3

 果夏と過ごした日々の記憶なんて、実はもうほとんど残っていない。些細なきっかけがトリガーとなって思い出されることはあっても、それもすぐに霧散して消えてしまう。

 それでも彼女の存在は俺にとってはあまりに大きくて、いつだってすぐそばにあるように思える。


 体力テストの競争も、一緒に自主練した毎日も、もうとっくに過去のことなのに俺にとってはそうじゃない。

 絶対に忘れられない。なのに、あの濃い厚い日々の記憶は、雲がかかったようにぼやけて薄まって消えかかっている。もう存在していたのかもわからないくらいの不確かさが、時間の経過とともに積もっていく。

 それでも、果夏の笑顔や体温だけは今でも鮮明で、あの日常の遠さなんて信じられない。昨日も一緒に笑っていたような気さえする。

 三年という年月が俺の中でバグを引き起こしている。


 実際のところ、果夏とは彼女が引っ越した中学二年の夏、つまり三年前から一度も連絡をとっていない。

 彼女は親から携帯を持たされていないため連絡手段はないし、遊びに行くという口実を使うには、九州は遠すぎる。日帰りで気軽に行けるような距離では到底ない。

 もしも世界が三秒前にできたのならば、果夏も、あの日常の記憶も、全部作られただけの嘘なのだとしたら、俺は——。


「ぼーっとしててどうしたの、灮太郎? 恋の悩み?」


 そばで聞こえた声にはっと瞼を上げると、すぐ目の前の雪乃に焦点があった。

 俺が頬杖をつく机の縁に手を添えて、俺のほうを上目遣いに覗き込んでいる。長い睫毛に縁取られた目がこちらに悪戯っぽく向いている。


「それは違うけど。ただちょっと、考えごとしてただけ」

「絶対嘘でしょ! 女のことを考えてる顔だったし」

「どんな顔だよそれ」


 俺がそう突っ込むと、雪乃は何も言わずにフフッと意味深に笑った。

 自分はいったいどんな表情を晒していたのか、恐ろしい。

 ぐんと上に伸びをして教室前方の時計に目をやると、まだ七時を指している。

 今日は朝練のために早く登校したのだが、急遽中止となった旨を知らせる連絡に気付いたのは、学校に着いてからだった。仕方なく教室へ向かったが、当然誰の姿もなく教室には一人きり。

 考え事をしたまま意識が飛び掛けていたのかもしれない、雪乃が教室に入ってきたことには気づかなかった。


 朝の学校はまだがらんとしていて、校舎内にひとの気配はほぼ感じない。

 夜は病みやすい、なんて言葉はよく聞くけれど、静かな朝だってあまり変わらない。外の空が水色でも、感情の熱を冷やす温度を持っている。

 窓から差し込む太陽の光は七時とはいえ強力で、電気をつけていないのに教室内は十分な明るさが保たれていた。


「いつもこんな時間に登校してるのかよ? 暇じゃね」

「暇だねー。でもまあ、その暇な時間もアリだし。あと誰もいない教室ってレアじゃない?」

「へー……分からん」

「だろーね」


 ケラケラ笑いながら、雪乃は俺の前の席の椅子を引いた。

 横向きに腰掛けてこちらを振り向いた彼女の頬は、心なしか赤く見えた。思わず目を逸らして視線だけを窓の外へ放り投げる。

 グラウンドを駆けるサッカー部員の姿をじっと追い続ける。


「灮太郎ってテニス部だよね。中学から?」


 机に掛けているラケットケースを見つめていた雪乃が訊いてきて、彼女のほうへ意識を戻した。


「いや、小学二年からやってる。だからなんだかんだで九年くらい続けてるかも」

「めっちゃ長いじゃん! よくそんなに続くね」

「正直、高校では辞めようとか思ってたはずなんだよなー、なんで続けてんだろ俺」

「今からでも帰宅部遅くないよ?」

「勧誘すんなよ、辞めないし」


 軽い調子で言葉を返しながら適当に笑って、指の上でシャーペンをくるくると回す。

 小学二年、という単語が、また古き記憶を蘇らせてくる。自然と顔がほころぶような、懐かしい思い出。

 俺と果夏が出会ったとき、当時の俺は生意気なガキだったし、果夏もいたずら好きの問題児だった。

 だから同い年で同時期に入会したこともあって仲がよくて、テニススクールではよく一緒に悪巧みをして怒られていた。

 休憩時間に木登りをしたり、コートの近くの川へこっそり水遊びをしに行ったり。

 そういえばコーチのかつらの真相を確かめようとしたときの大人たちはガチで怖かった。


——『やまもとコーチって、やっぱりハゲだったんだな! サギじゃんサギ!』

——『灮太郎くんも果夏ちゃんも、ちゃんと謝りなさい! お願いだから』

——『かなたちはウソをみつけただけだもん! かなたちわるくないもん!』


 こんな小さな記憶を想起しただけで温かさが胸を支配して、全身がむずむず動き出したくなる。自然を溢れ出した笑みは止められない。


「……灮太郎はやっぱ、初恋の子のことまだ好き?」


 思考を断ち切らせた雪乃の声はいつものはっきりさが無く、微かに震えているように聞こえた。

 なんで、と口を開こうとすると「女のこと考えてる顔、バレバレだし」と雪乃は白い歯をみせて笑った。けれど、その陽気な笑みにはどこか違和感があって、いつものように適当な軽口を返すことができなかった。

 数秒前のうららかな感情が凍りついたように冷えて喉が詰まる。表情筋にうまく力が入れられなくなって、きっと表情は色を抜いたような無に近いだろう。


「藤田とよく話してるの、めっちゃ聞こえてくるんだから、果夏ちゃんだっけ。拗らせ一途バカってのもね」

「あれは藤田が勝手に言ってるだけだし」

「なにそれ、拗らせてるでしょ、絶対」

「そもそも」


 もう好きじゃない。

 そう口に出そうとしたけれど、喉を空気が通り抜けるだけで言葉が紡げなかった。やっぱり停滞している、そのことに泣きたくなる。

 身体が金縛りにあったみたいにうまく動かせなくて、指先さえ筋肉が硬直したように力が入らない。

 雪乃との会話で感じたことのないような居心地の悪さが教室に充満している。重い空気を吸うと、頭を内側から殴られているような鈍い痛みが響いた。


「……雪乃は、関係ないだろ」


 喉の奥から絞り出した声はひどく掠れていた。

 我に返って失言に気づいたのは、彼女が息を呑む音が耳に届いてからだった。

 それでも取り消せなかったのは、果夏の名前を何の気なしに口にした彼女に苛立っていたからだ。

 嫌な沈黙が広がり、校舎内の時間が止まったかのような静寂が教室に侵食する。

 落下した視線が机の縁を意味もなくなぞる。

 無限に思える数秒がゆっくりと通り過ぎるなか、彼女の膝の上に乗せられた拳がギュッと強く握られるのがわかった。


「たしかに関係ない!」


 頭の中を一瞬クリアさせるような勢いで放たれた言葉に、反射的に顔を上げる。

 彼女は瞳を静かに揺らしながらもまっすぐにこちらを見つめている。

 視線がぶつかるのと同時に、彼女は引き結んでいた口を開けた。


「関係なくても、恋バナは聴きたいものなの、私にはそう。特に、灮太郎のことは私には重大事件だから! 他人事じゃないから!」


 ぐわんと彼女の大声が教室中、なんなら廊下にまで響いた。

 勢いに任せた彼女の言葉にただただ圧倒されて「お、う……」という相槌とも呼べない声が零れる。

 会話の勢いがジェットコースターのように急加速して脳みそがぐるりと回転する。

 そんな俺に、雪乃は激情を抑えるように声量を緩めながら、言葉の続きを紡いだ。


「灮太郎がまだその女子を忘れられないっていうのは、ちゃんと分かってる。でも、私は灮太郎のこと、好きだから。諦められないから、だから舐めんなよ拗らせバカ!」


 顔を林檎色に染めながらヤケクソのように叫んで、彼女は勢いそのままに立ち上がった。拍子に彼女の腰掛けていた椅子がガタンと音を立てて揺れる。

 雪乃の髪がさらりと揺れて、一瞬視界が金色に覆われた。

 朝の日差しを反射した金髪は、いつもよりも眩しい光を放っていて、綺麗だった。


「私のことも、少しくらい考えてみてよ」


 そう一言告げて、彼女は教室を逃げるように飛び出した。その姿はすぐに見えなくなったけれど、廊下を蹴る足音が遠くに聞こえる。けれどそれもすぐに消えて、再び静寂が戻った。

 一人残された教室で息を大きく吐き出す。

 彼女の気持ちには薄々気づいてはいた。けれどまさかこんな形で告げられると思わなかった。

 衝撃に遅れて、今更ながら緊張が襲いかかってくる。頭の中を絞られているみたいに血の巡りが速くなる。


——『初恋の子のことまだ好き?』


 と雪乃の言葉が蘇る。

 好きかなんて分からない。けれど、忘れたくない。だから前に進まない、って、馬鹿みたいに叫んでる。この三年間、ずっと。

 世界五分前仮説だって同じだ。

 今の俺にとっては記憶が嘘かどうかなんてどうだって良い。大事なのは、もう届かないあの過去の世界をどう思うか。

 もう戻れない虚像を振り向いて眺め続けるか。それとも強引にも前を見つめるか。

 ズボンのポケットに手を突っ込むと、指先が硬いレジンに触れた。椅子の背にもたれかかると、ギッと軋む音が小さく響いた。

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