第5話
「なあ、それなに聴いてんだ?」
声が小さすぎたのか、白崎はピクリとも反応しない。けど電車の中であんまり大きな声だすのもあれだしな。そう思った純也は、僅かに揺れている肩をトントンとたたく。
「んむ……⁉」
窓の外を見ていた白崎はこっちを振り返るとイヤホンを外した。
「……どうしました?」
「いや、さっきからずっとなに聴いてんのかなーって」
「ああ……」
白崎はイヤホンを片方こっちに貸してくれる——と思いきや、純也が受け取る直前でためらい、なぜか両方とも渡してきた。一瞬どういう意図なのか分からなかったが、あいつの気まずそうな表情を見て察しがついた。どうやら紅林センサーに引っかかったらしい。いやオレそんなことでどうにかなったりしねーよ、と言いたくもなるが、まあ白崎だからしかたがないか。
イヤホンを耳にさしてみると、どこかで聞いたことがある曲だった。たぶんかなり古い。
「……演歌?」
「ちがうよ!」
外しかけたイヤホンを白崎がかすめ取る。
「ジャンル的には歌謡曲っていうんだよ。〝川の流れのように〟、知らない?」
「ああ、それか! でも歌ってる人違うよな?」
白崎はよくぞ聞いてくれました、と言わんばかりにスマホの画面を見せてきた。なにかのキャラが歌っている動画には「水面水モミナ」とある。
「……これ、なんて?」
「みなもみもみな」
「早口言葉かよ……」
純也は聞いたこともない名前だった。よくみると動画の投稿が五年前になっている。曲だけじゃなくて歌ってる人も微妙に古いみたいだ。
「この人、僕が高三になってたくらいの年から活動してないんだよね」
白崎はさらっとそう口にする。
「ああ、モミナさんは今いったいどこでなにを——」
続けて言いかけたとき、ちょうど電車がトンネルに入った。こうなるともう爆音のせいで声はほとんど掻き消えてしまう。話すのを諦めた白崎は再びイヤホンを耳にさしたが、それもたぶんよく聞こえていないはずだ。手持ち無沙汰になったのか、さっき構内で買ったパンをもぐもぐと食べ始めた。
純也はそんな白崎の横顔をじっと見つめる。
——あのころの中に、いったいこいつは何を見ているんだろう。
問いかける言葉は喉まで出掛かっていたものの、その覚悟ができないうちに電車はトンネルを抜けてしまった。
「また帰ってきましたね」
一面に広がった銀色の海を眺めながら、白崎は感慨深げにそう言った。
夏休みに入り、純也たちは高校まで過ごした故郷に向かっていた。二人が育った海沿いの町は、大学から電車で二時間ほどのところにある。帰ろうと思えばいつでも帰れる距離ではあるが、なんだかんだいって長期休みにならないと戻る気にはならない。そのくらいでなければ、この先一人で生きていく力は身につかないだろう——純也はそう考えていた。
「ああ、すっかり白くなっちゃってるよ。あのお店」
白崎が指さす方に目を向けると、壁や看板が真っ白に塗られた建物が横切っていく。
「あれって確か本屋だったよな?」
「うん。——あそこもかな」
今度は国道沿いのホームセンターが、その変わり果てた姿を遠くから見せていた。純也も昔、父とよく行っていた記憶がある。
小さい頃はこうして見慣れた風景が変わってしまうたびにショックを受けたものだったが、最近は帰省のたびに潰れている店をみかけても、まあ仕方ないか、と思う程度になってきていた。
「このままいくと、いつかサントリーニ島みたいに真っ白な町並みが残るのかもね」
「たぶんその頃には誰もいなくなってるけどな」
二人で笑えない冗談を言っていると、電車は減速をはじめてホームに入っていく。
白崎は残ったパンを口に突っ込むと、包装をぱたぱたと丁寧に折りたたんだ。駅のホームにはゴミ箱があり、手に持ったまま降りてそのまま捨てに行けばいいはずだが、なぜかバッグにしまっている。もしかしたらサントリーニ島のことで頭がいっぱいで何も考えていないのかもしれない。白崎とはそういうやつだ。
「それじゃ、僕はここで」
「おう」
電車が止まってドアが開くと、白崎は軽く手を振って去っていった。そのまま振り返らず階段を下りていくのが窓越しに見える。そういえば、昔のあいつは別れ際に「じゃーねー」とか、「またねー」とか、語尾をやたら伸ばしながらもっと名残惜しそうに言っていたはずだ。あれから考えると最近はずいぶんあっさりしている気がしないでもない。
知り合ってから何年も経つうちに、あいつはあいつで変わっているんだろう。いや、変わらざるを得なかった、と言った方が正確か。ただ、それを「成長」と呼んでいいのか、純也にはいまいちよく分からない。
新しい友達をつくったり、好きな相手と付き合ったり、就職したり、お金を稼いだり——多くの人が普通に目指してるものを前にすると、あいつはいつも首を傾げる。そういう、ある意味ゆがんだやつにとっては、「成長」の中身だって相当まがりくねっていてもおかしくないはずだ。
これから純也と白崎が辿る道は、それぞれ全く別の方向に伸びているのかもしれない。そう思うと、二人が同じ電車にのって、同じ町に帰ってくるようなことは、この先どんどんなくなっていく貴重な機会だという気がしてくる。
放送が入り、プシューと音を立ててドアが閉まると、電車は再び動き始める。
なにか動画でも見て時間をつぶすか。ポケットのスマホを取り出しながら、ふと駅の改札の方を見やると、なぜか立ち止まっている背の高い人影が一つだけある。
それは白崎だった。もうこの距離だとあいつの視力ではこっちがどこにいるのかも分からないはずなのに、少し遠慮がちに手を振っていた。再びトンネルに入って見えなくなるまで、ずっと振り続けていた。
***
「おおー! これ懐かしいなぁ! ジュンヤくんが幼稚園のとき描いたやつだよー!」
父さんは段ボールいっぱいに詰め込まれた画用紙を一枚一枚取り出しては大げさに感動している。
「ほら、これも!」
「わかった。わかった」
呆れ果てた純也は興奮気味の父親を手で制した。
「でもいちいち見てたらオレがいるあいだに片付け終わんないだろ?」
「そうだけどさー、せっかくの機会だからなぁ」
結局やめる気がない父さんは、マスクから漏れる息で老眼鏡を曇らせる。こういうところが意外と頑固だから面倒だ。
「小学校のときの教科書はさすがにいらないよな」
「えー、でもジュンヤくんが勉強したやつだろ? ダメだよー、とっとかないと」
「はいはい」
純也は積み上げた段ボールを抱えて階段を上り、二階の納戸に運び入れた。
いま鈴木家では掃除と片付けが絶賛進行中だ。ここから三〇分ほど離れたところで一人暮らしをしている祖母が最近脚を悪くしてしまったため、近いうちに純也たちの家に越してくることになっている。もともと祖父母が同居することが前提の間取りだったのでスペース面の問題はないものの、長い時を経て物置化してしまった寝室を空けるために大掃除が必要になった。
純也が帰ってきている間に片付けと引っ越しを済ませてしまおうというのが父さんの計画だが、だらだらとやっているうちに夏休みもあと二、三週間になってしまった。この調子だといつまでたっても終わらないんじゃないかという気がしてくる。
純也が二階から降りてくると、父さんは黙ったまま手にした一枚の絵に見入っていた。
そっと近づいて背後からのぞき込むと、三人の人間らしきものが並んでいた。真ん中の小さいのはおそらく純也自身、左にいるのはたぶん父さんだが、右に立っているのは——。
「これって……母さんかな」
純也は言った。
「うん、そうだな、きっと。でも……まさかこの日に出てくるとはね」
いつもより一段低い声で父さんが言う。
……やっぱりそうなのか。けど、もう顔も覚えてないから似ているのかどうかも分からない。
「いやー、こうやって家族みんな一緒にいられたらいいんだけどさー。ほんと、仲良くできなくてごめんなー」
父さんは純也の肩に腕を回してポンポンと叩いた。母の話題になると、この人は無理やり軽く振舞おうとする。純也にとっては昔から当たり前のことだし、そんなにわざとらしく深刻に考えてない体を装わなくてもいいんじゃないかとは思うが、案外、父さん自身が一番気にし続けているのかもしれない。
「それじゃ、これも上に持ってっとくな」
父親の手から画用紙を受け取ったジュンヤは、もう一度眺めてからもとの箱にしまい直した。それを腕に抱えて階段に足をかけたとき、インターホンの音が鳴り響く。
『どうもー、白崎ですー』
ノイズの混ざった声が聞こえた。片付けに集中していて気づかなかったが、いま外は雨のようだ。
「おお、白崎くんか。いっしょに帰ってきたんだもんなぁ」
「オレちょっと出てくるわ」
純也は箱をとりあえず壁際に置くと玄関に急ぐ。
「よく来たな、しらさ——」
鍵を開けて扉を開くと、傘を差した白崎が黄色い花の鉢植えを抱えて立っていた。その姿が一瞬だけ紅林さんと重なって見えてしまう。
「まず先に断っておくよ。これは紅林さんからではないということを」
白崎はそう言って小さな花鉢を差し出す。
「誕生日、おめでとう」
純也は幼子を抱くように両手でそっと受け取った。
「あ、ありがとう」
友達から花をもらうのは初めてで、なんとなくリアクションに困る。
「……けど、よく、覚えてたな」
白崎の誕生日は思い出そうとしてもなかなか浮かんでこない。自分だけがそんなで悪い気がしてしまう。
「実はね」白崎は少しだけ目を細めた。「意味のある数字はちょうどいいから、スマホのパスコードにしてたんだよ。西暦含めて八桁」
「……長いな」
「やっぱり長いよね。あ、いまはべつの使ってるからのぞこうとしてもムダだよ」
「だれがのぞくかよ」
二人の小さな笑い声が雨音に紛れて消えていった。一呼吸ほど間があって、
「それでは」と白崎が言う。「お天気もこんなかんじなので、僕はこのへんでお暇させていただきますね」
「あー、ごめんな。父さんも久しぶりに顔見たがってると思うし、ホントは上がってもらいたいとこなんだけど、いまちょっと大掃除中でさ」
「いーえ。お構いなく」
白崎はくるりと後ろを向いて歩き出す。純也はその背中に、
「じゃあ、またな。——カオル」
と声をかけた。
「うん。じゃあね」
振り返ってそう言うと、幼馴染は雨の中を表通りへ抜けていった。
純也はまだ慣れない「カオル」という呼び方を何度かひとりで繰り返しながら家の中に戻る。
「お花もらったのか!」
「うおっ!」
顔を上げると父さんが目の前に立っていてビビった。
「白崎くんもカワイイことするなぁ」
父さんが言った。でもなんで、いまさらこんなふうに祝ってくれたのかがいまいち分からない。紅林の件が関係しているのか、とも思ったが、普通こんなの渡したらむしろ逆効果になると思わないだろうか。……実際少し、そうなりかけたし。
「父さん、これ何て花か知ってる?」
そういえば、昔ガーデニングに凝ってたのを思い出して聞いてみる。
「ああ。それはベゴニアだな」
「へえ……」
ベゴニア。純也は何枚も重なった黄色い花びらをあらためて見つめた。名前を知っただけなのに、なぜか形がくっきりとしたように思える。
「花言葉とか調べてみないのか?」
「え、あいつそんなこと考えて……るかもな」
白崎は昔から変なところで執拗なこだわりをみせることがある。せっかく仕込んだネタに気づいてやれないのもかわいそうだし、一応検索はしてみるか。スマホを開いて「ベゴニア 花言葉」で調べるといくつかのサイトが表示された。
「えーと、ベゴニアの花言葉は——」
片思い、と書かれている。
「——んだよ。バカにしやがって」
まあ、あいつらしいっちゃ、らしいが。
「なになに、ジュンヤくん片思いしてんの?」
「いや、まあ、そういうことになんのかな? ……不本意だけど」
「いーなぁ。青春だなぁ」
適当なことを言うと、父さんはリビングの方に戻っていった。
——こんなおかしな青春があっていいのか? 友達が好きな人になってしまった、とかは意外とあることかもしれないが、それがどうにも混ざりきらないことが問題だ。
ただ、白崎が紅林さんの皮をかぶってたみたいに考えるのは間違っているんだろう。
あいつは八年前、初めて出会ったときからずっと紅林さんでもあったんだから。
紅林さんの向こうに白崎がいても、白崎の向こうに紅林さんはいない——あいつがこのまえ言っていたこともよく分かる。純也は紅林さんと知り合ったばかりだと思っていたから「もっと知りたい」と思えたが、その正体が付き合いの長い白崎だと分かったとき、もう「知りたい」という気は起きないはずだ。あいつはそう言いたかったんだろう。
けど、本当にそうなのか? 何年近くにいても、よく分からない部分が白崎にはある。自分はそれを「知らなくていい」と思っていただけなんじゃないか? その向こうにこそ紅林さんが——いや、「カオル」がいるんじゃないか?
とりあえず玄関に飾った花鉢を眺めて考えていると、
「ジュンヤくーん! また懐かしいの出てきたよー!」
はしゃぐ父さんの声が聞こえてくる。祖母の寝室に戻ると、思い出の詰まった段ボール箱がいくつも開け放たれていた。
「これ、高校のアルバム」
父さんはそう言って手渡してくれたが、
「……いまは、見る気しない」
と純也は断った。
「じゃ中学のは? ほら、これ修学旅行のときの」
それも別に今開かなくても、と思ったが、父さんは勝手にパラパラとめくりだしてしまう。
「あ、白崎くんだ。そっかー、同じ班だったんだよなぁ」
京都に行ったときのものだ。写真の中のあいつはよく隣で笑ったりピースしたりしている。
「お? これ、みんな写ってるのに白崎くんだけいないぞ?」
父さんは一枚の写真を指さして言った。
「ん? ああ、それは確か——」
少しだけ、班行動から白崎が抜けていたタイミングがあったはずだ。その間、たしか——。
当時を思い出した純也はあることに気づく。
アルバムを睨みながら父さんが言った。
「代わりに女の子いるけど、この子だれだっけ?」
そこには、一人だけ違う制服を着ている、背の高い女子生徒が写っていた。六年も前で顔つきはずいぶん幼いけど、それでも誰だかはっきりと分かる。
「紅林、さん……⁉」
***
中学の入学式当日、男子として初めて学校に足を踏み入れるカオルはとてつもなく緊張していた。小学校では紅林だったのにわざわざ白崎に変えたのは、女子として生活するのにちょっと違和感があったから、じゃあ今度は男子でいってみよう、という程度のシンプルな発想だ。ただ、小学校での人間関係をすべてリセットすることや、男の子たちに馴染まなければならないことにはやっぱり不安があった。
これまでの経験から、なぜか男子と女子は別々にグループをつくりやすいことや、性別によって好まれる振舞い方がけっこう違うらしいということは分かっていたけれど、カオルにはどちらも不自然に思えてしまう。だから、男の子らしい男の子や、女の子らしい女の子と付き合っていくのは大の苦手だった。
中学に入ってすぐ席が隣になった少年から受けた印象は、まさに「男の子らしい男の子」で、軽く挨拶を交わしてはみたけれど、正直これから先うまくやっていくのは難しいように思えた。——ジュンヤとの出会いはそんなものだった。
けれど、変化は本当にちょっとしたことから訪れる。
ある日の昼休み、ジュンヤは数学の宿題がなかなか終わらないらしく、あーでもないこーでもないとブツブツ言いながらプリントとにらみ合っていた。そんな彼を見かねたカオルは、解き方を横からさりげなく指で示す。すると、ジュンヤは納得した様子でうんうんと何度も頷き、気持ちのいい笑顔でお礼を言ってきた。
思わずはにかんでいると、今度は彼の方から「それじゃあこれは?」と聞いてくる。ついつい気合が入ってしまったカオルは、読もうと思っていた本のことも忘れ、そのまま休み時間が終わるまでジュンヤの宿題に付き合ってしまった。
一つ説明するたびに「おー、すげぇ!」とか「お前、頭いいな!」とか褒めてもらえることが誇らしくて、内心とても浮かれてしまっていたけれど、カオルは同時にジュンヤのそんな態度に圧倒されてもいた。
彼ほど深く、純粋に、だれかを称えることのできる人をカオルは他に知らない。たいていの場合は妬みや自分を卑下する思いを含んでいたり、実際にはまったく興味がないのに関心を装ったりするものだけれど、いつもジュンヤはそういうことを微塵も感じさせない。不器用さを隠すためにプライドの鎧を着こんでいたカオルには、ストレートに他人を認められる彼の姿は眩しくて、とても敵わない、と思えた。
そうして「特別な人」になったジュンヤを眺めているうちに、いろんなことに気づいていく。スポーツができる彼は男子が集まるときにはいつも中心の方にいるのに、いつのまにかカオルのいるようなところまでスルっと抜けてきていること。見かけによらず意外と細やかな気遣いができるやつだということ。そんな彼を「男の子らしい」と思って避けていた自分は、ジュンヤという一人の人間をちゃんと見ていなかったのかもしれないということ。
……だけどこのときはまだ、彼のことを考えるとなぜだか湧いてくる、胸がしめつけられるような感覚の正体はなんなのか——それだけは分からなかった。
夏がはじまる少し前、泳ぎがなかなか上達しなくて困っているとジュンヤに話したら、授業に備えて二人でいっしょにプールへ行こうと誘ってくれた。もちろんカオルは「行く!」と答えたけれど、それまで大人を伴わずに友達と外出したことが一度もなかったから、約束の日が近づくにつれて期待と不安がどんどん大きく膨らんでいった。
そしてやってきた当日、こざっぱりとした私服姿のジュンヤに新鮮さを感じながら、カオルはシャツを脱いで水着になると今年初めてのプールに入る。スライダーで思わず叫びそうになったり、流れるプールに逆らってみたり、売店でアイスを買って食べたり……そのぜんぶが鮮やかなのにぼんやりとしていて、まるで夢を見ているような心地だった。
夕方になり、人が少なくなってきたところで、やっと二人は予定していた泳ぎの練習をはじめる。
「こう……でしょ? 違う?」
カオルは五十メートルプールの端につかまって、小学校時代からうまくいった試しがない平泳ぎの脚を特訓していた。
「いや、だからそうじゃないって」
となりで丁寧に教えてくれていたジュンヤも、カオルの運動神経の悪さにさすがにしびれを切らす。
「いいか? こうやってだな——」
ふいに、彼の手が脚をつかんだ。そのまま弧を描くように動かされると、ぞわっとした奇妙な感覚が全身を伝う。
「は、放してよ……!」
急におそろしくなって、つい、そう言ってしまった。
「自分で……できるから」
「いや、できてないからやってんだろ?」
気まずい雰囲気が二人のあいだに漂いはじめると、放送が流れてきて、営業時間がそろそろ終了することを告げた。
「もうそんな時間なんだな……。きょうはこれくらいにして帰るか」
ジュンヤはプールから上がると手を差し出してくる。
「いや、僕はもう少しだけ練習するよ。……ちょっと一人でやってみたいから、ジュンヤは先に着替えてて」
「そうか、わかった……」
彼はあまり納得のいかない様子でそう言うと、人もまばらなプールサイドを更衣室の方へ抜けていった。
実を言うと、カオルは上がるに上がれない、というような状態だった。こういうときほど白崎の身体をやっかいに感じることもないと思う。
ジュンヤの触れた脚は、しばらくたっても自分の脚ではないみたいだった。このなかでまだ、二人の意識がもつれているような、そんな感じだった。
水に背中をゆだねると、いつまでたっても青い空が目の前いっぱいに広がって、世界のすべてを埋め尽くしていく。ただよう白い雲といっしょに、カオルもまた、どこへ流されるとも知らないままぷかぷかと浮かんでいた。
——これ以上はもうさすがに無理がある、と思った。これはきっと、ただの友情でもなければ単純な性欲ともちがう。自分は初めて恋をしているんだと認めなくちゃならなかった。じゃなきゃ、こんなに近くにいるのに、こんなに苦しいことの説明がつかない。
そういう気持ちを抱えていく覚悟なんてさっぱりつかなかったカオルは、行き場のない想いを小さなため息のなかにそっと閉じ込めた。
ジュンヤに本当の気持ちを告げる勇気も持てないまま、カオルはそれ以降もずっと友達としてそばに居続けていた。彼の方も気づく様子は一切ない。それ以上近づくことも遠ざかることもない関係は、もちろん苦しくはあったけれど、それだけでもなかった。ジュンヤが誰を好きになろうと、彼の心のどこかに必ず白崎のための特等席がある——そう思えるだけで充分、明日が来るのが楽しみだった。
だけど、そんなささやかな平和さえ、時がたつにつれて脅かされていく。中学も二年、三年にもなると、ジュンヤとカオルとでは、クラスでの立場に天と地ほどの差があるってことがどんどんはっきりしてきていた。周囲にはきっと自分が彼にくっついて回っているように見えているだろうし、ジュンヤだってもしかすると……。なけなしの自尊心がピキピキと音を立ててひび割れていった。
そんなこともあり、一緒にいるのもつらい、距離を置くのもつらいでにっちもさっちもいかなくなったカオルは、ついにやけになってある賭けに出る。
名付けて「修学旅行大作戦」——修学旅行の途中で紅林になり、全力でジュンヤに接近するという計画だ。
……はっきりいって、紅林の見た目にはあまり自信がない。小学校でも全然モテてはいなかった。でもしかし、旅行という非日常がもつ「これって運命かも⁉」効果を味方につければ、多少の問題はなんとかなるはず——そうたかをくくっていた。当時はそこまで判断力を失うほど切羽詰まっていたんだと思う。
入念に準備を行ったカオルは、京都で迎える修学旅行二日目の朝、計画を実行に移した。
まず、お腹が痛いとか気持ちが悪いとかテキトーなことを言ってその日の班行動をキャンセルすると、本来なら回収されるはずの部屋の鍵を持ったままでいることができる。そのまま「しばらく寝てます」と部屋に戻って紅林になり、親戚から貸してもらった別の中学の制服に着替えると、あとは何食わぬ顔でホテルを出ればいい。
中学三年目にしてやっと紅林の姿で制服に袖を通したカオルは、鏡に向かって、
「よし、だいじょうぶ!」
と頷いて部屋をあとにした。いま考えると何が大丈夫だったんだかさっぱり分からないけれど、このときにはもう後戻りできなかった。
カオルはバスに乗ると、ジュンヤたちが二番目に訪れることになっている金閣寺に先回りする。寄り道して買った八つ橋を食べたり、一足先に境内を見学したりながら適当に時間をつぶしていると、彼らはすぐにやってきた。自分がいなくてもフツーに楽しそうな班員たちの様子に多少落ち込みつつ、ジュンヤが他のメンバーから離れたところを狙って近づいていく。
「あの……。もしかしてみなさんも修学旅行ですか?」
見ればわかるようなことをあえて聞く。
「は、はい。そうですけど……」
わりと人見知りの彼はちょっとビビりながら答えた。
「ですよね! わたしもそうなんですよ!」
「そう、ですか……」
「金閣寺の次はどこへ行かれるんですか?」
「えっと、銀閣寺、です」
ここまでのQ&Aはすべて想定していた通りに進んでいる。
「あ、わたしも次、銀閣寺なんです!」
「へ、へぇー。偶然ですね……」
「ですけど今日」カオルは声を一段低くして言った。「同じ班の人たちと喧嘩してしまって、もうみんなと旅行したくないって言って、ひとりで抜け出してきちゃったんですよ……」
「それは、大変ですね……」
ジュンヤは目を見てちゃんと同情してくれている。罪悪感で胸が痛い。
「でも、さすがに知らない土地で独りっていうのは、やっぱりどうしても心細くて……」
「はい……」
「そこで、お願いがあるんです!」
「はい⁉」
カオルは身構える彼を前に大きく息を吸うと、
「わたしを皆さんに同行させていただけないでしょうか!」
と言って頭を下げた。
「え、え⁉ 同行ってつまり……」
ジュンヤは案の定、戸惑いを見せる。
「見学やバスに乗るとき、ご一緒させていただきたい、ということです」
もちろん自分のぶんのチケット代や交通費は払いますので、とカオルは付け加えた。
「あ、な、なるほど……」
彼はそこまで悩む様子もなく、
「それなら、ぜんぜんオッケーっすよ」
と言ってくれた。
「ありがとうございます!」
カオルは心の中でガッツポーズをしながら、もう一度頭を下げた。
これで作戦のファーストステップは無事に完了したといえる。もっとも、お人よしの彼がこの程度の頼みを断るわけがないとは思っていたけれど。
「おーい! みんな!」
班長のジュンヤが呼びかけると四人のメンバーが集まってくる。
「この人も修学旅行で来てるらしいんだけど、いろいろあって班の人たちといっしょに行けなくなったみたいで、オレたちについてきたいって言うんだけど、いいかな?」
四人も、大丈夫、いいんじゃない、と口々に言ってくれた。
「ありがとうございます」
カオルはまた丁寧にお辞儀をした。
すると、丸刈り頭の吉岡くんがジュンヤの耳元で、
「えっ、白崎じゃね? 白崎が女子になって戻ってきたんじゃね?」
とささやいた。一瞬、本当に見抜かれたのかと思って慌てたけれど、二人の間ではそのまま冗談として流れていったようで、カオルはほっと息をついた。
「何て呼べばいいですか?」
「あ……」
井上さんに尋ねられて、まだ名乗っていなかったことに気づく。
「紅林、と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
つい硬くなるクセが出てしまった。
「クレバヤシさんかー。私は井上です。よろしくねー」
いつもおっとりした話し方の彼女はそう言って微笑みかけてくれた。
そのまま、「じゃ、つぎオレな」と言ってジュンヤがこっちに向き直る。
「鈴木純也っていいます。紅林さん、どうぞよろしく」
これがジュンヤと交わす二度目の自己紹介だった。……まさか三度目があるなんて、このときにはまだ想像もつかなかった。
カオルはジュンヤたちの班に堂々と混ざって金閣寺の内部を見学する。いつものように、観賞に夢中になって置いていかれるようなことは避けなきゃならない、と意識はしていたけれど、急ぐ必要は全然なかった。カオルが少し遅くなるとジュンヤもゆっくり進みだすから、ほとんど距離がひらかない。彼のゲストに対する気の遣いっぷりにあらためて感心させられる。
再び外へ出ると、鏡湖池(きょうこち)が金閣寺の荘厳な姿をきれいに映していた。近くに写真撮影スポットがあるらしく、観光客たちが列をつくって自分たちの番が来るのを待っている。最後尾には同じ中学の別の班がならんでいて、カオルたちはその後ろについた。けれど運の悪いことに、その班のリーダーこそ、最近カオルが特に警戒している長谷部さんだった。
「あー、ジュンヤだ!」
長いポニーテールをぶんっと回して彼女は振り返った。
「おう、長谷部も金閣寺だったのか」
「そだよー」
長谷部さんは彼との距離を一気に詰めていく。……近い。
「でね、ねえねえ聞いて聞いて」
必要もないのに彼女はジュンヤの肩をトントンと叩いた。そんなの白崎でもしないのに。
触れるな。去れ。と心の中で念じてみたけれど、長谷部さんが食らいついた獲物を離すわけがない。
「さっきねー、おじーさんに、どっから来たのーって話しかけられたんだけどー、あたしコミュ力(りょく)ないからテンパっちゃって——」
そう言う長谷部さんには同じ部活の生徒をいじめにいじめ抜いて退部に追いやったという噂がある。まあ確かに、相手をそんな目に合わせてしまう彼女はコミュニケーションが得意とはいえないかもしれない。
「そうか。頑張ったんだな」
ジュンヤは何の嫌味もなくそう言った。こういう相手に普通にかまってあげちゃう彼の方にも問題がある気がする。
「えらいでしょー、えへへ」
えへへ、ねぇ。えへへ。……自分はこの人が嫌いだ。とカオルはあらためて実感した。
そんな敵意を察したのか、長谷部さんは一人だけ違う制服で紛れているカオルに気づく。
「え、だれ? あの人?」
彼女は小声で言った。と同時に顔をわざとらしくジュンヤに近づける。
「ああ、他の中学の人なんだけど、いろいろあってうちの班といっしょにまわることになってさ」
「ふぅん……」
長谷部さんはジロジロと品定めするようにカオルを見る。紅林で通っていたらこの人に目をつけられていたかもしれない。そう思うだけでゾッとする。
できるだけ愛想よく彼女に微笑みかけていると、ちょうど長谷部さんの班に写真撮影の番がまわってきた。
「ねぇ、ジュンヤ撮ってくれる?」
「おー。いいぞ」
長谷部さんは学校から支給されているカメラをジュンヤに手渡すと、班員のところに駆けて行って、なにかよく分からないピースの変化球みたいなポーズをとる。
シャッターを切るジュンヤを横目で見ながら、彼はゼッタイ長谷部さんなんかとくっついてはいけない、とカオルは思った。
けれどそんな祈りも空しく、この数か月後に二人は付き合いはじめることになる。卒業式ではジュンヤに抱き着いてうぇんうぇん泣きじゃくる長谷部さんの姿を見せつけられて思わず舌打ちしてしまった。ジュンヤは本当に女の子を見る目がないと思う。
長谷部さんがポーズのバリエーションをすべて終えると、ようやくジュンヤたちの番がくる。
「あ、わたしが撮りますね」
カオルは真っ先にそう言ってジュンヤからカメラを受け取った。
班の五人が並ぶのを待って「はい、チーズ」と一枚目を撮る。つづく二枚目に備えたところでジュンヤが言った。
「あのー、紅林さんもいっしょに入りませんか?」
「へ⁉」
想定外の提案につい声が裏返る。
「修学旅行なのに、写真ぜんぶ一人っていうのもなんだと思うんで」
「で、でも皆さんのおじゃまになりませんか?」
「大丈夫……だよな? みんな」
班員たちもまったく気にする様子はない。こんなに心の広いメンバーに囲まれていたとは、白崎のときには気づきもしなかった。
「それでは……お言葉に甘えさせていただきます!」
カオルはさっそく肩にかけた鞄を降ろす。
「長谷部、代わりに撮ってくれないか?」
まだその辺をうろうろしながらこちらの様子をうかがっていた長谷部さんにジュンヤは声をかけた。
「え、え⁉ あたし⁉」
彼女はうろたえつつ、
「べつに、いいけど……」
と引き受けてくれる。
カオルは長谷部さんにカメラを預けるとジュンヤの隣で肩を並べた。いつもの距離なのに、普段よりずっと近くに感じて胸が高鳴る。
「じゃいくよー、はい、チーズ」
パシャ——。
シャッターが下りた瞬間、こうして紅林の姿がこの日の思い出に刻まれるんだと思った。だけど同時に頭をよぎったのは、ここにいるべきなのは白崎の方だったんじゃないか……そういう淡い後悔だった。
撮影が終わってもその気持ちが拭えなくて、しばらくぼーっと立っていると、
「はーい。すいませーん。どいてくださーい」
と団体旅行か何かの関係者がカオルを押しのけて通っていった。このとき体勢を崩してしまったカオルは、そのままバランスを取り戻すことなく後方に倒れ込む。
「おわっ‼」
すべてがスローモーションになるなか、景色がぐるんと回転し、真っ青な空が視界を覆う。
——これは天罰なんだ、と思った。身勝手な執着のために二つの身体を利用して、大切な人さえ欺いた愚かな自分を、神様がお見限りになったんだ、と……。
背中が勢いよく水面にたたきつけられ、濁った池に体が飲み込まれていく。とにかく全身をばたばた動かして必死にもがくと、誰かがカオルの名前を呼び、暴れるその腕をつかんだ。次の瞬間——。
「……あれ?」
カオルは普通に立っていた。
「ふぅ……よかった」
目の前ではジュンヤがカオルの肩に手を添えたまま、安堵の表情を浮かべている。どうやらひっぱりあげてくれたらしい。
視線を下ろすと池の水かさは腰よりもちょっと低いほどしかない。そこまでの深さじゃないのに、混乱していてまったく気づかなかった。
「ありがとう……ございます」
カオルは小さく頭を下げる。水をたっぷり含んだ髪からしずくが飛び散った。
「ご迷惑をおかけしました……」
「いえいえ、悪いのはさっき走ってったあいつですから」
ジュンヤはそう言って笑ってくれた。
二人はそのまま無事に岸へと上がる。撮影のためにバッグを置いてきていたから荷物に被害はなかったけれど、服はびしょ濡れ、靴は泥だらけになってしまったので、カオルもジュンヤもいったんそれぞれのホテルに戻ることになった。
でもそうなると白崎が部屋にいないことがバレてしまう。カオルはとりあえず電話でタクシーを呼ぶと、乗車拒否されないよう、来るまでの間にトイレで着替えて靴を履き替える。そのままホテルの部屋に戻って白崎になると、なんとかジュンヤが帰ってくる前に体裁を整えることができた。
制服の代わりに体操用のジャージを着たジュンヤと、体調不良が治ったと言い張るカオルは、先生方の車で送ってもらい、なんとか昼食のタイミングで班のみんなと合流できたのだった。
「——けど、紅林さんそのままどっか行っちゃったんだよな。あの格好でまさかそのまま歩いて帰ったとかじゃないよな」
「き、着替えとか持ってたんじゃないかな……念のために……」
「そうだといいんだけどなー」
予定していた通り、京都の某大学の学生食堂でヒレカツ定食にありつきながら、カオルは金閣寺であったことの全容をジュンヤから聞いていた。
「……今頃ちゃんと昼食べられてんのかな」
カオルと同じ定食を頼んだ彼はそう言って味噌汁に口をつけた。
池に落ちた直後は大失敗したとしか思えなかったけれど、こういうジュンヤの様子を見ているうちに、もしかしたらとんでもない非日常を味方につけることができたのかもしれない、と考えるようになっていた。吊り橋効果とか、そういうやつです。
作戦は途中で止まってしまったし、連絡先を交換することもできなかったけれど、「あのとき助けてくれた心優しい少年にお礼が言いたい」的なことを学校に電話したり、SNSで呟いたりすればまだチャンスはある。
だけどそのためにまず、確かめておきたいことがあった。
「あのさ……。今回助けたその人って、わりとタイプだったりした?」
こんなこと聞く自分ってサイテーだと思いながら、カオルはあくまでストレートにそう尋ねる。
ジュンヤはしばらく唸りながら咀嚼すると、ごくっと飲み込んで言った。
「まあフツーかな」
カオルの頭はその言葉を理解するのを拒否してしまった。表情や声の抑揚をどれだけ細かく分析しても、字面以上の意味は読み取れない。もしかして、これは、失敗……? いや、でもまだ可能性は……。思考をグルグルさせるほどにせっかくのお昼は味を失っていった。
「お前って、けっこうそういうこと聞いてくるよな」
ジュンヤが言う。
「そりゃあ、僕だって女子に興味くらいありますからね」
「じゃあ、いま気になってるやつとかいないのかよ?」
彼はのんきな顔でそう言った。——むごい。なんてむごいことをお聞きになる。
「いるよ……。いるけど脈なし。心肺停止」
カオルは本当に苦々しく言った。
「もうそろそろ諦めようかと思ってる」
「そうか……」
ジュンヤはそこで箸を止めると、
「いや、でも諦めたら試合が終了するやつだぞ、それ」
あろうことか、励ましてくるではありませんか。
「脈がなくても、ほら、電気ショック的なのあるかもだろ? あとで後悔するよりは、好きなあいだは好きでいいんじゃないか?」
彼は珍しくそんな無責任なアドバイスをしてくれた。
さて、どう答えたらよいのでしょう? 何を言うにしても痛々しくて途中で口がまわらなくなってしまいそうな気がする。
悩みながらヒレカツをもぐもぐしていると、ジュンヤがこっちの顔をじっと見つめているのに気づく。どうしたの、と尋ねようとした瞬間、彼の手が口元に伸びる。ジュンヤはカオルの頬から顎へ、そっと撫でるように指を滑らせた。
「お弁当さんついてたぞ」
彼は人差し指にとったごはん粒を得意げに見せると、そのままパクッと食べてしまった。
何が起きたのか、よく分からなかった。
全身固まってしまったカオルはろくに呼吸もできないまま、
「きたない」
とだけ言葉を絞り出す。
「え、でもさっき手洗ったし……」
「汚いよ。なんで、こんな汚い、こと、平気で——」
声には少し震えが入ってしまっていた。
「お、お前、なに泣いてんの?」
——ダメだ。こんなとこで。おかしいと思われる。
「ちがう! 眼が、眼がちょっと、な、だけで」
言葉にできない想いが、言葉にしたらすべてが壊れてしまいそうな想いが、胸の奥にどんどん湧き上がってきて、涙になって溢れた。
「あ、洗ってくる……!」
カオルは席を立つと逃げるようにしてその場を去った。
彼がこうして気安く心臓に触れてくるせいで、いつまでたっても鼓動は止まる気配がない。汚れてしまった靴と服。必死についた嘘の数々。どれだけ無様な自分を見ることになっても、この恋から降りることはできない。——いや、したくない。
なんとか涙が収まったところで顔を洗い、カオルはまた適当な言い訳を用意してジュンヤの待つところへ戻っていった。
修学旅行大作戦はものの見事に失敗したけれど、なにかやり切った感があったのか、これ以降カオルの初恋はゆるやかに終わりを迎えることになる。中学を卒業するまでには少しずつ気持ちが落ち着いていき、今では芹沢さんに夢中なわけで、一応すべてが順調に進んでいるんだけれど、ときどき思うことがある。
ジュンヤを好きだった気持ちといっしょに、何か大切なものをあの頃に置き去りにしてしまったんじゃないかと。
***
通っていた中学から県道沿いに少し歩いて坂を下った突きあたり、スーパーと洋菓子店のあいだに三階建ての小さなビルがたっている。中学高校のころ、同じ姿を長時間にわたって維持するのがつらかったから、放課後は部活をする代わりにここの二階で紅林として華道を習っていた。
いつも教室用の花を買っていた一階の花屋さんをのぞいてみると、店主のお爺さんが鼻歌を歌いながら花の手入れをしている。せっかくノリノリのところで話しかけるのもわるいかな、と思って歌が一段落するのを待っていると、
「あれ、クレちゃんかな?」
早々に気づかれてしまった。
お爺さんはメガネの位置をなおしながら出てきてくれる。カオルのことを「クレちゃん」と呼ぶのは今でもこの人だけだ。
「はい! どうもお久しぶりです」
カオルは小さくお辞儀をすると傘をたたんで中に入った。
華道教室をやめてからは花を生ける機会もほとんどなくなってしまったけれど、毎年ゴールデンウィークに帰省したときには母の日に合わせてチャレンジするようにしている。お爺さんと会うのはそれ以来の四カ月ぶりだった。
「まだ大学は夏休みだっけ」
「はい。でもそろそろ戻らないといけないんですけど」
「そうかそうか。学生さんは大変だねぇ」
お爺さんは目尻にしわを寄せてニコニコ微笑む。
「きょうは友達の誕生日で、お花を贈ろうかと思ってるんです」
カオルは言った。紅林で届けるのはアレなので、いったん家に帰って白崎になってから向かうけれど。
「おお、それなら最近ベゴニアが入ったんだよ。どうかな?」
「ベゴニア……!」
もう九月も中旬だからもしかして、と思っていたけれど、本当に間に合ってしまったらしい。多くの花と違ってベゴニアは雌雄異花。ひとつの株に雄花と雌花が別々に咲くところに、以前から秘かにシンパシーを感じていた。
「ほらほら、こっち」
お爺さんが指さす方にはオレンジやイエロー、ピンクと色とりどりのベゴニアが並んでいる。随分気合を入れて仕入れたらしい。
「えーと……この黄色いのをお願いします」
「よし分かった」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください!」
さっそくラッピングに取り掛かろうとしてくれたところで引き留めてしまう。
こういうときは花言葉をチェックしなきゃだった。ヘンなやつだとあとで困る。さくっと検索すると出てきたのは、片思い、告白、親切、そして——。
「——幸福な日々、か」
カオルは黄色いベゴニアの鉢を手に持つと、
「お待たせしました! こちらをお願いします!」
トン、とテーブルの上に乗せた。
「はい。了解」
お爺さんは穏やかに微笑むと慣れた手つきでラッピングをはじめてくれた。
ジュンヤへの気持ちなんて、もうすっかりどこかへ消えてしまったと思っていたけれど、まだなにか、ちょっといびつな形で残っているのかもしれない——このあいだケチャップを拭ったときそう感じた。
だからこの機会に、ちゃんと区切りをつけておきたい。
一緒に過ごした日々への感謝を伝えるため、それ以上の何にもなれなかった恋をちゃんと埋葬するため、彼にこの花を贈ろう。
そんな決意をじっくりと固めて待っていると、
「ああ、そうだそうだ! ベゴニアっていえばあれを仕入れてみたんだった!」
お爺さんは手を止めて何かを持ってきてくれる。
「どう、縁起がいいでしょ?」
「おぅ……!」
目の前に現れたのは美しい紅白寄せ植えのベゴニアだった。鮮やかな二色の花が、バラみたいにボリュームたっぷりに咲いている。思いがけない出会いに、カオルは言葉も忘れたまま見とれてしまった。
「……これもお願いします!」
「おお。そっちもプレゼントかな」
お爺さんがたずねる。
「いえ、これは持って帰ろうと思います。だれかにあげるにはもったいないので」
カオルはそう言って、ならんで咲く紅と白の花をそっと両手に抱えてみた。
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