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「世界五分前仮説、って知ってる?」


 そう果夏が訊いてきたのは、中学二年の夏。つまり、ちょうど三年くらい前になる。

 放課後の部活中、太陽がガンガン照りつける午後は、熱中症警戒アラートなんてとっくに発表されていそうな暑さだった。

 特にテニスコートは周囲に影になるものも無くて、日差しが肌に突き刺さる。頭皮なんて焼け焦げてしまいそうだ。

 中学はクレーコートのため日光の反射が強く、地面まで眩しい。視界の全てが眩しい。

 男テニが休憩になったタイミングに合わせたのか、横のコートで練習していた女子も休憩をとり始めて誰もいないテニスコートが途端に寂しくなった。

 タオルとペットボトルを手にして、コート横にある大きめな松の木の陰に移動する。腰をおろしたところで、女テニの陣地側からやってきた果夏が話しかけてきた。


「——なんだそれ、初めて聞いた。世界五分前?」

「そう! ……何言ってんだこいつって顔しないでよ」

「そりゃするだろ」


 急に意味がわからない話題振られれば、困惑するのは不可抗力だ。

 しかも仮説なんて言葉が果夏から飛び出せば余計に。

 口を開けばテニスのことばかりの脳筋バカだ、この暑さで頭がやられてしまったのか。

 彼女は当たり前のように俺の隣に腰を下ろして「涼し——」と表情をほころばせる。

 彼女がいる左側だけ体温が上がった気がしたが、無視してタオルを首元に当てた。


「今さら知的キャラはもう遅いだろ。ほら、この前の期末の国語言ってみ?」

「あ、あれは本当にやばいと思ったけどさあ……ってなんで知ってるの⁉︎」

「藤田に聞いた。十三点とかもう留年じゃね」

「……灮太郎は?」

「…………二十七」


 それもう変わらないじゃん! と一秒前まで引き攣っていたはずの表情を崩して声をあげて笑い出した果夏に、あれ絶対テストが悪いだろ、と文句をつける。

 平均は知らないが、絶対に難易度が高すぎた。国語教師も妙に自信ありげだったし。

 一瞬あった低テンションはどこへ行ったのか、「おいおい留年ですかあー?」とニヤニヤ笑みを浮かべて俺をいじり始める果夏に、ラケットで軽く小突きながら「果夏の倍とってるんだよ!」と口の端を引き上げる。

 黒ピンクのキャップのつば部分で顔をあおぎながらケラケラ笑っている彼女を、横目でちらりと確認する。


 自然に染められた明るめの茶髪は短めボブの長さだが、汗によって乱れた様子は無い。猫っぽい目は大きくてくりっとしていて、小麦色の肌に目立ったシミはなく、輪郭のラインが綺麗に通っている。

 頬にはまだ微かに運動の熱が残っていて、緩んできた口元を隠すためにタオルを当てた。

 くっそ可愛い、と思う。

 裏で男子から人気があるのも当然だ。男女分け隔てなく接して、はつらつとした性格。果夏のクラスの友人である藤田にも、何度も「告れよ」と言われてきた。その度に焦り、行動を起こそうとするが、勇気が出なくて何もできない。それを一体何度繰り返してきたのだろう。

 同じテニススクールに通っていたころからの七年の付き合いは、ただの友達と呼ぶには月日を重ねすぎている。心友という言葉がぴったりはまってしまうくらいに必要な存在。

 だからこそ、恋愛感情以上に大切なこの関係を、絶対に壊したくはない。


「で、『世界五分前仮説』なんだけどね」


 ひとしきり笑った彼女は、話をそう戻した。

 彼女の言葉ではっと我に返る。視界が急に開けた感覚とともにこちらを向く彼女の視線に気づいた。

 彼女としては、そちらの話が本題なのだろう。わざわざ戻してまで言うということは、よっぽど何かがあると言うことに他ならない。

 さっきよりも興味が出てきて、聞く姿勢を整えて「うん」と適当な相槌を打った。


「名前の通り、世界は実は五分前に始まったものではないか、って仮説らしいよ。昨日ネットで見つけたんだけど」

「なんかオカルトっぽいな。世界は実は、なんて」


 思わず呟くと、果夏はたしかにね、と笑って先を続けた。


「過去があったことを証明なんてできないんだよ。思い出も、なにもかもが五分前に作られたものかもしれない。五分より前に起こったこととして存在する記憶も、実は設定として与えられただけかもしれない」


 捲し立てるような彼女の説明はどこか難しくて、暑さでやられた頭にはなかなか入ってこない。

 妙に真剣な彼女に違和感を覚えつつ、なんとか噛み砕いて、ゲームの世界みたいなものか、と解釈する。

 ゲームの世界の住人にとって、過去はずっと前から続いてきたものだ。幼い頃からの記憶も確かに持っている。そういうものとして存在している。

 しかし、ゲームの世界の外にいる俺にとっては、キャラたちの過去はゲームプレイの瞬間にできた『設定』だ。その『設定』は、俺たちがゲームを始めたその一瞬で『存在していたもの』として作られ動き出す。

 ゲームの世界の住人には、過去が確実に存在していた証拠を出すことができない。なぜならその証拠もまた『五分前』に作られたものと言えるから。

 ——故に、この仮説は完全な否定ができない。


「もし、何年か未来に今を思い出したらさ、その時にはこの今も全部、作られた設定って言えちゃうんだよね」


 さっきまでの明るさとは打って変わった、寂しさを含んだ声色が身体に染み込んで震えた。

 蝉の喚声が頭の中に深く響く。

 まっすぐに光のほうを見つめる彼女の横顔は、凛としているものの瞳は揺らいでいるように見えた。


「わたし、夏休みに引っ越すんだって」


 どこか他人事のように告げる彼女に、「は……?」と乾いた声が落ちた。

 なんの脈絡もなく告げられた言葉は頭のなかを一瞬で空っぽにした。

 到底信じられなくて、頭が理解することを拒んでいるようで、言葉が続かない。

 脳みそを柔く握られたみたいな感覚とともに血流の音が耳の奥で響く。


「引っ越すって、どこに……?」

「九州のほうだって。お母さんが急に転勤になって、終業式の次の日にはもう出発」


 父は自宅業で仕事への影響は出ないため、単身赴任でなく家族全員で引っ越すことに決めたのだと、彼女は続けた。

 転勤、出発、引っ越し。

 現実味のない言葉たちがぐるぐると頭の中を巡る。

 徐々に早まってくる心拍を感じながら、彼女のほうにゆるゆると目を向ける。

 何かを堪えるように引き結ばれた口、陰のほうに向けられて沈んだ瞳。

 ひゅっと喉が鳴った。悔し顔でも泣き顔でもない、大人の表情だ。

 グッと動揺を強引に飲み込んで、「じゃあ、赤点の留年もなしだな」と無理やり明るい声を絞り出す。笑顔でないといけないと思った。だから、強引に口角を持ち上げる。

 すると、果夏はあからさまにホッとしたような表情で「たしかにね!」と笑った。


「もういっそ、留年したかったさえ、あるけどね。夏季総体も出れないし。そういえばまだ三年の先輩に勝ててないんだけど! 勝ち逃げじゃん!」

「どちらかといえば逃げてんのは果夏だろ。負け犬の逃亡じゃね」

「負け犬じゃないんですけどー! 灮太郎だって最近わたしに勝ててないくせにー」

「そこまで変わらないって、ってか昨日の自主練のときもストレートで勝ったし」

「その前はわたしがストレート勝ちだったから!」


 強引に持ち直したいつもの空気感はすごく不安定で今にも崩れそうに感じた。だけれど壊すわけにはいかない。

 感じていることはきっと同じだから、今だけは笑っていないといけない。

 必死の思いで浮かべた笑みはきっと歪で、バカみたいなほど不自然なのだろう。


 こいつのいない日々なんて、今さら想像もできない。

 それほどに、果夏の存在は俺にとって当たり前だった。

 ずっと近くに居られれば、恋が成就しなくても、俺はそれでよかった。

 ここで「好きだ」と伝えられる勇気があったのなら、俺はとっくに彼女に告白していただろう。


 彼女の人の目なんて気にしない無敵さには憧れた。

 小柄なくせに粘り強くて、コート上を駆け回る、俺の最も尊敬している後衛。諦めそうになるボールにも食らいついて一点をもぎ取るプレーは、いつだってかっこよかった。

 給食のプチトマトはいつも押し付けてくる。午後の授業はうつらうつらしてる。

 勉強できないくせに他人のことばっかからかって、そのくせ距離感だけはちゃんとわきまえてて。

 負けず嫌いで、よく笑うし、よく泣く。

 感情に素直で、悔しさも喜びも全力な姿が、俺は好きだった。

 好きだって、言えればよかった。


「争ってくれてありがとね、今まで」


 急に果夏が呟いた。

 蝉の声に紛れて消えかけたその声を、俺はたしかに受け取った。


「……なんだよそれ。そんなつもりないんだけど」

「知ってる!」


 また明るい声色で言った彼女は、勢いよく立ち上がって、木陰の外に出た。

 夏の日差しが全身に浴びて彼女はこちらを振り向く。

 拍子に揺れた茶髪が、日光を反射して金色に輝いている。


「だから後で試合しよ。七年の決着ってやっぱ必要でしょ!」


 ラケットのヘッドをこちらに突きつけて、彼女は笑う。

 小学生の頃からずっと見てきた太陽みたいな笑顔は、全然変わらない。

 加えてこの決戦の挑み方だって、何も変わっていない。

 だから、


「もちろん、受けて立つ」


 そう俺もラケット片手に立ち上がった。

 日向を踏むと、視界が太陽の光で眩しく輝いた。思わず目を細めて、顎を伝った汗を強引に拭う。

 いつの間にか、浮かべていた笑みは心からのものに変わり、黒い感情は浄化されている。

 晴天の下は、皮膚を撫でる熱気のせいで笑ってしまうくらいに暖かかった。

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