第10話

   (十)

 木曜日の夜、大阪に勤務している同期入社の十人ほどが送別会を開いてくれた。

 ある年齢までは、同期入社は最も近いライバルである。直接競争することはなくても、誰が先に課長になるかなどと比較の対象ではあった。だが、この年齢になると、本人の意思で、あるいは不本意ながらも、社を離れて行った者が多くなる。これまで残っている者は半数程度であろう。そうなると、若い頃ともに独身寮で暮らしたつながりが貴重に思えてくる。

 その中での佐久間の異動であったために、誰からともなく集まることになったようだ。

 そして、そんな集まりであるから、佐久間もどうしても断る気にはならなかったのだ。

 集まった面々を見ると、既に部長に昇進したものもあれば、上が詰まっていてやむを得ず係長に甘んじているものもある。その運不運はサラリーマンの宿命でもある。全て処遇が実力どおりにはならない。

 佐久間がひと言挨拶をしただけで、堅苦しい雰囲気もなく会が始まり、新人だった頃の思い出話や、今の仕事や家庭の悩みなどをそれぞれが勝手に話し始める。送別会とはいえ、それを口実に集まってきたという面も否定できない。

 予め船の時間があるために中座することを告げてあったので、その時刻が近づくと無理をせずに早く行けと言ってくれる。このあたりは気心の知れた仲間ならではある。

 最寄の駅から港までは地下鉄を乗り継いで、三、四十分で着く。船は十時の出港なので、少し早めの八時半に彼らと別れた。

 フェリーターミナル駅で電車を降り、歩いて五分ほどで港のターミナルに着く。

 短い距離ではあるが、この時期になると海の近くでは風が強い。コートの襟を立てて小走りになってしまう。電車の中が暖房がよく効いていたために余計に寒さを感じてしまう。

 乗船券窓口で予約番号と名前を言うと、乗船券を渡される。男一人であるから二等でごろ寝をしてもよかったのだが、周りに気を使いたくはなく、少々贅沢もしてみたいと、定員二名の特別室を一人で予約しておいた。三割ほど割高にはなっても、飛行機に比べるとかなり安い。会社の規定では一等までの料金が認められているので、五千円ほどの自腹ですむ。

 早めに出てしまったために乗船までにまだ二十分近くある。夕刊を買って眺めてみるが、これといって眼を留めるような記事もない。週刊誌はどうにも好きになれず、少し前にベストセラーを出した作家の小説を買っていると、乗船開始の放送が流れた。

 乗船客の多くは、車とともに乗り込むために、放送が流れても乗船口に向かう人の数は思ったよりも少ない。

 ターミナルの建物の裏口から船へと向かうときに不意に腕を取られ、驚いて振り返ると詩乃の笑顔があった。

「どうしたんだ。いや、どうしてここだと」

 黒のレザーのコートにジーンズ、膝まである黒のブーツ、小さめの黒い皮のリュックを抱えている。

 予想もしなかったことに、立ち止まる。

 詩乃が現れたことにも驚かされたが、長かったストレートの髪を襟元までにカットし、大きめのウエーブのパーマを当てて、前髪は少しだけ斜めに下ろしている。そして全体に少し明るく染めている。春には肩口までだったがその後延ばしていたために背中まであった髪だ。

 佐久間に向ける笑顔は変わらなかったが、髪形のせいでずいぶん大人っぽく見えるのだ。

「来ちゃった」

「それもそうだが」

「髪、切ったの。おかしい?」

「いや、ずいぶん大人っぽくなったが、それも可愛い」

「よかった」

 いでたちからするとどうやらこの船に乗り込むようである。

「これに乗るつもりで来たのか」

「うん。パパが一人やなかったら、やめるつもりやったけど」

「無茶をする」

「そやかて、週末会われへんような口ぶりやったもん」

「言ったとおり、遊びに行くんじゃないんだよ」

「そんなことわかってる。パパと一緒に船に乗りたかっただけ。お仕事の邪魔はせえへん」

 今更帰れとも言えない。むしろ佐久間の気持ちとしては無性に嬉しかった。

「明日、仕事だろう」

「ええのん。手術のあと塚本課長、やたらと優しいねん」

「仕方のないやつだな」

「しばらくの間は通用しそう」

「今更帰れとも言えないな。いや、本当は嬉しい」

「行こ」

 佐久間の腕にしがみつくように歩き始める。

「乗船券は?」

「ようわからんかったから、とりあえず寝台てついてる二等寝台」

「今からでも切り替えができるか聞いてみよう」

 乗船口の船員に尋ねると可能であり、船の受付で言えば事足りるようだ。

「パパは?」

「特別室の一人貸切」

「うわ、やっぱり偉いさんや」

「何を言ってる。定員二人の部屋だからちょうどいい」

「ありがと。パパて頼りになる」

「それにしても無茶をする」

 その言葉を打ち消すように、ふふんと甘えた笑顔を向ける。

「思い出作りやもん」

 今度はちょっと視線を下げて呟くようにそう言う。それは佐久間にというよりも詩乃自身に言っている言葉にも聞こえた。

 タラップから船内に入るとすぐに受付があり、そこで切り替えを告げると、佐久間の割り増し分も精算されて、追加料金はほんのわずかなものだった。

 受付でホテルと同様に鍵を渡され、ごゆっくりどうぞと声をかけられる。

 一等客室の前を過ぎると、通路のタイルカーペットの毛足が長くなり、そこからが特等室のエリアとなる。船内であるために部屋はさすがにホテル並みとは行かない。広めの通路の片側に二段ベッドがあり、その先にちょっとしたソファのあるリビングがある程度である。ただ窓は大きく、眺めはよさそうだ。

「しかし、詩乃はどうして私がこの船に乗ることを知っていたんだ?まさか、人事課長が教えたわけでもあるまい」

「うちは京子姉さんから教えてもろうた。わざわざ電話かけてきてくれはって」

「そう、ならばその情報源はやはり大西だな」

 佐久間にはその意図がわかるような気がする。

 同時に、とんでもない人事課長だとあらためて思う。

 もっとも単に話の成り行きでそうなっただけなのかもしれないが。

「お店でそんな話になったみたい」

「だけど、おかしいとは思わない?」

「なんで?」

「そりゃあ、知り合いが転勤になる話まではするだろうが、わざわざ今日の私の出張を京子ちゃんに言うかい?それも何時のどこから出る船に乗って、なんて」

「そやなあ、言われてみると」

「その情報を京子ちゃんに言えば、彼女が気を利かせて詩乃に伝えると思ったんだろう。立場上、そうしてくれとは言えないだろうがね」

「ふうん、それで京子姉さんが大西課長の気持ちを汲んで、わざわざうちに教えてくれたってこと」

「おそらくね」

「そうか、阿吽の呼吸なんや」

「まあ、推測でしかないけれど」

「そういえば、姉さん大西課長のことダイちゃんって呼んでた」

「ああ、それは知っている。あの店では馴染みだから」

「ううん、それだけやない感じ。姉さんたちも応援してるよ、って、なんか共犯者?みたいな感じ」

「ははは、共犯者ってのはいいな。京子ちゃんが私にね、大西が本気なんだったらもっと真面目に口説いてくれないと折れたくても折れることができない、って言ったことがある」

「なら、真面目に口説いたんや、きっと」

「そして、やっと折れることができたか」

「でも、パパにしても、大西課長にしても男の人はみんなそうなんやなあ」

「どういうことだ」

「奥さんいてても他に好きな人ができる。おかしな勉強して、うちきっと自分のダンナさん信じられへんわ」

「そういわれると辛いが、それは人それぞれだよ」

 ちょっとした振動があり、船は定刻に出港した。

「なあ、せっかく船に乗ったんやからデッキへ行ってみよ」

「寒いよ、海の上は」

「その方がムードある」

「何のムードだ?寒いのがわかっていて」

「男と女の別れ話には北風が似合う」

 少しおどけながらそう言う。

「それなら私はやめておこう」

「もう、冬の海っていうだけでロマンチックやんか」

 詩乃に袖を引っ張られてそれに従う。

 何を考えているのかわからないが、そんな詩乃を見ていることが、佐久間には楽しくて仕方がない。

 船首側のデッキは正面から風を受けることになるので、とても長居はできそうになかった。船尾側に回ってベンチに座る。

「寒くないか」

「うん、平気」

 港を離れるにつれて、街の夜景が開けて見えてくる。

 平気だと言いながら、両手をポケットに入れて佐久間にぴったりとくっついてくる。

 そんな仕草が佐久間の心を締め付け、この詩乃への思いがやがて薄れていくとは到底考えられない。

 詩乃は嘘をつき通す、と言っていた。そんなことが本当にできるのだろうか。

「なあパパ、彼のこと話していい?」

「ああ、なんだい」

「二年、もう二年半前になるかなあ。その頃、詩乃、彼とは離れるつもりやった」

「友達以上恋人未満、だと言っていたが」

「うん、そういう関係から卒業しよ、って。そのままでは発展性がないような気がして」

「それはそうかもしれないな」

「けど、パパとお付き合いするようになって、それをやめたの」

「中途半端なままでいいと」

「この間パパに、小悪魔って言われたけど、ほんとはもっと悪い子やった」

「どういうこと?」

「そのままやったら、詩乃、パパのことどんどん好きになっていくのわかってたから、元の自分を忘れんように、て言うたらまだええけど、彼のことブレーキにしようとしてた。それに、いつかは終わらなあかんから、そのときに帰るところをキープしてた」

「なるほど」

「言うたら詩乃の勝手で彼のこと利用してただけ。彼はまさかうちがそんなこと思てるやなんて知らんと付きおうてくれてた。それに今も」

「ひょっとして、あの時突然泣いたのはそのせいだったのか」

「春のこと?」

「そう」

「うん・・・彼のこと騙してるのと一緒にパパのことも騙してる自分が許されへんて」

「私のことも騙してた?」

「パパはほんまに真っ直ぐ詩乃のこと好きでいてくれるのに、詩乃はそれにきちんと応えてないもん」

「所帯持ちが真っ直ぐとは言い切れないがね」

「ううん、奥さんや家族の前では違うパパなのは仕方がないこと。けど、詩乃と一緒のときは精一杯好きでいてくれるの分かるもん。それに引き換えうちは一人のくせに逃げ場所持ってるやなんて、最低や。考えんようにしようて思たら思うだけ辛あなって・・・」

「そうだったのか、やっぱりちゃんと理由があったんだ。その頃からからかな、私は詩乃のことを理解できていないんじゃないかって思うようになった」

「やからいうて、パパには嫌われとうのうて、ほんとのことはやっぱりよう言わんかった」

「言えば楽になれたのに。それによって私の気持ちは変わらなかったと思うし、詩乃にそんな逃げ場を作っておかなきゃならないようにしたのは私なんだから」

「なんで?なんで、こんな詩乃やのに。今日はパパに嫌われても軽蔑されても仕方ない、って覚悟してほんとのこと言うたのに」

「そんなことで変わらないよ」

「詩乃のこと嫌いになったやろう」

「まさか」

「軽蔑するやろう」

「ばかなことを。詩乃がどんな風に考えていても、こうして甘えてきてくれることが私にとっては贅沢すぎる幸せだよ」

「うち自身が許されへんのに、パパはなんで?」

「そうだな、また気障だと言われるだろうが、最初から条件付きで好きになったわけじゃないから、とも言えるな」

「条件付きて?」

「あの頃は、詩乃のような若い子がお付き合いしている人がいて当たり前だと思っていた。それでも好きなものは好きだった。彼がいないという条件付で好きになったわけじゃない。ただ、そのうちにその彼のことに嫉妬してしまうようになって、そんな自分のばかさ加減にあきれていたがね」

 詩乃はあらためて驚いたように佐久間の顔を見上げる。

 船はもうずいぶん岸から離れて、大阪から堺のあたりまでだろうか、街の明かりがつながって見える。もうしばらくすると神戸だ。

「困ったなあ」

「なにが」

「ほんとのことをパパに言えば、パパが詩乃のこと嫌いになってくれるて思てたんやもん。そしたら離れられるかもしれんし、詩乃の嘘も小さあてすむと思てたのに」

「それを言うためにわざわざこの船に?」

「ううん、これはやっぱり思い出作り」

 そう言って右手を佐久間のコートのポケットに入れてくる。

 佐久間はその華奢な手をしっかりと握る。

「冷たい手をしている。寒いんじゃないか」

「やっぱりパパの手、あったかい」

「数少ない取り柄の一つだな」

「一緒にいてると、こんな風にどんどんパパ向きの女の子になっていくねん」

「いいじゃないか」

「あかん・・・やっぱり」

 そう言いながら佐久間の肩に頭をもたげてくる。

 そんな詩乃をこのままずっと見つめていたいと思う。

 とはいえ、長居をして風邪でもひかせてはいけないと、話の続きは部屋で聞くことにして、そのままつないだ手を引いて戻ることにした。

「冷えただろう。浴場があるから、温まってきたらどうだ」

「ええの。明日、パパがお仕事の間に、温泉行くつもり。ちょっと調べたら松山といえば道後温泉」

「ああそれはいい。朝から行けるはずだ」

 部屋の中は暖房が利いて暖かい。二人して浴衣に着替えて、詩乃は洗面所で化粧を落とす。

 かりそめではあるが、夫婦のような空間になる。

「どうして髪を切ったの?って聞くとまた何にでも理由が要ると言われるか」

「はは、そんなこと。やっぱりどっかにけじめつけよて気持ちもあったんかなあ。何となく変わらなあかんて」

「髪を切るくらいで変われるならば、私は坊主頭にでもするがね」

「そやねん。あかんかった」

「後悔してる?」

「ううん。それが分かったことも勉強になったし。髪はまた伸ばそうと思たら、伸ばせるから」

 佐久間は先にベッドに横になり、詩乃においでと言う。

 詩乃はちょっと恥ずかしそうにしながら寄り添い、例によって佐久間の腕枕で横になる。

 二年半ですっかりなじんだ身体である。

「それで彼とはこれからどうするつもりなんだ」

「うん、都合のええように利用した罪滅ぼし、ていうたら余計悪いけど、そんな結婚もあるかなあとは思てんねん」

「そうか、罪滅ぼしっていうのは少し違うように思えるが、きっかけはどうあれ、一緒になってから上手くやっていけることの方が大事だ」

「それは大丈夫やと思う。ときめきはないかもしれんけど、気ぃつかうこともないから」

「それはいいことだと思う。といって認めたくはないがね」

「やのに、あのばか、もうちょっとしっかりしてもらわな、どうにもならへん」

「ばかはひどいが、たしかに今のままじゃね、私も嫁にはやれない」

「あは、またお父ちゃんみたいに」

「そうかもしれんな。大切な娘であることに変わりはない」

 そう言って抱き寄せると、ぴったりと身体を寄せてくる。

 佐久間の胸にすっぽりと収まってしまう頼りない身体である。

 佐久間にはどうしてもこの自然さと愛おしさを忘れられそうもない。

「まだだめか?」

「うん、まだちょっと心配。ごめん。けど、詩乃はこうしているだけで十分幸せ」

「ああ、これからもずっと、だ」

「あかん」

 詩乃は小さな声でそう言う。

「なあパパ、泣いてもええ?」

「どうした?」

「理由、要る?」

「いや、構わんよ」

「パパのばか」

「ああ、大ばかだ」

 詩乃はまたいつかのようにくすんくすんと泣き始めた。

 佐久間は、子供を寝かしつけるように、詩乃の背中を優しくたたいてやる。

 そう遠くない将来、詩乃は自分の元を去っていく。

 詩乃がそう決心しているならば、それを止めることはできない。今の彼と結婚することになるのかどうかは、彼次第であろう。いずれにしても普通の若い娘として生きていく道へ戻さなくてはならない。

 これまでの二年間と少しの時間が長かったのか短かったのかはわからない。

 この間詩乃が冗談半分で言った、妻子ある人を好きになる辛さを経験したという言葉は胸に響いた。佐久間とて同じである。妻子ある身で他の誰かを愛してしまうことも辛いことではあった。

 理子への愛情が薄れているわけではないことには自信を持っているが、それでも何の不満もない妻を裏切っていることにかわりはない。

 ここまで、年齢に抵抗するかのように詩乃の言うブレーキもかけずに大切にしてきた自分の心ではある。しかしやはりこのあたりがいわゆる潮時、なのだろう。そう思うと、佐久間の中にそこはかとなく湧き上がってくる感情は、詩乃を失うことへの悲しさと同時に、自分に迫ってくる老いに対する無常感もあるようだった。

 これからはおそらくもう二度と胸を躍らせることもないのだろう。

 船は明石海峡大橋を通過したようだ。

 

 翌朝、八時前には伊予鉄の松山市駅にバスがつき、詩乃とはそこで別れた。

 今日のこちらでの予定は皆目見当がつかないため、わかり次第電話をすることにした。

 佐久間は、予定通り九時には病院を訪ね、常務理事の沖田に会った。

 東和化学の役員連中から情報収集していたのだろうか、沖田元来の性格なのだろうか、思わぬ歓迎ぶりに佐久間が恐縮させられた。自分がそれほど秀でた人材であるとは鼻から思ってもいないが、沖田から見れば東和の人事部から現職課長という貴重な人材を譲り受けるという思いもあるのかもしれない。

 仁科事務長も同席で、病院の特殊性だの東和化学との歴史だの世間話をしながらも、やはり佐久間の人となりを観察していることは間違いない。

 その後、仁科が病院をひと回り案内してくれ、院長にも引き合わせてもらった。経営という意味では事務方が数字を握ってはいるが、病院の運営の面ではなんと言っても院長が主役である。

 企業は、社会貢献だの人材主義だのと特徴を出そうとはしていても、結局は利益という唯一の目的で全てが構成されている。それに比べて、病院には医療という次元の違う価値観がある。医者にとって医療の目的はあくまで医療であって、その先に組織の利益があるわけではないようだ。

 他にもあれこれ説明を受け、やはり大変な世界へ足を踏み入れることになったことだけは実感した。

 事務所を案内されたときに、年明けからは部下たちになる面々と顔を合わせた。東和では男性の数が圧倒的に多いのだが、こちらでは事務所でも女性の数が多く、各外来や病棟に配置されている者をあわせると圧倒的に女性の職場だった。病院全体でも当然医師の数よりも看護師の数が多く、医師も女医が一定の割合でいることを考えれば、男性の割合は二、三割ほどであろう。その部分でも文化は違うのは容易に想像できる。

 気になっていた住まいについては、午後から総務の担当から説明を受けた。事務長用にマンションを一件契約しているのだが、仁科は地元の人間で隣の伊予市に自宅があるために、そこが現在空きになっている。特段の希望がなければそちらを使ってもらえれば無駄にならずにすむので是非にとのことだった。もとより佐久間に希望などあるわけではない。所在地の地図と間取りの細かな見取り図を渡されて、車で現地を見せてもらった。東西南北で説明されても、まるで実感はない。ただ片道三十分程度であることがわかりほっとする。

 物件は市街地と住宅街の境目辺りで、周辺も落ち着いており、築二十年のしっかりした建物だった。いわゆる3LDKのゆったりとした広さがあり、大阪近辺で借りると家賃は十万は下らない。何年かの一人暮らしには、広すぎて持て余してしまうだろう。とはいえ他に別の物件をとなればそれだけ費用が別にかかることになるために、ありがたく住まわせてもらうことにする。

 理子があれこれ気にしていた点のほとんどはクリアでき、それでも、当面使わないだろう部屋ができるのは仕方がない。

 病院の行事の関係で、引越しは年が明けてからの方が都合がいいとのことで、改めて打ち合わせることにする。

 三時過ぎに再度沖田に礼を告げに行くと、社交辞令も多分に含まれているのだろうが、佐久間の人柄に安心したとの評価をもらった。病院の規模にもよるが、四十代では若すぎないかという点に不安があったらしい。仁科もすでに六十に手が届き、一挙に一回り以上若返ることになる。午前中に聞かされた文化の違いから、あまりやる気が前面に出てしまうようでは医者たちと衝突することが懸念される。また、守備範囲の広い管理部全体を抑えていくにはそれなりの落ち着きと存在感が求められる。ともに合格点だと評価された。

 佐久間自身が自分ではまだまだだと考えていた、かつてのベテランたちの姿に少しは近づけていると言われたようで、ほっとしながらもそのことの方が嬉しく思えた。

 帰りの予定は立てていないことを告げたが、不便であるから早めに出たほうがいいと、送り出された。JRの松山駅まで先ほどの総務の担当が送ってくれ、赴任を待っていると世辞を言われた。佐久間も今日の礼と赴任後遠慮なく指導してくれることを頼んで別れた。

 やはりそれなりに緊張していたのだろう、一人になるとほっとため息が出た。

 駅の時刻表を見ながら、詩乃に電話をかける。呼び出し音は鳴っているはずなのだが、出ない。十回ほど待ってみたがつながらない。先ほど見かけた路面電車にでも乗っているのかもしれないと、オフにしてしばらくしてまたかけてみようとしたところへ、向こうからかかってきた。

「ごめん。美術館の中やったから。どうなった?」

「開放されて、今は松山駅だ」

「今日帰るの?」

「そのつもりだが。何の準備もしていないからね」

「そう、とりあえずそっちへ行くから待ってて」

「ああ」

 美術館がどこにあるのかも分からない。駅にある市街地地図で探すと、ほんの一キロほどのところにある。

 すぐに現れるだろうと、駅前のロータリーに出ると、正面に松山城が見える。県庁所在地だけに、思っていたよりも市街地は拓けているようだ。それにしてもやはり遠い。

 東京から就職で大阪へ移ったときにも、ずいぶん遠くへ来たと思った。そして、名古屋、静岡、東京、京都と支社を異動になって、大阪へ戻った。人事系の課がある支社は全て回ったので、この後更に異動があるとすれば、その中のどこかだと勝手に思っていた。まさか四国へ移り住むことになろうとは思ってもみなかったのだ。

 住めば都という。それはそうだとは思う。だが、単身で暮らすこともあって、ひときわわびしく思えてしまう。もっともこれまでの転勤もその地に慣れてしまえば、違和感もなくなり、そこがわが街になってきたことを思えば、そう気にするほどのことではないとも思える。

 そんな感傷めいた気持ちになっていると、詩乃の姿が見え、詩乃からも佐久間がわかったのだろう、小走りになる。

「大丈夫か、激しい運動は禁物だろう」

「大丈夫。けど、思ったよりもずっと遠かった。どれくらいかかるかわからへんかったから、美術館の前からタクシーに乗ろうとしたら、すぐそこですよって言うもんやから」

「そこに見える公園の中だろう」

「そやけど、歩いたら結構あった」

「そうだな、十五分歩くとなると、すぐそこってことはないか」

「今日はあっちこっち動いたから、疲れた」

「帰りの電車でゆっくり眠ればいい」

「どれくらいかかるの?」

「これからなら、乗換えを入れて、三時間半てところだな。遅くなると連絡が悪くて四時間かかるが」

「帰りも船にせえへん?」

「そりゃあ構わんが、予約が取れるかな」

「お願い」

 その方が詩乃と長く一緒にいられると思うと、それも悪くない。

 フェリー会社へ問い合わせると、昨日と同様に特別室がとれた。

 帰りの船では、やはり昨日のデッキは寒かったのだろう、もう一度そうしたいとは言わなかった。船首側にある展望室のソファで、しばらくは見て回った観光地の話をしていたが、すぐに眠くなったようで、話が途切れると佐久間の肩で寝息を立て始める。

 一人の女性として愛している気持ちは間違いなくあるのだが、こうして安心しきっている姿を見ると、そればかりではなくなってきているのも事実だった。

 詩乃が、佐久間の元を去り誰かと結婚でもすれば、未練を残しながらもこの恋は終わるものだと思っていた。ところが、どうやらそうではないように思えてきた。詩乃から会ったこともない彼にプロポーズされたことを聞かされて、もちろん、嫉妬心はある。その彼なのかどうかは分からないが、やがて誰かのところへ嫁いで行く。その姿を思い描いても、やはり詩乃のことを大切に思う気持ちは変わりはなさそうである。新妻になった詩乃、やがて母親になって子供を抱く詩乃、もう戻ってくることがないことに胸の痛みはあっても、どの姿もやはり愛おしい。

 これが父親の気持ちなのだろうか。

 詩乃の寝顔を見ていて、そんなことを思ってしまう自分が可笑しくてふっと笑いがこぼれれる。

 そんな気配を感じたのか詩乃が眼を覚ました。

「あ、パパや」

 何か夢でも見ていたのだろう。眼を開いて一瞬少し驚いたような、照れくさそうな顔をして、また、眼を閉じて微笑む。

「このまま眠っていていいんだよ」

「うん・・・ううん、鯛めしのお弁当食べるんやもん」

「そうだな、たしかに腹が減った」

 部屋に戻り、詩乃がどうしてもこれがいいと買った弁当をほお張る。もう時刻も十二時を回っていて、空腹感があった割には食べきれなかった。

 昨日と同様に、ベッドは下の段しか使わなかった。

 部屋を暗くして身を寄せる。

 そのまま眠ってしまうのかとそっと肩を抱いてやる。

「なあ、パパ、今度生まれてくるときはもうちょっとゆっくり生まれて、詩乃のこと待っててなあ」

 佐久間の浴衣の襟を持って顔を近づけながらそう言う。

「それで、うちのこと探し出して、連れてってくれる?」

 もしも来世などというものがあるのならば、それもいい。

「ああ、そうしよう」

「約束なあ」

 やがてふっと力が抜けて、佐久間の襟を握ったまま眠ってしまう。

 それはほんの思いつきなのかもしれない、あるいはずっとかなわぬ夢として抱いていたことなのかもしれない。

 人生は一度しかなく、歩める道も一つしかない。思いを残しながらでも、やはりすれ違うしかないのだ。

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