第8話

   (八)

 十一月二十一日、佐久間は四十七歳になった。

 その朝も目覚ましが鳴る前に夢から覚めた。

 目覚ましは六時半にセットしてあるのだが、近頃は眠る時刻にかかわらず、いつもその時刻より先に眼が覚める。

 同じ時刻に眠り、ほぼ同じ時刻に眼が覚めても、日によってすっきりベッドから起き出せるときと、睡眠不足のように頭の奥がどんよりと重いときがある。何かのリズムが違うのだろう。

 今日はそのどちらでもない。ただ昨日はパソコンの画面を見る時間が長かったせいか、首から左肩に凝りが残っている。

 四十歳をすぎたころからだろうか、朝目覚めて全くどこも痛くもだるくもなく爽快に目覚めることがなくなってきた。若いうちは、しっかりと眠れば翌朝にはエネルギーに満ちていたように思う。

 その頃はわかりもせずに早くこの年になりたいと思っていたのだ。会社の中でも、通勤電車でも、五十歳前後の男の落ち着いた風貌や物腰に同性として憧れていた。上役連中を見ていると、言葉一つ表情一つをとっても、そこに人間としての深みや思慮深さが感じられ、肩の力は抜けてむしろ控えめで丁寧であるのに、そこに迫力や存在感があった。それに比べて自分の若さがいかにも男として未熟であるように思えてならなかったのだ。

 今の自分が若者たちからどう見えているのかはわからないが、実際にこの年になると今度はその若さが羨ましくてしかたない。それなりに健康であってもエネルギーが違う。また、体力だけでなく精神的にも違うのだ。一心不乱に物事に集中し、それが継続できる。物覚えや記憶力にいたっては足元にも及ばないことを嫌でも日々感じざるを得ない。

 当時は集中していればメモなどに頼る必要もなく、上司の指示はもちろん、ちょっとした頼まれごとにしても、何かのデータの数字にしても忘れることなどなかった。ところが今はどうだ。ほんの数日前に会った人でさえ、顔と名前が一致しないどころか思い出せないことも多い。

 今日が自分の誕生日であることさえ、理子に言われるまで思い出すこともなかった。

「おはよ。お父さん、お誕生日おめでとう」

 パジャマのままテーブルに着くと、理子が笑顔で祝ってくれる。

「ああ、そうか、そうだった。ありがとう。たしかこの間までは覚えていたはずなのに、その日になって忘れているとは情けないものだ」

「そんなものですよ」

「それにしても、四十七か。嬉しくもあり嬉しくもなし、ってところだな」

「何ですか、それ?」

「たしか一休さんの狂歌だよ、もとは正月だったか門松だったか、冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし、ってね」

「何を言ってるの。まだまだ早いわよ、そんなこと考えるのは」

「まあね」

「今日は早く帰ってこられる?あの子達も何だかプレゼント買ってたみたいだから」

「ああ、そうするよ。それにしても子供たちがどういう風の吹き回しだ。何か魂胆があるのかもな」

「そうかもしれないわね。かえって高くつくかも」

「まあ、たまにはそれもいいか」

「晩ご飯、何がいい?」

「理子の得意なものでいいよ」

「何でも得意なんだけどな。何か言ってよ」

「お、言ったな、じゃあ魚の刺身かな」

「もう、失礼ね。一番得意な缶詰にするわよ」

「ははは、それも悪くはないが。子供たちが喜ぶスキヤキにするか。そうだ、私はうまい茶碗蒸しを頼むよ」

「妙な取り合わせね。手間のかからないものとかかるものと。はい、じゃそうしましょ。ケーキは食べる?」

「そうか、ま、できれば和風のものをね」

「了解」

 こうして自分を気遣ってくれ、必要としてくれる家族がいる。

 もうすぐ二十年になるのだ。

 理子や子供たちのために尽くしてきたなどというつもりはない。しかし、次第に自分と家族を切り離して考えることもなくなってきている。自分のためが家族のためとほぼ同じ意味をもつだけの時間があった。

 夫婦はそれなり円満で、子供たちは元気に成長している。やがて彼らは大学へ行くなり就職するなりでここを巣立っていくのだ。

 今が一番幸せな時なのかもしれない。

 おかしな狂歌などを思い出してしまったことで、少々感傷的になってしまったが、誕生日を迎えたからといって急に何かが変わるわけでもない。新聞を斜め読みし、テレビのニュースを見ていると、いつもの朝のペースが戻ってくる。

 ネクタイを締めて気持ちを外のモードに切り替える。外へ出たからといって神経を張りつめるわけではない。運よく電車で座ることができたりすると、気がつかぬ間にうたた寝してしまうこともあるのだ。

 それでも、意識としては家の中から一歩外へ出るときに、心のあり方として一枚何かを身にまとうような気がするのだ。佐久間にとって、ネクタイを締めるという行為がその儀式となっているようだ。

「行ってらっしゃい」

「ああ、遅くても八時には帰る。何かあったら電話する」

「はい」

 毎日のことだが、理子は佐久間が廊下を曲がるまで、玄関のドアを開けて見送ってくれる。片手を挙げてそれに応えてテンポよく階段を下りる。

「行ってらっしゃい、か」

 この間エリに聞いた話を思い出す。

 この時間帯、どれだけの行ってらっしゃいが告げられているだろう。よほどのことがない限り必ず帰ってくる者を送り出す行ってらっしゃいもあれば、次はいつ会えるのかもわからぬ者を待つ行ってらっしゃいもある。同じ言葉でも、状況によって、その言葉にこめる思いはずいぶん違う。

 詩乃にそんな切ない思いをさせるわけにはいかない。今の頼りない彼がその相手になるのかどうかはわからないが、帰ってくることが約束された行ってらっしゃいが言えるようになってもらわないといけないのだ。

 そう願いつつも、その彼の頼りなさにほっとする自分がいた。春に詩乃が言っていた、笑顔で見送ってやることはどうにもできそうにない。

「一歩家を出るとこれだ」

 電車を待つプラットホームで空を見上げてそう呟いた。

 空にはうっすらとうろこ雲が浮かんでいて、秋は深まり、知らぬ間に季節は流れていることに気付かされる。明日は雨になるのだろうか。

 地下鉄の駅を出て、会社へついて自分の席に座るまでに、何人かの上司や部下、他の部署の知った顔に会う。そして普通に挨拶を交わす。

 いつの間にか部下や後輩の数の方が圧倒的に多い年齢になっていることに、改めて気付かされる。普段はそんなことを気にすることもないのに、やはり今日が誕生日で一つ歳を重ねたためにそういう眼で周りをみてしまう。

 元気よく佐久間を追い越していく若い社員たちの眼に自分はどう映っているのだろうか。かつて佐久間が早く身につけたいと思っていた、人間的深みや存在感はあるのだろうか。

 そう問い返してみる。自分の眼から見ると、とてもそうだとは思えない。

 若い連中からは?

 まさかそんなことを尋ねてみるわけにも行かない。尋ねたとしても、本音が返ってくるはずもないのだ。

「おはよう」

 妙な意識をしたために尊大になってはいけないと、意識していつも通り部下たちに声をかける。

「おはようございます」

 皆笑顔で返してくれる。

 彼らからどう思われているのかはわからないが、その笑顔を見る限り、そう嫌われてはいないようだ。

 いつもの行動として、社内用のPHSを充電器から外してオンにする。パソコンに電源を入れて、メールボックスをチェックする。

 こうした姿も佐久間が入社した頃の課長像とはひどく様変わりしている。その頃、部長以上は九時に出勤していることはまずなかった。時には十時を回っての出勤も珍しいことではなかったのだ。

 そのために課長連中も多少遅刻気味に出勤してくる。そして部長の顔が見えるまでは、女子社員が入れてくれるお茶を飲みながら、新聞を読んだり、課長同士世間話をしたりで、今思えば悠長な時代だった。

 その後何度かの不景気を乗り切るたびに次第に世の中自体が厳しくなり、そんな朝の光景は、官僚の天下り先法人あたりにしか残っていない。

 しかし、上司が朝早くから出勤していては、ただでさえ帰りの遅い部下たちには気の毒と、佐久間は敢えて九時ちょうどに出勤するようにしている。時には人事部長が先に出勤しており、多少気まずい思いもすることもある。とはいえ、それで何かを言われたこともなく、習慣を変える気はなかった。

 率先垂範の名のもとに早い出勤を競っているような若手課長もいるが、それでその課のモラルや業績が上がるとは思えない。佐久間の出勤時刻はおそらく課長の中ではかなり遅い方だが、能力開発課のモラルは決して低くはない。要は中身なのだ。

「パパ、お誕生日おめでとう。やっと一つ追いついたと思ったら、また一足先にオジサンになったね」

 今日の日付の最初に詩乃からのメールが届いていた。

 思わずにやけてしまいそうになるのをこらえるのに苦労した。

「ありがとう。社内でそう言ってくれるのは君だけだ」

と返してどちらもすぐに消去する。誰に見られるわけでもないのだが、やはり仕事のメールボックスにプライベートな内容を残しておくわけにもいかない。まして、あってはならないはずの関係の証拠なのだ。

 これだけの社員がいるのだから、おそらく似たような関係も少なからずあると考えるのが普通である。しかし、それは大人同士の分別の範囲を越えてはならず、組織としても影は影として無理に光を当てるようなこともせず、見て見ぬふりをするものだ。

 詩乃との付き合いが始まる前から佐久間はそう考えていた。それはもちろん褒められたことではない。が、多くの男と女が一つの共同体として活動している空間であり、人間はロボットやコンピュータのようにプログラムで動くものではない。そこに生き生きとした人間的なコミュニケーションがあるから個性が輝き、創造性が生まれ、また意欲を持って前進することができる。その副産物として生じるいくらかの影だけを否定することはできないとも思えるのだ。

 ただその持論が詩乃との関係の言い訳になるとも思ってはいない。

 誕生日とはいえ、会社ではカレンダー上の一日に過ぎないはずなのだ。しかし、今日は朝から普段とは違うことばかりが頭に浮かんでくる。

 何かの虫の知らせなのか、とも思ってみるが、いい年をしてばかなことを考えるものだと心の中で一蹴する。そして、係長から提出のあった、来春に向けての内定者教育の原案に眼を通す。

 昼前になって目と鼻の先の大西からメールが入る。

「佐久間課長、久しぶりに今夜一杯いかがですか」

 飲まない佐久間として通していることを気遣っているのか。

 敢えて言葉にせずにこうして送信してきていることに応えて、佐久間も大西を見ることもなく画面に向かって返信する。

「すまん、今日は恥ずかしながら私の誕生会を家で準備してくれている。明後日なら大歓迎だ」

 明日は今のところ予定があるわけではなかったが、詩乃のために空けておくことにした。

「それは羨ましい。ではお昼、外へ出ましょう」

 何かある。

 そう感じて時計を見ると十一時四十五分。

「了解。では下で」

と短く返す。

「ちょっと外出の用事ができた。戻りも一時を過ぎると思う」

 課で庶務を担当している女性にそう伝えて、先にエレベーターに乗る。

 少し遅れて大西が降りてくる。

「どうですか、季節でもないんですがウナギでも」

「いいね」

 お互いに知っている店が近くにあり、少し歩くことにした。

「元井さん、手術の方はどうだったのですか」

 信号を渡ったところで大西が尋ねてくる。

「二週間の休暇届が出てましたから、営業三課の塚本課長にどうしたのかを尋ねたんです。佐久間さんに聞けばわかるとは思いましたが、仕事ですからね。ところが塚本のやつよく知らないらしくて、何か手術をすることになったらしいなどと」

「まあ、それは仕方ない。婦人科のことだから彼女も言いにくかったんじゃないのかな。卵巣の近くに数センチほどの腫瘍ができていてそれを取った。組織検査までした結果、幸い良性で今のところ心配はないようだ。腹腔鏡手術と言ったかな、傷跡も小さいのが三箇所だけですんだということだ」

「そうですか、ひと安心ですね」

「ああ、腫瘍と聞かされてしばらくは本人もひどく落ち込んでいたが、今はケロリとしているよ。手術そのものは負担も小さいし、あの若さだから心配はいらんだろう」

「これからの妊娠や出産に影響もなく」

「そのようだ。腫瘍のできた場所も幸いしていた」

 このあたりでは人気の店でもあり、早めに出てきたにもかかわらず少し待たされた。

 しばらくモリの話で時間をつぶすことになったが、大西が切り出さない以上、こちらから尋ねるのも憚られた。おおよそ察しはついているのだ。

 狭いカウンターに肩を寄せ合ってうな重をかき込む。最近ウナギの値段が上がっているとは聞いていたが、店の値段はそう変わってはいないようだ。

 割り勘にして店を出て、路地を入ったところの喫茶店でコーヒーを飲む。

「少しルール違反なんですが、佐久間さん相手に知らん顔もできなくて」

「例の異動の件だな」

「ええ。時期が早まりまして、年明けになってしまいました」

「そうか、ま、よくあることだ」

「ですから、来月早々には部長から正式に話があると思います」

「年末に引越しとなると、あわただしくなるな」

「すみません。以前に話したお年の常務理事、これが専務と親しくて早くしろと催促されたらしいんです。聞けば御年七十になるそうで、それを機に五月の理事会で一線を引いて一理事に降りるとのこと。後任は現事務長の仁科さんが兼務で、現在兼務している管理部長を外れまず。ですから、対外的なところを仁科さん、内部を佐久間さんが管理部長で、という構想のようです」

「おいおい、そんな重責を大丈夫か?自分で言うのもおかしな話だが、病院経営など右も左もわからぬ人間が」

「ですから、時期が早まったんです。春までにあれこれ覚えてもらおうと」

「なるほど。しかし、四ヶ月ほどでどれだけのことが覚えられるのか・・・と、泣き言を言っても始まらんな。分かった」

「それと、先方も体制固めをしたいらしくて、若手のしっかりしたのを、ということでうちの浅田も出すことになりました」

「人事課のか?」

「はい」

「それは助かる。やつなら気心も知れているし」

「ただし、彼は三年の期限付きですが」

「それは仕方ないだろう。あの歳で行ったきりにはさせられない。いや三年あればなんとかなるものだ」

「それともう一つ、東和でも部長職です。これについてはおめでとうございます。また追い越されてしまいました」

「何をいまさら。ま、ありがたいことだ。謹んで受けさせてもらうよ」

「ところで、やはり単身ですか」

「ああそうなる。長男が春には高校三年で一応受験生になるし、そのあとも続くしな」

「大変ですね」

「これまで運よくというか強引にというべきか、単身は一度もなかったからな、そのツケだ。まあ二人が大学へ入るまで、浪人されても四年ほどだ。仕事に慣れるまでは却っていいのかもしれん。ものは考えようだ」

 佐久間の受け止め方を聞いて大西も肩の荷を下ろしたように和やかな顔になる。

「良かった。佐久間さんに難色を示されたらと、部長も常務も気にしてらっしゃいましたから。栄転ではありますが、なにせ四国ですからね。それに実質的には東和からは離れることになるし」

「それはこの間も言ったろう、いずれは渡らねばならん橋だと。ならば定年間際で天下りのように行きたくはない。むしろ今そう言ってもらえることはありがたいと思う。まだ老いぼれる歳ではないからな」

「たしかに・・・それから、よろしければ女子社員も引き抜いても構いませんよ。今でも例がなくはありませんから。先日も営業の柴田が東京へ転勤したときに、長年組んでいたサブの子を連れて行きましたから。もっとも、サブとはいえ彼より歳も上で、キャリアも長い人でしたけど」

「ばかを言うなよ。そりゃ業務上の必要性からだろう」

「表向きはね。二人がどういう関係なのかは知りませんが、大阪の営業は大いに困ってましたし、東京にはサブができる女性がいないわけではありませんからね。そういう意味では恣意的であることは否めません」

「いずれにせよ、彼女には普通に嫁いで幸せになってもらわねばならない。それに、自分の部下でもない者をわざわざ大阪から転勤させてとなると向こうで何を言われるか。君も悪趣味だな」

「ははは、そりゃあそうですね。ならばモリのエリちゃんに向こうの店を紹介するという手もありますよ。それなら問題にならない」

 笑顔で追い討ちをかけてくる。

「私がなぜエリちゃんを連れて行かなきゃならんのだ」

「いえ、彼女の方が行きたがるのではないかと。もちろんそんな話しはしてはいませんが」

「それこそ冗談を、だ。しかし、どうして私の家庭を危機に追い込むようなことばかり考えるんだ?」

「いえいえ、そんなつもりは毛頭。ただ、そんなことでグラつくようなご夫婦ではないと信じていますよ。若いときからずっと存じ上げていますから。ただ、単身はやはり辛いものです。それに奥様が行かれるまでの四年間という期限付きですから」

「とても人事課長の言葉とは思えんな。誰だこんなやつを人事課長にしたのは」

 二人して笑いあって、長めの昼休憩を終えた。

 佐久間はそのまま席に戻ったが、大西は営業部へ詩乃の顔を見てくると言って、エレベーターホールで別れた。

 やはり虫の知らせというものはあるようだ。

 理子にもそんな話があるかもしれないと伝えてあり、そのときに単身赴任のことも話し合ってはいる。しかし、これまでの異動は春だったために、この急な話には驚くだろう。

 正式でないとしても、決まったからには子供たちにも言わないでおくわけにはいかない。

 とんだ誕生日になったものだ。

 しかし、佐久間の気持ちとしては、身の振り方がはっきりしたことで、腹が据わったところもある。仕事のことは、どうにかなるだろうという漠然とした思いもあった。

 人間がやる仕事なのだから、いきなり合格点は難しいにせよ、誰かにできることが自分には全くできないなどという仕事はそうそうあるものではないのだ。問題は前任をはじめこれまで一度の面識もない現地のスタッフと上手くやっていけるかどうかである。

 その意味でも、単なる天下りではない年齢での赴任はマイナスにはならないだろう。

 しかし、重要なポストに外からいきなり割り込むことに変わりはない。いずれは自分が、と希望を抱いていた者もいるだろう。そういう連中にとっては頭から邪魔者である。異動にはそういった複雑な思惑が常について回るものであることはわかっているが、東和とは異なる文化の組織であるために全く想像がつかない。

 ともあれ、郷に入っては郷に従うしかない。

 正式に内示を受けるとそうした情報収集も可能であり、必要とあらば現地へ顔見せに出向いていくこともできる。

 全てはそれからで、今からいらぬ心配をしてもはじまらないのだ。

 その日は六時の定時に家族での誕生祝があることを告げて、一番に会社を出た。

 家に帰り、着替えながら理子にそれを告げる。

 やはり急なことで驚きはしたが、理解しないわけには行かない。まだ夕食の準備が途中だったので、そのまま食卓に向かい、真一と浩二を呼ぶ。二人して少々照れくさそうにプレゼントを渡してくれる。ネクタイとネクタイピンだった。金の出所は佐久間の給料からではあるのだが、月々の小遣いの中からその金額を捻出してくれたことが素直にうれしい。

 逆に彼らの誕生日欲しい物があるのかと尋ねると、二人とも流行のマウンテンバイクをほしがっていた。高いものだと十万を超える。佐久間の態度から希望がかないそうな雰囲気を察したのか、さっそくカタログを持ってきて意中の商品を告げる。そこには二万円程度のものから二十万円もするものまで幅広いモデルが掲載されていて、二人の選んでいるのは五万円程度のものだった。

 この年頃になると日頃の暮らしぶりから察知するのか、親が出してくれそうな金額を鋭く見抜いている。どれだけの金額がどの程度家計を圧迫するのかが分かっているのだ。すぐ隣には八万円のモデルが載っており、どちらが本格的かは佐久間が見ても一目瞭然なのだが、そちらを欲しいとは言わない。

 子供の成長とは早いものだ。

 佐久間からすれば、二台で十六万円の出費はそう無理な金額ではないが、むしろ理子の感覚を理解しており、その基準からすれば八万円は頭から無理で、五万円の買い物でもかなりハードルは高いと思っているのだ。そこで攻略する相手を理子から佐久間に切り替えてきたと見るべきだろう。

「よし分かった。誕生日まで待ちきれないだろう。十二月のボーナスが出たら買いに行こう」

 佐久間の言葉に二人して歓声を上げる。

「その代わり、お父さんからも頼みがある」

 そのタイミングで転勤と単身赴任を告げることにした。

「実は正月から転勤になる。四国の松山だ。これまでは家族みんなで引越しをしてきたが、今回は真一が春からは受験生だし、そのあと浩二もそうなるから、浩二が大学に入るまで単身赴任することにした。全く会えなくなくわけではないが、月に一、二回、週末に帰ってくる程度になるだろう」

 喜んだ顔が、驚きの顔になり、いくらかの不安の混じった真剣な顔になる。

「そこでだ、お父さんがいなくても、お前たちが自分でちゃんと目標をもって勉強に打ち込むことが一つ。これまでは、我々に頼って甘えていればよかったが、これからは家族の一人として、男の子としてお母さんを支えてやってほしい。これまでのようにわがままを言って困らせてはいけない。この二つをお前たちに頼みたい」

 次第に状況がイメージできてきたのだろう、佐久間の言葉を真剣に捉え、決意がまなざしに見えてくる。

 理子はそばで立ったまま佐久間の言葉を聞いている。これまで離れて暮らしたことがないために、心細いのは隠せない。

 僅かの沈黙があって真一が顔をあげる。

「わかった。任せといて。お父さんも大変なんだから、僕たちも頑張るよ」

 浩二が横でうなづく。

 自分たちの不安の方が大きいはずだ。なのに佐久間の大変さを考えてくれている。普段は親への甘えがあるために子供だと見えるだけで、状況の理解力やその上での判断力は確実についてきているのだ。

 その言葉に佐久間も少なからず感動し、そしてその成長ぶりに安心もさせられたのだが、理子は涙ぐんでいる

「こら、泣くやつがあるか。二人とも立派になったじゃないか」

「はい」

「よし、それじゃあ、食事にしよう。二人とも、お母さんを手伝え」

 弾かれたように立って何かをしようとするのだが、男の子は台所では要領を得ない。理子が泣き笑いであれこれ指図をしながら、食卓が整い家族での食事となった。

 理子が奮発してたくさんの肉を買っていたが、あっという間に平らげてしまう。

 佐久間は理子も含めて彼らに、新しい仕事についてわかっていることを話してやり、会社での地位が少し上がることも伝えた。

 子供たちには、まだ組織の話はピンと来ないらしく、神妙な面持ちで聞いてはいるが理解できているようには見えなかった。それは仕方がない。

 デザートにケーキを食べ終わると、二人はマウンテンバイクの色を協議しながらそれぞれの部屋に戻る。理子の手伝いで食器を洗うくらいはするのかと見ていたのだが、その期待はやはり裏切られた。佐久間がそんな姿を見せたことがないのだから仕方がない。

 ともあれ、家族としても大きな変化に向けて、第一歩を踏み出すことになった。

「最後、とは言えないが、苦労をかけるな」

 コーヒーを飲みながら改めて転勤の話になる。

「仕事だもの。お父さんの方こそ、仕事だけじゃなくて、朝晩の食事からお洗濯にお掃除にと大変よ」

「まあ食事は病院で何とかなる。掃除も一人の間はワンルームで十分だから大したことはないだろうが、問題は洗濯とか着るものの始末だな。それも帰るときには持って帰るし、そうじゃなければ休みの日は時間を持て余すだろうから何とかやっていくよ」

「下着や普段着はどうとでもなるけど、スーツとワイシャツはきちんとしておかなきゃ。部長さんになるんだから、すきっとしてなきゃ。それがちょっと心配」

「どうにもうまくできないようなら、クリーニングに出すよ。大した金でもなかろう」

「そうね。しばらくはそのほうが間違いないかも」

「独身の時にはちゃんとやっていたんだけどね」

「何年サボってきたと思ってるの?」

「理子のありがたみを確認する期間になりそうだ。それにしてもあいつらもしっかりしてきた。今日は驚かされた」

「うん。子供たちの気持ちは嬉しかった。でも、実際は言葉だけ。何にもできないんだもの、お父さんと一緒で」

「はは、そうかもしれない。だが大切なのは気持ちだよ。これでまた一つ男として大人になってくれれば、単身赴任にも意味がある」

「それにしても松山って遠いのね。岡山あたりなら毎週でも行ってあげられるのに、四国へ渡ると急に不便になっちゃう」

「ああ、それでも昔は橋がなくて連絡船で行き来をしていたんだから、これでもずいぶん便利にはなったらしい」

「だからって羽根を伸ばしすぎて問題起こしちゃだめよ」

「ああ、ま、そんな年でもないからね」

「そういうのって、年齢は関係ないんじゃない?ときどき監視に行きますからね」

「そうしてほしいくらだ。それより経験者の話では、単身赴任でつらいのは、帰ってきたときに居場所がなくなっていくことらしいな。次第に亭主がいないことが普通になって、たまに帰ると何となく邪魔者のように扱われ始めるって。それは勘弁してほしい」

「それはありえるわね。ご近所の奥さんも言ってた。子供さんがしばらくはいつ帰るの、だったのが、いつ来るのに変わったって」

「ははは、そりゃあつらいな」

「小さいうちは正直だから」

「ならばいいのだけど」

「でも、主婦だって変わらざるを得ないかもよ。いないことが当たり前だと思わなければ、いつまでも辛い思いをするんだから。そうしてようやく慣れてきたときに、突然現れて威張ってわがまま言われたり文句を言われたんじゃ、人の気も知らないで、ってなっちゃう。優しくされたらきっとそうはならないはずなんだけど」

「お、見事な先制攻撃だ。確かに、男は優しい言葉をかけたりするのは苦手だから、そうなるパターンが多いのか。気を付けるよ」

「女ってばかだから、苦労かけるね、とか、淋しい思いをさせてごめんね、なんて言われいわれちゃうと、それだけで優しくなれるし、尽くしてあげようって思えるのよ」

「なるほど。なのに、男もばかだから、奥さんの気も知らないで、いつも苦労してるんだからたまに帰ったときくらいはわがまま言ってもいいだろう、なんて思ってしまうんだろうな」

「亭主元気で留守がいい、なんて言うけど、それは亭主によりけり」

「俺はどうだい」

「ま、今のところ合格点かな。ちゃんとご苦労さんとか、ありがとうって言ってくれるから。でも、お父さんは誰にでもそうやって言える人だから、心配もするけど」

「女ってわがままだな」

「当然でしょ。でも、優しくされないよりは、心配してるほうがまだいいから」

「なるほどね。ちゃんと計算式があるんだ」

「単身赴任になって、優しさの部分がなくなって、心配だけが残ったら不合格になりますからね。そうするとうちにも居場所がなくなるかも」

「それは御免蒙る。ま、長くても四年程度だ。そうしたら理子にも松山へ来てもらわないとね。赤点はとらないようにするよ」

「お願いね」

 やはりはじめての単身赴任に理子も思うところはたくさんあるのだ。

 それにしても佐久間の性格も冷静に見抜かれている。

 もちろん誰にでも優しいわけではない。ただ、詩乃に対しても苦労をかけるとか淋しい思いをさせているといった言葉を率直に伝えているのは事実だ。それが佐久間との時間の居心地の良さの一つなのかもしれない。

 率直に苦労をねぎらい、相手の感情に共感する。これまでそうあるべきだと考えてきた。そして一般的にはそれが良いことだという自信もある。しかし、良いことのせいで誰かを泣かせることもあるのだ。

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