扉の向こう
「開けるっす!」
セイカは立ち上がると、扉に手をかける。
「はい。一人で大丈夫ですか?」
私がそう声をかけると「大丈夫っす!」と、セイカはゆっくりと扉を押す。
ギギギ……という低い音を立てて、扉が外側へと開いていく。
重そうな見た目だったが、セイカの細腕でも案外スムーズに動くようだ。
扉がある程度開いたところで、セイカは動きを止め、にこにことしながら扉の隙間から奥を覗き込む。
「ではでは、お楽しみはなんだろなー……っと?」
そこまで言いかけて、セイカの言葉が不意に途切れる。
次の瞬間、セイカの顔から笑顔が消え、目を見開く。
そして、表情は変えずに、セイカはゆっくりと――本当にゆっくりと、こちらを振り返る。
私とツキミの位置からでは、まだ扉の向こう側は見えない。
「セイカさん……?」
私が声をかけると、セイカは何も言わずに、固まった表情のまま、小さく顔を横に振る。
そして今度は、開けた扉を驚くほど丁寧に、音を立てないよう注意しながら、ゆっくりと閉めていく。
ギ……という微かな音を最後に、扉は再び固く閉ざされる。
状況が理解できず、私とツキミは顔を見合わせる。
すると、セイカはおもむろに人差し指を唇に当て「しーっ」という素振りをし、真剣な面持ちで私たちを手招く。
どうやら、もっと近くに来いということらしい。
あのセイカが、こんなにも慎重な態度を見せるなんて。
一体、扉の向こうに何を見たというのだろう。
ツキミも、セイカのただならぬ様子に何かを感じ取ったのか、珍しく警戒するような素振りで、私と一緒にセイカの元へと静かに歩み寄る。
三人が扉の前に、まるで石ころを縦に重ねたような格好で顔を寄せ合う。
するとセイカは小さな声で、しかし有無を言わせない真剣な声音で囁く。
「いいっすか? 局長、ツキミ。絶対に騒いだらだめっすよ。すこーしずつ開けて、中を見たら、またすこーしずつ閉じるっす」
いつものセイカからは想像もつかないほど真剣で、そしてどこか緊張を孕んだ声色に、私の胸はドキドキと高鳴り始める。
「え、えっと、セイカさん、一体何があったんですか……?」
小声でそう尋ねるが、セイカはふるふると首を横に振るだけだ。
「お楽しみは、みんな一緒っす」
そう言うと、セイカは再び扉に手をかけ、今度は先ほどよりもずっとゆっくりと、息を殺すように扉を開け始める。
ゴクリと、誰かの喉が鳴る音が、静寂の中で響く――たぶん、私の音だ。
セイカがゆっくりと、まるで時を刻むように、少しずつ扉を開けていく。
そのわずかな隙間から、私も息を呑み様子を伺う。
次第に視界が開けていくにつれ、奥行きと広がりが分かる。壁や床の造りは今いる部屋と同じようだ。
そして、扉の隙間から、少しだけ熱をもった空気が、この部屋へと流れてくる。
(魔力? 少し暖かい?)
火の部屋ほどではないが、若干の熱を帯びているようだ。
セイカが、先ほどと同じくらいまで扉を開くと――
部屋の奥、巨大な物影が見え始める。
(……岩?)
しかしすぐに、その影がゆっくりと上下しているのに気づく。
徐々にその影の輪郭がはっきりとしてくる。
それは物影などという生易しいものではない。
ごつごつとした鱗に覆われたような皮膚、太くしなやかな首、そして巨大な尻尾を折りたたんだようなシルエット。
間違いない。あれは――
「ドラゴ――」
私が思わずそう叫びそうになった瞬間、にゅっと横から伸びてきた手が、私の口を乱暴に塞ぐ。
「んぐっ!?」
驚いて隣を見ると、そこには扉を押さえるのとは反対の手で、私の口をしっかりと押さえているセイカの真剣極まりない顔がある。
「しーっ! だから、静かにって言ったっすよ!」
普段の彼女からは想像もつかないほど低い、咎めるような小声で、セイカは私にそう囁く。
私はハッとして、必死に何度も頷いて見せる。
セイカも理解してくれたのか、少しだけ眉間の皺を緩め、ゆっくりと私の口から手を離す。
幸い、その生き物はまだ深く眠っているようだ。
しかし、改めて目を凝らすと、その巨体に息をのむ。折りたたまれた尻尾だけでも、私の身長をはるかに超えていそうで、背筋がひやりとする。
(どうしよう……)
声は抑えているが、鼓動は抑えることができない。
ふう、と息を吐くのも憚られるような緊張感の中、私はそっとツキミの方へ視線を送る。
ツキミはその生き物から目を離さずに、観察しているようだ。
「一回閉めるっす」
セイカは静かにそう言うと、再び扉に意識を集中させ、先ほど開けた時よりもさらに慎重に、ゆっくりと音を立てないように扉を閉じていく。
ギ……という、心臓に悪い小さな音を最後に扉は完全に閉じる、その瞬間。
私たち三人を包んでいた緊張の糸が、ぷつりと切れる。
「ぷはぁーっ!」
私とセイカは、まるで水中に長く潜り、ようやく水面に顔を出したかのように、大きく息を吐き出すと、その場にへなへなと座り込んでしまう。
心臓が、まだバクバクと大きく波打つ。
一方のツキミは、私たちに一瞥をくれるものの、特に動揺した様子も見せず、顎に手を当て何か考え込んでいるようだ。
緊張が少しずつ解けてくると、別の種類の不安が胸の中に広がっていく。
「……ドラゴン、でしたよね? 今の……」
ややあって、ようやく絞り出すように私がそう口にすると、隣で同じように座り込んでいたセイカの顔が、ぱっと輝く。
「やっぱドラゴンっすか!? すごいっす! アタシ、本物のドラゴンなんて初めて見たっす! やっぱりダンジョンにはドラゴンがいるんすね!」
そう言うと、セイカはその場で立ち上がり、何故か嬉しそうにぴょんぴょんと謎の小躍りを始める。
(ダンジョンには普通、ドラゴンはいないと思うのだけれど……)
何が嬉しいのか全く理解できないその思考に、私は苦笑いを浮かべるしかない。
ちらりとツキミの方を見ると、喜色満面のセイカのことなど気にも留めず、何かメモを取っているようだ。
「今は眠っているようですが。突然、目を覚ます可能性もありますよね……」
小躍りを続けているセイカを眺めながら私は呟く。
目の前には扉が一つ、その先には巨大なドラゴンのような生き物。
(何が全力で逃げる……だ。逃げ道なんてどこにも無いじゃないか……)
私が立てた作戦なんて、所詮その程度か……。
そう途方に暮れかけていた時、ふと、真剣な顔で思考をするツキミの横顔が目に入る。
何だか、この状況で一人だけ冷静に悩んでいるツキミが、一番まともに見えてくるから不思議だ。むしろ、頼もしくさえ思えてしまう。
そんなツキミの姿を見て、自分がここの責任者、つまり「局長」という立場だったことを思い出す。
(私がしっかりしなくては!)
私はぶんぶんと顔を振って気持ちを切り替え、唇を軽く噛む。
とはいえ、どうすればいいのか皆目見当もつかず、内心では少しだけ青ざめる。
それでも、まずはツキミの考えを確かめてみようと思う。
「ツキミさん、ここから出るための何か良い考えはありますか?」
ツキミはすぐに反応し、ゆっくりとこちらに振り向く。
そして、ほんの一息だけ間を置くと、静かに、しかしはっきりとした声で言う。
「あれはトカゲだな」
「トカゲ……?」
想像の斜め上どころか、遥か雲の上まで飛んで行ってしまったかのような回答に、私の口が勝手に開いていく。
脱出方法とか、あの生き物を回避する策とか、そういう意見が返ってくることを心のどこかで期待していた私は、開いた口を閉じることができない。
そして、それはどうやらセイカも同じだったようだ。
あれほど嬉しそうに小躍りしていたセイカが、ぴたりと動きを止め、そのままの体勢で目を真ん丸に見開きツキミを見つめている。
そして、少し間をおき、震える声で呟く。
「ド……ドラゴンじゃないっすか……?」
ドラゴンであることを願うようなセイカの姿に、私の口がもう一段階大きく開く。
(なんで、こう……どこかズレるのだろうか……)
二人の反応に、切り替えたはずの気持ちがまた揺れかける。
ツキミは、あのトカゲに対する好奇心が優先して、この危機的な状況からの脱出方法についてなんて全く考えていないのだろう。
いや、そもそも危機だとも思っていないのかもしれない。
(勝手に期待して、勝手に絶望している自分が馬鹿みたいだ……)
ついでに言えば、隣で固まっているセイカもきっと、何も考えていないのだろう。
改めて、その事実に気づいてしまい、私は深いため息をもらす。
でも、心のどこかでは分かっていた。
ただ、もしかしたら、という淡い期待をほんの少しだけ抱いてしまっただけ。
結局のところ、この状況を何とかする責任は管理局長の、私にある……。
そう思うと、ずしりと重いものが肩にのしかかってきて、私は少しだけうつむいてしまう。
その間にも、セイカはまだ諦めきれないようだ。
「あれはドラゴン……っすよね……?」
先ほどの小躍りをぴたりと停止させた、やや不安定な体勢をなぜか維持したまま、まだドラゴンであってほしいという切実な願いを込め、ツキミに再度訴えかけている。
(あの体勢を維持できるなんて――やっぱり、この子凄い)
こんな状況だというのに、私はセイカの妙なところで発揮される身体能力に、思わず感心してしまう。
(いやいや、感心している場合じゃない。それに、本当はドラゴンじゃない方がいいのだ)
心の中でそうツッコミを入れるが、やはり言葉には出せない。
ツキミはセイカに向き直ると、その小さな希望の光を打ち砕くかのように、きっぱりと言い放つ。
「どう見てもトカゲだろう」
セイカを見据えたまま、ツキミは冷静に言葉を続ける。
「それに、ドラゴンなんて神話上の生物だ。そもそも実在したかどうかも怪しい。仮に、過去に存在していたとしても、現代に生き残っているわけがない」
ツキミの言葉に私は少し冷静になるが――
「確かに。私の地元でも水龍が祀られていて、逸話も幾つか残ってはいますけど、実際に見たという話は聞いた事ないです。でも……あんなに大きなトカゲも見たことないです……」
(逸話も、本当にあった事なのか分からないけれど……)
「ドラゴンはいるっす! 絶対いるっす! すっごーい強くて、賢いんすから!」
いつの間にかセイカの小躍り停止体勢は解除され、ツキミの両肩を掴むと、まるで子供が駄々をこねるかのように、必死の形相で訴えかける。
そのあまりの剣幕に、ツキミは眉をひそめ、口を開く。
「おとぎ話を信じすぎだ。仮に、お前の言うようなドラゴンが存在したとしても、ここにはいない。あれはトカゲだ」
これ以上セイカに迫られるのは面倒だと感じたのか、あるいはほんの少しだけ彼女の熱意に絆されたのか、ツキミはほんのわずかに「ドラゴンが存在した」という可能性を匂わせるような言い回しをしたが――
結論はやはり「トカゲ」のまま、びくともしない。
そのツキミの言葉が、セイカにとっては決定打だったようだ。
ツキミの肩を掴んでいた手から、ふっと力が抜け、だらりと両腕が下がる。
そして、くるりと私たちに背を向けると、力なく壁際へと歩いていく。
「そんな……アタシのドラゴン……」
まるで、ドラゴンが自分の所有物であるかのような、謎の言葉を小声で呟きながら壁に背中を預けると、両膝を抱え小さく丸まって座り込んでしまう。
先ほどまで小躍りしていた元気はどこへやら……。
(何がそんなにショックだったのかは、全く理解できないけれど……)
あまりにも、しょんぼりとしたセイカを見ていると、なんだか少しだけ同情してしまう。
このままでは、こちらの気まで滅入ってしまいそうだ……。
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