第3話

「豚丼定食、ごはん大盛でお願いします」

「はいよー」

 今週一番のお気に入りメニューを頼んだカオルは、さらにチーズ入りチキンカツとポテトサラダ……ちょっと贅沢にショートケーキもとって会計に進んだ。姿を変えるためには膨大なカロリーが必要なので、ゼミがはじまる前にこれくらいは食べておきたい。

 ピークの時間帯を大きく過ぎた食堂は相変わらず静かだけれど、心なしか、いつもより人が多いような気がする。カオルはだれも座っていない窓際のテーブル席に腰を下ろすと、いただきます、と手を合わせた。

 ジュンヤの一件があってから周りの視線を気にすることが増えている。いつもだれかが自分を探している、という感覚は思っていたよりも厄介で、授業の合間の休み時間、坂の上から初夏の山々を眺めていても、学内の木立に響く鳥の鳴き声に耳をすましていても、いままでのようにぼんやりとはできなくなっていた。

 でも幸い、今年は理学部の専門科目や文学系の講義を多めにとっていることもあって、ジュンヤとかぶっている授業は奇跡的に一つもない。問題は食事のタイミングだけれど、こちらもまた彼からそれとなく聞き出した時間割をもとに空きコマをうまく活用して昼食をとれば、これまで通りに落ち着いて過ごすことができた。たとえ要領は良くなくても、こういう計画的な犯行なら意外と得意なのかもしれない。

 今日はこのあとゼミが控えているけれど、お腹がすいて姿を変える元気もなかったので紅林のまま食堂に来ていた。ジュンヤは今ごろ日本思想史か何かの講義を受けているはずだから、少なくともその間は安心して食べられる。

「……すばらしい」

 カオルは豚丼をのぞき込みながら思わずそう呟いた。これはきっと学食メニューベストテンに余裕で入る美味しさだと思う。なのにたぶん、あと一、二週間もすれば別の献立に入れ替わってしまう——それが食堂の悲しい摂理だ。その日のことを想像するとたまらないけれど、所詮この世は諸行無常。すべてのものにはいつか終わりがやってくる。

 ……だから、そう。ジュンヤのことだって時間が解決してくれるにちがいない。報われない気持ちを一方的に向けつづけるのはとてもエネルギーがいることだし、こうして徹底的に接触を断てば少しずつ冷めていくはず……。どんなに尊く思えたとしても、一つひとつの恋なんてただの期間限定メニューに過ぎないんだから。

 近く訪れる豚丼との別れを惜しみながら、カオルは米粒一つ残さず平らげた。感慨にふけっていたせいか、まだ他のメニューが手つかずなのに(大学生にもなるとばっかり食べを注意してくるようなおせっかいさんはいない)うっかり「ごちそうさま」が口をついて出てしまう。なんだか恥ずかしくなって、周囲をきょろきょろ見まわしてから再び神聖なる食事に戻った。と、そのとき——、

「……あれ?」

 いま何か、見えてはいけないものが見えてしまったような……。

 カオルがもう一度顔を上げると、まさにそれが目の前に立っていた。

「こ、こんにちは……!」

 ……ジュンヤだ。しかも目を合わせてしまった。どうしよう。あれだ、気付かないふりしなきゃ。カオルは何事もなかったかのようにチキンカツにかじりつく。

「……あ、あれ?」

 戸惑う彼はトレーを両手で持ったままテーブルの横につったっている。それにしてもどうして今ここに? まさか授業が休みだったとか? いつもより人が多いのもそのせいで? なんでよりにもよって紅林で食べに来た日に……。

 要領がわるいとはこういうことなんだと思う。

「あの……紅林さん、ですよね?」

「な、なんで名前を——⁉」

 カオルはつい反応してしまった。

「あ、す、すいません……! お友達と話してるところ聞いちゃって……」

 こいつ、そんなストーカーまがいのことを……。恋をしてる人間はやることが恐ろしい。

「その、オレです。……ミカンのときの」

 たぶん、ここが正念場だ、とカオルは思った。ジュンヤのためにも覚悟を決めなきゃならない。

「何のことですか?」

 なるべく表情を動かさないようにそう言い切る。ジュンヤは一瞬で迷子の少年の目になった。

 人間は少しでも可能性があれば、もしかしたら、と考えてしまう哀れな生き物だ。けれど、関係が生まれてくるきっかけそのものを否定してしまえば、他人は他人のまま、それ以上の存在になることは永遠にない。

 なるべく彼の苦しみが長引かなくて済むよう、きっぱりとトドメを刺してあげること。それだけが、嘘をつき続けてきた自分にできるたった一つの誠実なことなんだと信じよう。

「あ、ほら、あれです。落ちてたミカン、どっちがもらうかって話になった……」

 ジュンヤの縋るような眼差しが胸に刺さる。なにも、こんなところで粘り強くならなくたっていいのに。

「ちょっとわからないです……。ごめんなさい」

 カオルはあくまで無表情を貫く。

「……あ、そうだ、写真! あのときの写真もらっといたんだ!」

 ジュンヤはナポリタンと今川焼きが乗ったトレーをテーブルに置くと、

「ま、待っててくださいね……。これ見たら思い出すかも」

 そう言ってスマホを操作しはじめた。

 ジュンヤのこんな姿、もうこれ以上見ていたくなんかないけれど、ここで中途半端に同情してはいけない。

 ……でも、今していることは本当に彼のためになるんだろうか。ただ一つ確かなのは、ジュンヤはいつも正直なのに、自分はいまも仮面を手放せないでいるっていうことだ。

 正しい結末のために、いったい何をすべきなのか——そう考えはじめた次の瞬間、

「……あ、ああ!」

 カオルは声を上げていた。

「みかん、もう一つ見つけられなかった方(かた)……ですか?」

 ジュンヤの顔に安堵の笑みがぱっと広がる。

「そう、それです! そいつがオレです!」

「ですよね? す、すみません。ホント……」

 踏み切らせたのは理性だったのか、感情だったのか。よくはわからないけれど、言ってしまったことはもう取り消せない。とりあえずこの状況を受け入れよう。

「いやー、よかったです! 思い出してもらえて」

 そう言いつつ、ジュンヤはカオルの斜め向かいの席に座った。窓の外を眺めようとすると視界に入ってしまう位置になる。

 カオルは適当に愛想笑いを浮かべると、チキンカツの残りを口に運んだ。

 ——しかたない。過剰に冷たくするのも疲れるし、ここからはフツーに話して、フツーに脈がないことを理解してもらおう。

「オレ、ジュンヤっていいます。鈴木純也」

「はい。わたしは紅林……です」

 そういえば彼が昔、頼んでもいないのに恋愛のアドバイスをしてきたことがあった。たとえ相手に脈がなくても、電気ショックさえあれば止まった心臓を動かせる——って。

 ——それがないからみんな苦労するんでしょうに。

「えーと、実はオレ、水泳部なんですけど、紅林さんって、その、フルーツ☆ばすけっと以外にサークルとかって……」

「あー、入ってないですね」

 これは嘘じゃなくて、白崎でも入ってない。

「そ、そうですか。なら、そうだ、オレ最近バイト探してて、コンビニとかやってみようって思ってるんですけど、紅林さんは何か……」

「あー、やってないです。予定もありません」

 実際、紅林の身体に拘束される時間をこれから増やす気はなかった。

「じゃ、じゃあ……紅林さんって生物科ですよね? 今どんなこと勉強してるんですか?」

「え……それ、ホントに聞いちゃいます?」

 つい、いつものノリで返してしまう。

「はい⁉」

「わりと専門的な説明が長々と続くことになりますけど、ホントに聞きたいですか?」

 ジュンヤは「あー」と言いながら頭を掻くと、

「す、すいません。流れで……」

 あっさり白旗を上げてしまった。

「ちなみに、すいませんではなく、すみませんが正しい日本語だそうですよ」

「すいません……あ、す、スミマセン!」

 彼は少しだけ顔を赤らめる。

「漢字で書くとわかりやすいんですよ。すみませんのスミは決済のサイなので」

「なるほど……」

「あ、でも、まわりの人しだいで立場が逆転する可能性もありますよね。すいませんって言う人が多くなれば、そっちの方が正しい日本語になっちゃうっていうか。そう考えると言葉ってかなりテキトーなものだと思いません?」

「ど、どうなんすかね……」

 せっかくこっちから話しかけてるのに、なぜかジュンヤはそれきり黙ってしまった。心ここにあらずといった様子の彼は、すでに冷めつつあるナポリタンをくるくるし始める。しかし、見るとスプーンがない! スプーンを使わずにロングパスタをきれいに食すためには本場イタリア人並みのスキルが必要だと聞いたことがある。……彼にこのミッションが成し遂げられるだろうか。

 カオルはかわいそうな友人の無事を祈りつつ、ポテトサラダの最後の一口を飲み込んだ。

「紅林さんはどこ出身なんですか?」

 フォークの回転が止まる。

「県内です」

「え、ホントですか⁉」

 やっと突破口を見つけたと思ったのか、ジュンヤはあからさまに喜んでいる。

「オレも県内です! やっぱ地元が一番ですよね!」

「あ、いえ」カオルは言った「実家が近いと都合がいいってだけで、わたしはべつに、少しの緑があって、ワイファイと最低限のインフラが整っていれば全国どこでもいい派です」

 実際、中学高校大学と、すべて「近さ」を最優先に選んできたわりには、土地への愛着はまるでなかった。

「そう、ですか。じゃあ——」

 と言って、彼は出身の市区町村を訪ねてきたけれど、あまり正確な座標を話してしまうと白崎に近づくおそれがあるので、そのあたりは適当にごまかしておいた。

 それにしても、ジュンヤはこんな中身もなければ興味もないような質問をして、紅林さんの何を知りたいんだろう。そんなアンケート調査みたいなことを好きな人に聞くなんて、カオルにはまったく理解できない。どうでもいいことを話すくらいだったら、ただ隣で美味しそうに食べたり飲んだりしているほうが、よっぽど親しみが湧いてくるのに。

 カオルが質問に答えると、また彼は黙ってパスタをくるくるし始めてしまった。

 ……よく考えてみると、これはなかなか信じられない光景だと思う。これまで何人かとお付き合いした経験があって、友達だってカオルの何倍もいるはずのジュンヤが、紅林を相手にするとろくに話せなくなってしまうなんて。そういえば、芹沢さんが相手のときも似たような感じになっていた気がする。

 ひょっとすると、これは恋の緊張のせいというよりも、二人がまったく別の世界の言葉で話しているからなのかもしれない。ある地域ではみんなが話しているような言葉でも、別の土地ではぜんぜん通じないことがあるように、ジュンヤが多くの友達と交わしてきた言葉は、カオルや芹沢さんと話すうえではほとんど役に立たないんだと思う。

 ……つまり、そう。なにもわざわざ拒絶なんかしなくたって、はじめからジュンヤとカオルのあいだで会話なんて成り立つはずがなかった。だってもともと、二人をつなぐ話題なんてもう過去の思い出くらいしか残ってないんだから。

 カオルがショートケーキを半分ほど食べたところで、コッ、コッ、とフォークで何かを押し切るような音がジュンヤの方から聞こえてくる。これはたぶん今川焼きを割っている音だ。でも、デザートに取り掛かるにはちょっと早い気がする。まさか、急いで食べ終わって退席のタイミングを合わせてくるつもりなのでは……?

 カオルはそう思って顔を上げた途端、あやうく吹き出してしまいそうになる。やっぱり彼のトレーにはきれいに四等分された今川焼きしか残っていなかったけれど、問題はそこじゃなかった。いまジュンヤの口元にはナポリタンのケチャップがべたっとついている。本人は気づいていないみたいだけれど、どうしてこうなったんですか、と尋ねたくなる壮絶さだ。

 さて、この状況で自分にはいったいなにができるのでしょう? ふつうに指摘すれば、彼はたぶん恥ずかしさのあまり人前でナポリタンを口にすることは当分できなくなる。最後に笑顔で「かわいらしいですよ」とかなんとかつけ足せば精神的ダメージは抑えられるだろうけど、紅林さんの好感度が変に上がってしまう危険もある。どちらにしても問題は避けられないというのなら、ここは触らぬ神に祟りなし。食後に拭いてくれるのを期待して、黙ったままやりすごすとしよう。

 ジュンヤに視線を悟られてもいけないので、あえて口元から目を逸らすと、レジを通って出てきたばかりの男女数名がこっちを見ているのがわかった。しかもジュンヤを指さして何か言っている。あれ鈴木さんじゃない? そうだよきっと。——本人には聞こえていないみたいだけれど、もしかしたら後輩なのかもしれない。そのままこっちへ歩いてくる。

 そこでカオルは気づいてしまった。これはかなりまずい展開なんだと。

 後輩たちの声にジュンヤが振り向けば、いや振り向かなくても横にまわり込まれたりすれば、あの凄惨なケチャップ被害が明らかになってしまう。あんな、あどけない口元を後輩たちに目撃されて、しかも気になってる女の子に見て見ぬふりをしてもらってたことが発覚してしまったら、とてもじゃないけど面目なんて保てない。

 なんとか、なんとかしてやりたいけれど、彼が「ケチャップついてますよ」を適切に理解して対処を完了するまでの時間はたぶん残されていない。無邪気な後輩たちは今にも先輩の名前を口にしようとしている。こうなったらもう、できることは一つだけだ。

 カオルはティッシュを一枚すばやく引き抜くと、

「失礼します!」

「鈴木さーん?」

 振り向く刹那、彼の口元を目にもとまらぬ速さでサッと拭った。

「…………‼」

 ジュンヤは首を中途半端な角度にまわしたまま、気の抜けたような、ちょっと間抜けな顔でカオルを見つめていた。それはおそらく生まれて初めて目にする、人がなにかに根こそぎ心を奪われてしまった瞬間の表情だった。

 ——許してください神様ああぁぁぁ‼

 カオルは残ったショートケーキのかけらを急いで口のなかに放り込むと、バッグとトレーを抱えて一目散に逃げだした。


***


 食堂を出たカオルは坂道をとぼとぼ歩きながら、いましがた起きてしまった出来事について考えていた。どれだけあの場面を思い返してみても、あれが最善の選択だったとは言えないような気がする。だいたい、恋人でもなんでもない女性に口を拭かれたうえに逃げられてしまったジュンヤが、あの後輩たちにどう見えたのかさっぱりわからない。

 あの行動が、彼やマナちゃんの今後に悪い影響をもたらすことだけはなんとしても避けたいところだけれど、でもいったいどうすれば……。

 まずは悩むための元気が欲しい。カオルは人文棟に到着すると、自販機で売っているレモンスカッシュを一杯飲んでから階段を上った。

「失礼しま——あれ?」

 研究室の扉は開いていたから、てっきり中にはいつものように芹沢さんが座しておられるかと思っていたのに、先生含むだれの姿も一切見当たらなかった。

 開けっ放しアンド電気点けっぱなしじゃなきゃいいけれど、と思ったそのとき、ごっ、という鈍い音が机の下から響く。

「いったぁー‼」

 という叫びとともにマナちゃんがひょっこり頭を出した。まず真っ先に心の中で「ごめんなさい」を言っておく。

「大丈夫? っていうか、なんで隠れてたの?」

「いや隠れてないから。落ちたペン取ろうとしただけだから」

 そう言って彼女は頭をさする。

「ってか、そっちこそなぜに紅林?」

「あ……!」

 マナちゃんに言われて初めて気づく。さっきのことで頭がいっぱいで、白崎になるのをすっかり忘れていた。

「ご、ごめん。うっかりしてた。今ここでチェンジしていい? 脱ぐのもパーカーだけだし……」

「いいよ。わたし誰か入ってこないか見張っとくから」

 マナちゃんは扉の前に立つと脚を肩幅に開いて腕を組んだ。……窓のないドアを内側から睨んでもあまり意味がないのでは?

 カオルは目を閉じてから、ほんの一呼吸ほどのあいだで変化を終えた。今日はちょっとだけ調子がいい。

「そういえば、マナちゃんさん今回は追加の資料つかわないんですか?」

 発表の際に使う補助資料は前日までにメールで共有することになっている。今回は複雑な内容なだけに少し心配に思っていた。

「え? 使うけど、まさか届いてない?」

 マナちゃんが振り返る。

「昨日おそくに送ったはずなんだけど」

「ああ、もしかしたら通知見逃してたかも。いま確認しますね」

 カオルはスマホを開いた。パスコードを入力する音がカカカ……と鳴る。

「え、ちょっと待って。いま何桁だった?」

「八桁」

「長い!」

 でも重要な個人情報が入ってるから仕方がない。

「そんなのよく覚えられるね」

「大丈夫。生年月日だから簡単」

 と、つい言ってしまう。

「いや、それダメでしょ。セキュリティ的にアウトっしょ」

「あ、でも……」カオルは少しためらいながら言った。「自分自身のじゃないから」

「じゃあ誰の?」

「……このスマホ買ったとき好きだった人の」

 マナちゃんはまた若干ヤバいものを見るような目をカオルに向けてくる。

「つまりそれってさ、スマホ開くたびに毎回、毎ッ回むかし好きだったヤツのこと思い出さなきゃなんないんでしょ? わたしゼッタイ耐えられないんだけど」

 マナちゃんはとても苦々しくそう言った。いつもハードボイルドな彼女にも振り払えない過去があるのかもしれない。

「いや……そんなに思い出しはしないけど、やっぱそう思いますよね。この機会に変えますか」

「そうすることを全力でおススメします」

 思い立ったが吉日。さっそくパスコードを再設定する。とりあえず芹沢さんの誕生日にしておこう。

「でも……そのときの気持ちも消えて、記憶も少しずつ薄れていって、ただキーをたどる指の動きだけが残る……っていうのも、それはそれでなんかいいと思いません?」

「うむ。わからん」

 マナちゃんは大きく左右に首を振った。

「そんなのぜんぶ削除だよ削除」

「マナちゃんさんは上書き派ですか……」

「ああ、それってあれのこと?」マナちゃんが言った。「過去の恋愛。男の人はフォルダ別保存で昔の相手を定期的に思い出すけど、女の人は上書き保存だからぜんぶ隠れちゃうっていう。それなら確かにわたしは上書き派かなー」

 男女の二項対立で何かを語るような主張は正直言って大嫌いだけど、これに納得する人もわりと多いらしいから、占い程度に考えることにしている。

「カオルはどっち派なわけ?」

 マナちゃんが聞く。思えばそこまで深く考えたことはなかった。

「えーと……レイヤー保存派ですかね?」

 カオルはそう答えてみる。

「過去とか現在とか未来とかの恋が、重なったり、重ならなかったりしながら一枚の絵になってるって感じで」

 言ってから思う。さっきあんなことしておきながらマナちゃんに恋の話ができる自分って、わりとサイコパスだ。

「うむ。わからん」

 彼女はまた大きく首を振った。

「いや、マナちゃんさんはそういう感覚ありませんか? たとえば——」

 カオルが詳しく説明しようとしたそのとき、マナちゃんの背後で音もなくドアが開いた。

「失礼します」

 芹沢さんだった。こんにちは、と二人が言う。

「あれ?」

 先輩はカオルの方を見ると少し目線を下げた。

「そのパーカー、かわいいね? 白崎くん」

「へ?」

 見ると、服装が完全に紅林のままになっている。しまった。話すのに夢中で着替えるのを忘れていた。

「こ、こういうのもありですよね! センパイ!」

 マナちゃんがやけに明るい声で言う。フォローさせてゴメン。

「へんじゃないかなーと思って、いまちょうど中川さんに見てもらってたところなんですよ! す、すぐに着替えますね!」

 カオルは急いでパーカーを脱ぎ、鞄にしまってあった白崎用の上着と交換した。

「えー、私はけっこう似合ってると思うけどな」

 と芹沢さんは微笑む。紅林に合わせて買った服は紅林のときにほめてもらいたかった。

「でも、そのコーディネートだれかに似てるような気がする……だれだろう。紅林さんかな?」

 ——まずい‼

「え、いま、紅林さんって言いました?」

 芹沢さんの向こうから最悪のタイミングでジュンヤがあらわれる。

「ああ、うん。私の友達の紅林カオルさん。鈴木くんも知り合いなの?」

「え? カオル……? あの、背の高い人っすよね」

 隣を向くとマナちゃんと目が合った。責めるような目だった。

「そうそう。白崎くんの服のセンスって、あの子と似てるなーって思って」

「服が……?」

 ジュンヤはカオルの全身をスキャンするように眺めた。

 一見かなりピンチだけれど、会話に集中しながら服装まで覚えることは難しいと心理学の授業で習った。きっと断定はできないはず。

「た、たしかに、わりと近いかもです。……名前もおんなじだし」

「名前が?」

「そう、こいつ下の名前カオルっていうんですよ」

 これまで「カオル」といえば、ジュンヤにとっては白崎のことだったし、芹沢さんにとっては紅林のことだった。だけど今この瞬間、その名は白崎・紅林の両方をさすものとして二人の頭の中に登録されてしまったことになる。

「へえ、そうだったんだ。カオルくん、ね」

 せっかく先輩に呼んでもらえても、さすがにこの状況では喜べない。

「男子女子なのに名前もファッションもおんなじって面白い。あ、もしかして、そのバッグも紅林さんのと一緒じゃない? あと、スニーカーも同じのはいてた気がする」

 ザクザクと急所を突き刺してくる芹沢さん。

「あー、人気のやつなんでわりと被っちゃうんですよねー」

「だよねー、けっこう見かけるよねー」

 カオルとマナちゃんは二人がかりで抵抗を試みる。

「あのカーキのパーカーも、紅林さんがよく着てるのじゃないかな?」

「カーキって、茶色系のあれっすよね。……それ今日着てたな」

 ジュンヤは強い不信のこもった視線をカオルに向けた。

「え、もしかしてそれ——」

 はっとした表情で芹沢さんが囁く。

「——ペアルック、なの?」

 なぜか、答えが出てしまいましたね、という空気が沈黙とともに部屋中に広がった。

「……うーん」芹沢さんは顎に手を当てて首を傾げた。「確かに、同じ名前の恋人がいたらペアルックにしたくなるのも分かる気はするけど……」

 ——え、わかっちゃうんですか先輩。

「お前、まさか紅林さんと——」

 ジュンヤは絶望に満ちた目をカオルに向ける。彼にとってはペアルックと真実、いったいどっちの絶望の方がマシなんだろうか。

「あ、あの、これはですね——」

 困ったカオルは思わずマナちゃんの方を見る。けれど、彼女は俯いていてここからは表情を伺うこともできない。

 どうしよう。なにか言い訳しようにも、これ以上の説得力(?)がないと、むしろあらぬ疑いをかけられてしまうような気がする。この説で確定してしまうと、紅林も白崎も芹沢さんの恋愛対象からはずされてしまうかもしれないし、当然ジュンヤとの関係も悪化するはず。そんなことはなんとしても防がなきゃいけないのに……。

 カオルの頭がついにパンクしはじめたとき、

「違います!」

 と大きな声が轟いた。マナちゃんの声だった。

「これはペアルックなんかじゃありません——」

 彼女はナイフのような鋭い目で告げる。

「——ペアルック同好会です!」

 その言葉の響きはマナちゃんの発する独特の覇気とともに部屋中を満たした。

「ペアルック……」

「……同好会?」

 突然あらわれた謎の概念に芹沢さんとジュンヤ、そしてもちろんカオルも揃ってうろたえていると、マナちゃんは深く息を吸って再び口を開いた。

「二人が知らないのも無理はないと思います。ペアルック同好会は完全紹介制の非公認サークル。SNSやポスターでの情報発信も一切やってないので」

「お、おい……中川。お前いったいなに言って——」

「同好会のメンバーには」マナちゃんは続ける。「着ていく服装を指示するメールが毎朝とどきます。そしてこのコーディネートは必ず他のメンバー一人と被るようになっていて、学内で日常生活をおくりながら、ペアルックの相手を探すんです。みごと見つけて一緒に写真を撮ったら一ポイント。その合計点を競い合うのが同好会の主な活動です」

 淡々と語る彼女の瞳には、ただ狂気の色だけが浮かんでいた。

「メンバーには当然、コーディネートを自分で選ぶ自由はありません。それでもなお、だれかと同じ服を着ることで、自分はひとりじゃないんだと思いたい……そういう寂しい大学生のためのささやかな遊びなんです。だからどうか、見逃してやってください……!」

 長い偽証を終えると、マナちゃんは体を直角にまげて頭を下げる。空気を切る音がビュウンと鳴った。

 他人にすぎないはずのカオルを、彼女はこんなにも必死で守ろうとしてくれているんだ——そう思うと涙がこぼれてしまいそうになる。孫よ、良い友達を持ったな、と朗らかに微笑むおじいちゃんの顔。

「……知らなかった」芹沢さんが呟く。「どこの大学にもなにかしら変なサークルはあるっていうけれど、うちにそこまで異端な同好会があったなんて……」

 マナちゃんはくるりとカオルの方を向く。二人は黙って頷き合った。

「な、なぁ、白崎……」

 言いながらジュンヤがこっちへ歩み寄ってくる。

「その同好会、できればオレも招待してくれないか?」

「い、いや、そう言われても——」

 カオルが後ずさりながら椅子を引こうとすると、立てかけてあったバッグが倒れて中の書類が床にすべり出てしまった。

「だ、大丈夫か?」

 駆け寄ってきたジュンヤがプリントを拾いはじめる。

「いいよ。自分でやるから」

 カオルがとめようとした瞬間、彼は手にした一枚の書類に目を留める。

「……白崎、その同好会って、カバンの中身までペアにするのか?」

 そう言ってジュンヤが渡してきたのは、今日返却されたばかりの小テストだった。名前の欄にはしっかり「紅林カオル」と書かれている。

「あ、こ、これはね——」

「マナちゃん」

 それでも庇おうとしてくれる友人を、カオルは声で制した。

「たぶんもう潮時なんだと思う」

「カオル……」

 なにか重大なことが起こると察したのか、芹沢さんとジュンヤの表情が少しだけ険しくなる。

「二人とも、よく見ていてくださいね……」

 カオルは目をつむって意識を集中させる。こんなに大勢の見ている前で姿を変えるのは初めてなのに、不思議とそこまで緊張はしなかった。熱く溶けた金属が鋳型の中で新たなかたちを得るように、身体はもう一つの姿へと生まれ変わっていく。

 ——瞼をひらくと、三人がいた。手で口を覆ってしまった芹沢さん。瞬きもせず立ち尽くすジュンヤ。神妙な面持ちで腕を組むマナちゃん。

 身を隠すための殻をはぎ取られてしまったカオルには、これから下される判決をただ受け容れる以外に道はない。

 沈黙を続ける芹沢さんとジュンヤに、カオルは深々と頭を下げた。

「……黙っていて申し訳ありません。でも、どうか、わたしのことは先生や他の方には秘密にしておいていただけるとありがたいです」

 言葉はすべて、この静止画のような光景に吸い込まれてしまう。

「きょうのゼミは、おやすみさせていただきます。……失礼しました」

 鞄を持ち、残った書類を片手でつかむと、カオルは皆の背後を抜けて研究室をあとにする。廊下で堤先生とすれちがったけれど、白崎しか知らない先生は特別反応もしなかった。

 一階に下りて文学棟を出ると、空は一面厚い雲におおわれていた。カオルはさっき見た三人の表情を頭の中で反芻しながら山を下りていく。昼間コース最後の授業がとっくに終わってしまったキャンパスには、人類が滅亡したのかと思うほど誰の姿も見当たらない。

 追いかけてくる足音に気づいたのは、図書館裏の階段にさしかかったところだった。

「待ってくれよ白崎!」

 振り返ると、ジュンヤが坂道をこっちへ走ってくる。彼はすぐに追いつくと、ほとんど息も乱さずに話し始めた。

「オレ、まだ混乱してて、お前に何が起こってんのか、たぶんまだよくわかってないと思う。

 そんなの、この身体に十年振り回されてるカオルにだってわからない。

「さっき中川がいろいろ教えてくれたけど、オレは直接お前の口から聞きたい」

 そう言ってくれる友人に、カオルはただ、

「悪いけど、今は話す気になれない」

 とだけ返した。説明すべきことはたくさんあるはずなのに、なにをどこから話せばいいのか考える気力がもうすでに尽き果てていた。

「じゃあ確認だけさせてくれよ」

 ジュンヤが言った。

「ミカンのときの紅林さんも、きょう学食で会った紅林さんも、ぜんぶ白崎だったんだよな」

「うん」

「逆に、オレと中学のときから一緒で、いま同じゼミにいる白崎は、ずっと紅林さんだったってことだろ?」

「そういうことになるね」

 彼は何度も頷きながら、

「そっか。そうなんだよな……」

 と少しずつ状況を飲み込もうとしているみたいだった。

「いや、そのこと、まだいろいろ納得できてないけど、これだけは先に言わせてほしい」

 そう言って、ジュンヤはカオルを正面から見据える。

「オレはこれからも、できれば白崎とは友達でいたいと思ってる。……でも、紅林さんのことが好きなのもホントだし、どっちも嘘なんかじゃないからな」

 これを伝えるために、ジュンヤはここまで駆けてきたんだと思った。そういうところは昔から、彼の尊敬すべき面でありつづけている。

「じゃあ、わたしからも少しだけ」

 カオルはもう、今日はほとんど話さないつもりでいたけれど、ジュンヤがそのことに触れた以上、口を閉ざしているわけにはいかなかった。

「まず、ありがとう。……でも言っとくけど、紅林さんのむこうに白崎はいても、白崎のむこうに紅林さんはいないからね」

 カオルはにらむように彼を見つめ返す。

「今も昔も、わたしはわたしでしかないってこと。それだけは覚えといてほしい」

 告げるべきことを告げると、カオルは再びジュンヤに背を向けて歩き出した。

「あ、ま、待てよ」彼は呼び止めて言う。「これからお前のこと……カオルって呼んでもいいか?」

 踏み出した足を止めてもう一度だけ振り返る。

「お好きにどうぞ」

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