一人目
腕の時計をちらりと見れば、案の定、指定時刻きっかりだ。
内心の緊張を抑え、責任者としての落ち着きを意識し、その姿を待つ。
すると、木々の間から少し小柄な体格の人影が現れ、こちらへまっすぐに向かってくる。
その歩みは驚くほど速く、一切の無駄がない。
制服は私と同じものだが、スカートではなくズボンを穿いている。その上に羽織っているのは、くすんだ茶系の、薄手のコート。
学者の白衣を思わせる仕立てだが、動きやすさを重視した簡素な造りのようだ。
その装いと、スラッとした体型は、少年を思わせる。
額には使い古した革製のゴーグル。黄金色の切り揃えられた短い髪が、木漏れ日に照らされ光っている。
手には何も持っていない。
その代わり――という訳でもないだろうが、腰に下げた革の鞄は、額のゴーグルと同じように、ずいぶんと使い込まれているようだ。
(よし、まずは一人目……)
私は、挨拶の言葉を整えるために、軽く息を吸い込む。
ところが――
その人物は、入り口の傍らに立つ私の存在など、まるで意に介していないかのように、その視線をダンジョンの暗い開口部にのみ注いでいる。
私のすぐ数歩手前を通り過ぎる瞬間でさえ、顔をこちらに向けることも、歩みを緩めることすらない。
そして、そのまま、本当にそのまま、何の一言もなく、ダンジョンの入り口を示す、黒い影の中へと、躊躇なく足を踏み入れてしまう。
「こんに……ち……。え……?」
思い描いた挨拶は、声にならない音に姿を変えて、私の喉から静かにこぼれていく。
あまりにも自然に、あまりにも当然のように通り過ぎていくその様に、私は完全に意表を突かれる。
(挨拶は? 自己紹介は? ここに私が立っているのが見えなかったとでもいうのか?)
私は開いた口をそのままに、ただ、その小柄な後ろ姿が、薄暗い通路の奥へと消えていくのを、呆然と見送るしかない。
(待って――!)
その姿が完全に見えなくなる寸前、ようやく私の意識が現実に引き戻される。
ここで見失ってはならない、新任局員のはずだ。
私は、ほとんど反射的に叫んでしまう。
「こ、こちらの方! 少々お待ちください!」
慌てて発した声は、自分でも情けないほど、少し裏返っていたと思う。
しかし――私の必死の呼びかけも空しく、その人影は一向に歩みを止めようとしない。
それどころか、まるで私の声など最初から聞こえていないかのように、躊躇なくダンジョンの暗がりへとさらに進んでいく。
「え……また?」
今度こそ、本当に言葉を失いそうになる。
一度ならず二度までも、完全に無視されるなんて。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。
このままでは内部の情報が何もない、ダンジョンの中に一人で消えてしまう。
責任者として、それは絶対に防がなくては。
私は一瞬だけ唇を噛みしめると、すぐに気を取り直す。
(こうなったら!)
私は意を決して、その小さな背中を追いかける。
幸い、相手の歩みは速いが、大股ではない。
小走りで駆け寄れば、すぐに追いつけるはずだ。
薄暗いダンジョンに数歩踏み入れると、ひんやりとした空気が肌をなでる。
改めて目を凝らすと、十数歩先の茶色いコートが、曲がった先へと消えていく。
(まずい、見失う)
私もその後を追う。
角を曲がると、幸いにも背中はまだそこにあり、距離はさほど離れていない。
さらに数歩駆け寄る。
追いつきざま、安堵の息もつかずに右手を伸ばし、私はその左肩を強く掴む。
「お待ちください! と言っているのが聞こえませ……ん……か?」
思ったよりも強い語調になったのは、焦りと、少しばかりの苛立ちのせいかもしれないが、その勢いは、右手に伝わってきた感触に吸い込まれてしまう。
(この感触……女の子?)
掴んだ肩は、先ほど遠目で少年を思わせた雰囲気とは裏腹に、驚くほど細く、そしてどこか頼りないほど華奢だ。
そこで初めて、私は自分の先入観に気づく。
反射的に肩を掴んでしまった手前、少し気まずさを感じたが、今はそれどころではない。
このままでは、彼女は本当にダンジョンの奥へ行ってしまう。
私は、掴んだ肩から手を離さぬまま、その手を軸にするようにして、彼女の前に素早く回り込む。その勢いで、彼女の短い髪がわずかに跳ねる。
そして、逃がさないというようにと、改めてその両肩をしっかりと掴む。
これでようやく、私たちは顔を正面から向き合わせる体勢になる。
そうして間近で見た彼女の顔に、私は目を奪われていた事に気付く。
ここはダンジョンの奥へと続く闇が近いせいか、かなり薄暗い。
それなのに、入り口から反射して届いたのだろうわずかな光が、まるで彼女の黄金色の髪が呼び寄せているかのように集まり、その輪郭を淡く輝かせている。
その髪と同じ、吸い込まれそうなほど美しい金色の瞳が、薄闇の中ですら不思議なほど鮮やかに、そこにある。
長い睫毛に縁取られたその瞳は、まるで自ら淡い光を放つ宝石のようだ。
その宝石のような瞳を宿す顔立ちは、こんな辺境のダンジョンには不釣り合いなほど、人形のように整っている。
だが、その宝石は、何の感情も映さず、ただ静かに私を見返しているだけだ。
表情というものが、まるで抜け落ちてしまっているかの様に。
その無機質な視線に、私はハッとして、慌てて掴んでいる両肩から手を離す。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような、あるいは、こちらが見透かされているような、落ち着かない気分になる。
幸い、手を離しても彼女が再び歩き出す気配はない。その視線は、もうダンジョンの奥ではなく、真っ直ぐに私に向けられている。
どうやら、これでようやく話を聞いてもらえるらしい。
私は意味もなく、わざとらしい咳払いを一つする。
「あー、コホン……! その、あなた、どうして先ほどから私の呼びかけを無視して、勝手に中へ……」
今度こそ、責任者としてしっかりと言い聞かせなければ。そう思って私が、言葉を続けようとする、その瞬間。
「知ってる」
静かで、抑揚のない、けれど不思議とよく通る声が、私の言葉を遮る。
「あんたが新任の局長だな」
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