赤と青

皇帝栄ちゃん

赤と青


 私は青い地球を愛している。この宇宙で最も愛おしい存在だ。幼い頃から地球の映像や画像に心を奪われた。あの清冽な青――広大な海と空が織りなす、思春期の琴線に触れてやまない色彩。ほかの惑星には決して宿らない、唯一無二の美しさ。あの青をこの目で直に眺められたなら、どれほど魂が躍動するだろう?

 私は碧丘みどりおか・テラ・リースホイール。すばらしき地球に住む十六歳の女子高生だ。アメリカ人と日本人のハーフで、まばゆい見事なプラチナブロンドの髪を持つが、残念ながら青い瞳には恵まれなかった。さらに残念なことに、一度だけ可能な「目の色を変える施術」も私の体質に合わず、医師から断念を宣告された。

「リース、今日は元気いっぱいだねえ。急がなくても、ウルトラマリンブルーは私たちを温かく歓迎してくれるよ。こんな可愛い女子高生ふたりをラピスラズリが祝福しないはずないからね」

 土曜の放課後、化学部室の前で親友が茶目っ気たっぷりに手を振った。彼女は隣のクラスの夏日なつひ辰砂しんしゃ。私を含めてたった二人しかいない化学部員の片割れだ。純粋な日本人らしい艶やかな黒髪も魅力的だけど、辰砂という名にふさわしい赤茶色の瞳は、光を受けると宝石のようにきらめく。彼女自身、その瞳を自慢の種にしている(色素が薄く、カラコンさながらの鮮烈な赤に見えるからだ)。

「辰砂の目は本当にいつも綺麗ですよねー。私の黒い瞳が少しでも青かったら、あなたと並んでもっと映えるのにと思います」

「色相環の補色的に? ふっふふ、私たちの関係は不純なほうが濃くなるということかなあ?」

「みだらな解釈でニヤニヤしないでくれますかー? あなたの不純な心を私のアースオブアズールで涼やかにしてやります」

「リースの青い地球愛にはかないませんなあ。でも地球の夕焼けは赤いから、つまり私も美しいのだよ」

 友愛の化学反応を楽しみながら部室のドアをくぐると、顧問の熒惑けいわく先生が実験器具を準備して待っていた。今日の課題は、アフガニスタン産の純度が高いラピスラズリから、ウルトラマリンブルーと呼ばれる青い顔料を作ることだ。フェルメール「真珠の耳飾りの少女」のターバンや、カルロ・ドルチ「悲しみの聖母」のベールに使われた深い青。ツタンカーメンの黄金マスクのアイラインにも、この石が色を添えている。

「ラピスラズリはラテン語で『青い石』を意味するんですよねー。和名も『青金石』ですし、地球が私のために生成してくれた鉱物に違いありません」

「はいはい、地球に愛されておりますなあ。えーと、ウルトラマリンは『海を越えてくる』って意味だったっけ? 星の海も越えていければよかったのにねえ」

「ですよねー。ん……うん?」

 辰砂はたまにおかしなことをさらりと言う。その自然さに、つい頷いてしまった。

 無駄口をたたかないで、ラピスラズリの端材をたたいて砕く作業に取りかかる。青いかけらを選び、乳鉢で丁寧にすり潰して粉にする。これがまたしんどくて根気が求められる工程だ。粉末を分離し、純粋な青を抽出……そんな作業の合間、休憩中に交わした話題のほうが強く印象に残る。

「リースは知ってる? 最近ちまたで起きてる奇妙な事件。なんでも〈嘆願の壁〉で願いごとをした人たちの何人かが意識不明になってるらしいよ」

「願いが強ければ星の霊力が叶えてくれるって噂の巨石建造物ですよね? 都市伝説だと思っていましたけど……因果関係は気になるところ。有害物質か、危ないドラッグでも使ったとか?」

「スピリチュアル方面な人はそういうので精神を拡張しようとするもんねえ。あと、もっと直接的な怪異の話だと、巨大な赤い眼が空に浮かんでたって目撃情報がちらほら」

「なにそれ知りませんー。そんなのが浮かんでいたら多くの人が見てると思いますし、ニュースにもなっていそうなものですけど?」

「一応は科学的な範疇の未確認空中現象と違って、オカルトな怪奇現象だからねえ。怪異は見える人にしか見えないんじゃないかな。写真や動画を撮影しても映らなかったみたいだし」

 女子高生らしい噂話に花を咲かせながら、ようやくウルトラマリンブルーの顔料が完成した。胸がじんと熱くなる。映像や画像でしか知らなかった色。ずっと夢見てきた青だもん。

 溢れる喜びをかみしめて校舎を出ると、夕暮れが空を染めていた。熟れたトマトのような赤い太陽がカシスオレンジの地平へ沈む。鮮烈な黄昏をしんみり見つめていたら、肩をちょんちょんとこづかれた。

「ふっふふ。どうよ。夕陽はあらゆる芸術作品よりも美しい。リースもそう思わないかなあ?」

 ドヤ顔でほほえむ辰砂の瞳は、夕焼けの光を浴びてサンストーンやレッドジルコンのようなきらめきを放ち……私は不覚にもうっとり見惚れてしまった。

「くやしいですけど、辰砂はどんな芸術作品より美しいと認めますよ」

「ふえぇっ? ちょっ、まって! いやあの、てっきり火星の夕陽のほうが美しいって返事がくると思ったのに……うへえ、恥ずかしいなあもう」

 うわっ、めちゃくちゃ顔を真っ赤にして照れてる!

 真顔でまともに褒めたの初めてだけど、いつも飄々としてる辰砂がこんな反応するとは予想外で、あまりにも可愛くて、なんか口走ってた彼女の言葉が頭から消し飛んだ。あーもう、こっちまでドキドキしたよ。


 バス停で辰砂を見送り、自宅への帰路をたどる。薄闇が漂う住宅街はどこか不気味だ。電灯の明かりや家々から漏れる生活の匂いも、夜の底知れぬ空気を払拭できない。遠い昔、まだ科学の洗礼を受けていなかった遥かな時代、人々は夜に潜む妖のものを恐れたという。それはどんな世界だったのだろう。現代人は魑魅魍魎より人間の不審者を恐れるけど、暗闇の中ではなお、科学で解明しきれないなにものかへの原初の恐怖が疼く。ああ、私は今、夜の地球を肌で感じているんだ。

 そんな感慨に浸りながら曲がり角を過ぎたとき、夜空に浮かぶ怪異を目撃した。

 赤いビー玉みたいな形状の巨大球体が虚空に漂っている。

 あまりの唐突さに、脳が一瞬凍りついた。想像していたのは、膜や筋に覆われた生々しい眼球だったのに、これはまるで磨かれた宝石のようだ。高層マンションより低い位置に浮かび、立体的な存在感を放つ。平面にしか見えない満月の遠さとは異なる、はっきりとした距離感。

 ぐるり、と球体が半回転した。月光にきらめく水晶体、瞳孔、虹彩がこっちを向く。目が合った!

 ぞっとするほどの冷気が背筋を駆け抜け、シナプスが危険信号を発した。反射的に曲がり角の影に身を隠す。腰を落とし、ゆっくり深呼吸。心臓がばくばくと暴れる。声を出さなかった私えらいぞ。

 でも、どうする? 慌てて逃げるのは賢明とは思えない。ホラー映画なら即座に殺されるやつだ。そんなモブ役になりたくない。

 スマホのトークアプリで辰砂にメッセージを送る。秒で既読がついて、スタンプが返ってきた。イクチオステガのデフォルメイラストに「おめでとう!」と書かれたもの。なるほど、ファーストステップとファーストコンタクトをかけた冗談かあ。

『ぶっころすぞ夏火星なつひぼし

『うわ、ごめん。子供の頃のあだ名は勘弁。ていうかマジなの? 見間違いじゃなくて?』

 見間違いのはずがない。けど、ホラー映画の定石なら、もう一度確認したときには消えているパターンが多いんだよね。仕方なく、おっかなびっくり曲がり角の影から顔を出して空を見上げる。

 ――赤い眼が、まともに私を凝視していた。

 漆黒の夜に浮かぶ真紅の瞳。まるで深淵の底から這い上がった怨念が、私の魂を穿つように見据える。恐怖のあまりキテレツな悲鳴を上げ、脱兎のごとく駆け出した。振り返ると、ひいっ、ふわふわ浮遊しながら追ってくる! なんで、どうして私を?

 それにおかしい。夜の住宅街でこんな大声を出しているのに、誰も反応しない。人通りが皆無なのだ。逃げる途中で道端の石を拾い、投げつけてみたものの、信じがたいことに石は球体をすり抜けた。実体なき幻覚――それ以外の説明が思いつかない。

 半泣きでアプリを音声通話に切り替え、状況をわめき散らす。最初はからかい調子だった辰砂も、ようやく真剣に耳を傾けてくれた。

「赤い眼に追いかけられた目撃者は誰もいないよ。心当たりは? 危害は加えられてない?」

「心当たりなんて、あっあっ、あるわけありませんー。とくに攻撃もされてないけど……どうしよう、どうすればいいでしょう、助けて辰砂ぁ」

「すぐそっち行く。スマホの位置情報を同期させておいて」

「うん、はい。あっ、あのまって、通話切らないで……おねがいします」

「大丈夫、ちゃんと聞いてるよ。返事もするから安心して」

 普段の辰砂なら、私がしおらしい態度をとろうものならアホほどいじってくるの確定なのに。なんだよぉ……泣かせること言ってくれるじゃない。

 そうして親友に勇気づけられながら必死に逃げたけど、私はもともとスタミナがない。息を切らして、いつの間にか学校の校庭まで戻っていた。もう走れない。芝生にへたり込む。月の光がまぶしい。

 赤いビー玉が真正面から近づいてくる。鬼ごっこの終わりだ。

 そのとき、聞き慣れた声が甲高く私の名前を呼んだ。スマホではない。見上げると、満月を背にした黒いシルエット。

 ホバリングスクーター『アイハイ』に乗った辰砂が、アクション映画の主人公さながらに校庭へ飛び込み、鮮やかに私の前に着地した。ホラー映画好きの私に対し、彼女はアクション映画ファンだったことを思い出す。

「おまたせ。疑ってごめん。いやあ、ほんとにクソデカ赤眼だねえ」

 辰砂にもはっきり見えるなら、私の幻覚じゃないということだ。

「なんとなくわかった。こいつはリースが強く想うものしか効果ないんだよ。そして、リースはそれを持っている!」

「わかったなら、もっと具体的に言ってくれませんかー!」

 赤い眼が輝いた。無人のスクーターが夜風に揺れる。辰砂の姿は影も形もない。フィクションなら「間」を演出するだろうけど、現実の怪異はそんなものを意に介さない。一片のフラグもなく親友が消えた。いくらなんでもあんまりだ。

 頭が真っ白になり、ぼんやり立ち尽くす。赤い眼が迫る。よく見ると、その輝きは辰砂の瞳に似ていた。――ふざけるな。

 胸の奥で熱く噴き上がったマグマが、凍える恐怖を一瞬で蒸発させる。

「よくも辰砂を!」

 学生鞄からウルトラマリンブルーの顔料を掴み、至近距離で赤い眼にぶちまけた。

 世界が崩壊するような轟音とともに、真紅の球体が消滅した。

 あっけない勝利だ。持ち主を失ったスクーターにすがり、校庭で泣き崩れる。

 悲しみに濡れてどれほどの時間が過ぎたのか。朝靄の空気に顔を上げると、大きな青い眼が間近で私を見つめていた。B級ホラー映画の陳腐なオチか?

 だけど、それにしてもこの青は――なんて清涼で美しいのだろう。まるで地球の海と空が凝縮したような、魂を浄化する安寧の輝き。赤い眼を倒したことで地球が救われたのに違いない。青き地球の祝福だ。

 青い眼に手を伸ばす。全身、いや、私を構成する全存在が吸い込まれる――恍惚と歓喜――知覚が拡散し――おお!


 * * *


「――自分が誰だかわかる?」

「碧丘・テラ・リースホイール。十六歳」

「私たちが住む星は?」

「火星。……小惑星の衝突で滅んだ地球から人類が移住した星」

「私が誰だかわかる?」

「夏日辰砂。同い年の親友」

「うむ。よろしい。青い地球が見たいからって、怪しい都市伝説に手を出すのはもうやめてね」

 医療処置後の病室。近くには、意識不明者の精神世界に潜る治療用顕微鏡が置かれている。

 辰砂の右目は完全に光を失っていた。私がやったんだ。

 そして彼女の左目は青色に変わっていた。私を救うために。

「リースの幻想世界でも、私がリースのために動くのは自分冥利に尽きるねえ。本気で怒ってくれて、めちゃくちゃ嬉しかったよ」

「私のせいで……ごめんなさい……」

「あなたを助けることができたから問題なし! もし責任を感じるなら、これからもずっとそばにいてくれる?」

 私は泣きながら辰砂に抱きついた。いまや赤と青の瞳を有する、最愛のひとに。

 病室の窓から、青い夕焼けの光が差し込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤と青 皇帝栄ちゃん @emperorsakae

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ