第4話
七月になっていよいよ本格的な夏がやってくると、キャンパス全体が灼熱の地獄と化す。一歩踏み出すたびに汗が吹き出す坂道を、カオルは日傘をさしてゆっくりと上っていた。
毎年この季節がやってくるのが恐ろしくてたまらないけれど、今年はかなりマシかもしれない。というのも、芹沢さんたちの目を意識する必要がなくなり、いちいち余計な準備をしなくてすむようになったからだ。最近は着替えずに身体だけ変えることも増えたから、服装を覚えられると本当にペアルックに見えるかもしれないけれど、正直言ってあの三人以外の学生と話すことはほとんどないので、大して気にはならなかったりする。
暑さでヘロヘロになりながら文学棟にたどり着き、熱気に満ちた薄暗い廊下を抜けて研究室のドアを開くと、あふれだす爽やかな冷気がカオルを包み込んだ。
「お、こんにちは。カオルさん」
目に飛び込んできたのは本から顔を上げる芹沢さんの姿だった。
「こんにちは! 失礼します」
カオルは静かに扉を閉めるといつもの席に座る。
「やっぱり先輩は来るの早いですね」
「ううん。そんなことないよ。私もいま来たばっかり」
先輩はリュックからノートと筆記用具を取り出して机の上に並べる。
「……じゃあ、さっそく今週の質問、始めてもいいかな?」
「はい。もちろんです」
カオルは背筋をピンと伸ばした。
「ではでは」芹沢さんはノートをちらりと見て言う。「えー、カオルさんはいつも同じ白崎、同じ紅林の身体に変化しているように見えても、毎回全身が新しくつくり直されてるって言ってたよね? それっていったいどういうことなのかな?」
質問を述べ終えると、先輩はさっそくペンを手に取り、カチッと芯を出した。
「うーん、そうですね……。わかりやすいところで言うと、まず、指紋が変わるんですよ」
なるほど、指紋ね、と言いながら芹沢さんはメモをとる。
「毎回ただズレるっていうより、かたち自体変わっちゃってるので、指紋認証はまったく使えないんです。顔認証はわりと平気なんですけどね」
「うんうん。やっぱりね」
「あー、あと、ほくろの位置も変わります。——これ、気づいてました?」
カオルがたずねてみると、
「それ、は……気づいてた」
芹沢さんはちょっと悪戯っぽく笑った。うっ、相変わらずかわいらしくていらっしゃる。
だけどそう思った次の瞬間には、先輩は顎に手を当てて難しい顔をしていた。
「基本の見た目は同じでも指紋やほくろの位置が異なるということは、ゲノム配列が変わらなくてもエピジェネティックな違いが生じている可能性が高い。つまり、今の白崎と次の白崎は双子の関係にある——そういうことじゃないかな?」
「そうです! 僕もそう思ってたんですよ!」
芹沢さんの推察はカオルが今まで考えてきたことと見事に一致していた。
「私たちの仮説通り、身体のバージョンごとの差異が双子のそれと同じなら、光彩認証、静脈認証も通用しないと思うんだけど」
「先輩、よくそういうこと知ってますね……」
「まあ、数学科とはいえ、きみと同じ理系だからね」
そう言って芹沢さんはもう一度ニコッと笑った。
正体を知られてしまった日の翌朝、カオルは昼休みに空き教室に来てほしいと先輩から呼び出しを受けた。
いったい何を告げられるんだろう……と身をこわばらせながら指定の場所を訪れると、仄暗い教室の真ん中にひっそりと佇む芹沢さんの後ろ姿があった。
先輩はカオルを認めるなり、勢いよく立ち上がって言った。
「紅林さん、あるいは白崎くん、私にあなたを研究させてほしい」
「……はい?」
突然の申し出にカオルは思わず耳を疑ってしまう。
「もちろん、不躾なお願いだってことは承知してる。その身体とずっと付き合ってきて、これからも背負っていくあなたからすれば、こんなの遊び半分に思えるかもしれない」
芹沢さんはギュッと拳を握りしめる。
「それでも、私は知りたい。あなたがどんな世界を生きているのか」
好きな人にそんなことを言われて、断ることができるでしょうか。
「先輩……! こちらこそ、よろしくお願いします!」
カオルはすぐさまそう答えた。
少しの間があって、「……ふぅ」と先輩は安堵の息をつく。
「よかった。こんなこと頼んでいいのかな、って考えちゃって、昨日はぜんぜん眠れなかったから」
「せ、先輩、そんな……」
芹沢さんはいつも以上に輝いていて直視することもままならない。
「でも、いったいどんな研究をするつもりなんですか?」
「ああ。それ先に言わなきゃだったね」
そう言って先輩はリュックからノートを取り出した。
「研究っていっても自然科学的なものはメインじゃなくて、あなたが日々どう生きているのか、話せる範囲でいいから聞かせてもらいたいと思ってる。どんな困難があって、どんなときに喜ぶのか、とかね」
「なるほど……」
「考えてたら質問したいことがたくさん出てきちゃって、こうしてまとめてみたんだけど」
芹沢さんは手にしたノートを広げて見せてくれる。
「お、おお……!」
ページには数十個もの問いが整然と箇条書きされていた。一つひとつを見てみると、本当にいろんなテーマがあって驚く。人間関係や生活における問題といったありがちなものから、セクシュアリティや性自認、性表現に関するデリケートなもの、白崎でいる時間のぶん紅林の生理周期はのびるのか——なんていうかなり生々しいものまであった。この人はけっこう容赦がないと思う。
「で、早速なんだけど、いくつか聞かせてもらってもいいかな?」
「はい! 構いません!」
面接を受けるときのようにカオルは姿勢を正した。
「それじゃあ、まずは簡単なところから——」
先輩が話しはじめた途端、カオルのお腹がぎゅうっとつぶれるような音を出す。
「……先にご飯、食べちゃおっか」
そう言って芹沢さんは微笑んでくれた。
カオルはそのまま先輩と食堂に向かい、お昼をご一緒する。けれど、質問に答えている時間がなくなってしまったので、放課後にもう一度集まる約束をしていったん別れることになった。
授業をすべて終え、ふたたび昼と同じ教室に戻ってきたカオルは、芹沢さんが用意してきた問いにあらためて答えはじめる。公開したりすることはないから、ということでメモをとるのを了承したのもこのときだった。先輩がバリバリ書き込んでいったノートをあとで見てみると、いままでぼんやりとしていた自分の輪郭がくっきりしたように思えた。
カオルが一つひとつ丁寧に答えていたこともあって、質問リストが半分も埋まらないうちに日が暮れてしまった。二人は危うく棟内に閉じ込められそうになりながら脱出すると、すっかりまっくらになった駐車場を横切る。こんな時間にキャンパスを歩くのは初めてで、カオルはなんだか少し浮足立っていた。
「こんなに遅くまで付き合わせちゃってごめんね」芹沢さんが言う。「どうせ終わらないのは分かってたんだから、もっと早くに切り上げておくべきだったかな」
「いえいえ。僕も楽しかったですよ、とっても」
回答をはじめたときは紅林だったけれど、同じ身体でいるのに疲れてきたので途中で白崎にチェンジしていた。こんなに自由な姿で過ごせるということに、まだまだ実感が持てない。
「あと一回か二回くらいでコンプリートできそうですかね」
「いや、それなんだけどね。カオルさんの答えを聞いてるうちに新しく質問したいことが浮かんできちゃって……」
カオルさん、と先輩は呼ぶ。下の名前がいいとは思ってくれていても、敬称略は性に合わないらしい。
「ではまだまだ続くというわけですね」
「……だいじょうぶ?」
と先輩はカオルの顔をのぞき込む。
「ぜんっぜん大丈夫です!」
握った拳をトン、と胸に置いた。
「あー、でも」芹沢さんは足を止める。「やっぱり毎回ここまで遅くなるのは私の気が咎めるし、ちゃんと時間決めとかないと際限なくなるから……そうだ、こうしよう」
先輩はカオルに向き直る。
「ゼミ前の他にだれもいない時間を使って、毎週少しずつ答えてもらうっていうのはどうかな? カオルさんさえよければ、じっくり長期戦に持ち込んでみたいと思うんだけど」
そういうことならもちろん、
「ガッテン承知です!」
と快諾するっきゃない。
「ありがとう。こうすればたぶん、卒業するまでにはなんとか終わるはず。質問の方も増えてくとは思うけどね」
卒業するまでには、か。そのころ二人はどうなっているのか、カオルは想像してみる。あと半年とちょっとしかないのに、大学を出たあとにも残るような何かを、自分は芹沢さんとのあいだに見つけられるんだろうか。
並木道に出たところで、カオルは思わず空を見上げた。
そこには、いままで建物の陰に隠れていた無数の星々が新月の夜いっぱいに輝いていた。山の上にあるキャンパスには人工の灯りがほとんどないせいか、粉砂糖を散らしたように小さな星々までよく見える
「……ありがとうございます。先輩」
言葉が口をついて出た。
「ううん。お願いしてるのは私の方だし」
「あ、いえ。それもそうなんですけど、そっちじゃなくて……」
カオルは掌を天に向ける。
「いつもの坂道から見える星空がこんなに広くて美しいってこと、僕は今まで知りませんでした。先輩が研究をはじめてくれなければ、きっと卒業まで見ることはなかったと思います。だからその、ありがとう、です」
芹沢さんも夜空を見上げた。そこにあることに今初めて気づいたみたいに。
しばらく二人で静かに星を数えていると、
「……カオルさんはなかなかロマン主義的なことを言うんだね」
と先輩が言った。
「そ、そうですか……?」
「毎晩、人のいないキャンパスを眺めている星さんたちも、カオルさんに見つけてもらえてきっと喜んでる」
芹沢さんは目を細めた。
そうか、みんな遠い空の彼方からいつも見守ってくれてるのか……なんて思うと、頭上にきらめく光の一つひとつが、いまにもこの胸に飛び込んできそうな気がしてくる。
「……ロマン主義的なのはどっちですか」
なにかとても柔らかいものが、二人を包んでくれているのを感じた。
「身体の後天的に変化する要素が、チェンジするたびに書き換えられているんだとしたら、それはカオルさんのいう通り生まれ変わっているといってもいいのかもしれないね」
芹沢さんは納得したようだった。
「でも、人間の細胞は常に更新されつづけているわけですから、その意味では誰だって日々あたらしい自分に生まれ変わっちゃってるんだと思いますよ」
「確かに」
そこでいったん芹沢さんはペンを置いた。
「……だけど、人ってなかなか変われないものだよね。このままじゃ駄目だってわかっていても、ずっと暗いところに閉じこもっていようとする自分がいてさ」
それはどうしても一般論には聞こえなかった。空(くう)を見つめる先輩の周囲には、最近感じることの少なかった、ひんやりとした気配が漂っている。きっとこの向こうにこそ、カオルには触れたくても触れられない、芹沢さんのひとりだけの世界がある——そう思った。
「先輩……?」
たぶんなにも返っては来ないとは思いつつ、ひとつ問いかけてみようとするカオルの小さな声は、扉が開く音に紛れてしまった。
「失礼しまーす」
入ってきたのはマナちゃんだった。
カオルは彼女とあいさつを交わすと、なにかを確かめるように頷き合う。その様子はまだどこかぎこちない感じがした。
正体バレ事件の翌日——つまり先輩に呼びだされた日の朝、カオルはいつもの坂でマナちゃんと遭遇した。
「お、おはよう」
「うん……おはよう」
彼女の表情はふだんよりもずっと暗かった。やっぱり昨日のことが原因に違いない。そう思ったカオルがなにをどう話せばいいんだろうかと考えあぐねていると、マナちゃんが先に口を開いた。
「あのあと、誤解が起きないようにちょっとだけ話しておいたよ」
「……本当にありがとう」
彼女には感謝してもしきれないくらいだと思う。なのに……。
「でも、よかったじゃん」マナちゃんは言った。「二人とも、ちゃんとカオルのこと分かってくれそうだよ。芹沢さんはなんかすごい驚いてたけど、わたしが話すのよく聞いてくれてたし、鈴木くんは走って追いかけてったし」
「あ、うん。そのことなんだけど——」
というカオルの言葉をさえぎって彼女はつづける。
「恋も友情も嘘じゃないんでしょ? よかったねーホントに」
思わず、足が止まった。
「……聞いてたの?」
「聞いてたよ。全部」
気づかなかった。あの遮蔽物(しゃへいぶつ)の少ない図書館裏のいったいどこに? ……まるで忍者だ。
「心配でついてったんだけど、盗み聞きみたいになっちゃってごめんねー」
そのまま先へ進んでいくマナちゃんの背中を慌てて追いかける。
どうしよう? なんて言えば許してもらえるかな? ……そんなカオルの心境を察知してか、
「べつに責めてないよ」
と彼女は冷たく先手を打った。
「っていうか謝られても困るよね。だれを好きになるのも嫌いになるのもその人の自由なわけだし、それを〝私が悪いんですー〟なんて言われても、〝え、あなた何様ですか?〟って感じ?」
「だ、だけど——」
「まあ、ね。むこうが勝手に好きになっちゃったんだからしかたないよね。分かってて誘惑したとか言うんなら話はべつだけどさ」
「いや、その、わたしに非がまったくないわけではないっていうか——」
カオルがそこまで言うと、マナちゃんは立ち止まって肩をグイっとこちらにまわし、
「ん?」
とだけ言った。たぶんあの目に滲んでいたのは殺意だったと思う。
「そ、そちらで詳しくお話ししますので……」
カオルはよく一緒にコーヒーを飲んでいる駐車場脇に彼女を誘導した。そして到着するや否や、あの日に食堂で起こったことの全てを事細かに報告する。冷や汗を大量にかきながら全てを説明し終えると、カオルは深く頭を下げた。
「どうもすみませんでしたっ!」
近くの建物に声が反響する。周囲に人はいなかったけれど、キャンパスを行く学生たちにはかなりの修羅場に見えていたと思う。
カオルが話すあいだ終始無言で仁王立ちしていたマナちゃんは、それでもしばらく沈黙をつづけたあと、
「なーんだ」
つまらなそうに言った。
「いいよ。そんなことなら」
顔を上げると、やれやれだぜ、といった呆れ顔のマナちゃんがそこにいた。
「鈴木くんのプライドは守られたわけだし、どうせもともと好きになっちゃってたわけでしょ? なら大した問題でもないよ」
「マナちゃん……ごめん」
ついそう言ってしまうと、
「だから謝んなって」彼女は肩をすくめた。「お願いだからさ、あんたはもう変な気つかわないで、普通に友達として鈴木くんといっしょにいてやってよ。じゃなきゃわたしが自分を許せない。……相手の人間関係コントロールして自分だけに目をむけさせるなんて、好きな人にやることじゃないでしょ?」
カオルは言葉を失った。この状況でまったく嫉妬してないわけがないのに、マナちゃんはあくまで恋より正義を重んじようとする。彼女の気高い姿にはシビれるものがあった。
「おみそれしました……」
中途半端な罪悪感にさいなまれていた自分を恥ずかしく思いながら、もう二度とマナちゃんを裏切るようなことはしないと心に誓った。
あれから二人は今まで通りに——とはいかないまでも、わりと良好な関係を保っている。まだ少し感じる硬い雰囲気は、たぶんリハビリみたいなもので、そのうちきっと落ち着いてくるはず……。カオルはそう考えていた。
けれど、彼が関わると話はべつかもしれない。
「こんちわー」
運動部らしい挨拶でジュンヤが研究室にやってくると、二人の緊張が急激に増す。それにまったく気づく様子もない彼は、いつものようにカオルの隣の席に腰を下ろすと、
「あのさ……カオル」
と言った。下の名前で呼ばれるとやっぱりまだ違和感がある。
「な、なんでしょうか?」
カオルは他人行儀に返事をした。
「今日って、ゼミ終わったらバイトだよな?」
「はい。さようですが……」
ジュンヤはあの直後からカオルと同じコンビニで働いている。もちろん彼としては、どうせバイトするなら友達の白崎がいるところで——というつもりだったんだろうけど、シフトに入るころにはずいぶんややこしい事態になってしまっていた。二人もまた、いままでの関係をどうにか維持しようと努めている最中だ。
「それなら、終わったら一緒に行ってもいい……よな?」
ジュンヤはさりげない感じを装ってそうたずねる。ただの友達だったときには普通にしていたようなことも、今ではいちいち確認が必要になっていた。
カオルは一呼吸おいて机の向こうの気配に耳を傾けると、
「うん。いいよ」
と穏やかに頷いた。
……まるで二人羽織をしてるみたいだと思う。カオルの一挙手一投足はすべてマナちゃんというフィルターを通されて、どの言葉も自分から出てきたような感じがまるでしない。
こんな状況が、いったいいつまで続くんだろう。
張り詰めた空気のなか、四人がそれぞれ淡々と準備を進めていると、
「おお、みんな。遅くなってすまんね」
能天気な堤先生が部屋に戻ってきた。腕には書類が山ほど入ったカゴを抱えている。それを、よいしょ、と本棚の脇に置くと、先生はメガネをはずして汗をぬぐった。
「あれ、なんか妙に静かだな」
だれからも反応はない。
「もしかして……みんな何か隠してる?」
「いえ!」
と四人の声が重なった。瞬間、これはまずい、ときょろきょろ互いの様子をうかがいだす。
「おー? これはこれは?」
先生はメガネをかけ直すと興味深そうにカオルたちを見渡した。
「……言っとくけど、僕の誕生日は半年先だからね。今から準備しなくても大丈夫だよ」
みんなとぼけた表情をしていたけれど、そんな的外れなことを口にする先生を内心笑っているに違いなかった。
***
「オレはそんなに嫌いじゃないけどな」
「えー、そっか……」
バイトを終えたカオルたちはバックルームで制服を脱いでいた。ジュンヤは仕事を覚えるのがかなり早くて、コンビニで働きはじめてまだ一カ月もたってないのにもう追い抜かれているような気がする。相変わらずの適応力の高さだと思う。
「まあ、カオルがああいうチャラチャラした感じ苦手なのはわかるけど、今のところべつに悪い人には見えないな」
二人がさっきから話しているのはバイトリーダーの坂本さんのことだ。先入観を持たせてしまうのもフェアじゃない気がしたので、あまり不満は口にしないようにしていたけれど、もうそろそろ解禁かな、と思って印象を聞いてみていた。
「いや、僕もそこまで悪い人だと思ってるわけじゃないんだけど、なんだろう、精神がちょっと汚れてるっていうかさ……」
「精神が汚れてるって」ジュンヤが吹き出した。「お前けっこう平気でキツいこと言うよな。なんでそんな毛嫌いしてんだよ」
「うーん。仕事に対する真摯さに欠けるっていうのもあるけど……。どうしよう、やっぱあれ言っちゃおうかな……」
カオルはロッカーを閉じる。
「お、おう。そういうのは溜め込んだりしないでどんどん吐き出した方がいいぞ」
ジュンヤはそう言って椅子に腰を下ろすと、もう一脚をトントン、と叩く。どうやら愚痴に付き合ってくれるらしい。
「いやー、それがね、ちょうど一年くらい前のことなんだけど——」
カオルは彼の隣に座って言った。
「——紅林で行った合コンにあの人も参加してたんだよね」
「ご、合コン⁉」ジュンヤは飛び上がった。「お前が⁉ しかも紅林さんで⁉」
驚くのも無理はない。カオルは昔から飲み会やカラオケなどの集まりを徹底して避けてきたわけだから。彼もそれをよく知っていて、そもそも誘ったりしてこない。
「まあ聞いてくださいよ。ちゃんと理由があるんで」
ジュンヤの動揺は予想以上だった。……どっちが響いてるのか知らないけれど。
「まず、僕が芹沢さんのこと好きって話はしたよね?」
「お、おう……」
彼は小さく頷いた。マナちゃんと同じく、紅林と白崎という二つの視点を通して相手の好きな人を知ってしまった以上、こちらも明かしておくべきだと思ってこのまえ伝えてあった。もちろん、ジュンヤに変な期待を持たせないためでもある。
「その合コンには先輩に誘われて行ったんだよ」
「え……?」
カオルも芹沢さんの口からその話が出たときには愕然としてしまった。俗世間から遠く離れた世界にいらっしゃるような先輩が、性欲が混沌と渦巻くそんな場所にいる姿なんて想像できない……というよりしたくない。
合コンは四対四で、芹沢さんは人数合わせで参加するよう頼まれたけれど、諸事情でもう一人女性が足りなくなってしまっていた。
「そこで僕に誘いが来たというわけです」
合コンなんて初めてだから、紅林さんがいてくれると心強いんだけど——そんなことを言われてしまったら断れるわけがない。……まあ、先輩に悪い虫がつかないように見張る目的でもあったんだけど。
でも当日、参加メンバーのギラギラした、いやーな雰囲気に耐えて待っていても、芹沢さんは一向にあらわれなかった。しばらくしてスマホに送られてきたメッセージを見ると、体調が悪いからパスさせて、ごめん。と書かれている。……惨劇はここから始まった。
いつも普通に話せている先輩がいっしょならきっと大丈夫。そう思って参加したのに、そこで繰り広げられる会話にはとてもついていけず、自分のターンがまわってきても、たどたどしい言葉でやり過ごすしかないのがとても惨めで苦しくて悔しかった。
だけどそのうち、リアクションに困っているといつも同じ男性が助け舟を出してくれているのに気づく。彼は他にも、カオルがコメントしやすいようにうまく話題を誘導したり、ちょっと変なことを言ってしまったらあとでフォローを入れたりと、かなり細やかにカオルのコミュニケーションをサポートしてくれていた。その人こそが、のちにバイト先で再び出会うことになる坂本さんだった。
困ったら坂本さんに頼るようにすると、けっこう会話もリズムよく進むようになった。もちろん、もう一度あの状況を体験したいかと言われたら、そんなの嫌に決まっている。けれど、ほんのちょっとだけ、本当にほんのちょっとだけ、わるくないかも、と思ってしまった。ただそれは、一生縁がないと思っていたそういう場を、なんとか潜り抜けているということへの達成感だったのかもしれない。
「え……それじゃ坂本さんいい人じゃん」
ジュンヤが拍子抜けしたように言った。
「問題はここからなんだよ」
長かった儀式がやっと終わり、二次会がどうとかこうとか話題に出はじめたタイミングで素早く退散しようとすると、坂本さんが個人的に話しかけてきた。彼は他のメンバーと会話していても退屈だから、もう少し静かなところに場所を移して二人で話そうと誘ってくれる。カオルの方も、それまでのやり取りからこの人とはわりと気が合うかもしれないと感じていたし、なにより未知の世界を垣間見て気が高ぶっていたせいで、浮ついた気分のまま彼についていってしまった。
だけど、いっしょに乗ったタクシーが今まで来たことがない道を通っているのに気づいた途端、強い胸騒ぎを覚えた。彼がぜんぶ持つと言ってくれたタクシー代を強引に半分払って降りると、少し歩いたところに案の定ラブホテルがあった。恐怖と同時に吐き気がした。
「……え、で、そのあと?」
「なにも起こらなかったよ。幸運なことにね」
カオルがそう言うと、ジュンヤはほっと息をつく。
「よかったな、ホント。お前がそんな目に合うところなんて想像するだけで怖えよ」
その心配はたぶん、ただの白崎だったときから向けてくれていたんだと思う。
「電話を口実にして、話しながら坂本さんの視界から出て、その隙に白崎になって全力で逃げた……」
ちょうどカップルを降ろしたばかりのタクシーを捕まえると、カオルはまっすぐ自宅に帰った。家に入って扉に鍵をかけたところでやっと普通に息ができるようになった気がした。
「そうやって初対面の相手と行為におよぶなんて、〝処女童貞〟には到底わからない行程」
「つらかっただろうな、そりゃあ……」
せっかく韻を踏んだのにジュンヤはぜんぜん気づいてくれなかった。
「でも、ここでバイトしてて大丈夫なのか?」
彼がたずねる。
「いや、さすがに紅林で会うのは厳しいけど……苦手なのは坂本さん個人っていうよりは、あの〝界隈〟だからね。コンビニにいれば無害だよ、たぶん」
重要なのは人間そのものよりも、その場を支配するルールだったりする。たとえプレイしている人々は同じでも、べつのルールが適用されればまったく異なるゲームがはじまってしまう。「正しさ」や「勝ち負け」は、いつもそうやって決まっているのに、渦中にいるとなかなかそれに気づくことができない。
「僕は自分が負けるようなゲームに参加すべきじゃなかったんだよ。合コンだけじゃなくて、中学も高校も、もしかしたら小学校も行かずに、はじめから大学くらいルールのゆるい世界で生きていくべきだったのかもしれない」
カオルがいつもの調子で言うと、ジュンヤはいっそう深刻な表情になって、
「……でも、選べない……もんな」
と気まずそうに言った。
「これからは選べる……かも」
そんな希望的観測を口に出してみる。ふいに空気が重みを増してきたところで、
「あ、でも」カオルは苦笑した。「選べちゃってたら、ジュンヤとは出会えなかったかもね」
彼は一瞬だけ目を丸くすると、すぐに顔を背けてしまった。
「そ、それ……紅林さんで言ってたら即アウトだからな」
「ああ、ごめん」
ちょっと気をつかうのが面倒になってきた。
なんとなく変な雰囲気になってしまって耐えられなくなったのか、
「……帰るか、そろそろ」
とジュンヤが腰を上げた。
「あー、僕はちょっとやることあるからお先にどうぞ?」
「おう、そうか……」
彼はバッグを抱えてドアに手をかける。
「それじゃあな」
「うん。じゃあね」
カオルは小さく手を振ってジュンヤを見送った。
あんなことがあったのに、二人は結局のところあっけないほどフツーに友達なんだな、とあらためて思う。
ほんのちょっと広くなってしまった部屋のなかを見渡しながら少しの間だけぼーっと過ごしたあと、バッグから紙とペンを取り出して机の上に並べる。
「さてさて、始めるとしますか」
カオルは気合を入れると、スマホに参考資料の画像を出し、固めてきたイメージにしたがって鉛筆で下書きをはじめた。
今日はこれからしばらく残り、近日発売の新商品「チキンちゃんカレー味」のポップをつくる。「カレー」→「インド」→「ターバン!」……というのはありがちなので、今回は踊り子さん的ななにかをモチーフにチキンちゃんを変身させようとたくらんでいるのだった。
カオルは昔から、商品パッケージの片隅で「おいしいよ」などと呼び掛けてくるチビキャラを見ると、なぜだかとても胸が苦しくなってしまう。商品が売れなくなったり、パッケージが更新されたりすれば、すぐに消え去り忘れ去られる儚い命。それをせめて自分だけでも覚えていてやりたい……と切なさが暴走して、実家には段ボール数箱にもおよぶ切り抜きの山が眠っている。
コンビニでバイトをはじめたとき、ついにあの子たちを描く側の立場になれると考えたカオルは、ほとんど趣味のレベルで消費社会の妖精たちを量産しつづけているのだった。
シンプルかつ充分なインパクトがあって、さらに人の手の温かみがこもったものを……と意識して描いていると、八割がた完成したところで誰かがバックルームに入ってきた。
「なんだ、お前まだいたのか」
振り向くと坂本さんだった。休憩に来たらしい。
「あ、どうも、すみません」
謝らなくてもいいのについペコっと謝っちゃう自分ってホントよくないと思う。
「なに、ポップつくってんのか」
坂本さんは手元をのぞき込んでくる。いつもはほとんど関心も示さないし、うっとうしそうな目で見てくるだけなのに。
なにか文句でも言われたら嫌だな、と身構えるカオルに彼は言った。
「……よく描けてんじゃん」
意外なほめ言葉に唖然としてしまう。やっぱり、坂本さんはそんなに悪い人じゃないのかもしれない——この程度のことでそう思いかけたカオルは、いやいや、でも、と踏みとどまる。心にもないことをへーきで言えちゃうようなやつが一番タチが悪いんだ、と。
「もうちょっとで終わるんですけど」
カオルが言うと、
「いや、でもまだまだかかるだろ。明日にしとけよ、遅くなるから」
「へ……?」
思わず気の抜けた声が漏れてしまう。
「……ご、ご心配ありがとうございます」
「おう」
見たところ、特に機嫌がいいとか、そういう表情ではない。なにかの嫌味というわけでもない。それなのに、坂本さんがこんなフツーに優しい言葉をかけてくれるなんて、いったいどういう風の吹きまわしなんだろう……。考えはじめたところで、カオルはある可能性に思い至る。
疎まれているというのは勘違いで、自分が彼を一方的に嫌っていただけなんだとしたら? 坂本さんの方は親しくなろうとしてくれていたのに、自分だけ気がついていなかったんだとしたら?
そう考えてみると、最近はおしゃべりを遮ってもイヤな顔をされなくなったような気がする。機会自体が減っただけなんだと思っていたけれど、意外にこれは坂本さん自身の変化だったりするのかもしれない。
もちろん、合コンの日のことを許すことはできないけれど、仲良くしようとしてくれる人を突き放すのはどこか心苦しいものがある。仕事にかかわる範囲のちょっとした付き合い程度なら、もう少し穏やかな態度で接してあげてもいいんじゃないか……カオルはそう思いはじめていた。
彼に勧められたとおり、きょうはこのへんで撤収することにする。だけどその前に、チキンちゃんをキリのいいところまでささっと描いてしまおう。
そうしてカオルがふたたびペンを手に取ったとき、坂本さんの大きな舌打ちが部屋中にこだまする。いまなにか気に障るようなことをしちゃったのかと彼の方を見やると、眉間にしわを寄せてスマホをのぞき込んでいた。どうやら画面のむこうで何かが起こっているらしい。
「ったくあいつは……」
坂本さんは悪態をつきながらスマホを耳にあてる。
「……あのさー、ミオちゃん、これもう三日後だよね」
いつもより強めの口調で彼は言った。
「休むなら一週間以上前に連絡してよってまえ言ったの覚えてる? ……今回は俺入れるから何とかなるけど、これ他の人に迷惑かかるから、次からやめといてよ?」
われらがバイトリーダーはほとんど棒読みでそう告げると、「いい? わかった? はーい」と言って通話を切った。
「……彼氏とライブだってさ」
呆れ声で言う。
「それで三日前は……ちょっとまずいですね」
「まずいだろ? なのにヘラヘラしてんだもんな。どういう神経してんだろあいつ」
ミオちゃんの顔を思い出す。そういう作り笑いが板についてしまった人間って、本当に楽しいときにはどういう表情になるんだろう。カオルには想像もつかない。
坂本さんは隣に座って脚を組むと、スマホに目を向けたまま呟くように言った。
「ああいう、いつも口半開き半笑いで話すやつって、普段いったいなに考えて生きてんだろうな」
この人はミオちゃんに優しくしているように見えていたけれど、その裏にこんな軽蔑を隠しているとは知らなかった。正直言って、彼のついてきた嘘はかなり邪悪な類のものだと思う。なのに——、
「……何も考えてないんじゃないですかね」
——カオルはつい、軽い気持ちでそう答えてしまった。
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