第9話

   (九)

「そんなあ。うちは、うちはどうしたらええのん」

 翌日、詩乃に異動が年明けになったことを伝えた。

 先日も松山へ行きたいと辛がっていたのだから、急な展開に少なからず動揺するだろうとは思っていた。

 フラミンゴの座敷で、つい先ほどまでは佐久間の誕生日を一日遅れで笑顔で祝ってくれていた。そして詩乃自身の体調も今週に入ってずいぶん良くなったことあって、春までの屈託のない笑顔が戻ってきていた。

 その笑顔を曇らせるのは忍びなかったのだが、社内で他の者から聞かされるよりは佐久間の口から伝えたかったのだ。

 詩乃はそれだけ言って、俯いたまま動かない。

 佐久間が何かを言うと泣き出してしまいそうに見える。それが分かるだけに言葉が出なかった。

 どれくらいそうしていただろう、やがてふうっとため息をついて肩の力を抜いた。

「やった、泣かんかった。詩乃、偉い」

 自分にそう言い聞かせてようやく顔を上げた。

 佐久間にはそういう詩乃が、またたまらなく愛おしく思える。

「ごめん。お仕事の都合やもん仕方ない。パパが悪いわけではないねんから」

「落ち着いたら月に一度や二度は帰ってくる。そのときに会えるし、少し遠いが週末に松山へ来ることもできるし、中間の岡山あたりで会うこともできる」

「うん・・・」

 佐久間の言葉に頷きはしたものの、どこかうわの空で、違うことを考えているようだ。

「なあ、パパ、約束のあの店へ連れて行ってくれへん?」

「これから?時間は大丈夫?」

「明日休みやし。あ、術後の外来受診でお休みとってんねん。それに、お酒が飲みたいわけではないから大丈夫」

「わかった」

 佐久間は勘定をして、モリに電話を入れた。

 九時前でそろそろ混みはじめる時間でもあり、大西がいないことも確認しておきたかったのだ。大西だけならば、多少気まずいところはあっても、昨日の言葉から考えると状況を理解して知らぬ顔をしてくれると思う。しかし、社内の他の人間と一緒に来ているとなると、いささかこじれる可能性もある。

 ママに先日話した彼女と行くことを告げて、新地へと向かった。

 梅田は神戸や宝塚方面への乗換駅であり、会社の人間も数多くここを経由して通勤している。まだこの時間では、誰に会うとも限らない。阪急や阪神の駅近くを避けて、少し遠回りをすることにした。JR大阪駅の裏手を通り、西梅田から四ツ橋筋に出て西側から新地へ入る。モリは新地の西の端なので却って都合が良い。

 例によってバーテンダーが「いらっしゃいませ」と声をかけると、すぐにママが二人を案内してくれた。店の一番奥のボックス席で、仕切りがちょうどついたてになって他の席からは見えにくい。そこへ向かい合って座る。

 ママが水割りのセットを持ってきて、親しみをこめた笑顔で詩乃に注文を聞く。詩乃はサワー系のカクテルを注文した。ママはバーテンダーにそれを伝えて佐久間の隣に座る。

「ようこそ。佐久間さんがほの字の彼女はん」

 例によって満面の笑顔でいきなり詩乃の心に飛び込んでくる。詩乃も面食らっているようだ。

 そう言いながら、一瞬のうちに詩乃を観察し、驚いている詩乃の表情も受けとめているのがわかる。女には女の方が厳しいとよく言われる。詩乃をどう判断したのか多少気になるところではある。もっとも、佐久間の気持ちは、それによってどうこうなる程度のものではない自信もある。

「あの、ホノジ・・・って?」

「ああ、若い子はそんなこと言いませんのんですか。惚れてるっていうことほの字って言いますねん」

「はじめて聞きました」

「けど、佐久間さんの見る眼は確かですわ。うちが言うのんもおかしいけど可愛い人。それに本当に京子によう似てはる。京子が休みの日は、この店出てもらうわけにいきませんやろか・・・OLだけではもったいない」

 詩乃は驚かされるばかりで気がついてはいないようだが、どうやら合格したようだ。

 合図を受けて、カクテルをカウンター越しに受け取ってテーブルに置く。

「ほな、後は彼女はんよろしゅう」

「あ、はい」

 テンポよく言うだけのことを言って、隣の席へ移っていく。

「ね、達人だろう」

「うん。まいったなあ。で、パパって詩乃にほの字なん?」

 覚えたての言葉を早速使ってみる。

「それは詩乃が一番よく知っているだろう」

「それにしてもほの字やなんて、おっかしい響き」

「まあ、今じゃ時代劇や落語くらいでしか聞かない言葉ではあるがね。東京でも十分通じることから考えると、標準語だったのかな」

「ママさんて、歌手の山村みなみに似てると思えへん?」

「そうだ、この間から私もそう思っていたが、その名前が思い出せなかった」

「なあ、エリちゃんと京子さんて?」

「カウンターで笑っているのがエリちゃんで、入り口のボックスにいるのが京子ちゃんだ。今は顔は観えないが、ポニーテールの子」

「ふうん、そうなんや」

 詩乃は京子よりもエリに関心があったようだ。

 カウンター越しに客たちと会話をしながら、その内容によって様々な表情を見せている。

 エリを見つめる詩乃の胸の内はわからないが、佐久間もあらためて観察してみる。

 若いうちは、相手の言葉の真意や心のありかをよく吟味する余裕がないこともあって、相手の話しに反射的に反応してしまいがちである。また、酒の席では言葉や表情が必要以上にオーバーになり、嬌声になったり、場違いの高笑いになる。そして、それがサービス精神だと勘違いしているようにさえ思える。

 佐久間が一般的にこういう店が好きになれない原因の一つはそこにある。酒の席くらい面白おかしくいられればいいのかもしれないが、それが軽薄に見えたり品がなく見えたりするのが嫌なのだ。

 ところがエリにはそういうところがない。とはいえ普通に笑顔を見せたり、ときには驚いて見せ、ふくれっ面を見せ、迷って見せる。その表情は二十二歳の若い娘のものである。ただ、その表情になるまでにほんの僅かな間がある。そのために話している側に自分の言葉がしっかり受け止められているという感覚を与え、軽薄な印象を与えないのだ。そしてその表情や振る舞いは相手の期待するレベルよりはほんの少し控えめなのである。

 舞妓時代、常に着物で日本髪を結っていると動きは制限され、またオーバーな振る舞いは似合わないことから身についたものだろう。そして客のあしらいや間合いは、お座敷やそれ以前からの躾と訓練があり、先輩芸妓を見て、また実際に場数を踏む中で染み付いてきたのだろう。

 ただ、人によるのだろうが、客によっては物足りなさを感じるかもしれない。ひとときの憂さ晴らしにあえて軽佻浮薄を求めて飲みに来る者もある。

「あかんわ、うち、あの子に負けてる」

 詩乃は視線を落としながらそう呟いた。何を見てそう思ったのかは分からない。

「どうしたんだ、急に」

「ぱっと見ぃは可愛い子で、もしもパパと詩乃の間に娘がいたら、あんなふうになってくれたらええなあ、なんて思たけど、やっぱりプロや。うちらとは鍛え方が違う。あれでまだ二十二やなんて信じられへん」

「どういうことだ」

「何がどうとは説明できへんけど、なんか違うねん。そら中身はおんなじ世代の女の子やと思うけど、その見せ方と隠し方を心得てる、っていうのんかなあ」

 女性の方があるがままを見て、瞬間的に全体像を把握する能力には優れているとは思っている。しかし、その詩乃とてまだ二十五なのだ。佐久間がこの年になってようやくわかるようになったことが、ほんの僅かの観察で詩乃には見えていて、単純な表現ではあるが本質的に表現できるのだ。

「詩乃にそれがわかるって言うのも私には驚きだね」

「詩乃も女やもん。でも二十二っていうたら、パパとお付き合い始めた頃やろう、そう思たら、恥ずかしゅうなる」

「考えすぎだよ。仮にそうでもそんな詩乃だったから好きになったんだ。私の求めるものを詩乃は持っていた」

「ふうん」

「だから、詩乃にあまり大人にはなってほしくない」

「またあ」

「それにエリちゃんにしても、そうなりたくてなったのかどうかは分からないからね」

「そうやろうなあ、うちらにはわからん苦労してきたんや、きっと。そう思うと今更ながら詩乃は贅沢や。家ではお父ちゃんやお母ちゃんに甘やかされ、パパにも甘えてばっかり。女として成長せえへんのは当然や」

「それが成長とばかりは言えない気もするが、それでいいんじゃないか?それぞれがもって生まれた人生なんだから。それにこんな私といるためにいつも辛い思いをさせている」

「けど、そのたびにぴいぴい泣いて。エリちゃんやったらパパに涙なんか見せてへん」

「詩乃も今日は泣かなかった。私は覚悟していたのだが」

「あは、そうやろう、今日の詩乃はちょっと偉かった、て思てんねん」

 店にあたらしい子が入ったようで、カウンターはその子にバトンタッチしてエリが佐久間のところへ来る。

「お父ちゃんいらっしゃい」

 突然そう挨拶されて二人して面食らう。

「エリです。ええと、お連れさん、お名前聞かせてもろてよろしおすか?」

「元井、詩乃です。お噂を聞いて、今日はあなたに会いとうて、無理言うて連れてきてもろうたんです」

「へえ、うちに会いとうて?」

 詩乃の言葉に、少し驚いて不思議そうな顔を向ける。

「舞妓さんしてはった、て」

「はい、まだその癖が抜けませんのどすけど」

 佐久間の水割りに氷を入れる。

「あ、お父ちゃんて言うのん、誤解せんとってくださいね。佐久間さんにおんなじ名前の娘さんがいてはるってお聞きして、それやったらここではうちが娘になりますいうて。いうたら押しかけ娘でそう呼ばしてもろてるだけどっさかい」

 そう言って詩乃に気を使う。

「うわあ、ホントに舞妓さんの言葉。すてきやわあ」

 詩乃はエリの言葉を聞いていたのか、違うところに感激して眼を輝かせている。

「そんな言われたら、恥ずかしおすわ」

「あ、誤解やなんて。私もいつまでたっても子ども扱いされてますから」

「あら、お見かけしたところ、うちより少しお姉さんやのに。佐久間さん、失礼どっせ」

 それだけの会話で、会釈をして次のテーブルへ移る。

「パパあ、絵梨子っていう娘がいるの?」

 本気ではないが少し恨めしそうな眼を向ける。

「あ、いや、あの後すぐだったし、偶然にしては出来すぎで驚いていてね。成り行きでそういうことにしてしまった」

「でもちょっと嬉しいかな。パパがそんなに大事に思ってくれてたんやから」

「当然だろう。かなわぬ夢、ではあったがね」

 佐久間の言葉に優しく笑顔を向ける。その小さな嘘が気に入ったようだ。

 しばらくして京子が回ってきた。詩乃と二人して驚き合ったが、しかしすぐに意気投合したようで、佐久間をほうっておいて、どこかで会おうという約束ができていた。しかし、京子も女性と二人連れの席に長居はしない。

 そして詩乃は、うん、と自分に何かを言い聞かせるようにうなづいた。

「詩乃、春にパパが転勤するときに、さよなら言おうって思ててん。自分で決めるって約束してたから。やからそれまでは思い切り甘えておこ、て。クリスマスもお正月もバレンタインも。それで、いっぱい思い出作っておこうって」

「そう・・・か。私は離れてからあと、どうやって詩乃に淋しい思いをさせないでおこうかと、そればかりを考えていた。それは今も変わらないがね」

「けど、それができへんようになったんが辛かった」

「思い出は作れなくはない。しばらくは仕事に追われるだろうが、落ち着けば、今までよりも自由は利くだろうから、たくさんの思い出を作れる。詩乃がお嫁に行くまで時間はたくさんある」

「詩乃のために別れなあかん、なんて思てたのに?」

「そのときにはね。だが、それは理屈で、自分の気持ちに嘘はつけない」

「・・・詩乃は嘘つく決心してん。いつかその嘘がほんまになるまでずうっと。それに、適齢期?やから結婚することも真面目に考えていかなあかんていうのもあるし」

「適齢期か、前にも言ったが、そういう人が現れたら、でいいじゃないか」

「けど、パパと一緒にいてたら、どうしてもパパと誰かを比べてしまうもん。それにお付き合いが長うなったら、それだけ詩乃はどんどんパパ向きの女の子になっていく。それもちょっと怖い」

「私向きに、って?」

「ごめん。それは彼にそう言われてん。お前変わったなって。頼んない人でも付き合いは長いから分かんのやろうなあ。彼の前では前の詩乃でおらなあかんて思てても、もう、どれが本来の自分かわからへん」

「それが私向きに変わってきているということか」

「最初の頃はパパに大事にされたい一心で演じてたところもあったんやけど、そのうちそれがほんとの詩乃になってきてる。パパに変えられてしもたところもあるし」

「私にはそれが嬉しくてたまらないのだがね。それに、誰かのことを愛するっていうのは、その人の過去も全部含めて愛するってことじゃないか?だって、今のその人が魅力的なのはその人を作り上げてきた過去があるからだろう。結婚を考えるならそういう人と、ではないのかな」

「それはわかるけど、詩乃の全部がパパ向きになってもうたら、うちが誰かのこと見て魅力的やて思われへんようになりそうやし。それとなあ、パパが単身赴任やから、っていうのんもある」

「家内のことがやっぱり気になるか」

「うん。今まではパパと奥さんの間はしっかりしてて、詩乃はその隅っこのほうでいることで許してもらおと思ててん。けど、単身やったらそうはいかへんようになる。松山へ着いては行かれへんにしても、奥さんの眼の届かへんとこでお付き合いするのんは、なんか悪さ加減が違うて思うねん」

「なるほど。それで春には終わりにしようと考えたんだ」

「それも一つやけど、なんかきっかけがないと、詩乃も自分の心に区切りなんかつけられへんもん」

「詩乃の気持ちもわかるが、それはやっぱり辛いな」

「けど、あとひと月しかないねんなあ」

「私の気持ちはずっと変わらないから、無理をすることはない」

「パパはいつもそう言うてくれるけど、それはどうして?詩乃くらいの小娘さんなんかいくらでもいてるのに」

「前にも言ったと思うけど、私にとってはきっと最後の恋だからかな。もう一つ気障に言わせてもらうと、詩乃のために詩乃を愛していたいと思うから。こんなに好きになっても何一つ幸せにしてやることができない。その代わりに、必要なときには羽根を安めにこられる存在でいたい。だからこれからもいつでも窓を開けて、鳥かごの戸も空けていようと思う」

「これからもずっと?」

「ああそのつもりだ」

「いつ来るかも、来ないかもしれへんのに?」

「ああ、だけど詩乃がそれを負担に思う必要はない。好きでやっていることだし、私は今まで同様、家庭のある身だからね」

「ほんまに気障や。もう・・・折角泣かんでいられたのに」

 詩乃はそう言ってバッグからハンカチを取り出してこぼれそうになる涙を拭いた。

「詩乃が泣くことはない。そりゃあ、淋しいし、嫉妬心もある。だが、詩乃が幸せになることのほうがやはり大切なことだと思っている」

「やっぱりお父ちゃんみたいや」

 そう言って泣き笑いの顔を向ける。

 そうは言っても佐久間の本心はやはり詩乃を手放したくはない。

 それがかなわない望みならば、せめて忘れられたくはないのだった。

 父親の娘に対する愛情とはそういうものかもしれないと思う。

 時計を見ると十一時を過ぎていた。相変わらず客の出入りも頻繁で繁盛していたが、店を後にする。

 仲良くなった京子が表まで見送りに出てきて、詩乃に「またね」と声をかけ、詩乃も明るく「はあい」と答える。知らない者が見れば、間違いなく二人を姉妹だと思うだろう。

 四ツ橋筋からタクシーに乗る。

「京子さん、詩乃より二つ年上やねんて。ほんまに血のつながりないのんやろかって疑うてしまうわ。話しが合いそうやし、お店の方はうち一人では来られるとこやないから携帯の番号教えてもろてん」

「そうか。悪い子ではないと思うから、いい友達になれるんじゃないか」

「そうなりたい。双子か姉妹のふりして遊ぶのも楽しいかも」

「エリちゃんは?」

「複雑やわあ。パパから見たらほんとの娘くらいやけど、うちは年もそう変わらへんし。おまけに向こうの方がしっかりしてるんやもん」

「彼女に会わせることで、辛い気持ちを思い出させやしないかと心配していた」

「ううん。それはもう卒業した。結果的には四センチ程度の腫瘍やったんやから。手術の後で、取り出した腫瘍の写真見せてもろうたら、ふっきれたみたい」

「度胸あるな。私はとてもそんな気にならんが」

「そういうところは女の方が強いかもなあ」

「たしかに。ま、最近はそれに限らず、基本的に女性の方が強いと思うようになったが」

「変なこと言うけど、怒らんといてな」

「なんだ?あらたまって」

「エリちゃん、パパのこと好きやと思う。これは女の勘。それもあるし・・・どういうたらええんやろ、あの子やったらパパのこと譲れる?頼める?そんな感じがする」

「何を言ってる」

「怒ったらあかんて言うたのに」

「怒っちゃいないが、愚にもつかないことを考えるものだとね」

「そうかなあ・・・けど、今はそれどころやないねん。自分のこと考えな。もう、この気障なオジサン、どないしよう」

「まあ、そんなに慌てることはないんじゃないか」

「それも含めて、もう一回作戦考え直さなあかん」

 詩乃を高槻で降ろして、枚方へと向かう。

 詩乃が無理をしながらも一つの決心をしている。そのことは尊重してやらなければならない。しかし、詩乃のいないこれからの時間を考えると、言葉通りぽっかりと心に穴が開くような気がしてどうにもやりきれない。

 大の男が愚かなものだ。


 翌週、月曜日の午前中に佐久間は担当常務の部屋へ呼ばれ、人事部長から正式に内示を受けた。正月休みを考慮してくれてのやや早めの内示だった。

 大西からの情報は、おそらく部長の配慮によるものであろうが、公式にはあってはならないことなのだ。ここで予め知っていた素振りを見せては大西に迷惑がかかる。

 常務からの経緯の説明も、神妙な顔で聞いていなければならない。双方とも大真面目に茶番を演じているのかもしれない。新しい情報としては、佐久間の後任には東京の総務課長が異動になることが付け加えられていた。

 型どおり、これまでの仕事に対する労いと、新しい職場での期待の言葉を受けて職場へ戻る。少し大回りをして、大西の席の後ろを通る。肩を軽くたたくと、顔を上げて小さくうなづいて眼を合わせるが、お互いに言葉はない。それでも言いたいことは伝わる。

 内示が出れば、関係するものには憚ることなく伝えても良い。

 とはいえ、このての情報は、どこからともなく伝わるもので、部下の中にも何人かは、佐久間が異動になる程度のことは知っていたように思える。席を立つときに、常務室へ行くことを告げた段階で感づいた者もあるだろう。

 いずれにせよ、部下たちには知らん顔もできない。全員を会議室に集めて佐久間の異動と後任の人事を告げた。一様に驚いた顔をしてはいるが、それとて今しがたの佐久間同様、そういう顔をしているにすぎないのかもしれない。

 融通が利かないという一面もあるが、組織では建前が優先され、それが全てなのだ。

「というわけで、諸君との付き合いは思っていたよりも短いものになってしまったことと、力を借りた新しい制度がどう影響してくるのかを見届けられないことが残念だが、年明けからは後任の課長を盛り立て、さらに活躍してほしい」

 と、これまた型どおりの挨拶で締めくくる。

「諸君はこれを肴に送別会で飲めると思っているだろうが、知っての通りだから、私のほうはささやかにしてもらいたい。その分、後任の歓迎会で存分発散してほしい」

 最後にそう冗談を付け加えると、みなの顔も和む。

 人事部の者は異動に対して、特段感傷的になることもない。

 ただ、皆それなりのネットワークを持っている連中であるから、この話はすぐに各方面に知れ渡ることは覚悟をしておかなくてはならない。建前としては、あくまでも内示であるので変わることもあり得るという含みを残している。そのために伝えても良いのは関係者と限定はしている。しかし、実際にその後に変更になったのは急に当事者が倒れたという場合以外に経験はない。実質的には公表してもよいということなのだ。

「佐久間課長さん、噂って早いね、もう聞こえてきたよ」

 午後になってすぐに詩乃からメールが入っていた。

 仕事上のつながりはなくとも、社内の教育をしているために顔は広い。昼時の噂話のネタとしては格好の存在なのかもしれない。

 二、三日は知り合いに顔を合わせるたびに声かけられ、あれこれと尋ねられる。先方は良かれと思ってのことであるので無碍にもできないが、いささか閉口させられる。とはいえ、そうしてくれる者がいることは、やはり喜ばなくてならないことなのだ、と思い直す。

 いざ内示が出ると、仕事の仕方も変わらざるを得ない。

 まずは佐久間があまり得意ではなかった書類の整理から始める。ほとんどの業務については、部下たちが心得てくれているので、残していく書類も最小限でいい。これまで何度か異動に伴って引継ぎを受けてきたが、過剰な資料や詳細な記録はどの道眼に触れることはないのだ。かといって肝心の内容が抜けていて困った経験もある。

 そんなことを気にしながらの作業になると思いのほか時間をとられる。

 さらに、片道切符の異動であることから、思いもよらぬところから送別会だの食事会だのと誘いがある。そうした相手ともこれがおそらく最後だろうと思うと断れない。

 落ち着かないまま十二月に入った。

 先方の常務理事から、一度顔を見せに来るようにとの要請があったようで、部長からその指示を受けた。

 それは佐久間としても望んでいたところでもある。また単身とはいえ住むところを決めなければならない。勝手のわからぬ街で知り合いがいるわけでもない。先方の担当に適当に不動産業者を紹介してもらい、探すことになるのか、いわゆる社宅のような物件があるのかも尋ねてみなくては、準備にも取り掛かれないのだ。

 金曜日の午前中に出向くことになったのだが、前日にはすでに欠かせない予定が入っていた。朝一番の飛行機ならば早めに入れたのだが、意外にも既に満席で、その後の便では昼前になってしまう。あれこれ時刻表を繰ってみる。

 先方へ連絡して、事情を説明すれば理解はしてもらえるだろう。しかし、いきなり自分の都合を言うのも憚られ、できることならば指示通りに動きたかった。

 どうやら、夜行のフェリーからバスに乗り継いで松山に入るというルートしかないようだ。やはり不便ではある。ただ、船の旅には興味をそそられる。また、ゆっくりと眠る時間もありそうだ。

「何を調べているんですか」

 大西が何かを伝えにきたのだろう。佐久間の様子を見て不思議そうな顔をする。

「ああ、先方から金曜の朝から来いと言われたんだが、木曜日の夜は同期の送別会があって前日入りができなくてね」

「不便でしょう、以前私も大阪南港から東予へ渡って、そこからは連絡のバスで、という方法で行ったことがありますよ。以前は松山港までの便があったのですが、いつの間にか廃止になってまして慌てました」

「そうするしかなさそうだ。初めから君に聞けばよかった。ところで何か」

「あ、急ぐことじゃないんですが、うちの浅田の件ですが、こちらは四月一日付けに決まりましたので、それをお伝えしようと」

「そうか、それまでには多少状況も見えてきているだろうから、受け入れは大丈夫だろう。気にはしていたんだ、同じ時期だと私も自分のことで手一杯だろうから要らぬ苦労をかけることになりはしないかとね」

「そう言っていただけると助かります。実は人事課も彼の後任がなかなか見つからなくて、海外から一人呼び戻すことにしました。そうなると年明けからというわけにもいかず。こちらの都合ですみません」

「却ってよかったのだから、君が気にする必要はない」

「では。木曜日の夜の出発ですか、お疲れ様です」

「私もどこかではそうしようと思っていたから、いい機会だ。どう品定めをされるか、いささか不安ではあるが」

「ほ、佐久間さんでもそんなことを気にするのですか」

「そりゃあそうだろう、一介のサラリーマンにすぎないんだからな。不合格で首にされると家族が路頭に迷う」

「まさか」

 そういって笑いながら離れていく。

 もしも、力不足で経営が傾いたり、役職として失格の烙印を押されれば、そうなることもあり得るのだ。そういう状態になっておめおめと東和に帰ってこられるはずもない。管理職になり、長という役職に就くということは、常にそれだけの覚悟をもっていなければならないと、ちょうど十年前にそう決意したのだ。

 中には更に上役の顔色ばかりをうかがって、鼻から保身に走るものもある。それを否定する気はない。ただ、そうした上司の部下たちは、その課やそこでの仕事にプライドが持てるとは思えない。

 この間ふとしたことで思い出したかつての上司たちの姿、そして今もそうであってほしいのは、やはり部下や若い者から見て「そうなりたい」と思える上司の姿なのだ。

 そういう面では、これまで佐久間は誰かに媚びることなく生きてきたと思う。自分のために必要以上に誰かの機嫌を取ろうともしなかったし、誰かの思惑を忖度して動くようなこともあえてしなかった。

 そうしたことをバランスよくできるのも才能なのだが、いわばあえて不器用に生きてきたのかもしれない。

 と思いながら、詩乃とのことを思えば、「そうなりたい」上司の姿からはどうもかけ離れているようだ。

 佐久間がそういう生き方をしてきたことをよく知っているために、大西には多少とも意外に思えたのかもしれない。もちろん、言葉ほどに気にしているわけでもなく、いい意味での開き直りは常に持っているつもりである。どの道、全力で取組んで行くほかにできることはなく、後の評価は好きにしてもらえばいい。

 これまでの異動に比べると幾分緊張感はあるものの、肩肘張って構えていくつもりもなかった。

 その日の夜、理子には出張の予定と、状況によっては住まいも見てくることになると伝えた。

 これまでもそうだったように、引越しの予定を立てたり、業者への連絡などは佐久間がしてきたが、具体的に何をいつまでに準備するとか、梱包のために要領よく整理をするのはほとんど理子に任せきりであった。

 理子からは、住まいが決まれば間取りだけでなく、収納や窓の幅に高さ、玄関のドアの広さ、ベランダの有無や洗濯物がどれだけ干せるのか、洗濯機は室内に置けるのかなど、あれこれしっかり見ておくように指示されてメモを渡される。

 まるで子供扱いだ。しかし、そうでなければ、佐久間には漠然とした広さ程度しか答えられなかったのは間違いない。

 やはり主婦として、生活の場や空間についての配慮と知恵は、とうてい太刀打ちできるものではない。

 いつもの一ヶ月であれば、そう短い時間ではない。しかし、この一ヶ月は思いのほか短いものになるようだ。

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