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「雪乃に告られたんだってー?」


 チャイムの音とともに放課後に突入して、今日も学校中が揺れ動いた。数人の男子生徒が今日も教室を勢いよく飛び出すのを見送ってから、机から出した教科書類を通学用鞄に移動させる。

 一瞬にして学校中がにぎやかさに包まれる中、前方の席からやってきた藤田が謎のニヤニヤ顔で尋ねてきた。珍しく声量は抑えられているものの、人がまだ多い教室内でその話題を振ってくるのは、なかなかデリカシーが欠けているのではないだろうか。


「なんで知ってんだよ」

「だって雪乃今日ずっと様子おかしいじゃん」


 ほら、と藤田が顔を向けたほうへ目をやると、ちょうどこちらを見ていたらしい雪乃とばっちり目が合ってしまった。

 直後、ものすごい勢いで目を逸らした彼女は落ち着きのない様子で通学用鞄に教科書類をひたすら詰め込んでいる。おそらく予習に必要のない分まで。

 適当なくせ凛としている普段とは、明らかに様子が違う。


「今日一日中ずっとあんな調子で、いつにも増して灮太郎のほう気にしてんの。さっきカマかけたら余裕で引っかかってた」


 いつもなら絶対引っかからないだろうになあ、と付け加えて藤田は軽い調子で笑っている。

 一見温厚に見える彼だが、実はなかなか性格が悪い。加えて妙に観察眼が優れているからこそ余計にタチが悪い。もうとっくに知っていたことだが、こういうときに再確認させられる。

 気づけば教室内に残る人は減り、十人にも満たなくなっている。その中に雪乃の姿はいつの間にかなくなっていて、いつの間にか下校してしまったようだった。


「告白受ける? 雪乃なんだかんだ顔整ってて話しやすいし良いじゃん」

「いや……、あんま考えられね——」

「面倒くさいなあお前」

「恋バナ脳が言うなよそーゆーことを。お前のが面倒だよ」


 言いながら腰を上げて、机に掛けていた通学用鞄を机上へ置き直した。

 窓の外は、朝の景色を裏切らないほど満天の青空が見下ろしていた。雲ひとつ見当たらない青は夏をより一層引き立たせている。

 いつもならば心躍る夏色全開の模様だけれど、今の俺には眩しすぎて視線をすぐに戻す。さっきまで数人が残っていた教室内も、いつの間にか俺と藤田だけが残されている。騒がしさが去ったあとの静けさが、今日も俺に言いようのない不快感を残した。


「灮太郎は……浦西のこと、まだ好きなのかよ」


 疑問符の付かない彼の言葉が静かに積もり、下唇をぐっと噛み締める。

 浦西というのは果夏の名字だ。

 教室内の音が消えたように外の蝉の鳴き声だけがいやに鼓膜を震わせる。

 テニスラケットを片手にこちらを振り向く彼女の姿が脳裏をよぎった。


「分からないんだよ、もう、意味わからねえ」


 俺が知っている彼女は三年前が最後で、今どこで何をしているのかすらわからない。俺が恋をしていたならば、その相手は今じゃない三年前の果夏だ。

 藤田は、俺に雪乃と付き合ってほしいのかも知れない。

 過去の恋を忘れられない、なんて言葉にしてみれば美しいけれど、ただ前に進めなていないだけだ。

 だからこそ、藤田は果夏の話題を執拗に出してくるのだろう。俺を、強引にも前へ進ませようとしているのかもしれない。

 沈黙を破るように藤田が口を開く。


「……灮太郎はさあ、なんで部活、テニス部入ったんだよ」

「は?」


 彼の質問の意図が読み取れなくて訊き返す。

 藤田は声のトーンを暗くしたまま言葉を続けた。


「高校では辞めるって言ってただろ、中学のとき。別のこともしたいって」

「……気が変わったんだよ」

「そんなわけないだろ。ずっとテニスを続けていたら……いつか浦西と会えるかもしれないって思ったんじゃないのかよ」


 何も言葉を返せずに口を閉じる。

 どうしても、彼女との思い出からは離れられなくて——テニスを続けていれば果夏と笑い合うあの日々が過去じゃない気がした。いつかまた、あの日々に戻れるような気がしたから。


「その四つ葉のクローバーだって……」


 藤田が俺の左手に視線を向ける。

 無意識に触れていた左ポケットの中のレジンのキーホルダーが、カラッと軽快な音をたてた。

 ぎゅっと握り込むと、無機質な硬さと冷たさが手のひらに食い込む。

 このレジンの中には、三年前の空気と時間が閉じ込められている。

 ゆっくりとポケットから取り出したレジンのキーホルダーの中には、形よく葉を広げた四つ葉のクローバーが気泡とともに浮かんでいる。


 果夏と最後に言葉を交わした終業式の日の放課後は、夕方の藍色混じりの空とは違い、真昼の目が眩みそうなソーダアイス色だった。


 果夏の転校の噂はすぐに学年に広まり、時期が珍しいということもあり皆を驚かせた。

 明日から始まる夏休みに多くの人が浮き足立つ中、果夏と関わりのあった同級生や先輩後輩は涙を流して彼女との別れを惜しんでいた。

『また絶対遊ぶからね!』『うちらのこと忘れんなよー?』と言葉がいくつも放たれて、果夏は『ありがと、ほんとに』と目に涙を溜めながら笑っていた。

 多くの人たちに慕われていたのだと証明するような光景だった。


 部活動が終了してからも友人に囲まれていた彼女だったが、何を思ったのか「一緒に帰ろ」と声をかけられたのだ。

 住宅が立ち並ぶ帰り道を二人で並んで歩く。なんだかんだ一緒に帰るのは久しぶりだが、そんな気が全くしないのが不思議だ。


「灮太郎との腐れ縁も、今日で最後だよね。そんな感じ全くしないのに」

「本当に。実感が湧かないすぎて涙出てこないんだけど」

「試合で負けたときはすぐ泣くのにね」

「それは小学生の頃だろ」

「この前の春季大会は?」

「……それはまた別」


 いつも通りのくだらない温度感だったけれど、あいにく俺と果夏の間にシリアスは適さない。

 適当な話題でけらけら笑いながら足を前へ動かしていると、時間は驚くほど早く進んでいく。誰かが遠隔操作で世界の秒針をバグらせているみたいに。

 気づけば、もうあと数分で別れ道となる川沿いに差し掛かっていた。

 丁度テニスの話題が落ち着き始めたところで、「あのさ」と果夏が声色を落とす。

 今日ずっと話を切り出すタイミングを見計らっていたような様子の変化だった。


「……結局、灮太郎は世界五分前仮説のこと信じてる?」

「そんなわけないだろ」


 間髪を入れずに答えると彼女は驚いたようにこちらを向いた。

 大きな目をまんまるに開いている彼女に笑みが零れる。

 六年以上の付き合いだ。なんとなく、訊かれることはわかっていた。


「俺にとっての過去は、一瞬で作り出せるほとペラッペラな時間じゃないから」


 先日果夏に言われたことを、ずっと考えていた。

 今この時間も、未来からすれば存在していたと証明することはできない。

 だけれど、そんな簡単に過去を作り出されてはたまらない。


「灮太郎って、やっぱ単純構造だよね」


 ふっと表情を緩ませた彼女が、呟くようにして言葉を落とした。


「あーなんだろ、ちょっと寂しくなってきたな」

「やめろよそういうの、急に」


 果夏の言葉のせいで押さえ込んでいたはずの寂しさが滲み出て、じんわりと心を浸水させてくる。

 土手道から河川敷を見下ろすと、七月下旬の青々と茂る葉っぱが熱を込めた風に吹かれてさらさらと揺れている。


「わたしもね、ずっと考えてたんだよ。灮太郎との記憶、絶対になかったことにはしたくないから」


 ——今を、確かに存在していたものにするために。

 体操服のポケットに手を突っ込んだ彼女は、何かを手の中に握りながら俺に差し出した。気がつけば二人とも足を止めていた。

 催促されるままに俺も右手を出すと、その上に彼女は取り出したものを優しくのせる。


「四葉のクローバー……?」

「そう、わたしが春季大会のときに見つけたやつ。結構綺麗でしょ」


 レジンの中に閉じ込められたクローバーは彼女の言うとおり綺麗だった。葉っぱの渋い緑色のみずみずしさには強い生命力を感じた。

 透明なレジンの向こうがわには空の青がうっすらと透過して見えた。


「わたしのこと、設定なんかにしないでよ?」


 彼女の言葉にはっと顔を上げる。

 潤んだ目をきゅっと細めて、彼女は俺の肩を軽く叩いた。


「本当に今まで、楽しかったから!」


 じゃあね! と勢いよく手を振って、彼女は別れ道の先へと足を踏み出した。

 そこで、もう最後なのだと、今更ながらに自覚する。けれど、喉も足も動かない。

 時折こちらを振り向きながら駆けて、じゃあね! を連呼する彼女もずっと笑顔だった。頬に涙が伝っていても、間違いなく笑顔だった。

 俺はそれに、笑って応じてただけだった。


 あの日握りしめていたクローバーは、今では少しだけ見た目は変わってしまった。渋い緑色だった葉の色が濁ってきて、ほんの一部が脱色し始めている。

 それでも、俺にとってはなにも変わらない。


「そのクローバー浦西に貰ったって言ってたよな」


 藤田の言葉によって意識が現在に戻る。

 彼の声色は静かで、微かに怒りをはらんでいるように聞こえた。


「縛られすぎなんだよずっと。浦西が転校してから変なんだよ。忘れられないなら、なんで告白しなかったんだよ。この三年間だって、何か起こせる行動があったんじゃないのかよ」


 藤田が我慢ならないと言ったように言葉を吐き出す。

 分かっていたに決まってる。なにも行動できなかったのは、自分がどうしようもなく弱かったからだと、理解している。

 彼女が俺のことをとっくに過去にして今を生きているのを知るのが、怖かった。九州という遠さを言い訳にして、ずっと逃げていた。

 終わらせたい、と強く思った。

 なにもできないなら、こんな恋は終わらせてしまうべきだった。もう過去だから。

 そうだ、雪乃と付き合うのだって、ありかもしれない。彼女と一緒に過ごしていれば、いつかは本当の意味で前を向けるときが来るかもしれない。

 だから、と藤田に言葉を返そうと口を開く。


「……灮太郎?」


 カラン、と手の中のキーホルダーが音を立てた。

 意識をぶった斬るように耳に届いたその音は、俺の思考を一瞬クリアにさせる。あの頃毎日のように一緒にいた彼女の姿が、脳裏に蘇った。


 小柄なくせに厄介なほど粘り強い。諦めたくなるボールでも食らいついて一点をもぎ取るプレー。

 勉強できないくせに他人のことばっかからかうテニスのばかりの脳筋バカ。

 感情に素直で、悔しさも喜びもいつだって全力。コロコロ変わる表情の全部が、ずっと脳裏に染み付いている。ずっと、あの日々から三年が経過した今でも。


「うるっせえんだよ!」


 なにが終わらせたいだ、なにが過去だ。

 黙ってろよ、やっぱ逃げてんじゃねえか。

 真夏みたいに笑うあいつが、俺は今でもまだ————……。


「果夏のことが好きなんだよ!」


 過去が嘘でも本当でも、記憶が俺の中に存在するなら、それを信じられればもう十分。

 世界が始まる三秒前から、俺は、ずっと彼女に恋していた。

 だってそうだろう。六年と少しなんていうひとことで表せるほど——一瞬で作り出せるほど、俺のあの日々は決して薄っぺらいものじゃなかった。

 それだけは、過去が嘘だったとしても間違いない。


「だから俺は、今は果夏のことを好きなままでいたい」


 そしていつか、彼女のことを心の底から過去だと思える日が来れば、そのときに再び歩き出したい。今はまだ、停滞したままでいたい。俺にはその時間が必要な気がする。

 視線がぶつかった彼は、なぜか少し泣き出しそうな顔をしていた。なのにその口元には笑みが浮かんでいる。


「……好きとか、浦西本人に言えよ一途バカ」

「言えるかよ、連絡先とか知らないし。九州遠いし」

「さっきの威勢どこいったんだよ」


 顔をくしゃくしゃにして笑う藤田の声色は柔らかなものになっていて少し安心する。

 緊張感のあった空気のせいで無意識に全身にこめていた力を、ふう、と息を吐き出しながら緩めた。

 握りしめていたクローバーのレジンを左ポケットの定位置に戻す。


「でも三年ぶりにそれ聞けてよかったわ、なんか」


 藤田がどこか嬉しそうに独り言のように呟いた。

 それ、という曖昧な代名詞を受けて、自分の先ほどの発言を遡る。


——『果夏のことが好きなんだよ!』


 数分前の自分の発言が頭の中で大音量で再生され、顔の温度が急上昇したのが分かった。

 なんだこれ。廊下からは他の生徒の気配を感じないとはいえ、聞かれていたらと考えるだけで悶えそうになる。

 同じ言葉がエコーがかかったように頭の中で何度も繰り返し反響して、なんだかクラクラしてくる。

 目の前の男がやけにニヤニヤしているのも、絶対にその発言のせいだ。


「なんなんだよ、よかったって。過去なんて忘れろみたいなこと言ってたくせに」

「誤解だろそれは。灮太郎と浦西のこと、一番応援してたの俺だったんだからな」


 は? と聞き返す俺に少し照れたように笑ってから、藤田は野球部の白いバッグを背負い直す。


「じゃあ灮太郎もはよ部活行けよ」


 適当な一言を残して、彼はこちらに背をむけさっさと教室から出て行ってしまった。

 そういえば、彼はよく中学時代に俺の相談に乗ってくれていた。もしかしたら、最近の焚き付けるような物言いは俺のためを思ってのことだったのかもしれない、なんて思えてきてしまう。

 なかなか性格が悪い、けれど、変なところでお節介な親友。

 そんな彼もいなくなった教室に、今朝ぶりに一人きりになった。

 外からワッと賑やかな声が聞こえてきて窓から見下ろすと、同じテニス部の友人たちが練習でラリーをしながら騒いでいるのが見えた。

 それだけで、また果夏との記憶が顔を出す。

 だけど今までとは違い、過去という付箋の貼られたその記憶とも向き合える気がする。

 ようやく前を向けた気がするから。


「俺も、部活行くか」


 早く行かなければ顧問に怒られてしまう。

 あと——すぐにでもあの青い空の下に立ちたい。

 長年の相棒であるラケットを手にして、俺は教室を飛び出した。

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