第7話
(七)
翌週、詩乃からは何の連絡もなかったが、水曜日に姿を見かけたので、無事帰ってきていることは知っていた。
ラウンジ・モリのママにああは言われたものの、今、詩乃を強引に自分の世界に引き戻すことが良いことなのかどうか結論は出ていない。
また、佐久間がそう思ったとしても、引き戻すなどということができるのかどうかもわからないのだ。
手術のことはやはり気にはなったが、これまでの状況からそれほど心配はしていなかった。
むしろ、会ってしまうと沖縄行きのことを尋ねないわけにはいかない。そこで詩乃からどんな真実をきかされるのか、そしてそれを冷静に受け止められる自信がなかった。お互いにそのことに触れないのは不自然であるし、詩乃に言いたくないことがあれば、ごまかさざるを得ない。
詩乃にそんな思いをさせたくもなかった。
そんなことで、こちらから誘う決心がつかなかったのだ。
佐久間は文字通り成す術もなく、仕事だけに集中していた。
一時気にもしていた転勤の話も、考えてみれば、来春の話がこの時期に動きのあるはずもないのだ。異動はその内容や噂がどうであれ、本人に正式知らされるいわゆる内示は一ヶ月前が鉄則だった。
今のこの状況が本来あるべき姿なのだ。
翌週になっても何も起こらない。
佐久間に起こせなかったのだ。
木曜日の六時を回った頃、佐久間のデスクの外線が鳴った。内線と外線とでは呼び出し音が違うのですぐに分かる。
ただ、課としての代表番号は係長の番号で、この番号はダイヤルインとして名刺に全社の代表番号とともに記されているだけで、あまり架かることはない。
間違い電話や、怪しい投機のへ勧誘の電話はたまにある。
「はい、東和化学能力開発課です」
型どおりの応答をする。
一瞬間があって聞きなれた声がした。
「佐久間課長ですか」
詩乃の声であり、その調子で笑っていることが分かる。
全く予想していなかっただけに、ひどく驚かされる。若い部下連中も残っているし、隣の人事課にもスタッフがいて、佐久間の声は聞こえているはずだ。
慌てている素振りを見せるわけにはいかない。
「はい、さようでございます」
「良かったア、他の人が出たらどないしようかと思ててん」
「あ、これはこれは、ご無沙汰しております。その節は大変お世話になりまして」
精一杯の一人芝居をする羽目になる。
「折り入ってご相談が」
詩乃も無理に合わせてくる。
「あ、なるほど。ええと、ちょっとすぐには難しいですね。後ほどこちらからご連絡させていただくことでいかがでしょうか。いえ、そんなにお待たせはいたしませんので」
「うん。じゃあ待ってる」
「はい、いえ、恐縮です。それでは後ほど、失礼します」
冷や汗もので、それでも大切な相手であることを示すために、少し待って受話器を置く。
演技としては完璧のはずだった。
それとはなく周りを見渡すが誰も気に止めている様子はなかった。
どういうつもりなのだ。わざわざここへ架けてこなくても良いではないか。仕方のないやつだと思いながら、それでも詩乃から連絡があったことにほっとする気持ちもある。
「どこかの飲み屋からですか」
たまたま後ろを通りかかった大西が声をかけてくる。
「あ、人事課長。まさか、ちょっとお世話になった方だよ」
そう答えながら、どこかに不自然さがあったかと自分の言葉を反芻してみるのだった。
「ところで、ボトル、ありがとうございます。かえって気をつかわせてしまいました」
顔を寄せてそう言って、小さく手を合わせて見せた。
「いや、私も寄せてもらうから」
「また近いうちに」
「ああ」
そして何事もなかったように自分の席に戻る。
ボトルの件があったからそう言ったのか、佐久間の対応から何かを感じたのか、大西ならばどちらもある。いずれにしろ相手が大西であれば、そう気にする必要はない。
早々に残りの仕事を切り上げて会社を出る。
適当に歩きながら詩乃の携帯電話の番号に架ける。
「私だ。なんだ、デスクになんかかけてきて」
「へへ、驚かせてやろうと思うたんやもん」
「ああ、ならば目標達成だ。ずいぶん驚いた」
「ごめんなさい、で・・・今日はもう帰る?ちょっとでええから会われへんかなあ」
「相変わらず急な話だが、私もちょうどそう思っていたところだ。もちろん構わないが、どうすればいい?」
「今、会社の近くの喫茶店にいるんやけど、ここやと誰かに会いそうやから・・・」
「フラミンゴで食事でもするか、どう?」
「お願い」
「じゃ、予約しておくから、先に着いたら上がっておきなさい」
「ありがと。パパ大好き」
「どうしたんだ?」
「どうって、そのまま。じゃ後で」
あれこれ気を揉んだことが嘘のように自然な会話がそこにあった。
それも詩乃の真実の一つにすぎないのかもしれないが、仮にそうであっても詩乃を愛おしく思う気持ちに変わりはなかった。
重苦しくなりそうな再会を、佐久間を驚かせることでその雰囲気を避けたのかもしれない。
そんな計算ができ、一方では「大好き」などと平気で言う。これでは佐久間の方が詩乃の手のひらで転がされているようなものだ。かごの鳥どころか、小悪魔に翻弄されているようにも思えてくる。
佐久間はその場でフラミンゴへ電話をして小さな座敷の個室を予約した。これまでに二人で何度か行ったこともあって、支配人も心得てくれている。
堺筋へ逆戻りして、タクシーを拾おうとするのだが、なかなか空車が来ない。やっと見つけて乗り込んだが、梅田に向かうにつれていつもにも増して混雑していたために苛々させられた。
フラミンゴに着くと、受付で連れが先に着いていると知らされる。
「待たせた。思ったよりも混んでいて、すまない」
「ううん、うちもさっき着いたとこ」
顔馴染みの仲居に、いつもの「おまかせ」を頼んで向かい合って座る。
そうすると今度は佐久間に悪戯心が湧いてきて、詩乃を困らせてやろうと思う。
黙って座ったまま何も言わないことにした。
時間にすればほんの数秒なのだが、慣れない沈黙に思ったとおり詩乃が困り始める。
「パパ、やっぱり怒ってる?」
そんな気はないが敢えてそれには応えない。
「で、相談したいことって何だい」
「う・・・ん、ううん。そんなのないねん」
「じゃあ、どうして」
「ただ、パパに会いとうなって・・・。それだけではあかん?」
小さくなりながらそう言う。
「この、小悪魔め」
「小悪魔?」
「まあいい。怒ってなどいないし、私もいろいろ考えさせられたが、会えて私も嬉しい。それだけで十分だよ」
そう言いながら、無理に繕っていた自分の顔が崩れていくのがわかった。
詩乃は佐久間が一番気にしているだろうことから話し始めた。
沖縄へは女性三人とボディーガードに案の定元の彼とで行ったこと、格安で予約できたペンション風の宿に泊まって、女三人は雑魚寝をして、彼は別の部屋だったと。
そして、沖縄の海が驚くほど透明で美しかったこと、十月とはいえ日に焼けて肩の辺りがまだ少し痛むこと、向こうで知り合った現地の子供たちと花火をして遊んだことなど、屈託なく話すのだ。
子供たちが学校であったことを親に報告するように、眼を輝かせて、しっかりと分かってもらうためにやや誇張もしながら。
佐久間はやはりそんな詩乃が可愛くて、何度もうなづいてみせるのだった。
何のことはない。こちらが無理に呼び戻さなくても、小鳥は鳥かごに舞い戻ってきているのだ。
だが、いつかまた予告もなくどこかへ飛び出してしまうかもしれないし、いつの間にか戻っているということもあるのだろう。
そして、やがては本当にどこかで巣を作り新しい人生を送ることになる。
それで十分だと、今は思えるのだ。
佐久間が少し自信が持てるような気がするのは、この鳥かご、つまり佐久間に愛され見守られている時間がことのほか居心地がいいということを、詩乃が一番分かっているという点だった。
そんな詩乃を求めたい気持ちもあったが、それは検査後のこととして、週末にどこかへ出かける約束をして別れた。
十月に入り、急に気温が下がり、秋らしくなってきた。
いつものように高槻で待ち合わせて京都へ向かったが、この時期の京都は修学旅行をはじめ、観光客でどこも混雑する。
市内を離れたほうが静かだろうと、貴船へと向かった。
土曜日にこうして出かけることも久しぶりのことだ。
佐久間の仕事が忙しかったこともその理由の一つだが、詩乃は悩み苦しんでいたときには一人でいたかったこと、そしてその後はどちらからともなく距離が生じてしまっていたのだった。
「パパ、ごめん。昨日からなってしもうた」
佐久間が車をスタートさせてすぐにそう言う。
「もう、四ヶ月もなかったのに」
「良かったじゃないか、沖縄にかからなくて」
「やけど、今日は詩乃も・・・」
「詩乃も、何だい?」
「意地悪やわぁ・・・うちも可愛がってほしかったのに」
いつも詩乃の体を求めていたわけではないのだが、体の不調を告げた少し前から、詩乃に触れていない。
「まあ、一応正常に戻ったことを喜ぶほうが先じゃないか。それに話したいこともたくさんある」
「うん・・・でもタイミング悪すぎ」
身体のことを普通の事として話せるのには、それだけの親しさがなければならない。いろいろあったにせよ、その距離は変わってはいない。
「手術の日、決まったんよ。次の次の火曜日、十八日。四、五日の入院になるって。まあ、その日にならなんだのも良かったのかな」
「そうだな、時間はあるんだから、落ち着いたらうんと可愛がってやろう」
「やっぱり恥ずかしい。けど、そんなに時間はないかも。うちがお嫁に行くかもしれへんのやから」
「また言ってる」
「そやかて」
「そうなったらなったで仕方がない」
「パパ、引き止めてくれへんの?」
「その思いはあっても、私にその資格はないよ。詩乃の人生は詩乃が決めるしかないだろう」
「そうやなあ。どうしよう。ばたばたしてる間に二十五になったし」
「まだ二十五じゃないか」
「パパから見たらなあ。けど、ちょっと切実。で、話したいことってなあに?」
大西に連れられて行った店に詩乃に瓜二つの女性がいたこと、そこのママに詩乃の気持ちがわかっていないと叱られたこと、二人の仲が偶然からではあるが大西に知られていること、来年の春、松山へ転勤になるかもしれないことを告げていった。
その店で絵梨子という元舞妓だった子に出会ったことを告げるときに、また辛い思いをさせはしないかと少し迷った。詩乃は意外にも、遠いことのように「エリちゃんか」ともらしただけだった。
むしろ気にしたのは松山への転勤のことだった。
「そうか。男の人は転勤があんのや」
「まだ決まったわけではないけどね」
「うん。でも、松山ってやっぱり遠いの?」
「飛行機だと一時間程度だが、電車は乗り継ぎなんかがあって四時間以上かかる。そういう意味では東京よりも遠い」
「そしたら、こうして会うこともできへんようになんのかなあ」
肩を落として淋しそうにそう言う。
佐久間と距離を置こうとしているならば、一つのきっかけにはなるはずなのだが、今の詩乃からはそんな様子はうかがえない。あれこれ思い迷ってみても、どこに詩乃の本心があるのか、やはり分からないのである。
「これまで何度も転勤、そして引越しをしてきたが、今回は子供の学校の関係でどうやら単身赴任になりそうだ」
「お兄ちゃん来年は受験生か。二年経ったら今度は弟も。大変な時期や」
まるで自分の兄弟の心配をするような表情でそう言う。
しかしすぐに悪戯っぽい顔になる。
「なら、うちが一緒に行ってあげよか」
「何を言ってる。嫁に行くんじゃないのか」
「そやけど、パパ一人で大変やないの。一緒に暮らすことはできへんやろうけど、お掃除にお洗濯くらいやったら、通いでやってあげる。もちろんアルバイト代はもらうけど」
「はは、そりゃあ助かるが」
「なあ、あかん?そしたらうちも念願の一人暮らしもできるし」
どこまで本気で考えているのかはわからない。ただの思いつきだけなのだろうが、眼を輝かせている。
「ばかなことを。仕事はどうする。第一ご両親にどう説明するんだ」
「仕事て、女一人生きていくくらい何とでもなる。これまでの貯金もあるし。けど、お父ちゃんとお母ちゃんなあ、一人暮らし、までは理解してくれるやろうけど、松山、は無理やなあ・・・家出するわけにもあかんし」
「当たり前だ。ま、決まってから考えよう」
佐久間は考えてもみなかったことだ。いずれは誰かのところへ嫁いで行くだろうし、そうさせなければならない責任もある。それまでの数年だけ詩乃を近くに置いて暮らす、なんとも甘い誘惑だった。
「うん、でもパパがいてへんようになったら、やっぱりお嫁に行くしかないのんかなあ」
「そんなこともないだろう。仕事は続ければいいし、資格を取ったり習い事をしたり、海外を旅行して見聞を広めるのも悪くない」
「そういう先輩もいてはるけど」
「若いうち、あるいは独身のうちじゃないと経験できないことはたくさんある。結婚すると女性は何かと自由ではいられなくなるからね」
「妻子ある人を好きになる辛さは十分経験してる」
佐久間の説教調の口調に敢えて言った冗談なのだろうが、佐久間としてはドキリとされられる。そんなことをさらりと言えるようになったのだ。大人になったというべきなのか、強くなったというべきなのか、言葉が出ない。
「冗談。うちが好きでそうしてるんやから。けど、これも若いうちにしかできへんことの一つには違いないもん」
「それはそうだが」
「ええのん。いろんなことがあって、いろんなこと考えて、最近ちょっと割り切ることができかけてんねん」
「確かにね。詩乃を見ていて何かが変わってきているとは思っていた。その分私には理解できなくなっているようで、ずいぶんヤキモキさせられているが」
「自分でもまだはっきりとはわかってないねんけど」
貴船神社に上がる石段の手前に、川床料理で有名な仕出し屋がある。宿泊もできるのだが、結構な値段だったと記憶している。その辺りからは道が狭くなって対向車が来ると神経を使う。公営の駐車場が満車だったので、その隣にある土産物屋の駐車場に車を止める。一回千円とずいぶん大雑把な値段で、決して安くはないが、谷あいのこの辺りでは広い土地がそうそう取れない場所なので仕方がない。
灯篭の並ぶ石段を登っていると、途中で詩乃がわき腹を押さえて立ち止まった。
「痛むのか」
「うん、けど、大丈夫。前から、とんだ後はちょっと痛むねん」
「無理をするなよ」
「動いていたほうが紛れるし、すぐにおさまる」
佐久間は詩乃の体を抱えるように手を回す。
「もう、大げさやわ。おばあちゃんみたいやん。うちの方が若いんやから大丈夫」
口ではそう言いながら、しばらくはゆっくりと歩く。それでも石段を登りきって狭い境内につくころには痛みもおさまったのか笑顔が戻る。
佐久間としてはこの華奢な身体がやはり心配でならないのだ。
「なあ、パパ、ここ何の神様か知ってる?縁結びなんよ」
「ああ、それは知っている」
「大昔、男の神様にフラれた女の神様が、ここで人間の良縁を祈ることにしたんやて」
「ほう、そういう謂れがあるのか。そうした神話は何がしか人間の物語がもとになっているらしいから、よくできた女性がきっといたんだね」
「うちはフラれんように女磨かなあかん。他人の良縁を祈ってる場合やない」
「ははは、私は今のままの詩乃がいいのだが」
「パパはいつもそう言うてくれるけど。でもパパと結婚するわけにいかへんもん」
「しかし詩乃もどんどん大人になっていると思う」
「パパがもう一人いてくれたら、今のままでいられるのにな」
そう言って甘えた視線を向ける。
割り切れるようになったと言い、こうして甘えてもくる。どれも本当の詩乃の心なのだろう。
複雑な気持ちで賽銭を投げて、柏手を打ち、手を合わせる。佐久間は、具体的に祈る内容が浮かんでこず、心の中で「よろしく」とだけ呟いた。
詩乃はずいぶん長い間手を合わせ眼を閉じていた。詩乃なりに思うところがたくさんあるのだ。
「何を熱心にお願いしていたんだ」
「いろいろ、詩乃とパパのこと、詩乃と将来のだんな様のこと、パパと奥さんのこと、どれも大事やから」
「私と家内とのことも?」
「うん。パパと奥さんがうまくいってるから、こうして少しだけおすそ分けしてもらえるんやから。それをお祈りせんと自分のことばっかりやったらバチあたる」
「何だか詩乃の方が偉いな。私のほうが年甲斐もなく自分のことばかり考えていた」
「ううん、そんなことない。パパは一人前のこと全部やった上で詩乃のこと愛してくれてるもん」
「詩乃は辛くはない?私は沖縄のことなどずいぶん嫉妬してしまっていた」
「ないて言うたら嘘になる。けど、それは最初からわかってたことやし。けど、割り切れるようになったことの一つにはそのこともある」
「どう割り切れるようになったのか教えてほしいな」
「表現するのは難しいけど・・・これまでは、やっぱり悪いことしてるってばかり思ってた。それは今でも一緒なんやけど、自分の心がそうなんやったら、とりあえずそのまま受け止めてあげよって。ごめんなさいはそのあとにしよ・・・そんな感じかなあ。そんな風に考えたら、ふっと楽になった気がして」
「なるほど。ごめんなさいはそのあとか。それは分かるような気がするな」
奥の院までゆっくりと歩く。
「なあ、パパ、彼のことで心配かけてごめん。自分でもようわからへん。なんとなくいつも近くでいてて、友達以上恋人未満のような感じなんやけど、年が近いせいもあるからかなあ、この人について行こう、という人でもないし、ついて来いて言われたこともない。けど、将来のこととして結婚て考えたらそんなのもありかなあ、って思える人ではあんねん」
「そう・・・か」
「けど、そんな風に思うのんも妥協するみたいでいややし」
「まあ、結婚して生活していく上ではある程度妥協することも必要だが、最初から妥協して相手を選ぶことにはあまり賛成はできないな」
「けど、パパが嫉妬してくれてるって、すごくうれしい」
「ばかな年寄りだ。割り切ろうと思えば割り切れるのだろうが、そうしたくなくてね。詩乃が言うように私が二人いたら、などとばかなことをいつも思う」
「パパと付き合い始めたころは、もっと単純やったかなあ。その頃パパの赤ちゃんがホントにできてたら、絶対迷わずに産めたのに。その面では奥さんが羨ましいと思う。迷いないままお嫁に行って、今のうちの年にはママさんなんやから。詩乃にそういう相手がいてなかったことが不運の始まりなんや」
「あれには、私の青春を返してって言われているがね」
「あは、それは当ってるかも。悩むことはあってもうちは自由でいられるもんなあ」
「だが、例の店の絵梨子ちゃんの話しを聞くと、やっぱり父親は必要だと思う」
「詩乃もその店つれてって。エリちゃん、なあ。詩乃のそっくりさんにも会いたいし」
「そうだな、人事課長のいない日にね」
「どうして?うちらのこと知ってるんやろう」
「そりゃそうだが、立場上認めるわけにはいかんだろう」
「そっか、けど、お店のほうは約束」
「わかった」
奥の院の新しくなった社や貴船神社の名前の由来となった船の形をした石と、そこに残る物語が書かれたいくつかの看板を見て引き返す。
相生の杉や和泉式部が恋を祈ったといわれる思い川で立ち止まって、説明文を熱心に読んでいる。
身体の具合がどうなのか気にはなっっていたが、その後は痛がる様子もない。
「なあ、松山、やっぱり行ったらあかんかなあ」
駐車場から車を出すときに、突然思い出したようにそう言う。さっきは冗談めかして言っていたのだが、今度は少し真剣に考え始めているようにも聞こえる。
佐久間は、やはり返事ができなかった。
十八日、詩乃は予定通り入院することになった。
手術は翌日に行われ、退院するときには結果もわかって、やはり良性の腫瘍であった。とはいえ、放置すると成長し、稀に癌化することもあるらしい。
ともあれとりあえず心配の種は解消された。
腹の三箇所にメスが入り数センチの傷を作った。その傷跡が目立たなくなるのに要する時間にはずいぶん個人差があり、詩乃はそのことをしきりに気にしていた。
短い入院ではあったが、佐久間はその間に見舞いに行ってやることもできなかった。それは分かっていたこととはいえ、二人の関係が世間では認められないものであることを改めて認識させられるのである。
若いだけに術後の回復も思いのほか早く、あらかじめ申請していた二週間の休暇で、予定通り出勤することになった。
次の週に、フラミンゴで食事をしながら、詩乃から手術の様子や医者から受けた説明のこと、病院でのできごとを聞いたのだ。
「見舞いにも行けず、淋しい思いをさせた」
「ううん、たった四日やし、お母ちゃんがずっといてくれたから。かえってパパが見舞いになんかきてたら大問題になるとこやった」
「そうか。それもそうだな。しかし、これでやっと本当に安心できるな」
「うん。ご心配をかけました」
「もう痛みもないのか」
「全然。傷口はやっぱり違和感あるけど、普通にしてたら忘れてるくらい。でもなあ、当たり前なんやけど、傷跡はやっぱり目立つねん。しばらくはヌードにもなられへん」
「何を言ってる。ひょっとすると詩乃の命を救ってくれた傷跡じゃないか。私は感謝したいくらいだ」
「パパは詩乃の全部知ってくれてるからやけど、他の人から見たらそうもいかへん」
「他の人に見せる必要なんかないだろう」
「もう・・・女の子の気持ちわかってくれへんなあ」
ちょっとふくれっ面をしてみせるが、本気で言っているわけではないのは佐久間にもよくわかる。
もっとも女性は現実的だということもある。たしかに、もしも違う結果だった状況と比較して現在やその先の未来の意味を判断するのは、客観的とはいえないかもしれない。それまでのいきさつがどうであれ、現実がそこにある以上、そこを物事を考える原点とする方が確実であるとも思える。
そうすると、今の詩乃にとって一番の気がかりは手術の傷跡ということになるのだ。
やはり女性の方が逞しい。
「そうだな、私にはその才能はあまりないようだ」
佐久間もおどけ気味にそう答える。
「まあ、それがパパのええとこなんやけど」
「何だいそれは」
「あんまりわかられすぎると困ることもあるし」
「困るようなことを考えているのか」
「それは秘密・・・それより、ひょっとしたらお母ちゃんは気付いてるかもしれへん」
「何をだい?」
「うちらのこと。二週間も一緒におったやろう、もちろん具体的にではないんやろうけど、そろそろ結婚も考えなあかんて言われた」
「ふむ、それは詩乃がいわゆる適齢期なんだから仕方がないことじゃないの」
「ううん、それだけやないみたい。あの頃、妊娠してるかもしれんて悩んでた頃、お母ちゃんは詩乃が悩んでいることは感づいていたと思う。それでこの手術やろう。原因がこれで悩んでんのやったら、お母ちゃんに言うはずやねん。でもうちは何も言わへんかった。第一、なんで病気やてわかったんかって考えたら、そこには何かを調べる必要があったてことになるやん。そしたら自然と答えは出る」
「なるほど、たしかにそうなる。で?」
「ううん。そのことについては何も言わへんけど、その代わり結婚のこと言い出したんやと思う。そんな関係になってる彼がいてるんやったら前向きに考えなあかんし、それが許されんような人やったらやめささなあかんて」
「そうか、女同士だからわかるところがあるのかな。だとすると母親としてはそう思うだろうな」
「そうやねん。まさかそのままお父ちゃんに言うことはないやろうけど、風当たりは強うなるかもしれへん。お見合い話とか持ってこられたらどないしょ」
「詩乃はどうしたいの?」
「今は、こういう好きな人がいてるから嫌や、なんて言われへんしなあ」
「それこそ大問題になる」
適齢期というのは当の本人にも難しい年頃だが、親からみてもそうなのだろう。
「それからなあ、もう一つ報告せなあかんことがあんねん」
それまでとは違って、その言葉には迷いが感じられる。
「言いにくいことなのか」
「う・・・ん、パパに言うべきことかどうかわからへんけど、うち、プロポーズされた。退院してちょっとして。いつも言うてる彼から」
「・・・そうか。そういうときがくるかもしれないとは思っていたが」
少なからず動揺させられる。
詩乃は将来その彼ならば結婚してもいいというようなことを言っていた。ことによっては覚悟を決めなければならないのかもしれない。
「詩乃の身体のことも知ってて、自分がついててやらなあかんて思うたんやて」
「いい男じゃないか。あくまでも一般論としては、だが」
「うん。いい人、ではあるんよなあ。やけど、それってなんか同情してるだけみたい」
「うむ、まあ、そんな気持ちもあるのかもしれないが、これまでの詩乃との関係を変えようとしているのは事実だよ。心配することで誰かの大切さがわかるということもある」
「パパは賛成?」
「まさか。私の気持ちはいつでも詩乃を愛している、それだけだ」
「でもなあ、彼にはちょっとあきれてる」
「プロポーズしてもらったのに?」
「そやかて、未だに定職にもついてのうて、バイトや派遣みたいなことで生活してんねん。仕事がなかったら親からお小遣いもろうてるし。友達程度の間やったらそれでもとやかく言うことはないけど、そんな状態で結婚しようなんて、普通言える?」
「ほ、そりゃあ思ったよりもずっと甘ちゃんだ」
佐久間は、その男に幻滅すると同時にほっとしてしまう。
「何もパパのように贅沢させてもらおうなんて思てへん。若いねんから。それにしても思いつきもええとこや」
「それで、詩乃は何て返事したの?」
「そのまま。そんな状態では暮らしてなんか行けへんやろうて」
「手厳しいな」
「そやかて、今の状態で中途半端に脈のあるようなこと言われへんもん」
「この間は、それもあり得るようなことを言っていたのに」
「人間的には考えられへんことはないけど、生活していけるのが大前提やろう。女は一生がかかってるんやから」
「そりゃそうだ。そうすると、もしもそうなるにしてもしばらく先だな」
「そう思う。それに、仮に彼に生活力があっても、今は詩乃がそんな気持ちにはなれへんし」
「どういう意味だ」
「もしもそうなったら、うちは三人に嘘つきながら生きていかなあかん。パパと彼とうち自身。そんな自信ないもん」
男も女もどこかでは何かを選択しなければいけない時期が来る。佐久間が理子との結婚を決めたときにも、他に気になる女性が居なかったわけではない。何年か前に失恋した相手への未練もあった。
幸いといえるものではないが、他の気持ちは切って捨てられる程度のものだった。そして当時まだ十八歳の理子を選んだ。それは二十七歳の佐久間の確固たる意志であり、少なくとも自分の心に嘘はなかった。
誰かへの嘘はつき通すことはできても、自分への嘘を続けるのは難しい。もちろん長い年月の間にはそれが本当になる日が来るのかもしれない。それまで本当の自分を心のどこかへ押し込めて、その日をじっと待つことは、若い間は殊更に辛いものだ。
詩乃が自分にも嘘をつきたくないという思いもよくわかる。
ただ、人の心というものはうつろい易くできているのもまた事実なのだ。
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