⚪︎エピローグ① 終わっても生ける者は続くよ

僕は、ほんの少しの痛みで目が覚めた。 

(....ん、ここは?)

あたりは薄暗く、どこかでピッピッと心電図のような音がなっている。

(取り敢えず起きなきゃ)

僕は痛む身体に鞭打って起きあがろうとした。

(痛ッ.,.何だよこれ)

しかし、身体が痛みを纏ってろくに動かせない。

よく見ると呼吸器や点滴のような管がつけられていた。

(何でこんなもの、事故にでもあったのか?)

一旦、起きることを諦めて寝たままあたりを見渡す。

僕につけられた呼吸器に点滴、ナースコールボタン。少し遠くに心電図のような機械が置いてあって79と表示されている。

設備から見るにここは病院なのかだろうか。

少し休んでまた起きあがろうとした。

結局、数分間痛みと格闘したのち、やっとの思いでベットフレームに手を掛けた。

丁度よいところにベットを操作するリモコンがあったので、リクライニングを使い上体を上げた。

推測通り、そこは病室だったようで、ベットの側に2台の椅子と窓際に花瓶が飾られていた。

まだ花は新しく水も澄んでいるようにみえた。

うっすらとカーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。

明かりの差すところ、薄明かりの中で信じられないものを見た。

僕は何度も目を擦る。

しかし僕の眼に映るのはどれも同じ光景だった。

―――僕の膝より下、芯のない布切れがそこにあった。

思い返すとコレが悪夢の始まりだったかも知れない。


足を動かそうとしても、何も起きない。

何度も何度も動かそうとした。しかし悉く結果は同じだった。

十数年共に歩んだ通行手形が、痛みだけを残して消えてしまった。

確かに、足の感覚が残っている。現にそこの痛みで目が醒めた。しかしその眼に映るのは布切れだけ。

そこに無いものが、痛みを訴えてくる。

少年は錯乱していたのか、現実逃避を選んだのか、その日はそのまま無意識に堕ちた。


後に医者によって知らされた病名は、

―――幻肢痛。

僕に送られた宛名不明のふたつ目のプレゼントだった。


父さんが死んだ日―――。その日は雨予報だった。

父さんが仕事で家を飛び出した数十分後に、予報どうり降り始めた。その時の雨は大粒で、屋敷の窓に雨が伝うように流れていた。そんな風景を身を乗り出すように見ていた。地面に叩きつけられる音が、パチパチと響く。

(讃美歌でもあるまいし...)

そうは思いつつも、綺麗な雨音に鼻唄を乗せ、メロディーを奏でている。これを、ところ構わずやってしまうあたり、もはや悪癖と化している。

(父さんが帰ってきたら、また練習手伝ってもらおう)

僕はピアノに身を預けながら、一人ピアノの練習を始めては、時々屋敷の門から続く父の帰路を眺めていた。

僕は音楽家の家系の長男として生まれ育ち、何不自由ない生活をしてきたと思う。音楽家の家系なだけあって、生まれた時には楽器がすぐ隣にあった。

それが思い出しうる、最初の記憶。

僕の一族は、ほぼ全員が音楽を生業としている。

その中でも、僕はとりわけ音楽の才に恵まれていたようで、幼小期にコンクールで賞を総なめするほどだった。

家族には――は凄いな、と褒められ、親戚からも―――は将来凄い音楽家になるぞ、と一目置かれていた。とても順風満帆な人生だったように思う。

けど、それは長く続かなかった。

僕の父は、現役の音楽家として各地を飛び回っており、公演などで数日間から数週間、家を空ける人だった。帰りの連絡を受けていても、急用や交通機関の影響で帰りが遅れることは幾度となくあった。

その日も、帰ってくると知らされていても、帰りが遅いなとも思わなかったし、いつも通り過ごしていた。

(けど....何だか今日は嫌な予感がする)

僕が虫の知らせを感じたのは夕食の時間が過ぎてからだった。

父がいない時の夕食は、基本的に僕と母と妹の三人で食べていた。

そして今日は母もいない。最初からいなかった訳じゃない。食事を始めようというタイミングで母のスマホが鳴り、大事な連絡が来たのか、母は電話を取った。少しの間、問答をしているうちに母の顔は険しくなり、最終的にフラフラと覚束ない足取りで食堂から出ていった。

母が去った後の食堂には、三人分の食事と重苦しい空気が残っていた。

その後、僕は妹と二人がけで黙々と食事をすすめていた。

結構時間が経って、僕が最後の一口を運び始めたとき、母が生気のない顔をして部屋の扉を開けた。

そして、また覚束ない足取りでテーブルについた。

元々、父さんがいないと寂れた食卓であるが今日はさらに静かだった。

母は戻ってきてから、一言も発さずどこか遠くを見るような目をしている。

証拠にフォークとナイフは持っているものの、一口も食べていない。

当時、小学校高学年ぐらいの年齢の僕は、その若さ故に事の深刻さに気づく事ができなかった。

雰囲気で何かを感じ取った僕は幼なげに笑って見せた。

母も僅かながら笑みをたたえた。

しかしまだその目は翳っていた。


―――3日後。

父は家に還ってきた、立派な棺桶に入って。

先日の母の様子から、悲しい何かを感じ取ったはずなのに、いざそれが現実としてやって来ると、涙が溢れてしまう。

母は柩を前に泣き崩れ、妹も母の隣で泣いている。

僕は、泣けなかった。

父の柩を見ている間ずっと、暗くずっしりとした痛みが胸を打ち付けられていた。

この虚無感こそが喪失感なのだと知った。

亡き父の柩に触れる。

もう何の音もしなかった。



―――それから数日して、父の葬式が終わった。

うちの一族は、音楽界では歴史の深い名家にあたる。そんな家柄の人間が早くに亡くなったこともあり、葬式には大勢の人が来た。

僕は何が何だか分からないまま葬儀を終えて、困惑が解けぬまま帰りのタクシーに揺さぶられていた。

車内の空気は重く、まとわりついて前向きな言葉を絡め取っていくみたいだった。

母も妹も、例外なく僕も一切の言葉が出なかった。


自宅に着くと、家族全員が会話もなく自室に籠った。

(僕も...帰ろう)

父と過ごしたあの部屋へ。

長い廊下を覚束ない足取りで歩く。

部屋までが遠く、寂しい。心なしか足元が冷たく感じる。

部屋に辿り着くまで、実際は数分ぐらいだったと思う。けど僕には、とても長く感じた。


僕は弱々しく両開き扉の片方を押し開けた。

その部屋は大広間のようになっており、月明かりが満遍なく差し込むようになっている。部屋の中央に一台だけ、ピアノが置いてある。それを囲むように客席が備え付けられている。ピアノは父の思い出の品であり、僕の思い出そのものでもある。

人を招いて演奏した時、家族の誕生日で演奏した時。記憶を探るたび、ピアノと結びついた思い出がどんどん溢れ出てくる。

よく父も月明かりの下で演奏をしていたのを憶えている。でも、もうそこに父はいない。

今は誰にも使われないまま、ただ月明かりを映している。

いつもなら、鳴っているはずのピアノ。

しかし、もう鳴ることのないピアノ。

少年は孤独に蝕まれていた。

父はいない。ひび割れた思い出は僕ではもう弾けたものではない。

―――つい言葉が漏れる。

「父さんどうして....」

僕は思い出に寄りかかるように座っていた。

胸に秘めた思いの数々が溢れ出し頬を伝い、どんどん流れ落ちる。悲しみの音が部屋中に木霊す。


思い出に泣く僕の裏で、雫の落ちた影が揺らいだ。

そこから、ソレはひっそりと顕れた。

まだ、僕は気づいていなかった。

背後の純粋なる悪意に。

運命の歯車が狂い始めていることに。


数分後、仄かに香る良い匂いと共に、徐々に足音が近づいてくる。きっと夕食ができたのだろう。丁度僕が立ち上がった時に、部屋のドアが開いた。

ドアの外にいたのは、母と妹だった。

二人は誰が見ても分かるほど、美しい黒髪を靡かせている。月光に当てられた絹の様な髪は光を纏っていた。そんな髪に隠された2人の顔はやはり浮かない表情をしている。当たり前だろう。別れの言葉も無しに父は逝ってしまった。

僕は何も言わなかった。

二人も何も言わずに、部屋に入って来た。


一家はまだ気づいていない。月光に紛れたソレに。


落ち込んだ沈黙を破るべく僕は口を開いた。しかし出かけた言葉が喉の奥で止まった。

月光に背くように向き直った僕には、二人がよく見えた。

先程とは打って変わった二人の怯えた顔が。

―――まるで化物でも見ているかのように。

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