第5話

   (五)

 二週間後、詩乃から精密検査の予定が決まり、平日に有給休暇をとって受診すると連絡があった。

 ひどく気にはなりながら、仕事上、大詰めを迎えてきているプロジェクトの会議があって、どうしても付き添ってやることはできなかった。

 会社で見かけることはあっても、声をかけることはない。

 いつも仲のいい女性社員数人でいて、こちらから見る限り、明るくいつもの詩乃の笑顔だった。多少大人びて見えてしまうのは、佐久間がここ数ヶ月の彼女の心の動きを知っているからかもしれない。

 そういう眼で見ると、会社には多くの社員がいるが、会社での顔はその個人のある一面なのだ。お互いに知り合いと言いながら、実は極めて表面的な接点しかない。

 これまで、佐久間自身がそうであるように、それなりの年令になってくると、確かにいくつもの顔の一つが会社での顔であると、漠然と考えていた。

 しかし、若い女性社員は、どちらかというと可愛くて素直なだけの娘のように感じていた。

 ところが、それはどうも誤解であるようだ。

 個人差はあろうが、皆それぞれに人生の悩みを抱えながら、そしてそれらを押し隠して、会社での顔を演じているのだ。

 会議が始まった午後一時、詩乃の精密検査が始まる時間だった。

 議論の間にふと思い出しては、無事を祈る。

 今日の会議で青写真としては、ほぼ完成させ、九月中に担当役員から最後は社長への説明を済ませなくてはならない。最後の仕上げはまだこれからだが、ここまでよくたどり着いたものだと思う。

 これまでの佐久間の経験の中で、どの仕事よりも、どの環境よりも精神的に苦しかった。

 また、体力的にも、若い頃はさして苦にならなかった休日の出勤や、連続した出張もたしかに堪えた。精神あるいは身体のいずれかが元気であれば、他方をカバーできるものなのだが、ともに疲れが溜まってくると、余計に参ってくる。

 それを何とかリフレッシュしながら心のバランスを保ってこれたのは、やはり詩乃の存在が大きい。

 詩乃と過ごす何の役割もない時間、他愛もない会話、そして身体の深まりの中で彼女が少しずつ変わっていく新鮮さ。そうした刺激に、疲れた神経が癒されてきたのだ。

 詩乃にそうした意図はなかったかもしれないが、佐久間としては、そのことに感謝していた。

 会議に集中しなければならない、と思いつつも、ふと詩乃のことが気になる。

 会議で他のメンバーから出される意見や考えは、ほとんどこれまでに佐久間も一度は通った道であったために、それらに対する回答も準備できている。

 ともすると上の空になりそうな自分がそこにいた。

 六時をすぎて、まだ検討事項のいくつかは残っていたが、メンバーの顔にも疲労が見える。佐久間が疲れていたようにメンバーも同じ期間、無理を重ねてきている。

「よし、今日のところは、これまでにしよう。中身もほぼ固まってきたし、皆疲れている。明日か、明後日、あらためて時間を取ろう」

 佐久間がそう言うと、少し驚き、次にはほっとした顔になる。

「最後の仕上げだ。我々は最後まで常識的に判断していかないといけない。その我々が疲れきっていては判断を誤ることになりかねない。急いては事を仕損じる、だ」

 皆表情を緩めながら、書類を片付け始める。

「佐久間課長、どうですか、たまには一杯」

 人事課長の大西が声をかけてくる。

 入社は彼が一年後で、同じ課長職だが、社内の等級は向こうが上だった。学歴も大西は旧帝大卒で、入社のときから注目されていたし、たしかに優秀であることは佐久間も認めている。

 そのことを今更気にしているわけではない。

 これまで佐久間としては自分のやりたいようにやってきた。結果として会社が大西を選んだことに何の不満もなかった。

「おいおい、私が飲めないのを知ってて、人事課長も人が悪い」

 佐久間はこれまで酒は飲めないことで通してきた。

 もともとそう強い方でもなかったことに加えて、そのての付き合いが億劫で、いっそのこと全く駄目だとしておく方が気が楽だったのだ。

 そんなことを全て知っている大西の誘いである。何かあるのかも知れない。

 一旦断りながら、他のメンバーには聞こえないように小さな声で付け加える。

「二人きりならオーケーだ。ずっと下戸で通してるんだから」

 大西もそれに合わせて小声になる。

「そうでしたね。でも、少しだけならいいでしょう。何か予定があれば無理は言いませんけど」

「いや、そんなことはない」

 詩乃の事は気にはなっていた。どういう結果でも連絡をしてくる約束だった。

 もしも、そのときに会いたいと言ってきたならば、大西には急用とでも言って駆けつけることもできる。

「じゃ、七時半に裏口で待ってます」

「了解」

 お互いに自分のデスクに戻って、溜まっている文書や伝票に眼を通す。仕事柄、人事課長の方が、そうした書類が圧倒的に多いのは当然である。

 にもかかわらず、大西は先に処理を済ませ、「じゃ、お疲れさん」と席を立つ。そうでなくてはその激務は務まらない、と思うが、驚きと同時にちょっとした嫉妬心もうずく。

 佐久間が一通り報告書などに目を通し終わったのは、ちょうど七時半だった。

 慌ててデスクを片付ける。

 佐久間の部下たちは既に帰宅してしまっていて、隣の人事課のメンバーに声をかけてエレベーターに乗った。

 裏口で守衛に手を上げて外へ出ると、大西が待っていた。

「すまない、二分遅刻だ」

「いいえ、急がせてしまいました。さ、行きましょう」

 すでにタクシーを止めて待たせていた。

「梅田の第一ビルのあたりへ」

 大西が運転手にそう告げた。

「新地のはずれなんですけど、手ごろな店を見つけましてね」

「忙しいのに、よくそんな余裕があるな」

「好きなんでしょうね、やっぱり」

「私は、どちらかというと食べ物屋のほうだな、それも最近は制限が厳しくて大人しいものだけどね」

「どこか悪いわけではないんでしょう」

「ああ、しかしドクターには、まず痩せろ、と言われている。まあ、そういう年になったってことだ」

「それは確かに。お互いにすっかり中年ですからね」

 お互いに二十代の頃に三年ほど、それぞれの課で仕事をしていた。それぞれに先輩たちに囲まれた若造だった。

 こうして二人で飲みに出ては、上司や会社の愚痴も言い合った。同時に会社の将来についても理想を語り合った。時には議論が激して口論になったこともある。

 同世代であり、周りからはライバルと思われていたようだが、当人同士はそんなことを意識したことはないと、佐久間は感じていた。

 結果的にはそうなのかもしれないし、現在のところ大西が一歩前に出ているのも事実だが、だからといってその当時の親しさは少しも変わっていないと思う。

 その後、お互いに転勤を重ね、再びそれぞれの課長として一緒になったのだ。

 ひところに比べて随分不景気になったとはいえ、北新地は人通りが絶えることはない。一つのビルに何軒もの店があり、それが通り沿いにずっと並んでいる。ネオン、看板の灯りで昼間と変わらぬ明るさがある。

 その光景は変わってはいない。

 そして様々な人がその通りを埋めつくし、その人の間を縫うように、タクシーがゆっくりと走る。

 若い頃には上司に連れられてでなければ来られない場所だった。

 それは金銭的なことよりも、やはり若造が似合う街ではなかったのだ。

 大西に連れられて入った店は、同じようなビルの四階で、「ラウンジ・モリ」とあった。

 店の中は、七~八人が掛けられるカウンターとボックス席が四つとこじんまりとしている。ママとバーテンダーと若い女性が二人で、ラウンジというよりも普通のスナックという印象である。

 佐久間が、飲まない人間で通しているのには、もう一つ理由がある。

 居酒屋の喧騒や若者たちの嬌声には耳を覆いたくなるし、スナックではカラオケがうるさい。バーという種類の店では若い女性が同席して、無理をして会話をするのが面倒であるのだ。

 いわゆるホステスなのでそれが仕事であり、適当に遊ばせてやるのが通だとも聞いている。

 しかし、やたら馴れ馴れしく話しかけられたり、こっちが気を遣ってやらないといけないようでは、何をしに行っているのかわからない。必要以上に身体を寄せてくるような態度はもってのほかだった。

 佐久間とて若い女性は好きである。

 しかし、それはあくまでも現実世界の存在で、こうした虚構をビジネスにしている世界で、それを売り物にしてるのは鼻持ちならないと思うのだ。

 幸いラウンジ・モリはそういう匂いはしなかった。

 客層もよく、嬌声もうるさいカラオケもなかった。カウンターの中では若い娘とバーテンダーが適当に客と話しをしている。

 ママらしき女性は会話の途切れそうなテーブルをうまく回って、もう一人の娘は、忙しいところへサポートに入る。退屈させないことに気を配っているが、それ以上のサービスはなく、落ち着ける雰囲気があった。

 佐久間はすぐにこの店が気に入った。

「いい雰囲気の店じゃないか」

「でしょう、会社の他の連中には内緒ですよ」

 入口に近いボックス席に座って、とりあえずのビールと水割りを注文する。

 カウンターの女性は店に入ってすぐに見えたが、もう一人はママが挨拶にきた後、水割りのセットを運んで来るまでは、後姿しか見えず、細身の肩とポニーテールが見えていた。

 そして近くへ来て初めてはっきりと顔を見ることができた。

 そして、佐久間は息を飲んだ。

 詩乃に見間違えそうなくらいよく似ていたのだ。

 もう一度彼女を見つめて、詩乃ではないことを確認した。もちろんよく見ると、眼の周りの雰囲気や顎のラインの豊かさが違う。そして声も違った。

「ね、佐久間さん、誰かに似ているとは思いませんか」

 大西がちょっとした笑顔を向けて、そう言う。

 彼が自分と詩乃のことを知っていて、敢えてそう言っているのかもしれない。或いはたまたまなのかも知れない。

「ああ、営業の元井さんによく似ている。一瞬彼女かと思ったくらいだ」

 佐久間は心の動揺を何とか押さえこんで、自分の立場からの言葉で答えた。

「また、その話し。大西さんていつもそんな風にいわはる。あんまり気持ちのええもんやないけど。お客さんは初めてですね、京子です、よろしく」

 彼女はそう言って二人にビールを注ぐ。

「佐久間です、よろしく。いや、彼の言う通り、私も一瞬、まさか、と思いましたよ」

「そうですか。何か怖い気もするわ。お二人、同じ会社にお勤めなんですね」

「そう、僕の先輩だ。普段は飲まない方だけど、今日はどうしてもって、連れてきたんだ」

 大西が割って入る。

「先輩は、言い過ぎだよ。一年しか違わない。同僚ですよ、同僚。それに彼の方が出世が早い。その内に私は大西君の部下になりますから」

「何を言ってるんですか。こんな怖い人が部下だなんて」

「まあそのときはよろしく頼むよ、それなりにいい仕事はさせてもらうから」

「よして下さい、今日はそんな話をしに来たわけじゃないんです」

 京子と名乗った彼女は、二人の会話を楽しそうに見ていた。

 交互に顔を向けるたびにポニーテールが揺れる。そのたびに佐久間は小さくドキリとしてしまうのだ。

「ゆっくりしていって下さいね。何にもありませんけど」

 彼女は水割りを二人分作って、笑顔を残して席を離れる。

「彼女を何とか口説いてしまいたいんですけどね、なかなかうまくいきません」

「なるほど、確かに店もいい雰囲気だが、君にはもう一つ目的があるってわけだ。しかし、その話、本当かい」

「もちろん。佐久間さん、内緒にしておいて下さいよ」

「そりゃあ男同士だから、お互いさまだ」

「そう言ってくれると思ってました」

「君は・・・」

 お互いさまなのだが、大西も食えないところがある。言葉どおりに受け止めてしまうわけにはいかない。

 かといって、余計なことを敢えて言う必要もない。いわゆる『語るに落ちる』ことになる。

 そう思って、佐久間は言葉を飲んだ。

「ええ、疑っています。こんなこと言っていいのかどうか。たまたま見かけてしまいましてね。六月でしたか、Tホテルで。ちょうど僕も彼女と隣のタワービルで食事をしてましてね、その帰り」

「そうか、立場上それを指導する必要があるか」

「まさか。もちろん手放しで賛成するわけにはいかないですけど、問題にさえならなければ、いくらでもある話じゃないですか。それに、もしも問題になってしまったら、自己責任ですよ。この年令なんですから、お互い」

「ま、そうだろうな。で、用心しろと」

「そう思うところもあります。でも今日は単純に、佐久間さんに彼女を紹介して驚かせてやろうと。本当ですよ。それからプロジェクト、概ね完了ですから、お疲れさまを言わなきゃって。相変わらず疑い深い人だ」

「お互いさまだろ」

「まあ、そういうセクションですからね」

「そりゃそうだ。まあいい」

「最初はね、半年ほど前に浪速工業の部長と一緒にここへ来たんですよ。そのときにどこかで見た子だなあって思ってまして、それが始まり。まあ、きっかけなんてそんなものでしょう。結構入れ込んでましてね。そんなときに、元井さんと佐久間さんを見かけて、笑ってしまいましたよ。当人は気付いてませんでしたけど」

「たしかによく似ている」

「だからと言って、佐久間さんは京子ちゃんを口説いちゃあダメですよ」

「いくら似ていても別人だよ・・・しかしそれも悪くないな」

 今度は佐久間が、大西を試す番だ。

「そりゃあ困ります。いくら先輩でもこればかりは譲れない」

「と言ったって、縁の問題だからな」

「やめましょう、いい年をして恋敵だなんて、ぞっとしますよ」

「冗談だ。今のところ、私は元井さんにぞっこんなのでね。よそ見をする余裕はない」

「ほ、思い切ったお言葉を。迂闊に信じられないな」

「しかし、反対のことを言ったとしても、どうせ君はそのまま信じやしないだろう」

「まあ、そうですね」

 ちょっと肩をあげてそう言う。

「誰だって秘密の一つや二つありますし、いつでも聖人君子でいられるわけもないですからね」

「そりゃそうだ」

 二人して、小さく噴出して、グラスに残っているビールで乾杯をする。

「私のことは、もういいだろう。白状してしまったのだから」

「一つだけ聞かせて下さい。奥様とは?」

「うまくいってるかってことかな」

「ええ」

「向こうの腹の中まではわからんが、概ねそうだと思っている。ならばなぜ馬鹿げたことを、と聞かれても答えはない」

「いいえ、それくらいわかりますよ、私だって同じなんですから」

「ならば、転勤話か?」

「おやおや、ずいぶん先回りをしますね」

「なるほど・・・。おい、水臭いじゃないか、そんなことは立話でいい。私と君の付き合いだろう」

「まいったな。いや、まだ半年も先の話で、どうなるかも定かじゃあないんですよ。ただ、もしもそうなったときに、お子さんの年令からいっても、単身赴任になりますからね、それでいろいろと聞いておかなくては、と、ね。これは立場上」

「わかった。それ以上は言えないだろうから、敢えて聞くのはやめよう」

「ええ、まあ」

「好きに扱ってもらいたい。決して投げやりなつもりではなく、いずれは渡る橋だからな。単身赴任と言えば海外か」

「実は、私も頭を抱えているんですよ。今回のプロジェクト、そして、いろんな制度が定着するまでにもう一年は必要でしょう」

「うむ、そんなところだろう」

「ここから先は、独り言ですよ。海外といっても四国なんですけどね、松山の関係医療法人、勝山会病院の管理部長が身体を壊しましてね。とりあえず、事務長が兼務する事になったのですが、その上の常務理事もういいお年ですから、来春にはぜひとも相応しい人を、となっているんですよ。ご存知の通り、病院てのはややこしいところでして、どう見渡しても他に適任者がいない、ってわけです」

「なるほど、それで白羽の矢がね。任せるよ。どっちにしても楽な仕事じゃなさそうだから、私でよければ」

「そう言っていただけると助かります。まあ、私一人で決めるわけでもないので、本当にどうなるかわかりませんけどね」

「人事異動ってのは、いつでもそんなものじゃないか。まあ、今の仕事が中途半端になりそうで、気にはなるが、少なくとも君がいるから大丈夫だと思う」

「それもわかりませんけどね、佐久間さんに残ってもらって、私が行くことになるかもしれない」

「あり得なくはないが、君に私の変わりはできても私に君の変わりはできない。上も馬鹿じゃないからそれくらいのことはわかっているだろう」

「ご冗談を。今でも僕は佐久間さんを目標にしているんですから」

「見え透いた事をいうなよ、飛ぶ鳥落とす勢いの人事課長が。って言うのは少しいやみになるか。すまない」

 二人のグラスは空になっていたが、会話がくだけるまで遠慮をしてたのだろう。先ほどの京子が大西の隣に座ってお代りを入れる。

「何だか、深刻なお話しのようね」

「いやいや、仕事の話しが少し残っていたもので、野暮でした。すぐに私は退散しますよ。人質に大西君を残しておきますからね」

「さっき来たばっかりやのに、あきません」

 彼女を見ていると、自然に詩乃のことが思い出される。

 検査の結果を連絡してくると言っていたが、音沙汰なしである。こちらから連絡するのを待っているのかもしれない。

 もう九時を回っている。

 いくらなんでも家に帰っているはずだ。

 最悪の場合、そのまま緊急入院ということもあり得なくはないが、外見上はそれほど重篤な状態には見えなかった。

「ちょっと失礼」

 一旦気になり始めると、止まらない。

 詩乃が何も言ってこないのには、それなりの理由があるのかもしれないのだが、だとしてもその理由から聞かなくては落ち着かない。

 いつか『パパにはなんにでも理由が要るんやね』とからかわれたこともある。確かにその通りで、男とは誰でもそうだと思う。

「彼女にお電話?それとも奥様?」

 京子が興味ありげな眼でそう尋ねる。

「内緒です」

 佐久間はそう言って、ドアを出て階段の踊場で詩乃に電話をかける。

 呼出し音は鳴っているのだが、出ない。

 番号を間違えたのかもしれないと、もう一度かけなおしてみるが、結果は同じだった。そうなると、余計に心配の虫が動き始める。

 じっとしていられない気持ちになるのだが、ここで、大西を放り出してもどうすることもできないのだ。いずれにしても佐久間は待つ事しかできない。

 首を傾げながら、席に戻る。

「どうしたんですか」

 大西が、佐久間の戸惑いの残る表情を見て取ってそう尋ねる。

「うん、いや、何でもない。ちょっと連絡が入るはずだったのだが」

「佐久間さん、約束があったのに付き合ってくれたんですか、それはとんでもないことをしてしまったのでは」

「いやいや、そうじゃない。本当だ」

「しかし」

「ここまで白状したから、もはや隠す必要はないか。今日、くだんの彼女が検査を受けててね、その結果を連絡してくることになっていたんだ」

「検査っていうと、まさか」

「そうじゃない。エコーで影が写って、その再検査なんだ。おっと、これは人事課長に言っているんじゃない、友人の大西として聞いておいてくれよ」

「ええ、でもそりゃあ心配ですね」

「大したことはないと思うのだが」

 結局、佐久間が、飲み足りないという大西を残して店を出たのは十時半だった。

 大西が一人でも残ると言うのだから、あの京子という女性を好ましく思っているのもどうやら本当かもしれない。

 とはいえ、詩乃のことを話してしまったことは失敗だったかもしれない。

 いくら若い頃からの付き合いといっても、現在の彼には立場がある。お互いにちょっとした秘密を共有したからといって、向こうはいわゆる水商売の女性であり、こちらは同じ会社の社員である。

 一方はよくある話しですむが、一方は社の風紀を乱しているとなる。

 あるいはこの転勤話も、それを知った上での判断なのかもしれない。そうなると、知っているのは大西だけとは限らない。

 空いたポストに適任を探しているというのは口実で、問題が大きくならないように、という上司からの指示だったとも考えられる。

 このプロジェクトリーダーも佐久間の力量を瀬踏みするためのもので、期待するレベルに達しなければ、公私ともに社としては無用の人物となったのかもしれず、何とか形になってきたことで、首が繋がったのかもしれない。

 なまじこれまで人事の裏側にまで触れる機会の多かった佐久間だけに、あらゆる可能性を考えてしまうのだ。

 しかし、それならばそれで仕方がない。会社を辞めろと言われているわけではない。

 どの道、これ以上の出世はそう強く望んでいるわけでもなく、勝山会病院の管理部長なら悪くないポストだ。

 これまでの例では、その後東和化学へ復帰する可能性はほとんどないだろうが、定年までは一応約束されている。

 給料面でも出向という形の間は今の水準が維持されるのだ。それに、うまくすれば、そのまま病院の役員になり、一般職員の定年を迎えた後も勤められる。

 大西の言うように、今のプロジェクトは気にならないわけではないが、一歩離れてサラリーマンとして考えれば、仕事の苦労ややり甲斐はどこでも同じなのだ。

 東和化学という名前に固執する気持ちさえなければ、それも一つの選択だった。

「ま、いずれにせよ自業自得か」

 佐久間は電車の駅へと歩きながらそうつぶやいた。

 しばらく単身赴任も悪くはない。

 いずれ子供たちも出ていくのだ。理子と二人、どこで住むことになっても変わらない。

 淀屋橋の駅に着いて、再び詩乃のことが気になって電話をかけようとしたが、それもやめた。

 明日にはわかることであり、大したことはないとたかをくくっていた。細身ではあるが、若々しいエネルギーに満たされている詩乃の身体を思うと、病気などとは無縁に感じられる。

 改札を抜けて、ホームに出ると、京都行きの準急電車が発車するところで、それに飛び乗った。

 検査のことも気にはなったが、頭から離れないのは、あの日、身を揉んで泣いた詩乃の姿だった。

 結果的に妊娠はしていなかったし、自分でも堕ろす決心をしていたとは言っていたが、それまでの数ヶ月は辛かったはずだ。その思いが、あの涙となったのだろうが、気持ちとしてはどこまでも産みたかったのだろう。

 それを詩乃自身で無理やり押さえこんで、産まない決心をさせてしまったのだ。

 理子が初めて佐久間に妊娠を告げたとき、恥じらいながらではあったが、輝くような喜びと、女としての自信に満ち溢れているように見えた。

 女性にとって身ごもるということは、本来そういうことであるはずだ。

 しかし詩乃はそれをためらい、まるで悪い出来事が起こったように遠慮しながら、あきらめる決心までして告げざるを得なかったのだ。

 この罪はどう償えばいいのだろう。

 きっと詩乃は、償ってもらいたいとも、そして、そんなことを佐久間が考えることすら望んではおらず、それを罪というならば、二人は同罪だと言うはずだ。

 詩乃が何かを望むならば、できる限りそれを叶えてやりたいと思う。

 だが、彼女が何も望みはしないことはわかっている。

 詩乃は、別れの時期を自分で決めたいと言った。

 佐久間にできることは、その日が来るまで精一杯の愛情を注いでやることと、その時が来れば、温かく見送ってやることしかないのだろうか。

 心の中ではきっとその後も、彼女の幸せをいつまでも祈ってやることはできる。もしも、何かのトラブルに巻き込まれたら全力で助け、大きな悩みを抱えたときには最高の相談相手になってやることもできる。

 詩乃にそれを告げることなく、そういう存在でいてやることが、佐久間にできる唯一の償いなのかもしれない。

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