひどい有様でした。

 とりあえず一曲でゆるしてもらったカオルは聴き専にまわり、それからずっとマナちゃんのターンがつづいている。彼女は熱唱の合間にごくごくとビールを飲んでいき、気がつけば三杯目に突入していた。

「カオル飲みなよ。なんでのまないの?」

 ほろ酔いモードに入りつつあるマナちゃんが言う。

「あー、たぶん酔うとチェンジに失敗しやすくなると思うので控えてます。それに、身体が二つあるのに心までブレたらもっとわけわかんなくなりますから」

 途中で白崎になったカオルは、クリームソーダのアイス部分をすくって食べていた。

「ふーん。大変だね」

 興味なさげにそう言うと、彼女はマルゲリータにかぶりつき、のびるチーズを引きちぎった。

「マナちゃんさんはお酒飲んでるのによく歌の方に響かないね」

「そりゃプロですからね、プロ」

 彼女は小さく笑った。こんなに調子に乗ってるマナちゃんはなかなか新鮮な感じがする。

「そんなにお上手なのに、どうしてやめちゃったんですか?」

 カオルは軽くそうたずねた。けれど彼女はなかなか反応を返さない。もしや、まずいことを聞いてしまったんじゃないかと焦りを募らせていると、

「んー、それね」

 マナちゃんは声のトーンを暗くして言った。

「いちおう、受験があるからってやめたんだけど、それだけじゃなくてね……」

 ピザの耳をもぐもぐ食べながら彼女はゆっくり話し続ける。

「わたしのチャンネルって、わりと登録してくれるひと多かったし、まあまあファンもいたんだよ。……知ってるっしょ?」

「うん」

 と言いつつ、コメント欄さえ見ないカオルはだいたいの数字でしかファンの様子を把握していなかった。

「でね、いまだからいうけど、たまにエゴサとかしてたんだよ」

 彼女は話しながら、またジョッキを一つ空にする。

「そしたらね、もうホントいろんな人が描いてくれた水面水モミナが出てくるわけ。なんかちょっとエロいのもあったよ。脱いでたりすんの」

「し、知らなかった……」

 公式情報しかチェックしないカオルは、モミナさん本人がシェアしたものくらいしか見たことがなかった。そんなものが出回っていたとは……。

「でさ、そういうのたくさん見てて思ったんだよね。これ、ぜんぶ、わたしの身体のはずなんだけどなぁ……って」

 マナちゃんは気だるげに頬杖をつく。

「さすがにね、自分があんな美少女だと思ってるわけじゃないよ。でもモミナはやっぱりもう一つの身体なんだよね。それが勝手に動かされてるのが地味にショックで……受験終わったらやる気なくなっちゃった」

 彼女は自嘲するように鼻で笑った。

「そう……だったんだね」

 わかるよ。なんて簡単には言えないけれど、マナちゃんにとってそれが重要なことだったのは理解できる気がした。

「モミナじゃないと歌えない歌があるんだよ」

 彼女は急に鋭い目になって体を起こした。

「勇気がないから、とかじゃなくて、中川真波がふつうに歌っても響かない音が、水面水モミナの身体を通してはじめて伝わるような音が、確かにあるって思うんだよね」

 そこまで言うと、マナちゃんはソファを広々と占有して体を横たえる。

「どこか遠くへ出かけるための、よそ行きの服ってかんじ? ……そういうもう一つの身体の力を借りて、わたしはまた歌ってみたいな」

 彼女は少しだけのんきな声になると、

「ひとまずそれが、将来の目標」

 そう呟くように言った。

「目標……か」

 カオルはマナちゃんが残しておいてくれたマルゲリータの最後の一ピースを口に運ぶ。

「そういうの、僕にはまだ見つかんないな」

「えー、だって卒業したら院に進むんでしょ? それだってじゅうぶん目標だよ」

「いや、でも、まだなにをどこで研究するのか、ぜんぜん決まんないし……」

 自分にはいったい何ができるのか、どっちを向いて進めばいいのか、マナちゃんはその答えの一端を、確かにつかまえつつあるように思えた。それはそれで大変なことなんだろうけど、腰を据えてつきあっていく使命みたいなものに出会ってしまった彼女が、やっぱりどうしても羨ましい。

「なんだか雲みたいな感じなんだよね。そこにあるにはあるんだけど、ぼんやりしてて、ふわふわ漂ってて、なかなか掴めないっていうか」

 カオルは言った。

「もっと、ぼんやりふわふわしてられたらいいのにね」

 マナちゃんはどこかマナちゃんっぽくないコメントを返す。この人は、酔うと柔らかくなるタイプなのかもしれない。

 ふたりはそのまま、お互いの呼吸の音だけが微かに響く部屋のなかで不思議とまったりした時をすごした。楽器をならさないオーケストラがあるみたいに、これもまた声のないデュエットみたいだな、と思った。

 まどろむような静けさを破ったのは、終了十分前のコールだった。電話に出たマナちゃんが延長するかどうか目でたずねる。任せるよ、とカオルが合図を送ると、

「三〇分、延長お願いします!」

 と告げて電話を切り、彼女はひときわ張り切った様子で戻ってきた。

「カオル、なにかリクエストある?」

 マナちゃんが聞くので、

「ブルースカイブルー」

 と答える。

「おー、ヒデキいっちゃいますかー!」

 彼女はニカッと笑ってふたたびマイクを手に取った。


***


「あ、先輩はそっちなんですね?」

 橋の方へ踏み出した芹沢さんにたずねる。

「そう。ここをちょっと行ったところ」

 と言って先輩は対岸を指さした。夜道を照らす街灯の光がぽつぽつと遠くまでつづいている。

「それなら送らせてください」

「えー、いいよ。すぐだし」

「いえいえ。せっかくなので!」

 そのまま返事も待たずに橋の上へとむかう。われながら、ずいぶん図々しいことをするようになったと思う。

「じゃあ、頼んじゃおうかな……」

 先輩はそう言いつつ、

「でも、どうして?」

 と横にならんだカオルに問いかける。

「どうして、私を送ってくれるのかな?」

「それは……先輩に傷ついてほしくないからです。夜はなにかと危ないので」

「えー。それなら、むしろ私がカオルさん送ってったほうがいいんじゃないかな? なんか、緊急事態に弱そうだし」

 芹沢さんはからかうように笑った。

「うっ……!」

 たしかに、ごもっともな意見です。

「では、こういうのはどうでしょう? 別れるまでの時間をちょっとだけのばして、きょう見た作品のこととか、もう少し先輩とお話ししたい、というのは……」

 照れて目線を逸らしかけたとき、

「あ、それなら私からも言わせてほしい」

 先輩は足を止めると、黒髪をふわっと揺らしてこっちへ向き直った。

「カオルさん。私が自宅に帰るまでつきそって頂けないでしょうか?」

 けっこう真面目なその表情をおかしく思いながら、

「ハイ。よろこんで」

 と恭しく胸に手をそえた。

 あっという間にやってきた日曜日、先輩と東京の美術館を訪れたカオルは、夕食までごいっしょさせてもらってから帰路に着いていた。押し寄せる非日常に酔っぱらってしまったのか、お酒なんて一滴も飲んでいないのになんだか頭の中がくらくらしている。

 月の光を反射してきらきらと輝く川面を眺めながら、二人はゆっくりと橋を渡った。

 美術館を出てからというもの、食事をしながら、電車に揺られながら、街を歩きながら、今回目にしたアート作品のいったいどこがおもしろいのか、ずーっと話し合ってきたけれど、正直なところその大部分にしっくりきていない自分がいる。

 不思議なかたちをした鉄板を何枚も組み合わせてできたオブジェや、ほとんど黒く塗りつぶされていてなにが描かれているのかさえはっきりとしない絵画(?)などなど……展示されていた作品はカオルの理解力の斜め上をいくものばかりだった。むしろ逆に、そのへんの小学生が図工でつくったものに適当な解説をつけて並べても違和感なく溶け込めてしまえるような気もする。

 そう感じるのも無理はないみたいで、先輩が貸してくれた本によると、ちゃんと背景を知っていなければ芸術の価値には気づくことができないらしい。まだまだ狭い世界に生きているカオルには、見えないものがたくさんあるということだ。

 展示されていたアートのなかには、一見するとガラクタとしか思えないようなものもあったけれど、あれがちょっと見方を変えるだけで唯一無二の輝きを放ちはじめるんだとしたら、それってなかなか凄いことだと思う。

 自分がまだ気づいていないだけで、とんでもない宝物がそこら中にちらばっているのかもしれない——そう考えるといろんなことが楽しみになってくる。

「まだまだ勉強することがいっぱいあるんだな……って感じです」

 べつにアートの専門家になる予定はないけれど、これから先どこにいってもそういう途方もなさが待っているような気がした。

「そりゃあまだ大学生だからね」

 と芹沢さんが笑う。

「もう大学生、なのかもしれないけれど」

 ——そう、カオルたちには時間があるようで、ない。なんにも知らないまま世の中に放り出される恐ろしさに、先輩も震えることがあるんだろうか。自分自身にも分からない自分の価値を、とにかく示さなきゃいけないプレッシャーにじっと耐えているんだろうか。……そうだとしても、カオルには隣でいっしょに悩むことくらいしかできないんだけれど。

 歯医者の大きな看板が立つ交差点で二人の足が止まる。信号が変わるのを待ちながら、芹沢さんは夜空を見上げて言った。

「カオルさん、今夜はなかなか月がきれいだね」

 思わずドキッとしてしまう。たしかに、頭上には少しだけ欠けた月がくっきりとした輪郭で輝いている。でも、いまのフレーズを聞いてカオルが真っ先に思い浮かべるのは夏目漱石の逸話だ。「I love you」を日本人っぽく訳すなら「今夜は月が奇麗ですね」がよいと言ったという話……。

 もし先輩がそれを念頭に言っているんだとしたら、これはもう告白とイコールだと考えてさしつかえないはず! ……だけど実際、月はきれいだし、文字どおりそう思っただけなのかもしれない。それに、こんな雰囲気も何もない街中で告白とかするものなんだろうか? したこともされたこともない(ジュンヤの件は除く!)カオルには発生条件というものが掴めない。ミスったら完全に気まずいことになる。どうしよう……。

 必死に悩んだあげく、

「……僕も、そう思います」

 と玉虫色の回答をはじき出した。英語ならたぶん「too」です。「too」。

 カオルが高鳴る鼓動を抑えながら返事を待っていると、そのうち信号が青になってしまう。横断歩道を渡って少し歩いたところで、先輩はようやく口を開いた。

「きょうはカオルさんと二人で展示を観られて、とっても興味深かったよ」

 ぽかん、と開いた口が塞がらない。勝手に緊張していた自分がバカみたいだ。

「はい。僕も楽しかったです」

 でも——カオルは思う。ただ美しい景色をいっしょに眺めるひとときこそ、ずっと穏やかで透きとおったものなんじゃないかと。

「私一人じゃ気づけなかったこともいっぱいあったと思う。やっぱり誘って正解だった」

 芹沢さんはニコッと笑った。

「マナちゃんやジュンヤがいっしょにいたらどう見えてたんでしょうかね? ちょっとだけ気になります」

 カオルがそう問いかけると、芹沢さんは一瞬だけ目を丸くしたあと、苦笑いを浮かべて言った。

「あの二人にはこういうの向いてないんじゃないかな」

 瞬間、心がざわめく。その言葉の乾いた響きがどこからくるのか考えようとしたけれど、カオルのなかの何かがそれを拒否した。

「いや、その……先輩が貸してくれ本に書いてありましたよね。アートは人によって感じかたが変わってくるから、多くの人といっしょに楽しむと良いって。だから、一人より二人、二人より四人の方が面白いんじゃないかなーと思いまして……」

 芹沢さんはカオルの話をどこか意外そうな顔で聞くと、

「……うん。そっか。そうだよね」

 と言ってなんども頷いた。

「じゃあ、今度は四人でいけたらいいね」

「そう、ですね……」

 沈黙が訪れると、ほどなくして先輩が歩調をゆるめる。

「こちらが、我が家になります」

 手で示す先には、二階建て立方体型の小さなアパートが二軒並んでいた。隙間に階段があり、その下が駐輪スペースになっている。

「ここまでありがとう、カオルさん。気をつけて帰りなよ」

 先輩が振り返って言った。

「はい。ではまた……新学期に」

「うん……。じゃあね」

 芹沢さんは一階左端の扉を開くとこっちに手を振ってくれた。カオルも振り返すと、先輩がなかに入るのを見届けてから踵を返す。

 せっかくのきれいな月が雲に隠れてしまったせいか、引き返す道はさっきより少しだけ暗いような気がした。

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