第6話
(六)
翌日も詩乃は会社を休んでいた。
佐久間は、仕事を終えて帰る途中で、喫茶店に寄り、携帯電話をかけた。昨日は心配させられたのだ。
「はい、元井です」
二回目のコールで詩乃が出た。
誰からの電話なのかは画面に表示されるはずだ。それでいて、事務的に話すというのは、近くに誰かがいるということだ。
「今、話せるかな?」
「あ、課長、済みません、急にお休みしてしまって。はい、ちょっと体調を崩してまして」
「都合が悪そうだね。後でかけてくれる?」
「はい、わかりました。どうもご心配いただいて、有難うございます。明日は出勤いたしますので」
取ってつけたようなやりとりだが、仕方がない。
五分ほど待っていると、佐久間の携帯が揺れた。
「ああ、私だ。すまなかった。大丈夫なのか」
「うん。久しぶりにお母ちゃんと話ししてたとこやったから。今はうちの部屋からやから大丈夫」
「で、どうだったんだ、検査結果は?」
「うん、昨日の段階では、ほぼ安心やて。卵巣の近くに小さな腫瘍があって、それで生理が不順になったりしててんて。いろいろ検査して、多分良性やろうって。けど、はっきりさせるのにやっぱり摘出して組織を検査するらしい」
「そうか、じゃあ、とりあえず一安心だな」
佐久間もほっとして椅子にもたれかかる。
「でもなあ、手術は必要やって。おなかの何箇所かから内視鏡みたいなの入れて、やんねんて」
「ああ、わかるよ。最近は開腹手術は身体に負担が大きいから、そういうやり方が多いって。手術の痕も小さくてすむしね」
「うん。先生もそない言うてはった。でも、これから後、子供産めんのかなあ」
「まずは、今を大事にすることだ」
「そうやなあ」
「ところで、昨日はどうしたんだ?何度か電話をしたが出なかった」
「うん・・・」
ちょっと口ごもる。
「友達と一緒やったから」
「そう」
「うん。パパからかかってたのは知ってたけど、出られへんかった。後でかけようって思うてたら、遅うなって・・・」
「ま、仕方ない。心配したぞ」
「ごめん」
「で、手術の日程は?簡単と言っても何日かは入院することになるんだろう」
「まだ未定。病院の都合もあって、半月くらい先になるらしい」
「そうか、また詳しいことがわかったら連絡しなさい」
「はい」
「それじゃ」
「心配かけて、ごめんなさい」
「いや、私の方こそこんなときに何もしてあげられなくてすまない」
通話を切ってため息をつく。
「友達か・・・」
仕方がないとわかってはいても、ひと言の連絡もしてこなかった詩乃にほんの少し腹が立つ。
とはいえ、大事無かったことにとりあえずは胸を撫で下ろす。
「友達?」
佐久間はあらためて疑問が湧いてきた。
普通の友達であったなら、詳しい話はできなくても、電話に出て検査の結果を伝える程度のことはできるはずではないのか。それができないのは、一緒にいたのは男ということになる。
以前、詩乃がちらりともらした、元の彼。親しく近況報告などしあっているようなことを言っていた。病気のこともあり、心細いときに、佐久間が一緒にいてやれない。
いつまでも佐久間に甘えてばかりはいられないという考えも詩乃の中にはありそうだ。そうするとある程度自分を理解してもらえる、その元の彼に慰めを求めても何の不思議もない。
今の言葉でも、ほんの少しだが詩乃は口ごもった。
そのことに気がつかなかったわけではなく、敢えて触れなかったのだ。
「友達か・・・」
佐久間は、ある程度の確信と同時に、諦めをもってそう呟いた。詩乃がその男を選ぶのならば仕方がない。
詩乃の未来は詩乃が決めることを、この間約束したばかりだ。
佐久間は、三本目の苦い煙草をもみ消して喫茶店を出る。
理屈では、割り切らなくてはいけないと思うし、今は詩乃の健康だけを祈っていればいいのだとも思う。
だが、心の底から湧き上がってくる嫉妬心、喪失感という種類のモヤモヤとした感情を無視することもできなかった。
どんな形であれ、愛情を注いだ女性は自分ひとりの存在でいて欲しいものなのだ。もちろん、佐久間と一緒にいるときの詩乃の気持ちを疑ったことは一度もない。
いっそ、はっきりと他に愛する人ができた、と聞かされた方が諦めがつくようにも思える。
しかし、あれからまだ二週間なのだ。
もちろん何かを変えるのに、時間の長い短いは直接関係ないことではある。今の短い会話から二人の間にある距離はそう変わっているとは思えない。ただ、その意味を変えることもあるのだ。
その近さに浸っていればよかった距離から、これから離れていかなくてはいけない距離に変えることはできる。
これまでそれほど親密だったとは思えない元の彼との関係も同じで、現実が急に変わることは難しいかもしれないが、その意味合いが、これからは大切にしていかなくてはならないものに変えることはできるのだ。
そういう決心をするのに時間の長さはあまり関係がない。
むしろ本当に詩乃がそう決心しようとしているならば、佐久間はその邪魔をするべきではない。理屈としてはそう考えるのだが、佐久間の心にある詩乃への愛情はどれほどの時間を費やしても変わりそうになかった。
「未練な・・・」
自嘲の笑いが湧いてくる。
ちょっとした苛立ちと、沈んだ心を引きずって家に帰る。
いつもどおり、玄関の前で一つ深呼吸をして、心のチャンネルを切替える。
そこにはいつもどおりの不足のない家庭がある。二年半前はこの暮らしだった。特に贅沢ができるわけではなくとも、いわゆる中流と言えば言いえる暮らしだった。
翌日も昼休みや仕事を終えると、やはり詩乃のことが気になる。
昨日の電話では、今日から出勤すると言っていたが、こちらから敢えて連絡はとらないでいた。
何か必要になれば言ってくるだろう。
しかし、一日何もない。
それがどういうことなのか、彼女が今何を考え、何を望んでいるのかを理解したいと思う。
自分の身体のことなのだから、佐久間以上に不安であるはずだ。
その不安を拭い去ってやることはできない。ただ、受け止めてやりたい、少しでも慰めてやりたいと思うのだ。
詩乃はそれを望んでいないのか。佐久間の負担になりたくないと考えて、距離を置こうとしているのかもしれない。
それは、詩乃らしいといえば詩乃らしい。
しかし、これまでの二年間を考えると、あまりにも水臭いというものだ。佐久間が注いできた愛情が、その程度だと受け止められているのだとすれば、どうにもやるせなかった。
次の日に会社のエレベーターで詩乃を見かけたときには、同僚の女子社員と一緒に屈託のない笑顔で話していた。その姿を見ると、安堵する反面、こちらがこんなに心配しているのに、と自分勝手な腹立たしさも湧いてくる。
もちろん会社での姿であり、一つの役割を演じているのだから仕方のないことだと理性ではわかっている。しかし、感情はそう簡単にコントロールできなかった。
詩乃が身を揉んで泣いた日に、別れなくてはならない、などと考えたことさえ忘れてしまったように詩乃のことばかりが心を占めている。
金曜日の昼に、詩乃からメールが届いた。
「明日から月曜日まで友達何人かと沖縄へ行きます。今年は夏がなかったから」
明日のことを今日連絡してくることに少し腹が立つ。
しかし、一緒に言ってほしいというわけではないのだから、早くから行っておく必要はない。まして、佐久間に許可を求める筋合いはない。
そこに何か詩乃の思惑があるようにも受け止められる。
そのことについて、今は何も言わないでほしいのかもしれない。
確かに詩乃にとって今年の夏は苦しい思いばかりの季節だった。
手術までの日程に少し余裕がありそうだから、短くても一度くらいは若者らしいバカンスを楽しむことは気分転換になるだろう。
誰と、についても佐久間は敢えて尋ねないことにした。
聞かなくても察しはつく。
「わかった。楽しんでおいで」
短い返事を送る。
詩乃も気を使って、敢えて「友達何人かで」と伝えてきているのだ。
一人で考えていると、嫉妬心から詩乃の行動を心の中で責めてしまうが、こうして単なるメールとはいえ目の前にすると、寛容でなくてはならないという分別が前面に出てくる。
そしてまた一人になると、分別くさいことしか言えない自分に腹が立つのだ。
午後には例のプロジェクトの結果について、人事担当の常務への報告会があった。折に触れ進捗状況を報告していたこともあって、さしたる質問や検討事項もなく了承が得られた。
ひとまずプロジェクトリーダーとしての役割を終えて、これからは会社の決定に従っていくことになる。長かった仕事だ。
一応、メンバーを集めて人事部長から労いと感謝が述べられて、解散が告げられた。
後刻、佐久間一人が部長室に呼ばれた。
以前、大西から相談のあった転勤の話かと覚悟を決めていたのだが、レポートの現業部門の感覚で、言葉では表現しにくいニュアンスについて、二、三質問され、「ご苦労さん」といわれただけで、いささか拍子抜けではあった。
もっとも、だからといってその異動を望んでいるわけでもなく、また、話そのものがなくなったわけでもない。
ほっとする気持ちと詩乃へのもやもやした気持ちで、まっすぐ帰る気にもならず、今回は佐久間が大西を誘ってみた。
この間の飲み代も、自分が誘ったからと大西が払っている。気にするほどのことではないが、借りは借りだという思いもあった。
残念ながら大西には先約があり、夕方から神戸へ行くことになっていた。
借りを返す代わりにモリでボトルを入れておくことを告げると、京子を口説かぬようにと釘をさされた。
もとよりそんな気持ちはない。
ただそう言われて、詩乃に年齢も近い彼女に、漠然と若い娘の心境を尋ねてみたい気にもなる。
まだ薄明かりの残る時間帯に、一人で北新地へ向かうことに少々後ろめたさも感じながら店を探した。
この間はタクシーで乗りつけ、大西に手を引かれるように入った店で、はっきりとした記憶はなかった。それでも、ビルの雰囲気から何とか探し当ててドアを開ける。
ドアについているベルの音で、バーテンダーが条件反射のように「いらっしゃいませ」と声をかける。
店は開店したばかりのようで、客は奥のボックス席に一組しかいない。
先日は二人だったので、すぐにボックス席に座ったが、今日は一人である。一瞬どこへ向かおうかと迷っていると、ママがさりげなくカウンターへと案内してくれる。
女性の年齢は分からないものだが、四十歳にはまだ届かないというところだろうか。年齢からすると地味な和服姿で、まずまずの美人である。やや丸顔で愛嬌があって佐久間の好みの顔立ちである。
ニコリとした顔が大阪出身の演歌歌手に似ているなと思ったが、その歌手の名前を思い出せなかった。
「佐久間さんでしたよね、この間ダイちゃん、あ、大西はんとご一緒されてた。間違うてたらすんまへんけど」
さすがにこういう店のママである。
客の名前を覚えることがもてなしの第一歩なのだ。
「はい、今日は一人なんですがよろしいですか?」
「もちろんです。ようおこし下さいました。大西はんは?」
「誘ったのですが、他に先約がありまして」
「そうですか、これからもお一人でもかましません。ゆっくりして下さい」
ちょっとした挨拶の間にお絞りが出され、コースターと突き出しが出される。これで五千円がこの辺りの相場だ。
「とりあえずビールでも?」
「いや、水割りの薄いのからお願いします」
バーテンダーは手際よく大西の名前のボトルを探してカウンターに置いて、氷とミネラルウォーターを並べて身を避ける。
初めの一杯はママが作ることになっているようだ。
ボトルは三分の一ほど残っていた。
「先日彼にご馳走になりましたから、彼の名前で一本入れておいてください」
「そんな気ぃつかわんでもよろしのに。うちらは嬉しいんですけど、ダイちゃんは馴染みはんでっさかい」
「いや、私も彼のボトルで飲みますから」
「そうですか、ありがとうございます」
同じ種類のボトルを出して、それに掛けるタグを渡される。そこに「大西」と書いて渡すと、ボトルにマジックで「佐久間さんより」と小さく書いて棚へ並べる。
ちょっとした気遣いだが、悪い気はしない。
「ダイちゃん、ですか。羨ましいですね。そんな風に呼んでくれるお店があるって」
「もう一年近くになりますやろか。最初に来はったときは、それはもう大トラで。一遍におぼえさせられましたわ」
「ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。なんぼ悪態ついたかてお人柄はわかりますよって。そんなきっかけですから、ついついこっちも馴れ馴れしゅうそう呼ばせてもろてるんです」
そう言って、奥のテーブルに目配せする。
「ほなまたあとで。ゆっくりしていって下さいね。しばらくはヒマそうやから、あっちのお客にも売り上げに協力ささな」
と小さくガッツポーズをして見せて、そして笑顔でカウンターを離れる。
やはり大西の言う通り、気の置けない店だ。
ママさんの懐っこさがそうさせるのだろう。大阪の下町らしいあっけらかんとした人柄の中に程よい上品さも備えている。
普通ならば「売り上げに協力させる」などと、そう馴染みでもない客に言ったりはしないものだと思う。
それがあまりにも自然で嫌味もないために思わず笑ってしまう。
まさか計算ずくでやっているとも思えず、それだけですっかり彼女のペースに乗せられているようだ。
ある種の達人であることに間違いはない。もっとも、そうでなくてはここで一軒の店をやってはいけないはずだ。
目配せを受けてカウンター越しに佐久間についたのは残念ながら京子ではなかった。それとなく周りを見渡しても京子の姿はない。
「エリです。よろしゅう」
その名前にドキリとして嫌でも彼女を見つめてしまう。
伏目がちに頭をほんの少し傾けながら、膝から体全体を少し低くして笑顔を見せる。まだ二十歳そこそこだろうか。
京子がいないことに残念な顔もできず、普通に振舞おうとしていたが、その瞬間に京子のことも意識から消えていた。
エリと名乗ったその子は、ちょっと見ると一重に見える奥二重のくるりとした眼をしている。どちらかというと日本的な顔立ちで、髪はストレートで肩口で揃えてある。これといって目立つ特徴はないが、笑うと右の頬にエクボが出て、話すときには左の八重歯が印象的で、それがアクセントになって子供っぽく見える。
「佐久間です。一杯飲みますか」
何とか落ち着いて鷹揚に振舞いながら、内心どう扱えばよいのか分からない感情が渦巻き始める。
「おおきに。うちお酒はダメなんで、ジンジャエールもらいます。よろしおすか?」
バーテンダーに眼で合図を送ると、いつものことなのだろう、彼も心得た仕草でグラスを渡す。
「いただきます。じゃ乾杯」
ほんの少しグラスを合わせ、佐久間は水割りに口をつける。
「エリちゃん、初めてで不躾ですが、どんな字を書きますか」
「いえ、不躾やなんて。ホントはエリコなんです。でもお店ではエリの方が呼びやすいってママさんが決めてくれはって、あ、エリは絵画の絵、鳥取の梨の梨、ですけど、名刺はカタカナのエリです」
「絵梨子、ちゃんか」
単なる偶然であり、絵梨子という名前も珍しい名前ではない。
しかし、よりにもよってここでその名前に出会うとは、偶然にしても出来すぎだ。
苦笑とともに、淡い柔らかい気持ちが湧いてくる。
「なんでですのん?」
「いや・・・娘、とね」
何とでもごまかすことはできたはずなのに、佐久間は言わずもがなのことを思わず口にしてしまった。
それは、現実にはならなかったが、一面では詩乃と同様に限りなく真実に近かったために、無意識に言葉に出てしまったようだ。
「おんなじですか、何やちょっと嬉しいわあ。ここでは娘やと思て可愛がってください」
佐久間は次の言葉が出ないまま、無理をして笑顔を作って彼女にうなづいて見せた。
詩乃が娘を産んで、その子が二十歳になればエリのようになるのかもしれない。
今となっては見ることのできない夢のイメージに目の前のエリをだぶらせてしまう。そんな思いで、思わずじっと見つめてしまっていた。
それは名前を聞くよりもずっと不躾なことだったろう。そして佐久間の表情は、心と同じくきっと複雑なものだったのだろう。
「あの、ごめんなさい、うち、なんか・・・」
エリの目にも不思議に映ったのだろう。その申し訳なさそうな顔を見て我に返る。
「あ、いや、すみません。そうじゃないんです・・・私のほうにちょっと」
「何か失礼なことしたんやないかと思うて」
「そんなことはありませんよ。こちらこそ失礼でした。気にしないで下さい」
「よかった。ところで佐久間さんて、東京の方ですか?標準語で話さはる」
「ええ、もう関西も長いんですけど、どうも上手く喋れなくて。かえって不自然になるので諦めました」
ようやく冷静さを取り戻して他愛もない会話に戻ることができた。
まさかこの子に絵梨子の物語を話すわけにもいかない。
そういえば、エリの言葉も大阪のものではないことに気がついた。
「エリちゃんは京都の方ですか」
「やっぱり分かりますか。はい、この間まで祇園で舞妓してました」
「どうりで。お辞儀の仕方も違うと思った」
「あ、またやってしもた。あれは日本髪のときのご挨拶なんです。あかんて叱られるんですけど、十五の頃からキツう仕込まれましたから、なかなか抜けなくて」
「じゃあ、本格的な京都言葉が話せるわけだ。できればそれを聞かせてほしいのですが」
「ええのんですか。京言葉いうても今は花街にしか残ってない言葉です。生意気そうに聞こえるって言う方もいはりますけど」
「それがいいんですよ」
「なら、今日だけ。標準語の方を前にうまくできるかどうか」
「よろしく。でも舞妓さんがまたどうして新地でお勤めを?」
「初めての方にこんなこと言うてええのんか・・・うち、片親なんどす。お父ちゃんの顔知りません。お母ちゃん一人で育ててもろて、好きな芸事の道へ行かしてもろうたんですけど。衿替え、てご存知どすか」
「いいえ、衿というのは着物の衿のことですか」
「はい、外見上は着物の衿が赤や花柄から白に変わることを言うのんどすけど、舞妓から一人前の芸妓になることなんどす」
やはり京都言葉になると、柔らかく流れるようで、またどこか大人っぽく聞こえる。それが生意気そうに聞こえるのかもしれない。
「ほう、そういう仕来たりがあるんですか。何だか歴史を感じますね」
「けど、それには着物やらなんやらでごっついお金がかかります。スポンサーはん持つ子もたまあにおすけど、うちはそんなんいややし。屋形のお母はんが世話してくれますけど、そしたらまた年季が明けるまでに長うかかります。早うお母ちゃんに楽させとうて、この世界へ鞍替えしたんどす」
境遇までイメージの中の絵梨子にだぶってくる。
やはり女手一つで子供を育てていくことは、そんなに簡単なことではないのだ。
この子が幸せなのかどうかは尋ねてみなければ分からない。ただ、普通の若い娘たちよりは何倍も苦労をしてきていることは想像がつく。
詩乃とのことは結果的に杞憂に終わったのだが、やはりそれで良かったのだと思わざるを得ない。
「苦労したんですね」
「はい、いいえ、確かにお行儀や習い事は特に厳しおしたけど、それが苦労やとは思てしません。お仕事どっさかいに。まあ、時には同じ年頃の学生さんたちの自由が羨ましいと思うこともありました。でも、うちらはもう一人前なんやてプライドみたいなもんもおしたから」
急にそれまでの子供っぽさが抜けて、ずいぶん大人びて見える。年こそ若いが、その世界では一人前として生きてきた女性なのだ。
「なるほどね」
「この仕事に変わって気がついたことがあんのです。うちの中にどっかお父ちゃんに憧れる気持ちがあったんどす。お座敷ではそんなこと考える余裕はありませんでしたけど、ここではお客さんを見てて、あんなお方かなあ、なんて。お客さんのお年もそれくらいの方が多おすから」
「じゃあ、私もその一人ですか」
「佐久間さんではきっと年が足りません。けど、さっきの佐久間さんの眼、不思議どした。舞妓もこの仕事も見られてなんぼ、どすけど、あんな眼で見つめられたの初めて。違うてたら堪忍。ちょっと悲しそうで、うちを見てはるようでうちやない誰かを見てる。かというて娘さんを思い出しているようにも見えません」
やはり佐久間の動揺はすっかり顔に出ていたようだ。
「本当に失礼しました。実は・・・いや、君が・・・」
「ええのんどす。どなたはんにもいろんな事情があることは前の世界で覚えさせられましたから」
「ええ、ちょっと。機会があれば、いずれ聞いてもらいましょうか」
「はい。あの、佐久間さん、うちからも一つお願いしてよろしおすか?」
「何でしょう」
「うちら相手にその敬語で話さはんのはやめてもらえませんやろか。何か落ち着きません」
「ああ、そうか、そうですね」
「ほら、また。娘やと思うて、気軽に」
「はは、失礼。では、といって急には難しい」
「なら、うちが勝手に娘になります。なあ、お父ちゃん」
そう言って、にこりと笑顔を作る。
佐久間に甘えてくる詩乃を思い出させるような、あどけない笑顔だった。
「じゃ。エリちゃんはいくつになるの」
「もうすぐ二十二になります。普通芸妓は二十歳までなんどすけど、うちは童顔やったせいか、すこうし長いことやらせてもらいました。自分ではそうは思てないのんどすけど、こればっかりは屋形のお母はんの決めはることが絶対で」
少し不満そうな顔をして見せるが、「お母はん」の判断は正しかったようだ。
生い立ちがそうさせているのか、花街の仕事がそうさせているのか、エリにはすっかり大人の世界と、まだ幼さの残る世界とが心の中に同居しているように見える。
その年頃、佐久間は大学生で、背伸びをして分別くさいことをいていたかもしれないが、所詮背伸びであり、真似事にすぎなかったと思う。
そのとき京子が「おはようございます」と出勤してきた。
「あ、京子姉さんや。佐久間さんは姉さんのお客さんやから、うちはこの辺で身ぃ引かしてもらいます」
今度は少し大げさに芸妓風のお辞儀をして見せて、笑顔を向ける。
「ああ、ありがとう」
佐久間は名前だけでなく、エリが気に入ったし、親しみが感じられた。
京子は佐久間を見て、少し驚き、そして笑顔になる。歩くと、トレードマークのポニーテールの髪が揺れる。
やはり何度見ても詩乃に似ていることに変わりはない。あらためて驚かされるのである。
「あら、佐久間さん、今日はお一人ですか」
「すまない。大西も誘ったのだが、先約があって私一人だ」
「そんなこと。でも覚えておいてくれはってありがとうございます」
否定する言葉に、ほんの少し恥じらいが見える。
本当に大西とはいい仲なのかもしれない。
現金なもので、エリに会い、そしてこうして京子に会うと、詩乃のことでもやもやしていた気持ちが遠いものになってしまう。
「エリちゃんと意気投合しはったんですか、可愛がってあげてくださいね」
「ああそうするよ。大西には君を口説かぬように釘を刺されてきたからね」
「もう、ダイちゃんたら冗談ばっかし」
「まんざら冗談にも思えないのだが」
今度は京子が水割りを作ってくれる。
「本気やったら、もうちょっと真面目に口説いてくれな。折れとうても折れられへん」
マドラーでグラスの氷を回しながら、誰に言うともなくそう言う。
「いや、これは、ごちそうさまです」
「いややわあ、そんなに真剣に受け止めんといて下さい」
「そのまま伝えてあげましょう。喜びますよ、きっと」
バーテンダーが小さな目配せで、新しいボトルのことを知らせる。
「ありがとうございます。あら、佐久間さんの名前にしといたらよろしのに」
「いや、ここは彼のシマなので」
「シマやなんて。佐久間さんにも行きつけの店がありますのん?」
「私は普段は下戸で通してますし、それに、本当にそう強くもないのでね」
ママの言う通り、先に来ていた客が八時過ぎに店を出ると、佐久間一人になってしまった。
もっとも、この辺りは九時、十時からが稼ぎ時で、この時間は、いわばまだ嵐の前の静けさなのだろう。
他に客がいないことで席を立ちづらいところもある。それに、まだ八時半で帰りを急ぐ時間でもないのだ。
しばらく彼女たちの退屈しのぎに話し相手になるのも悪くはなかった。
ママと京子がカウンター越しに向かいに立ち、隣の席にはエリが座って、一人でこの店の女性を独占している形になる。
「それで、その彼女はんがうちの京子に瓜二つなんですね」
話す気はなくなっていたはずなのに、ほどよい酔いと、聞き上手のママに乗せられて、あれこれ白状させられていた。
佐久間自身のことであるのに、それを言葉にしてしまうと、どこか他人事のように思えてくるような錯覚もあったのだろう。
後悔してもすでに遅い。
しかし、エリが言ったように、どこにでもある話で、彼女たちからすれば、そう珍しい話でもないはずだ。
「おっと、すっかりママさんに乗せられてとんでもない話をしてしまいました。酒の上のたわごとですよ。どうか忘れてください」
「それはご心配のう。新地の中の話は決して新地から出さしません。それがルールでっさかい」
柔らかい笑顔の中に毅然としたニュアンスでそう言う。
「それにしても、無理してはりますなあ」
「いや、そう言いながら、所詮私には家庭がありますから」
「いいえ、彼女はんのことですよ」
「彼女がですか。ここのところ何を考えているのか・・・親の心子知らず、ってところですよ」
「わかってないのは佐久間さんです。ねえ」
隣で聞いていた京子に、半ばあきれたような顔を向ける。
京子は少し困ったような表情をしてみせながら、控えめではあったがはっきりと同意の頷きを返した。
そのことがやや心外でもある。
「そんなに無理して距離置くようなことせんと、心細いときは甘えていればええのに」
「私はそう思っているのですよ」
「思てるだけではあきません」
「といっても・・・」
「こういうときは強引さも要りますねん。女には理由が必要なときがあります」
いつもは逆に「パパには何にでも理由が必要なんやね」と揶揄されていただけに不思議だった。
それを告げる。
「それは理由やのうて理屈です。今必要なんは理由です」
理由と理屈、言われれば確かに言葉としては違うものである。
男にとってはほとんどの場合、理由とは理屈なのだが、女にとっては別のものなのか。
「淋しゅうて抱かれたい時かてあります。けど、女からそんなことは言えませんでしょう。そこには強引に口説かれた、っていう理由がないと」
今しがた京子も冗談半分なのだろうが、同じ事を言っていた。その言葉がママに聞こえていたとは思えない。
とすると女性というものは皆そうなのかもしれない。
わざわざ沖縄行きを告げてきた言葉の裏には、佐久間に「行くな」と言ってほしい気持ちがあったとでもいうのだろうか。
「そら女の子やさかい、体に傷つける前にビキニも着ておきたいと思たんかもしれません。それかて、絶対やのうて佐久間さんの出方一つやったのかも」
そう言われてみると、短い言葉はどうとでもとれる。
もしもママの言う通りなら、佐久間は詩乃のことを全く理解できていないことになる。むしろ手前勝手な理解をして、詩乃を悩ませているのかもしれない。
しかし、それならそれで謎かけのような言葉ではなくて、はっきりと言えばいい。
「何だか少しずるいような気がしますが」
「当たり前ですやろ。女はずるうないと生きていけません。男はんが同時に複数の女性を愛せるように、女はいくつかの道を準備して、傷つかんように自分を守りますねん」
「それでバランスがとれているということになるのかな」
「でも、彼女はんは佐久間さんとのこと考えて考えて、無理してはるように思えます」
「私に家庭があるということですか」
「それは初めから分かってたことで、今さら考えることもありません。どこまでもお二人の間のこととして。けど・・・もっともそれが悪いことばっかりとは限りませんけど」
「というと」
「女はそうやって大人になっていくんです」
これまで佐久間が考えてもみなかったママの言葉の一つ一つになるほど、と思う。そう考えると、最近の詩乃の反応や行動の辻褄が合うような気がする。
しかし、既に詩乃が本当は望んではいなかったかもしれない自由を与えてしまっている。それに、これまでの辻褄が合ったからといって、これから本当の意味で理解してやれる自信はない。
いわゆる理屈が先に立ってしまうからといって、それなしには何かを考えたり判断したりはできそうにないのである。使い古された言葉ではあるが、男と女は根本的に違うらしい。
九時半ころから店が混みはじめ、佐久間もこれ以上は飲みすぎになると思って、帰ることにした。
ママが手が離せず、エリが表まで見送ってくれた。
「おおきに。花町では馴染みのお客さんを見送るときには、行ってらっしゃいって言うのんどす。ほんまの家庭にはかないませんけど、ここがそのお方の居場所ですて、ささやかな抵抗ですやろか」
「なるほど。でも、ちょっと切ないね。じゃあ、今日はありがとう」
「行ってらっしゃい」
ほんの冗談なのだろうが、エリはそう言って例のお辞儀をしてみせる。
確かにまた来てくださいと言われるよりも表現は控えめながら、待っているという気持ちが伝わる。長い歴史の中で生まれた女たちの知恵なのだ。
詩乃がいなければひょっとするとエリに惹かれてしまっていたかもしれない。
新地から京阪電車の淀屋橋の駅までは十五分程度なので、酔い覚ましに歩くことにした。
表通りに出ると、金曜日ということもあってずいぶん人通りが多い。
足元が覚束ないほどではないが、やはり酔っていることに改めて気がつく。
「女とはややこしいものだ」
ごく若いときは別にして、これまで付き合ってきた女性たちも佐久間が気付かなかっただけで、誰でもそういうところがあったのかもしれない。
それが、大人になるというのならば、確かに詩乃は変わってきている。
適齢期、と詩乃が言っていたことを思い出す。詩乃が変わり始めたのは、ちょうどその頃からである。
人それぞれとは言うものの、これからの自分の一生を考え始めるときである。相手となる男の態度や環境がはっきりしない時に、女はいくつもの選択肢を準備しなくてはならないということになる。
そう考えると納得できる気がする。
妻の理子を思うと、彼女は適齢期と言われるころには既に主婦であり母でもあった。だから他の選択肢を準備する必要もなければ、考えられる状態でもなかった。
それが良いことなのかどうかはわからない。まさに人それぞれの人生なのだ。
詩乃は、その相手が佐久間ならば、この先ははっきりしないどころか、常識的には何かを描けるものではない。
さらに身体の異変とそれに伴ういくつもの深い悩みがあり、今も引きずっている。それらの全てが詩乃をややこしくしているのかもしれない。
そうした迷いを少しでもなくすために沖縄行きを考えたのだとすれば、それも理解できる。
佐久間から離れるためだけに他の男と旅をするというだけならば、敢えて連絡してくる必要もないのだから。
やはり佐久間を試したのか。
それともただ水着が着たかったのか、佐久間に甘えていてはいけないと考えたのか、元の彼と一緒にいることで不安や淋しさを癒そうとしたのか。
詩乃にとっても、どんな結果が出るのか、そしてどんな結果を出そうとしているのかも明確ではないのだろう。
それを意識しているとも思えないが、出てきた結果に、どうとでも理由付けができるようにしているのかもしれないのだ。
これまでの二年間と少しの間は、佐久間の強引とも言える愛情が二人の関係を決めてきた。
そこに二つの変化が入り込んできた。
一つは二年という時間。つまり、詩乃が二つ年齢を重ねて適齢期などという年頃になったことである。
もう一つは、詩乃の妊娠の疑いが原因で、佐久間が詩乃を縛り付けていてはいけないと思うようになったことである。
これまでは一般的に許されるかどうかは別にして、迷う必要のなかった状態から、迷わなくてはならない状態になったのだ。
「しかし・・・」
詩乃の行動が頭では理解できそうな気はするが、感情は違っていた。
自分との間で起こる甘い時間が、詩乃と自分の知らない男との間で起こるのだと、この嫉妬心はどうしようもなく心を締め付けてくる。
それとて、詩乃からみれば、佐久間と妻理子を並べて考えるとき、いつもその嫉妬心にさらされていたことになる。
家庭を大事にしている佐久間だから愛せると詩乃は言っていた。ある面ではそれも真実なのかもしれないが、そう言わざるを得なかった詩乃の痛みが今になって分かる。
週末、佐久間は夫として、そして父親としての役割を果たし、詩乃のことは無理にも考えないようにしていた。
詩乃のことを思う時間が増えてきたとはいえ、それはあくまでも家庭の外の話であり、佐久間の人生の一部分のことでなくてはならなかった。
今のところ、その切り替えは上手くできている。
女をずるいなどと考えたりもしたが、男だってそうなのだ。
社会的にとか倫理的にというだけでなく、佐久間の居場所はやはりここなのだ。
妻も子供たちも愛していることに疑いはなく、かけがえのない家族なのだ。
ただ詩乃の前では苦しいほどに詩乃のことを愛しているのも事実だった。
そして到底それらに比べられるものではないが、モリで言葉を交わしたエリにいくらかの好感を持っていることも。
最近の佐久間は、何事においても「これだけが私の真実だ」などというものはなくなってきているように思える。
物事は常に、そう単純ではなく、いくつもの真実が存在するようになる。それが年齢を重ねると言うことで、やはりずるくなっているということなのだ。
男は単純だから、その複雑さを身につけるまでにこの年齢が必要だった。女は元来そういう才能があるのか、やむを得ずそうなるのかは分からないが、詩乃の年齢で身につけかけているのかもしれない。
詩乃にもいくつもの真実があっても当然なのだと思う。
あるいは後から「これが真実だった」と言える選択肢が必要なのだろう。
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