第2話
カオルたちの通うキャンパスはなぜか山の斜面に建っている。——本当に山の斜面に建っている。その勾配はなかなかに急で、ある建物の五階が別の建物の一階と渡り廊下でつながっているほどだ。そんな棚田のようなキャンパスを毎日のように上り下りしなければならない学生たちは卒業するまでに否応なく足腰を鍛えられてしまう運命にある。
気温の変化が著しい五月らしく、先週までと打ってかわって今朝はずいぶんと暖かい。おかげで共通D棟にたどり着くまでに体に熱がこもってしまったので、水筒のスポーツドリンクを飲んで少し冷ましてから教室に向かった。
幅の狭い階段をゆっくり上り、厚いガラスのはめ込まれた扉を押し開けると、講義室はまだ人もまばらでしんと静まり返っていた。カオルはまず、いつも決まって座る最前列の席に目を向ける。すると、もしかして……と期待していた通り、隣には芹沢さんの姿があった。その視線を察知したかのように先輩はこっちを振り返ると、穏やかな笑顔で手を振ってくれる。カオルは手を振り返し、いつもの特等席へ向かって階段状の講義室を軽やかに下っていった。
当時一年生だったカオルが芹沢さんと出会ったのはこの教室——ではなく、ひとつ上の階にある全く同じ間取りの部屋だった。哲学の授業だったけれど、理系のためのおためし文系科目、といった感じの位置づけで、来ている面々はみな、普段は数式や化学式をノートに写す毎日を送っているような人たちだった。
カオルにはこのときすでに、どんな授業でも空いていれば一番前かつ真ん中の席に座るという習慣ができていた。板書はよく見えるし、先生の声は聞こえやすいし、なにより他の学生がほとんど視界に入らなくてすむ。だからいつも隣の席に座るあのきれいな人も、きっと似たような考えの持ち主なんだろうと思っていた。
けれど、彼女と会話する機会なんてほとんどなくて、配布されたプリントを渡してもらって「あ、どうも」と会釈するくらいが関の山だった。いつも澄んだ冷気のようなものに包まれているあの人が、普段いったいなにを考えて過ごしているのか、話せたらきっと面白いのにな——そう思っていたある日のこと、
「ねえ、あなた紅林さん……だよね?」
と向こうから急に話しかけてきた。あれがたぶん、はじめて彼女の声を聞いた瞬間だったと思う。想像していたよりもずっと低くて、深い声だった。
「は、はい。間違いございません……!」
緊張で固まってしまったカオルに、彼女はそっと微笑みかける。
「昨日のキャリアデザインの授業、見てたよ」
え、あの授業でいったいなにやっちゃったんだっけ……と検索モードに入るカオルをよそに彼女は続ける。
「あなたの一生を一日にたとえるなら、今はいったい何時ですか——って先生に聞かれたでしょ? あのとき、当てられた人たちの時計はとっても進んでて、十一時や、十四時、十七時っていう人もいたかな。……でもあなただけは一人、〝まだ夜明け前です〟って答えた」
——そうだった。カオルは思い出してなんだか恥ずかしくなってしまったけれど、彼女の笑みは決してそれを嘲るようなものではなかった。
「私あのときね、よくぞ言ってくれましたって思ったよ。もちろん人間いつ死ぬかわからないけれど、医療技術の進歩とかで仮に一〇〇年生きられるとして、今までの二〇年なんてその僅か五分の一。これを一日に換算すると二四時間÷五で四時四八分だからつまり——」
「——ほんとに夜明け前ですね」
「そう! そういうこと!」
彼女は満足そうにポンと手をたたいた。
「私もあなたと同じことずーっと考えてた。まだなんにも始まっちゃいないってね」
「は、はい……」
予想外にはつらつと喋る彼女の勢いに圧倒されていたカオルにはその程度の微妙な反応しかできなかった。
「ちなみに私は芹沢誠。数学科の三年。これからどうぞよろしくね」
そう言って彼女は手を差し出した。少しだけ間があって、握手を求められているんだと気づく。
「わ、わたしは生物科一年の……紅林カオルです。こちらこそ、よろしくおねがいしまふ!」
猛烈に噛んだ。が、そんなこと芹沢さんは気にも留めない。恐るおそる握った彼女の手は、思ったよりもずっと温かかった。
こうして初めて言葉を交わしたカオルと芹沢さんは、それまでの無言の付き合いから一転、顔を合わせる度にいろいろと話すようになった。二人はとても気が合っているみたいで、興味や関心の向く先もだいたいが一致しているらしかった。まあ、大学生、理系、哲学、最前列、そして最後に「夜明け前」と、幾重にもフィルタリングされた上で出会ったわけだし、当然っちゃ当然かもしれないけれど。
いつから芹沢さんを好きになったのかはよくわからない。でも、ぐっときた言葉が一つある。それは先輩がなぜ数学科を選んだのかと聞いたとき返ってきた答えだった。
「数学はね、科学のように自然を観察する必要がないし、文学みたいに他人の思想に耳を傾けなくてもいい。全てが自分の頭の中で始まって、終わる。まさに自己完結した学問なんだよ。……私はそういうものこそ本当に美しいと思ってる」
これになぜぐっときたのか、マナちゃんやジュンヤに話してもきっと理解してはもらえないと思う。でもカオルには芹沢さんの言う「美しさ」がよくわかった。そしていつの間にか、そんなあなたも美しいですよ、と言いたくて言いたくてしかたがない、甘ったるい気持ちに、すっかり囚われてしまっていたのだった。
カオルが好きな講義を取って教室に足を運ぶと、いつも隣に芹沢さんがいる。今回もシラバスに書かれた「敗者の日本文学」というフレーズに誘われて、相談したわけでもないのに二人は自然と出会っていた。こういうのを運命っていうのかもしれないなぁ……なんて考えながらぼんやり講義を聞いていると、先生の話している内容がまったく耳に入らなくなってくるので、すっと背筋を伸ばして意識を集中させる。講義形式の授業では気が抜けない。特に先輩の隣では。
「まさか半年間ずっと鴨長明とはね……」
九十分の講義が終わって学生たちが席を立ち始めると、まず芹沢さんはそう言った。
「てっきり第二次世界大戦以降の話かと思ってた」
「ちょっと意外でしたね」
芹沢さんは席から身を乗り出して教卓にコメントペーパーを提出すると、
「私はこの講義、受けてみようと思うけど、紅林さんはどうする?」
とカオルにたずねた。授業の開始から一週間は履修登録の取り消しができて、自分の実力ではムリそうだな、向いてなさそうだな、と感じた科目はキャンセルする自由が与えられている。カオルも何度か生物科の専門科目で利用したことがあった。
「ええっと……。一応、受けてみようかと思います。レポート上手くできる自信ないですけど」
「それならよかった」
先輩は重たそうなリュックを肩でぐいっと持ち上げると、
「私ね、いつも紅林さんが同じ講義とってると、ああ、正解だったな、って思うんだよ」
と言って笑う。
「か、買いかぶり過ぎですって……」
照れを隠そうとしてつい声が小さくなってしまい、それが恥ずかしくてさらに照れるという負の連鎖。
「いや、なんていうか、炭鉱のカナリアみたいな感じかな。ちょっと違和感あるとすぐ、これじゃない、ってなるでしょ?」
……そう言われると喜んでいいことなのかよくわからない。
「ああ、もちろんいい意味でね」
いい意味らしい。
「でも、先輩は理系科目のほうが問題なんでしたよね? 留年してるのもそれが原因だったような……」
「うっ……。そこを突かれるとイタい……」
そう。当たり前のことだけれど、理学部の学生は理科や数学の授業をある程度とることが卒業要件になっていて、もうとっくに自由単位があふれてしまっている二人にとっては文系の単位がとれても、とれなくても、成績の平均値が多少上下するくらいで大した影響はない。理系科目から逃げ続けてきた先輩も、今年こそは年貢の納め時のはずだ。
「はぐれ理学部生どうし、おたがい頑張りましょう!」
カオルはそう言うことで、先に教室を出るよう芹沢さんに促した。それが伝わったのか、
「うん。がんばろうね!」
と言って手を振りながら、先輩は他の学生たちに続いて教卓右奥の扉をくぐっていった。
——さて、と。
芹沢さんが視界の外に消えたのを確認すると、カオルは机の下から白紙のコメントペーパーを取り出して記入をはじめる。本日のテーマはこれからの学習への「意気込み」だった。いや、意気込みっていわれてもな……と思いながらも、なんとかいい感じの言葉を絞り出していく。
先輩を含めた大半の生徒はけっこう器用らしく、講義の間にコメントペーパーを書き進めてほとんど終了と同時に提出してしまうけれど、聞きながら書く、という作業にカオルはなかなか慣れることができない。きょうは授業の感想とか、ちょっとでもいいから先輩と話したかったし、かといって待ってもらうようなこともしたくなかったから、まるでとっくに書き終えていて、あとは提出するだけ——みたいなフリをしてしまった。
まあどうせ、自分が残って書くことになるだけだし、多少後回しにしてもべつに問題はない。そう考えてはいたけれど、いまさら疑念がわいてきてしまう。もしも、こんな自分に芹沢さんが気づいたらなんて思うんだろう、と。
私とほんの少し話したいがために、ひとり講義室に残る紅林さん——そんなふうに見えるんだとしたら、これはかなり、苦しい。
もっと余裕をもって、もっとカッコよく、もっと対等なかたちで付き合いたいのに、どうしてこう、うまくいかないんだろう。そんな雑念を振り払いながら課題の内容を考えていると、なかなかペンが進まなかった。
——よし、できた。
後ろを振り返ると本当にだれもいなくなっていた。しかたがない、というよりもむしろ清々しいような気にさえなりながら、カオルはようやく腰を上げてコメントペーパーを教卓の上に置く。
そのとき、教室の左奥のほうでギッという音がして目を向けると、さっきまで講義をしていた六十代くらいの非常勤講師の女性が折りたたみ椅子から立ち上がるところだった。自分のために待ってくれている人がいたことに、カオルはそこで初めて気づいた。
「……本当にすみません」
その一言にすべてを込めてカオルが謝罪すると、先生は朗らかな笑みを浮かべて、
「いいえ。お友達と話したかったんでしょ?」
と言った。最前列の代償はこうして不意に払わされる。
「え、ええ……」
——というよりもまあ、フツーに恋してるんですけどね。
カオルはそう心の中でひとりごちた。
運動部顔負けの深いお辞儀で先生をお見送りしたところで、カオルはやっと筆記用具を片付け始める。と、そこで、芹沢さんが座っていた席の下に今回配られたプリントが一枚落ちているのを見つける。これはきっと先輩の忘れ物だ。そう考えたカオルは次に会う日を楽しみにイメージしながら、自分のファイルにしっかりとそれを挟んで鞄にしまった。
きょうの授業はこれで最後なので、二時間後のバイトに備えてとりあえず白崎になっておくことにする。窓からも扉の向こうからも死角になっている部屋の隅に立って姿を変えると、カオルは目立ちやすい上着だけ着替えて教室をあとにした。
一階に下りてD棟を出ようとすると、ちょうど誰かが入ってくるところだったのでカオルは脇によける。
「あれ? 白崎くん?」
扉の向こうから現れたのは、なんと芹沢さんだった。
「あー、どうも。こんにちは」
白崎は前回のゼミから先輩とは会っていない。ということになっている。
「どうしたの? こんなところで」
「い、いえ……。先輩こそ何のご用事で?」
「うん。ちょっと忘れ物したみたいだから、確認にね」
あ、それなら——と言ってカオルはさっき拾ったプリントを取り出して見せる。
「いま学務係にとどけるところだったんですが、もしかして、これのことでしょうか?」
「かもしれない! どこにあったの?」
「二階の講義室の……たしか一番前の列、真ん中の机の右側に落ちていたはず、です」
「ああ、ならたぶん私のだ! どうもありがとうね」
芹沢さんはプリントを受け取って全体を一通りチェックすると、背中のリュックを前に回して「よいしょっ」と腕で抱え込んだ。
よし。これでまた白崎の株が上がったな。とカオルが内心浮かれていると、
「白崎くんはあの教室に何の用事があったの?」
先輩がプリントをしまいながらそう尋ねた。
「え、ええっとですね……」
と言いながらカオルは頭をフル回転させて適当な設定を考える。次の授業があって……といってもこのあとは夜間コースしかない。あまり複雑な状況にしても説得力に欠けてしまうし、聡明な先輩には目の動きとか頬の筋肉の振動とかで嘘だと見抜かれてしまうかもしれない。となると——。
「実は、僕も先輩と同じ授業に出てたんですよ!」
真実の中にひとつまみの嘘を混ぜる——というのがバレない秘訣だと誰かが言っていた。
「そうだったの? ぜんぜん気づかなかった……」
「でも、履修は取り消そうかと思ってます。鴨長明、そこまで興味持てないので……」
「あ、そう。残念」
と言いつつ先輩はそこまで残念そうに見えない。白崎への接し方は紅林にくらべるとけっこう淡泊な気がする。中身おんなじなのに。
「それでは、その……お疲れ様です」
「うん。お疲れさま」
これ以上この話題を長引かせると危険な気がしたので、カオルはリュックを背負い直す芹沢さんの脇を抜けてそそくさと退散する。と、そのとき、
「あ、待って」
先輩が背後から呼び止めた。
「プリントが落ちてた席のとなりに、女の子が座ってなかった? 背の高い子なんだけど」
紅林のことだ。
「え、あー、僕が最後だったので、拾ったときは他に誰も残ってませんでしたが……」
「そっか。ならよかった」
「……その人がどうかしたんですか?」
カオルは聞かずにいられなかった。芹沢さんは一瞬だけためらいを見せたあと、
「いや、その子ね」と語りだした。「きょうコメントペーパー書いてなかったような気がするんだよ。どこか要領わるいところある子でさ、もしかしたら後で忘れてたのに気がついて、今頃ひとり残って必死で書いてるんじゃないかって、さっきからずっと気になってたんだよね」
芹沢さんはどこか遠くを見て微笑んだ。
「だからプリント探すついでに行ってみて、いたら本でも読みながら待っててあげようと思ってたんだけど、まあ、杞憂ってやつだったかな」
カオルは感情がこぼれてしまわないように俯くと、
「……もしかすると、その人、完全に忘れて帰っちゃったかもしれませんよ」
と言った。
「あ、それあるかも」
「欠席扱いになっちゃいますね」
「あと四回でアウトかぁ。カワイソウに……」
——大丈夫ですよ、先輩。自分はあなたが思っているよりも、ほんのちょっとだけしたたかですから。
D棟を出ると、もうすっかり日が傾いて空はオレンジ色に染まっていた。二人は話しながら食堂のところまで一緒に坂を下りていく。
「先輩は今回の意気込み、どんなこと書いたんですか?」
「えー。なら白崎くんのも教えてよ」
——あ、まずい。墓穴掘った。
***
バイトを終えてコンビニを出ると雨がしとしと降りはじめていた。鞄の底から探し出した折り畳み傘を頭の上でぱっと開くと、まっくらな夜がさらにまっくらになる。濡れたアスファルトを踏みしめて歩きながら、カオルは一つ大きなため息をついた。
ちょうど春休みが終わる頃にバイトを始めてからまだ一カ月くらいしかたっていないのに、もうさっそく気が進まなくなってきている。われながら誇らしいほどの根気のなさだけれど、原因はとてもはっきりしていた。バイトリーダーの坂本さん——あの人がどうしても苦手だ。
細身だけど筋肉質で、切れ長の目をした坂本さんは、カオルより二つ年上の男子大学生だ。彼の仕事はだれよりも迅速かつ正確で、バイトリーダーに選ばれたのもそういうところが評価されているからなんだと思う。
だけど彼の一番の特技は、なんといってもサボること。お店にお客さんがいないスキを狙っては、平気でスマホを開いたりおしゃべりをはじめたりする。むしろ彼の店員力はそういう時間を増やすためだけに磨かれてきたんじゃないかと疑いたくなるくらいだ。
ただ、カオルはそういうことそのものが許せないというわけでもない。いや、もちろん感心はしないけれど、それでお店やお客さんが困らなければいいんじゃないかというのが本音だったりする。問題はもっと個人的なところにあった。
たとえば今日、坂本さんは「ミオちゃん」と呼ばれているバイトの女の子とずーっと喋っていた。よくもまあ、あんな無内容な会話をペラペラぺらぺら続けられると思う。……これはべつに完全な皮肉で言ってるわけではなくて、言葉のラリーがすぐに途切れてしまうことは昔からカオルにとって切実な悩みだった。この人たちが持っているような何らかのスキルがあれば自分も雑談マスターになれるんだろうか——存在感を消してそんなことを考えながら、二人が話すのを頭の半分で聞いていると、いつの間にか話題が未成年には聞かせちゃいけないような内容に移っていた。
「ウチの彼氏ってぇ、するときいつも首絞めてくるんですよぉ」
ミオちゃんがいつものように語尾を伸ばしながら言った。
「そういうのおかしくない? ってよく言ってるんですけどぉ、なんかそういうの好きらしくてぇ」
よい子は真似しちゃいけないプレイのような気がするけれど、おかしいと言っているわりにミオちゃんは嬉しそうに話していた。世の中にはいろんな趣味の人がいるんだなぁ、とつくづく思う。
「ああ、それな。俺もたまにふざけてやるかも」
と坂本さんが言った。
「えぇー。ホントですかぁ」
ここでやっと会話が途切れたと思ったカオルは、
「あの!」
と素早く切り込むように言った。二人の頭がくるりとこっちを向く。だけど回転するその僅かな間に、それぞれの顔からは薄ら笑いが消えて「……何か?」と言いたげな微妙な表情に変わっていた。
「——品出しの方、やっちゃってもいい、ですかね?」
坂本さんはいかにもつまらなそうに、
「ああ、うん。いいよ」
と頷く。しらけちゃったね、というような目配せをしてから二人は業務に戻っていった。
自分が悪者みたいに感じるこういう瞬間が、カオルは本当に大っ嫌いだ。まだ入ったばかりで先輩に聞きたいことがたくさんあるのに、話しかけるたびにこういう反応をされると不満がフツフツわいてくる。そもそもの勤務態度を報告するような気はまだないけれど、いつか本社の方にバレて叱られるのがいいと思う。
細かいルールも丁寧な接客も仕事としてはけっこう好きだし、やめてしまおうとは思わないけれど、なにかいい解決策があればな——横断歩道の前で立ち止まりつつそう考えていると、いつの間にか頭の中は坂本さんへの文句でいっぱいになっていく。
……だいたい、あの人は男性ばかり邪魔者あつかいしていると思う。ミオちゃんたちにはいつもあんなに優しくするくせに。といってもまあ、そこにはどうせ下心しかないんだろうけど。だってこのまえ紅林で会ったときなんか——と嫌な記憶を思い出してしまいそうになった瞬間、上着のポケットの中でスマホが鳴った。
画面を見ると「鈴木純也」と出ている。マナちゃんにバレた反省から、白崎でいるとき紅林の通知が来ないように設定しているので、そのまま出ても大丈夫。カオルは道の脇によけるとスマホを耳にあてた。
『もしもし、白崎か?』
「たぶんね」
とカオルは答える。
「なんのご用ですか?」
『あー、ちょっと明日のゼミで発表するところで聞きたいことあるんだけど、いまいいか?』
雨の音はカットされて向こうには届いていないみたいだった。カオルはいったん断って後でかけ直そうと思ったけれど、帰宅するとかえって面倒になる気もしたので、
「うん」
と言ってしまった。
『おう、ありがとな』
「いいえ、お安いご用ですよ」
左手一つに傘とスマホを預けると、カオルは片手で鞄からテキストを取り出してパラパラとページをめくる。
『まず、三二ページの四行目なんだけど、これ翻訳読んでも全然意味わかんなくてさ……』
「ああ、それ誤訳っぽいよ」
『マジか……』
念のために電子書籍で買った日本語訳を隣に並べてみる。
——うん。やっぱり間違ってる。
「この訳者ホントにひどいよね。ここなんか、ちょっと意味考えればすぐに分かるところなのにさ。ちゃんと仕事してよって感じ」
『さ、さすがにそこまで言わなくてもいいだろ……』
彼は気弱そうな声で言った。
「ダメなものはとことんダメって言うのが僕なんだよ。ジュンヤも知ってるでしょ?」
『あのなぁ……。そんなんだからいつもお前は——』
そこまで言うとジュンヤは急に押し黙ってしまう。
「なに? 変な気はつかわなくていいよ」
彼はちょっと気まずそうに喉を鳴らすと、
『……それじゃ、次のところなんだけど』
と言って再びテキストにもどってしまった。
カオルはそのあともジュンヤがひっかかった箇所を一緒に考えていった。そのほとんどは彼の勘違いや翻訳のミスだったけれど、カオルにも意味が掴めない部分もいくつかあった。
『白崎、そこはもうやめにしないか? わかった……っていうか、お前にもわかんないくらい難しいってことはよくわかったからさ、オレはもう充分だよ。付き合わせて悪かった』
とっくにテキストとの戦いから置いていかれていたジュンヤがついにしびれを切らす。
「いや、せっかくここまできたんだからさ、もう少しだけ考えてみよう?」
『で、でも……明日ゼミで質問すればいいだろ? 先生ならたぶん答えてくれるし』
「自分から聞いといて先に放り出しちゃだめだよ。ジュンヤには粘り強さがまったく足りてないね」
『あ、それ——』
ジュンヤが言うのと同時にカオルも「あ……!」と思った。
『——めっちゃ懐かしいな!』
電話の向こうで彼が笑うのが分かった。カオルもつい頬が緩んでしまう。
「中学の頃だったよね。いつもジュンヤが数学を聞いてきて、問題が難しいといつの間にか僕の方が本気になってる」
『で、オレが諦めるといつもお前が言うんだよな。粘り強さが足りない! ——って』
カオルは八年前に突然タイムスリップしたような心地になっていた。机を二つくっつけて勉強したあの教室を、ジュンヤもきっといま思い浮かべている。
『数学なんとかなったのはホントお前のおかげだな』
「僕も泳ぎかた教えてもらったし、おたがい様だよ」
平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ……中学に上がったころのカオルにはどれもできなかったけれど、ジュンヤが根気強く教えてくれたおかげで少しはマシになったのだった。
『誰かさんはすぐ音を上げてたけどな』
「しかたないよ。わからないものはわからないもん」
『それお前が言うなって』
二人はもう一度小さく笑った。電話じゃなかったら照れくさくて目も合わせられなかったと思う。
今よりもっと幼くて、なんにも知らなかったあの頃。たった八年しかたっていないのに太古の昔みたいに思えるのは、たぶんいろんなことがすっかり変わってしまったからだ。まだ「夜明け前」なのにこんな調子だと、いつか懐かしさで窒息してしまうかもしれない。
「……っと、思い出に浸ってるところわるいですが、さっきの部分わかった気がする」
『まだ考えてたのかよ……』
とジュンヤが呆れて言う。
「それじゃ説明するから、よく聞いててよ?」
カオルはそれから問題の箇所について、自分の解釈をできるだけ丁寧に話した。ちゃんと伝わっているか心配で同じところを二、三周したけれど、途中からジュンヤの相槌が消えてしまったので、たぶんわかってないと思う。
『な、なんとなーく理解できたような気がする。ありがとな、白崎』
「それなら良かった」
普段ならもっとしつこく確認するところだけれど、きょうは勘弁してあげることにする。ようやくテキストをしまって顔を上げると、もう雨はほとんど降っていないみたいだった。
「じゃ、明日の発表、ご武運を祈っております」
『あ、いや、ちょっと待ってくれるか』
と言ってジュンヤが引き留めた。
『実は……もう一つ白崎に話したいことあるんだけど』
「はい。なんでしょう」
これは勉強のことではなさそうだな、と直感的に思った。
『オレ、このあいだミカン狩りみたいなやつに行ってきたんだけど——』
とジュンヤは語り始めた。おそらく非公認サークル「フルーツ☆ばすけっと」の活動の一環として、みかん農家さんのお手伝いに行ってきたときのことだと思う。カオルもみかん欲しさにマナちゃんと参加したのでだいたいの様子は知っている。
『——農家の人がさ、樹から落ちちゃってる分は好きなだけ持ってっていいよ、って言ってくれて、オレも収穫しながら探してたんだよ』
けれど、そう簡単に実が落ちては農家さんも商売あがったりなので、なかなか見つかることはない。あっても食べるにはちょっと……というような状態のことも多くて、カオルも一つしかゲットできなかった。
『それで、ようやく見つけたと思ったら、同じミカンにもう一人手を伸ばしてる人がいて、お互いどうぞどうぞって言い合ったんだよ』
「へぇ」
カオルは適当に相槌を打った。
『でさ、むこうが急に提案してくるわけ。このミカンはオレに譲るから、その代わりもう一つ手に入れたら自分にくれって』
「ふーん」
『だけどさ、これが全然ないんだよ。で、集合の時間がすぐに来ちゃって、ホント申し訳ないなって思いながら戻ったら、なんとその人、自力で一個見つけてたわけ』
「そっか」
『それで、良かったですねーってことになったんだよ』
ジュンヤは『うん』と勝手に頷くと、そこでいったん話を切った。
「え……それだけ?」
『いやいやいや、ここからが本題なんだって』
彼はそう言うと、深く息を吸った。
『……あれからもう何カ月もたってるのにさ、なんかオレ、まだあの人のためにミカン探してるような気がするんだよ』
「……は?」
頭おかしくなったんじゃないの、と言おうとすると、
『これってぜったい、好きってことだよな?』
ジュンヤは決定的なワードを口にしてしまった。
「……みかんが?」
『違う。あの人が』
カオルは唖然としたまま何も言うことができなかった。
『あのとき名前とかなんにも聞かなかったんだよなぁ……。でも、たしか帰りに生物科の人たちと話してたから、お前ならあの人のこと知ってるんじゃないかと思って』
「それで、僕に?」
『そうなんだよ! 背の高い女の人で、たぶん一七〇くらいあるんじゃないかな? 近くにいたらかなり目立つと思うんだけど、お前、知らない?』
「知らない」
カオルがそう言い切ると、しばらくノイズ以外に何も聞こえない状態が続いたあと、
『そうか……』
と彼が言った。
『ごめんな。こんな話して』
「ううん。いいけど……変な期待とかはしない方がいいんじゃないかな」
『いや、オレはただ——』
ジュンヤは小さな声で言った。
『——もう一度あの人に会いたいだけなんだ』
カオルがなにも返せないでいると、彼は沈黙をおそれたのか、『じゃあ、また明日な』と言ってあっさりと通話を切ってしまった。
長電話を終えてようやくスマホを持つ手を下ろしても、ジュンヤが口にした言葉の響きだけがまだ耳元に残っていた。
「ばかなやつ」
あの日、ジュンヤとそんな取引をしたのは紛れもなく紅林——カオルだった。
人のうわべだけしか見ていないうちに、好きになったり嫌いになったり。そんなことだからこういう滑稽なことになる。
……はてさて、これからどうなることやら。
目の前の信号が青に変わったのを確かめると、やっとカオルは横断歩道を渡り始める。もうとっくに雨はやんでいるのに、ずっと傘をさしていたことに気づいたのは帰宅してからのことだった。
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