⚪︎エピローグ② 恐怖と逃走はイコールではない
恐怖の表情を浮かべる二人を見て最初に思ったのがなんで僕を見てそんな表情をするの?という物凄く子供染みたものだった。
僕の考えとは裏腹に、不意に母が表情を変え、声を張り上げた。
『『 逃げなさい!!』』僕に向かってそう言う。
それとほぼ同時だったと思う。
何で?と疑問に思う間もなく、シュッと風を切るような乾いた音と共に、鮮血が宙を舞う。急に母の腹部が裂けた、僕にはそう見えた。
そして母は床に倒れ込んだ。僕は動けなかった。
床には月の光に当てられた真紅が漏れ出している。
妹も唖然と立ち尽くしている。数秒経って状況が読み込めたのか、母を助け起こそうとした。
『お母さん!!お母さん!!』と呼び続けている。その声は、徐々に掠れていった。
また乾いた音が聞こえた。
気づいた時にはもう手遅れだった。
ついには、妹も服を赤く染め上げ、倒れ込んでしまった。その胸は抉られ、薄明かりの中でもはっきりと見えるほどに、紅色が滴っている。
少年は、目を疑った。夢でも見ているのかと思った。むしろコレが悪夢であって欲しかった。目の前に広がるのは、非現実的な現実。
刹那、恐ろしい殺意が少年を襲った。
凍りついた空気の中、振り返る。
『はは....何だよ、コイツ』
諦めたような笑い声が出てしまった。
その日確かに、ソレを目撃した。
少年の身長より遥か高く、黒い身体に鋭い鉤爪を備えた人型の化け物だった。その爪は、月光に当てられ赤く鈍い光を放っていた。
ソレはケタケタと不気味な笑みを浮かべ僕の喉元を見据えていた。
逃げるという選択肢はなかった。
まるで鳥籠の中の鳥のような、沈みゆく船のような、絶望的なまでの死が、そこに立っていたのだから。
逃げることは叶わない。
立ち向かっても勝機はない。
ソレの佇まいだけで、ヒシヒシと伝わってくる。死の予感。
向かい合う少年の背後では、二人が血を流し続け、小さく呻き声をあげている。
決断にそう長い時間は掛からなかった。
家族を守る正義感からか、自棄になって成す術なく飛び込んだのか、どっちだったか忘れてしまった。
どちらにせよ、少年は恐れ戦き、立ち向かった。
ソレと相対した途端、急に目の前が暗転し、ドンッ!!と何かが叩きつけられたような音がした。
少し遅れてパリンと言うガラスの音と鈍い衝撃が身体に伝わってきた。
―――少年は壁に横たわっていた。
壁に飛び散った血液と少年の傷が、一切の抵抗も出来ずにやられたことを告げている。
周りの景色を見て始めて自分が攻撃を受けたことを認識した。
(何が起きた?痛い、痛い、血が、傷が、でもこのままじゃ全員....早くしないと妹と母さんが....)
ソレは、思い出の前で月光に背を背けるようにして少年を狙っていた。
先程と衝撃からか時間が過ぎるたび、少年の視界はボヤけ、意識はどんどん遠のいていく。
呻き声と共に、死が一歩ずつ近づいてくる。
その音が近づくたびに少年の足は竦み、貼り付けた感情達が削ぎ落とされていく。
(クソ、どうして...本当にここままじゃ——まだ死にたく、ない)
少年は立ち上がった。生存本能が生み出した火事場の馬鹿力だろうか。とうに身体の限界は超え、視界は霞んで、失血により頭も回らない。
もうほとんど見えてないし聞こえてなかったと思う。
それでも、死に物狂いで足掻いて見せた。
ソレに向かう少年は、無謀にも龍に立ち向かう獅子に見えた。
一方的に痛ぶられ少年に残った感情は、ただ一つ。
人情的な正義感でも、心に秘めた憎しみでもない。
『殺す』ただ生きるために。
―――殺意だけが残留していた。
『ゔぁぁぁあッ!!』
少年は叫び出し、本能のままソレに飛びかかった。
拳を振るい、力の限り、蹴りを繰り出す。
考えうる限り、最大の抵抗だった。
しかし、その弱々しい拳では誰も救えない。
『何で...まだ立ってんだよ』
ソレは嘲笑うように、一切の防御もせず少年の抵抗を受けて見せた。
その上で、一切の揺らぎなく鎮座している。
ソレに顔はない。それでも少年には嘲笑っているかのように見えた。
ソレがまたケタケタと不気味に笑う。
そして万策尽きた少年に向け、手向けと言わんばかりに腕を振るう。
(あ、ヤバい...攻撃される)
死にゆく少年の顔には、数多の切り傷と共に、殺意と憎悪、そして後悔が滲んでいた。
ドン!!
少年はソレの一撃により壁に叩きつけられた。
その衝撃で壁が軋むのを感じる。
もう少年は虫の息。しかし再び立ちあがろうとした。
少年が起き上がるべく身体に力を入れた時だった。
攻撃を受けた胸部から足にかけて身体の中を蝕むような激しい痛みに襲われた。
あまりの痛みに耐えきれず吐血し、倒れ込んだ。
痛みに悶える少年を厭わず、ソレの第二撃、第三撃がやってくる。
―――希望の色を失った少年は、猛攻の中に溶けていった。
その日、少年の母は……死んだ。
奇跡的に妹と少年だけは一命を取り留めたが、しばし意識が戻ることがなかった。不幸中の幸いとして、家の給仕係が出勤し、少年の叫び声に気づいて通報を入れたことだろう。しかし少年と少女がその事実を知るまでに、数か月掛かった。
この事案は、殺人事件として扱われ、早々に迷宮入りとなった。
なにせ凶器も犯人も、まるで最初から無かったかのように、一切の証拠が残っていなかったのだから。
ソレは、少年の胸に殺意と、宛名不明のプレゼントを残して去っていった。
―――少年は、見知らぬ部屋で目を醒ました。
身体が重い。視界もまだ掠れている。
手足に力を入れて身体を起こそうとした。
――起き上がろうとしたが体が動かない。
ただ微かな呻き声を上げただけだった。
その呻きに気がついたのか白衣を着た人たちが、僕に集まってくる。
誰かが何かを言っている。正確には聞き取れない。
『――ん。――君!だい――すか!』
ここでやっと視界が戻ってきて、僕に向けて話していることに気づいた。
けれど何も聞き取れなかった。
しかし、またすぐに視界が掠れはじめ、プツンと糸が切れるように意識は深い影の底へと堕ちていった。
少年が、再び目を覚ました時には、部屋は暗闇に包まれ誰もいなかった。
身体中が痛い。
少年は辺りを見渡し、手探りで明かりを探す。
やがてスイッチを見つけ、押してみる。
(うわっ!)
すると、少年の頭の後ろから光が差した。
突然のあまり僕は声が出そうなほど驚いた。
しかし驚きは声にならなかった。
部屋のカーテンは空いているようで微かな月明かりが部屋に入り込んでいる。
そのおかげで自分の周りは見渡すことができた。
薄明かりの中、少年は部屋を眺める。
そこは、病室のようだった。
ベットフレームに手を掛け、出来る限り上体を起こす。
そこは一見、ただの病室。
だが一つだけ足りない。無くてはならないもの。
少年の目に映ったのは、抵抗の勲章。否、惨たらしい現実であった。
―――少年の両脚は、千切れて無くなっていた。
最初から存在しなかったと言わんばかりに。
少年は目を背けた。辛い現実から。
このあたりだろうか、少年の感情と記憶が薄れ始めたのは。
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