第4話

   (四)

 八月に入って何度か詩乃を誘ったのだが、都合が合わず、最後の週の金曜日になった。ここ一ヶ月ほどはゆっくり話しをすることもなかった。

 会社では、エレベーターに乗り合わせたり、廊下ですれ違ったりしても、お互いに軽く会釈をする程度で、言葉を交わすことはない。今の関係になる前は、たまに激励の言葉をかけたりもしていたのだから、今の方がかえって不自然なのかもしれない。

 近年は便利になり、詩乃を誘うのに会社のネットワークでメールを送れば、誰にも知られずに連絡がつく。佐久間が入社した頃は、コンピュータは一般の社員に使いこなせるものではなかった。

 それから、二十年足らず、今は各自に一台は当然で、移動用のモバイルまでほとんどの者が使いこなしている。

 中でも仕事の進め方を大きく変えたのが、この電子メールだと思う。

 それまで、誰かに何かを伝えようとすると、電話をかけるのが普通であった。相手がそこにいなければ、当然つながらないし、折り返してくれるよう頼んでいても、伝言がうまく伝わらなかったり、こちらもじっと待っているわけにもいかない。ちょっとした伝言を伝えるのに、半日を費やしてしまうことも珍しいことではなかった。

 電子メールが整備されたおかげで、相手の都合を気にせず要件が送れ、受ける側も自分のペースでそれを読み、回答すればよい。また多少の秘密案件でも、電話のように当人同士以外の者がその内容を漏れ聞いたりすることはない。 

 おかげで、会話能力が低下しているとか、人間関係が希薄になっている、といった問題提起もあるようだが、利便性の前に屈し、その輪は社内外の隅々まで広がっている。

 あくまで業務の利便性のためのインフラなので、佐久間の年令の人間としては、そのほんの僅かでも個人的な目的で使用することに躊躇する気持ちはある。

 若い連中は、上司の目の前でも平気で週末の飲み会の打合せをしたり、インターネットで趣味の情報収集をしているのだから、たまにほんの短い文章を送る程度で気を使いすぎかもしれない。

「今週、金曜日、空いてる?」

「OK、どこで?」

「七時に梅田のフラミンゴ」

「了解」

 といった会話で決まった今日の食事だった。

「ね、パパ」

「ん?」

「ううん、なんでもない」

「こら、言いかけてやめるなよ」

 フラミンゴという名前とは全く無関係な和食の店である。梅田地下街の東端に食堂街があり、社外の友人に教えられた店だった。

 本町からの通勤ではまずこの辺りを通ることはないので、会社の人間に出会う危険性も低い。

 暖簾をくぐると、左手に十人ほどが座れるカウンターがあり、奥に座敷席が大小合わせて六部屋ある。

 夕食の膳で二千五百円程度なので、気軽に入ることができ、詩乃とは三度目になる。

 今日は会ったときから、どことなく浮かない表情をしている。いつもと同じ世間話をしていても、心は他にあるという印象だった。

 ただこういう感覚は、生理の一週間前頃にはよく見られることだったので、あまり気にはしていなかった。これまでにも何度か、どこか具合が悪いのかと尋ねてみたことがあったが、本人は自覚していない。

「うん。うち、ここ二ヶ月体調おかしいねん」

「おかしいって、どう?」

「う・・・ん」

 詩乃のためらいで、おおむね状況は想像できる。

「ないねん」

「ん、他に具合の悪いところはないんだな」

「うん。ちょっとお腹の左側が引きつるような感じはあるけど、そんなに痛むわけでもないし」

 佐久間もそういうときが来るかもしれないと考えたことはあった。予防はしていても、完全とは言えず、途中からのことも多かった。

 しかし、すぐには実感として受けとめられない。

 ひどく冷静に詩乃の言葉を聞いていた。

「喜んでいいのかな、いや、本当ならこれ以上嬉しいことはないんだ。大変なことにはなるかもしれないが」

「まだわからへんけど。これまでもわりと不順な方やったから」

「ま、とにかく、一度病院へ医者に行ってみないとね」

 詩乃は小さく頷く。

「いややなあ、病院かあ」

「ついていくよ」

「あかん、余計に恥ずかしい」

「一人で放っておけないよ」

「だって・・・。それに、もしも、そうやったら内緒にできへんもん」

「黙っていて済むことじゃないだろう」

「なぁ、パパ、ワガママ言うてもええ?」

「なんだい」

「今日、帰らなあかん?」

 そう言って頼りなさそうな眼を向ける。

 これまで彼女の方が佐久間の家庭を気遣って、そこに一線を引いていた。

 どんなに遅くなっても、必ず家に帰ること、休みの日の夕食は必ず家で家族と食べること、それは詩乃が決めたルールだった。

 しかし、妊娠したかもしれないというショックと不安は、冷静に受けとめられるものではないはずだ。

 今考えると、ここしばらく都合が悪そうに佐久間の誘いを断っていたのは、そのせいだったのかもしれない。

「大丈夫、何とかする」

 ふたつ返事で佐久間は決心した。

 これまで心の中で何度か想像したことはある。詩乃とわが子が暮らすアパートを定期的に訪ね、子供が育っていく姿を見つめていく。

 それはなんとも甘い誘惑に満ちた情景であった。

 しかし、勝手なもので、だからといって全てを捨てて、詩乃と人生をやり直して行くというものではなかった。

 あくまで佐久間の人生は今の家庭であり、そこから飛び出していくことはできない。

 理子にも子供たちにも何の罪も責任もないのだ。それを見捨てて出ていくような度胸も無責任さもなかった。

 目の前の現実は、佐久間の人生を根本からぐらつかせることになるだろう。

 その決心も覚悟もできてはいない。

 そして、その責任は全て佐久間自身にある。

 理子に、今日は仕事で帰れそうもないと告げる。理子は、佐久間の言葉を疑いもせず、労いの言葉をくれる。

 長年連れ添ってきている彼女に、何もかも打ち明けてみたい衝動もあったが、理子に現状を受けとめる強さのないことは佐久間が一番分かっている。

 心の中で手を合わせて電話を切った。

 本当に自分の子供かどうか分からないと押し通して、逃げることもあり得る状況である。佐久間にもその考えがちらりと浮かびはしたが、それでは自分があまりにも情けない。

 大げさに言えば、社会の道義からはどれだけ外れても、人としての道義からは外れたくはなかった。

 では、一方の家族に対する責任は人としての道義から外れないのか、といわれると反論はできない。ただ、詩乃への責任から逃げるわけにはいかないというだけの気持ちだった。

「詩乃は大丈夫?ご両親、心配しない?」

「うん、大丈夫。友達のところ泊まるかもしれへん、って会社出る前に言うてある。うちももう未成年やないもん」

「一人で随分悩んだんだろう、ごめんね」

「ううん。そんなに優しくされたら泣いてしまいそうや」

「泣くのは構わないが、確かにここじゃまずいな。この間食事をしたTホテルへいこうか」

「あかん、もったいない」

「そう言うと思った」

「もう」

 詩乃の泣き笑いの顔だった。

 この瞬間は何もかも捨ててもいいと思ってしまう。

 フラミンゴを出て、新大阪のホテルに予約を取った。

 その頃になってようやく、事の重大性が実感として佐久間を襲ってきた。顔から血の気が引いて、指先まで感覚が遠のく。かと思えば、例えようのない焦りのような不安感で、頭に血が上って心臓の鼓動が随分大きく聞こえる。

 神経がどう反応すればよいのかわからず、それが体の平衡を失わせているのだ。

 今の状況は、佐久間自身が原因で、全ての責任は佐久間にあるにもかかわらず、その責任をどう果たしていけばいいのかがわからない。

 取り返しがつかない事態である。

 これから自分に向けられる非難、恨み、制裁、は想像に難くない。

 そして自責。

 これまで築いてきた地位や信頼や生活の全てを失うことになるだろう。立っている大地が崩れ去るという言葉が決して大げさではなく迫ってくる恐怖なのだ。

 これまでも何度か、仕事でとんでもない失敗をしでかし、追われるように逃げ出す夢をみて飛び起きたこともある。幸いにもそれらは現実ではなかった。

 ところが、今度ばかりはどこをつねってみても醒めることのない現実だった。

 タクシーに乗り、これまで見せたことのない頼りなさそうな顔で、佐久間の手を強く握っている詩乃がいる。

 おそらく、彼女の方が何倍も不安だろうと思う。その詩乃が頼れるのは佐久間しかいない。

 そう思うと、内心の押さえきれない動揺も詩乃の前では見せられない。

 自分の子を宿している女として、この上なくいとおしいはずが、ふと一瞬憎んでしまいそうになる。それほど取り乱している自分を改めて発見するのだ。

 ホテルのフロントでも、自分の住所と名前、電話番号までを正直に書いてしまった。後からそのことに気が付いて、やはり動揺していると苦笑した。

「ごめんなさい。詩乃一人で考えて、決めていかなあかんと思うてたんやけど、やっぱり弱虫やったみたい」

 部屋に入るなり、佐久間に抱きついてきて、クスンクスンと泣きじゃくりながらそう言った。

「何を言ってる。責任は全部私だよ。辛い思いをさせたね、許してくれ」

 詩乃の髪を撫でながら、立っているのが精一杯の自分が情けなく思えるのだ。

 彼女が少し落ち着いたところで、窓際のソファーに並んで腰掛ける。詩乃はずっと佐久間の手を握ったままで、座るとそのまま肩に頭をもたげてくる。

「パパとこうしていたら落ち着く」

「私は自分が頼りなくていけない。どんなときでも、もう少ししっかりしていられると自負していたのだが」

「パパも不安?」

「正直なところ、これからどうすれば責任を果たすことができるのか、途方に暮れている。この間、私なんかの子供でも、できれば産んでほしいだなんて偉そうに言ってたが、それがどれほど大変なことかと思うとね。かといって、このまま詩乃と駆け落ちする勇気もない。情けないものだ」

「詩乃、そんなこと望んでない。それはうちのプライドや。パパの家族、守っていくのはパパしかいてへんもん。駆け落ちしよなんて言われたら、うちは子供産まれへん」

「しかし、詩乃一人で育てていくことも、とてもできそうないが」

「そんなことない。従姉も離婚して子供連れで実家に帰ってきてるけど、ちゃんとやってるもん。生まれて一、二年は大変やとは思うけど、何とかなると思う。それになあ、お父ちゃん、最初は大騒ぎするのは目に見えてるけど、最後にはうちには甘いねん。孫の顔見たら絶対助けてくれる」

 それはその通りだろうと思う。

 親は、子供の失態を責めはするものの、必ず心のどこかでは最初から許してしまっているものだ。まして、娘となると、父親は守らざるを得ない。

 しかし、それでは佐久間自身があまりにも情けない気持ちになる。

 自分の不始末を、おそらく年令もそう変わらない詩乃の父親に面倒を見させて、自分は何事もなかったように、今の家庭で暮らしていくのでは都合が良すぎる。

「それでは私が、いや、この際、私のことはどうでもいいとして、やがて子供は育つ。学校へ行くようになると、父親のことを尋ねる日もくる。それはとてもつらいことじゃないか。それがコンプレックスになって非行に走らないとも限らない」

「今は片親の子供かて、珍しくないんよ。小学校の頃、詩乃のクラスにも何人かいたけど、不良になった子なんていてへん。それに、ある程度分かる年になったら、ちゃんと話してあげる。うちの子供やもん、きっとわかってくれる」

「そうかもしれない。しかし・・・」

「パパは詩乃が子供産むことに反対?」

 詩乃はほんの少し微笑みながら、柔らかく尋ねる。

 たしかに、佐久間の言葉は、反対して処置することを勧める言葉ばかりだったかもしれない。

 もちろんそれも考えないわけではない。

「いや、賛成、反対というよりも、それが許されることかどうか。感情としては、詩乃がそんな風に言ってくれることは、心から嬉しい。比べてはいけないが、家内が初めての子供を妊娠したときよりも嬉しい。それは私の年令のせいかもしれないし、この一般的には許されない環境だからかもしれないが」

「本当にそう思うてくれる?喜んでくれる?」

「もちろんだ」

「ねえ、パパは男の子と女の子と、どっちがほしい?」

 詩乃は佐久間の迷いの思考を敢えて止めるように、窓から遠くを見つめながら甘えた声でそう言った。

「私は、漠然とだが、詩乃に似た可愛い女の子かな」

 佐久間は少し面食らって、よく考えもせずにそう答えた。

「ふうん、でもあかんわ。女の子やったら、きっとパパは詩乃のこと放ったらかして可愛がるもん、嫉妬してしまいそうや」

 やっと頼りない笑顔を見せた。

「そんなことはない、詩乃は詩乃だ。しかし、それにしても」

「もうええの。パパが優しくしてくれるってわかったから。パパが喜んでくれるってわかったから。それに、まだ決まったわけでもないし。近いうちに病院、行ってくる」

 詩乃の言葉は、自分の心に整理をつけようとしているようにも、動揺している佐久間を少しでも安心させようとしているようにも聞こえた。

 窓からは大阪の夜景が見える。

 そして窓に映った二人の姿があった。

 外の夜と、部屋の中の明るさのために、鏡のようにやけにはっきりと映っている。

「病院行って、結果を聞いて、どうするかはそれから考えてもええ?」

「もちろんだよ、でもどうして」

「それまでは、うちのお腹にパパの子供がいるんやって思うていたいねん。っていうか、母親になる気分でいたいねん」

「ああ、詩乃がそうしたいのなら」

 それは、全ての問題を先送りするだけのことだった。

 言葉ではそう言いながら、佐久間の思考は混乱したままであった。

 もちろん、それが事実かどうかで、佐久間の人生は大きく変わってしまうのだから、そう簡単に整理できるはずもなかった。最もありふれた、そして最も問題を小さくする方法は、やはり処置してしまうことなのだ。

 それはおそらく詩乃にも分かっているはずだ。

 ところが、今の佐久間にはどうしてもそう言い出せなかった。

 理屈ではなく、詩乃の思いを大切にしてやりたかった。佐久間だけの都合で判断したくなかった。

 詩乃の望むことを、一つでも多く叶えてやりたいと思うのだ。

「ここしばらく、都合悪うて会えへん、ていうてたけど、あれ嘘やねん。ホントは、パパに堕ろせって言われるんが怖あて逃げててん。三十になって行き先なかったら、そうさせてって言うてたやろう、それがちょっと早うなっただけやと思うたらええねんけど、やっぱりダメやった。他の誰にも話されへんし、パパにどうしてほしいなんて言われへん。けど、産む決心ができたら、パパだけは、パパにだけは知っててほしいし、詩乃のこと応援してほしい。一人きりはやっぱり淋しすぎる」

「すまない。私の中でも二つの考えが渦を巻いているのは事実だ」

「ううん。家庭のある人やったら、あかんて言うのが普通やもん。でも、パパは言わへんかった。それだけでええねん」

「優柔不断なだけかもしれない。産むとなったら、いろんな問題や障害が起こってくるだろう。それは別としても、私の人生はもうこれから老いていくだけだが、詩乃の人生はこれからだ。どんな未来が待っているかわからない。そう考えると、今、こんな形でそれを決めさせてはいけないとも思う」

「結婚も、出産も、どんな形になるかはわからへんし、それがいつになるかもわからへんけど、いつかは決めなあかんことやろう。女の子はみんなそうやと思う。やからそれは、早いも遅いも、ひょっとしたら、ええも悪いもないことかもしれへん」

「子供が生まれてくるってことは、それだけで素敵なことだと思う。しかし、育てていく責任も一緒に生まれてくる。その責任を詩乃一人に背負わせるなんて・・・」

「やめよう、現実的な話は。今日は、夢の中でいさせてほしいねん」

「そうか、さっきそう言ったばかりだ」

「今日は詩乃だけのパパでいてほしい」

「わかった」

 佐久間も少し覚悟を決めた。

 先にシャワーを浴びて、ベッドで仰向けになって煙草を吸う。そう言えば、詩乃と二人で一晩中一緒だったことはなかった。

「パパとずうっと二人っきりて初めて。なんか恥ずかしいわぁ」

 浴衣姿で、ツインベッドの片方に腰掛ける。

「こっちへおいで」

 佐久間は少し体をよけて詩乃をそっと引き寄せた。

 詩乃は自然にそれに従い、佐久間の腕枕で寄りそう。

「華奢な体だ。少し太った方がいい」

 抱きしめる肩は、相変わらず細くて頼りない。

 それはいつもと変わらないのだが、今日は殊更にそう感じてしまう。

「うん、でもいっぱい食べても体重増えへんねん。詩乃、こんな細っちい体で、子供産めんのやろうか」

「健康だったら大丈夫なんじゃないか」

「なんか不思議。自分自身がまだまだ親やパパに甘えてばっかりの、子供みたいなもんやのに、それが母親になるんやなんて」

「誰でもそんなものだ。子供ができて初めて親としての自覚もできる」

 いつもなら、こうした他愛もない会話をしている内に、自然に佐久間から求めてしまう。

 さすがに今日はそんな気持ちにはならない。

 普段から詩乃の華奢な体をそっと扱っているのだが、今日はさらにガラス細工に触れるように、柔らかく接してしまう。

 また、その頃では体型的にはなんの徴候もないのだが、詩乃のお腹をそっと触ってみたくなってしまう。

「くすぐったい。おっきくなんかなってへん」

 詩乃はその手に自分の手を重ねる。

「ああ、それはわかっているが、大事にしないとね」

 佐久間にとっても不思議な感覚だった。

 言葉として聞いた詩乃の妊娠は、自分を狼狽させ、窮地へと追いやり、単純に喜びとして受け入れられるものではない。

 しかし、こうして詩乃のお腹に手をあてて、その中で自分の命を受け継ぐ子供が育っていると感じることは、どんな理屈も超越して、心の中から暖かい感情が湧きあがって来るものなのだ。

「おっかしいパパ。まだいてるかどうかもわからへんのに」

「うん、しかしね」

「やっぱりパパにとって詩乃は娘なんかなあ?そんなうちが赤ちゃん産んだら、パパから見たら孫みたいなもの?パパはおじいちゃんになる」

 そう言って悪戯っぽく笑って見せて、目を閉じる。

「パパの手、あったかい・・・」

 いろいろと考えているのか、敢えて考えないようにしているのか、佐久間には分からない。ただ、詩乃が何かを言い出すまで、じっと黙って彼女を見つめていてやろうと思うのだった。


 『明日、病院へ行きます』

 翌週の金曜日の午後、詩乃から短いメッセージが届いた。

 佐久間は、この一週間、ひとときも詩乃のことが頭から離れたことはなかった。詩乃のこととはいうものの、つまりは自分自身のことでもあるのだ。

 常識とエゴと愛情とが心の中で常に渦巻いていた。

 最も苦しめられたのが、疑うこともなく佐久間に向けられる理子の笑顔だった。おそらく佐久間の態度は普段とは違っていただろうし、浮かない表情であったはずだ。しかし彼女はそれを佐久間の仕事での苦労のせいだと考えているだろう。理子も疲れていたり、不満に思うこともあるはずだが、佐久間の前では努めて明るく振舞っている。

 その姿とその心が今は佐久間を鞭打つのだ。

 詩乃がどうしても産みたいと言えば、それを認めなくてはならない。どんなに説得しても最後には詩乃が決めるのだ。

 そうすると、やがては何もかもを打ち明けなくてはならないときがくるだろう。

 理子にとってこれ以上残酷な仕打ちはない。いくらかは一般的な疑いの気持ちをもっているかもしれない。そして、男と女の間のそうしたトラブルは決して珍しいことではない。ただ、まさかその災難が自分に降りかかってくるとは考えてはいないはずなのだ。

 どう詫びても許されるものではなかった。

 一緒に行くことを嫌がる詩乃を説き伏せて、翌日、浪速区にある病院の近くの喫茶店で待ち合わせた。

 さすがに待合室まで一緒に入る勇気がなかった。

 それもまた情けない。

 昨日、病院名を聞いて、インターネットで調べてみたが、まずまず歴史のある病院で、産婦人科も充実しており、安心できそうだった。

「パパは心配しすぎやわ。今日は検診だけやのに」

「そうかな、しかし、じっとしてはいられない。一人でヤキモキしているよりは、詩乃のそばでいたほうが落ち着いていられる」

 詩乃の態度は、一人は淋しいと泣いた娘とは別人のように、落ち着いたものだった。

 いつもそうなのだが、いかなる場合でも土壇場になると、女性の方が圧倒的に男性よりも度胸がいい。こうしたときに周辺のややこしい部分を簡単に思考の外へ追いやることができるのは、女性の特技に思える。

 男はどこまでいっても、結論の出ないことにあれこれ思い悩み、迷いを断ち切れない。

 女々しいと言葉では「女」と書くが、実際は全く逆のようだ。

「なんや、詩乃のこと心配してくれてんのかと思うてた」

「そりゃ、一番はそうだよ。一人じゃ心細いに決まってるだろう」

「うん、そうやけど。でも、あっという間やし」

「そんなにすぐにわかるものなの」

「多分。検尿して、超音波検査程度やないかなあ、うちかて初めてやもん」

「そうだな」

「行ってくる。そろそろ受付け始まるから」

「ああ」

 そう言えば、病院の玄関に向かう人が増えている。

 産婦人科専門の病院ではないので、患者は女性ばかりではない。多いのはやはり高齢者のようだが、どうしてもお腹の大きな女性に眼が行ってしまう。

「待っててくれる?」

「当り前じゃないか」

「うん」

 少しためらってから、すっと立ち上がった。

 笑顔を作ろうとしたようだが、ちょっと唇を横に引いただけで、頼りなさが隠せない。

 佐久間は、詩乃の眼を見てゆっくりと頷いて見せた。

 淡いクリーム色の半袖のブラウス。襟と袖口の白が優しいアクセントになっている。そして白のフレアスカートに白のパンプスと落ち着いた後姿を見せて店を出る。

 佐久間が見つめていることを感じたように、少し歩いてから振りかえり、今度はいつもの笑顔を見せて、左手で小さくバイバイをした。

 肩も腰も細い。背中まである髪を、今日はポニーテールにまとめて、歩くたびにそれがうなじで揺れている。

 窓から詩乃の姿が見えなくなって、ふっと小さく溜息をつく。

 店内は幸いそう混み合うこともなく、店員も客たちにそう気を配る素振りもない。客側も近所の常連が多いようで、スポーツ紙を広げてゆっくりと煙草をくゆらせている。

 間違いであってほしい。

 正直なところ、今はそう願ってしまう。

 しかし一方では、そう願ってしまうことにも罪悪感を感じてしまうのだ。

 それでは詩乃に対する愛情が、結局は責任のかからない範囲での、単なる遊びでしかなくなる。

 決してそんなつもりでこの二年間を過ごしてきたわけではないが、現実の社会には制約条件がある。第三者からはそう判断され、非難されるのだろう。

 コーヒーをお代りして、手持ち無沙汰にあまり関心のないスポーツ紙を開く。プロ野球、ゴルフ、競馬、と単に文字を眺めて行く。

 眼にとまったのは、佐久間でも名前を知っている中堅の歌舞伎役者の不倫発覚の記事だった。元々が特殊な世界であるためか、記事としてあまり批判的なニュアンスでは書かれていない。

 どこまで本当なのかは知るべくもないが、昔は役者や噺家といったいわゆる「芸」を職業にしている世界では、こうした色恋沙汰も芸の肥しになる、と肯定的に考えられていた。その名残が歌舞伎という伝統芸能の世界にはまだ残っているのだろうかとも思える。

 ただ一般的な芸能界では、こうしたスキャンダルは既に許されざる事件として取り扱われる。ここ二、三十年の間に文化が大きく変わってきているのだ。

 そう言えば、佐久間がまだ入社したての頃、ある資産家の重役が半ば公然といわゆるお妾さんをもっているという噂を聞いたことがあった。

 女性の人権を度外視するならば、男にとってそれは一つの甲斐性と思える部分がなくもない。

 時代劇を見ていても、権力者や商売の成功者に本妻以外の女性がいることは、演出上ある意味当り前のように設定されている。昭和の時代になっても戦前までは、姦通罪として罰せられたのは女性だけだったらしい。裏を返せば男は妻子があっても、浮気をすることが法律的に許されていたことにもなる。

 もちろんそれは源氏物語の時代以降、男の社会が作り上げた文化であり、法律である。実際にその時代の妻たちの嫉妬心や辛さは、昔も今も変わらないものであるはずだ。法律や文化に押さえ込まれ、耐え、割りきらざるを得なかっただけなのであろう。

 ただ、今の佐久間には、経済的にすら双方を支えていくことができない。文化的に倫理的にどうかという以前の段階で失格なのである。

 それに加えて改めて愕然とさせられたのが、自分の年令である。

 今年で四十七歳になるのだ。

 もしも子供ができてもその子が二十歳になる頃には、自分は六十七歳になる。

 まだ動けない年ではないが、現役を退いていわゆる年金生活になっているだろう。子供が大学へ進学するにせよ、結婚するにせよ、何もしてやれない。

 それまでにも次第に物心がついてくるわが子に、もしも父親を名乗れる日が来たとしても、老い衰えていく自分の姿しか見せられないことも悲しいことなのだ。

 真一や浩二は何とか一人前になるところまで見届けられるだろう。

 しかしこの子のどこまでを、と考えると、死ぬときにまで大きな未練を抱えながらになってしまうかもしれない。

 詩乃の人生にしてもそうだ。

 妻の理子ですら、年の差があるだけに、自分の死んだ後、いわゆる後家の人生を長い間送らせてしまう。詩乃は人生の半分を、母親にはなれても、妻としての喜びも悲しみも知ることもないままに生きることになってしまうのだ。

 もちろんその前にでもそれからでも、他の誰かに嫁ぐことができなくはないが、子供が大きな障害となることは明らかである。

 もしも、いずれそうするつもりでいるならば、今、佐久間の子を産む決心などしないはずだ。

 やはりどう考えても詩乃に子を産ませることは許されない。詩乃が産みたい、そして、何とか一人で育てていけると思うのは、女性としての本能であり、世間知らずの感傷である。

 そのために詩乃の将来にとんでもなく大きなリスクを背負い込ませることになる。

 それを回避させるのが、自分の責任ではないのかと思える。そのために詩乃に恨まれようが、嫌われようが、それを甘んじて受けていくことが、唯一の常識的な責任の取り方ではないのか。

 詩乃の希望を少しでも叶えさせてやりたい、などという考えこそが、佐久間の一時的な感傷にすぎないのではないのか。

 詩乃自身も迷っているのかもしれない。その迷いをはっきりと断ち切ってやることの方が、必要なことではないのか。

 読み終えたスポーツ紙を前に、所在なげに煙草を吸っては、次第に厳しい顔に変わっていく自分がそこにいた。

 一時間半ほど経ち、時計は十一時半になっていた。

 佐久間の携帯電話が揺れた。詩乃からだった。

「ああ、私だ」

「パパ、ごめん、迎えに来てくれる?」

「わかった」

 それだけ言って、佐久間は慌てて金を払い店を出て、すぐ裏の駐車場に停めてあった車に乗った。

 今日は検診だけだと言っていたはずなのだ。まさかそれで歩けないほどのことはないだろうとは思う。電話の声も普段とそう変わらなかった。

 病院まではほんの二百メートルほどで、すぐに着く。玄関前に停めるのは憚られたため、十メートルほど行きすぎて車を停める。駐車禁止であることはわかっていたが、キーも着けたまま、待合室に飛び込んだ。

 詩乃はすぐにわかるところを選んでいたのだろう、中央の柱の周りにあるソファーに座って、こちらを見ていた。

 佐久間が二、三歩進もうとすると、詩乃も立ち上がって歩いてきた。

 こころなしかそっと歩いているようにも見える。

「ごめん。あの店にもう一度入る気にならへんかったの」

「そうか」

 とりあえず大事無い姿を見て、ほっとしながら待合室を出る。

 詩乃は普通に歩いているのだが、思わず彼女を支えるように腕を取り、助手席のドアも開けてやった。

「社長さんみたい」

 運転席に回って乗りこむと、詩乃は小さな笑顔を見せてそう言った。

「社長なら、後ろの席だよ」

「ふうん、そうなんや。なあパパ、二人になれるとこ連れてってくれる?」

「ん・・・ああ、この辺りはあまり詳しくないが、探してみよう」

 東へ向かうと郊外へ出る。

 その辺りには安いホテルでもあるだろうと思ったのだ。 案の定、三十分も走ると、派手な装飾のホテルが何件か見えてきた。

 適当に入りやすそうな所を選んで車を入れる。土曜日のお昼時で、空室はいくらでもあった。

 ロビーにあるパネルで部屋を選ぶとキーが出てくる。いつもなら洋室なのだが、今日は少しでも落ち着けるだろうと和室を選んだ。

 中へ入ると、四畳半ほどの畳の部屋があり、テーブルと座椅子がある。テーブルには簡単なお茶のセットがあり、窓がないことを除けば普通の旅館と変わらない。

 障子の向こうには布団が敷いてあるのだろうが今日は必要がなさそうである。部屋へ入ると、詩乃は持っていたバッグをテーブルに投げ出すように置いてぺたんと座りこんだ。

「なんか気い狂いそうや」

「どうしたんだ?」

 佐久間も詩乃の横に胡座を組んで、テーブルに投げ出されている彼女の手を握った。

「残念やけど、ていうか良かったていうべきなんやろうか、妊娠はしてへんかった」

「そう」

 佐久間はこれまでの緊張感から、全身から力が抜けるような安堵を感じたのだが、詩乃の表情は決して明るくなかった。

 現金なもので、全てを失うかもしれない恐怖感が去ってしまうと、今度は何か大きな忘れものをしてしまったような落胆もある。

 これからはもう二度と同じ危険を冒すことはないだろう。

 そして、もともと許されることではないのだが、詩乃も再び佐久間の子供を産んでもいいなどとは言い出さないだろうと思う。

 しかし、ほっとする気持ちは詩乃にもあるはずなのだが、その上で気が狂いそうだというのには、何か理由があるはずなのだ。

 短かくうなづいて次の言葉を待った。

「そやけど、今度は精密検査やて。左の卵管のあたりに腫瘍があるかもしれんて言われた。エコーだけでは影が映っているってこと以上はわからへんから、今度はMRIっていう機械で調べるって。生理がなかったのはそのせいかもしれへん」

「それは心配だな」

「大丈夫やろうか。悪性やったらどうしよう?」

 詩乃は泣きそうな顔で佐久間を見上げる。

「大丈夫だよ。影と言っても腫瘍とは限らない。ちょっとした炎症でも影は映るからね。医者は後から苦情を言われないために大げさに言うものだ」

 白々しい元気付けの言葉だとは思うが、それ以上に言ってやれることがなかった。

「赤ちゃんのこと、パパ、ほっとした?」

「そうだな、いくらかは残念に思う気持ちもあるが、正直、今のところはその気持ちの方が強い。しかし、詩乃の体のほうが心配だ」

「うん、うちもそう思う。一人で生きていくには、今の詩乃は弱虫すぎるもん。もう少し大人になってからやったら良かったのに、って思うねん。でも悪い病気で一生子供産まれへんかったらどうしよう。そう思うと、妊娠してた方がよかったかもしれへん」

「そんな風に悪い方向に考えてたら他の病気になってしまうよ。大丈夫、きっと大したことはない」

 詩乃はあまり納得してはいない顔で小さくうなずいただけだった。

 もしも何か腫瘍ができていても、悪性でなければ命に別状はない。仮に片方の卵巣が機能しなくても子供が産めなくなるわけではない。独身の若い女性でも子宮筋腫などはそう珍しい事でもない。

 そんなことは女性である詩乃の方がよくわかっているはずだ。小手先の慰めは却って辛いかもしれない。

 そう思うと言葉が出なくなるのだ。

「三十過ぎて一人やったら、なんて言うてたけど、ちゃんと子供産めるかなあ。それより、それまで生きてられるんやろうか・・・」

「心配しすぎだよ」

「こうしてパパと・・・奥さんのいてる人と一緒にいることへの罰やろうか」

「何を言っている、それならまず私に罰が下るよ」

「昨日まで、もしも本当に妊娠してたらどないしょうって悩んでて、でもいろんな想像して楽しんでるところもあったのに、今日は全然違うことで怯えなあかんて。なんか頭の中混乱してしもうて、先生の話し聞いてて涙出てきた」

 うつむいて小さくため息をついて肩を落とす。

「詩乃が不安に思う気持ちはある程度わかる。この年になると、毎年検査を受けるからね。精密検査に行ったことも何度かある。幸いこれまでは何もなかったが、いつも検診結果が来るまでは不安なものだ」

 詩乃はこくんとうなずいた。

「そういうとき、パパはどうしてる?」

「どうしようもないから、敢えて考えないようにしている。考え始めるとやっぱり不安だからね。我々の年で何かあるとするならば、心臓、肝臓、腎臓、脳、そして癌だとか、命にかかわることが多いし」

「パパなんて元気そうやのに」

「見かけはね。しかし年令からは逃げられない。一年ほど前に従兄弟が死んだ。これは白血病だからまた少し違うが、そういう年令になってきているのは事実だから」

「そうか、お父ちゃんも時々そんなこと言うてるわ。そういう年頃なんや」

「それを言われると辛いが、ま、そういうことだ」

「うちもあんまり考えんようにしよ」

「その方がいい」

「お茶入れる」

 テーブルの急須にティーバッグを入れて、ポットのお湯を注ぐ。

「うちなあ、ホントは堕ろす決心しててん。さっきも言うたけど、自分が弱虫やって知ってる。赤ちゃんできてもパパに迷惑かけへん、って意地張ってても、やっぱり一緒にいてほしい気持ち、我慢できへんようになると思うねん」

「それが普通だろう」

「そうなったら、パパ、目茶目茶困るやん。詩乃は失うものないから、淋しいことだけ耐えればええけど、パパはそうはいかへんでしょ。なのに何であかんて言わへんかったの?」

 湯のみを二つ並べて交互に少しづつ急須からお茶を注ぐ。

 いつもの所作なのだが、どことなく今日はたどたどしい。

「私自身決心がついてなかったから言えなかった。実を言うと、あの喫茶店でようやく決心したところだった。詩乃の意志に反してでもダメだと言おうとね」

「ふうん、でも、言う必要がなくなった」

「それまでは随分悩んだ。家内のことも含めて、一般論としては簡単なんだが、この間も言ってたように、本当にそれでいいのかと思うと、自分には結論が出せなかった。ま、単に優柔不断だっただけだが」

「じゃあ今日はどうやって結論を出したの」

「どうやってというよりも、自分の年を考えるとやっぱり無理だと思った。いろんな面で詩乃にとってリスクが大きすぎる。それに物心ついて、大人になっていく子供に、もしも会えるとしても老いて行く自分の姿しか見せられないのは悲しいし、一番金のかかるときにこっちが年金生活者じゃ何にもしてやれない。結局私は詩乃と子供を守っていけない。それも自分勝手な考えにすぎないのかもしれないけどね」

「守るやなんて大げさやわ」

「しかし、もしも私にできることがあるとすれば、それしかないだろう。普通の夫婦のように、二人で新しい家庭を築いていって、辛いことや苦しいことがあっても二人で助け合い励まし合っていくっていう人生を与えられない」

「それが普通の人生なんやろうとは思うけど、こうしてたまたま好きになった人が家庭のある人やったら、仕方のないことやもん。その中で自分が一番幸せになれるように考えていけばええのとちがうかな。うちがそうできるかどうかはわからへんけど」

「詩乃はいつもそう言うけどね」

「でも、いつまでもパパに甘えてるばかりではあかんし、負担にはなりとうないって思てんねん。考えへんようにしててもやっぱり奥さんのこと気になるし」

 少し遠くを見るような眼でそう言う。

 その表情は、いつか食事の後に一人で窓から夜景を見ていたときに見せた、大人の女性の顔だった。

 そして、ふっと笑顔を佐久間に向ける。

「自分の翼で飛ぶ練習も必要やなあって。だいたい、パパの鳥かごが居心地良すぎるからあかんねん。いろいろ考えても飛び立つ決心がつかへん。このままやったらほんとに飛ぶこと忘れてしまいそうや」

 冗談めかしてそう言うのだが、その笑顔は自分の中の何かをごまかすように、無理をして作った笑顔のように見える。

「そうかもしれないな。これまで、私の勝手な思いでいつまでもここにいてほしいと望んでいたんだが、それは詩乃にとっていいことではないのかもしれない」

「いつかは、なあ」

「いつかはね」

 話しをしている間に病院でのショックは少し和らいだようにも見える。

 しかし何かが不自然にも思える。これまで二年間以上、彼女を見つめてきたからこそ感じるぎこちなさだった。

 これからまた検査を受け、結果が出るまでは不安な日々が続くのだから仕方のないことかもしれない。

 そして、こうして一緒にいてやることで少しでも気が紛れるならば、できる限りそうしていてやりたい。その不安な気持ちは想像はできても、同じレベルで受けとめてはやれない。

 特に女性にとって婦人科の不安は、男には決して理解できないものらしい。それでも一人きりで怯えていることに比べて少しでも心強いならば、そうしてやりたい。

「うちなあ、もしも女の子やったら、名前、絵梨子ってつけたかった。どう?」

 話しがあちこちへ飛ぶ。

 やはり詩乃の心の中では、いろいろな思いが整理できずに交錯しているようだ。

 やむを得ないと思う。まだ二十五歳になったばかりの娘なのだ。

「ああ、いい名前だ。でもどうして?」

「昔読んだ小説に出てきた女の子の名前やねん。可愛い名前やなあと思うて。それにエ行は優しい響きでイ行は知的な響き。名前の響きでその子の性格が決まるんやて」

「本当かな」

「わからへん。でもええねん。エリちゃん、って確かにそういう響きやと思う」

「佐久間絵梨子か。悪くない」

「あかん。詩乃が育てんねん。元井絵梨子や。昔のうちのように女の子のくせにちょっとお転婆で、でも本当は優しい子。小学生くらいになったら、一緒に買い物行ったりお料理したり。パパにもたまには食べさせてあげる。あ、でもそれまでに自分が上手になってないと教えられへんなあ、特訓せなあかん」

 そう言って柔らかな眼差しをしていたのだが、その眼から涙が一筋頬を伝って落ちた。

「あれ、涙や」

 自分でも不思議そうに、その雫を拭ったのだが、すぐにその感情の波は、詩乃の顔を大きくゆがめた。

 そしてそれまで彼女を支えていた力が抜けるように、佐久間の胸に倒れこんできた。

 佐久間は押し倒されるような格好で仰向けになり、彼女を抱きとめる。

 詩乃は肩を激しく揺らせた。

「赤ちゃん、うちの赤ちゃん・・・」

 嗚咽をこらえるその眼からはポロポロと涙が溢れ、佐久間の胸に沁みてくる。

 そしてすぐにそれも耐えられなくなって、搾り出すような泣き声に変わっていった。

「抱いてあげられんでごめんなあ、一緒に遊んであげられんでごめんなあ・・・こんな弱虫のお母ちゃんでごめんなあ・・・」

 声を詰まらせながら、そこに本当に子供がいるようにそう語りかける。

 嗚咽の間にそう呟いてはまた肩を揺すって身もだえするのだ。

 今の詩乃は、二十五歳という年令や日頃見せている幼さを超えて、一人の女であり、子供をあきらめた一人の母親だった。

 結果的に詩乃は妊娠してはいなかった。しかし、それは単に結果論にすぎず、心の中では、母親になろうとしていたのだ。

 詩乃の体の中には命が宿り、育っていたのである。

 佐久間が聞いたのはわずか一週間前だが、詩乃はそれ以前からずっと自分の体のこととして受けとめ、自分の中で育ててきていた。

 そして、ずいぶん思い悩み、やっとの思いで諦める決心をしたはずだった。その決心までの過程は現実がどうであれ、詩乃の中では同じ意味を持ち、その悲しい思いや辛さは変わるものではない。

 ただ今日の検査は考えもしていなかった結果だった。そのために、詩乃自身が戸惑っていただけで、少し落ち着くと、長い間心の中に止めていた感情が堰を切って流れ出したのだ。

 佐久間は言葉を失って、詩乃の細い肩から背中をそっと撫でてやることしかできなかった。

「詩乃」

 無意識の内にそれだけがかすれた声となった。

 すまないと言おうとしたのか、愛していると言おうとしたのか、佐久間も冷静ではいられなかった。

 罪は佐久間にある。

 会えなかった子供を思う気持ちも、詩乃をここまで傷つけて泣かせた後悔も、そしてそれだけの愛情も心の中にはあるのだ。それをどう扱えばいいのかわからなかった。

 ただ、彼女と一緒に泣いてやることもできない自分が、たまらなくつまらない男に思えるだけだった。

「生まれてこられへんかった赤ちゃんのために・・・いっぱい、いっぱい泣いてあげなあかんて思うててん」

 泣きじゃくりながらでも、ようやく少し落ち着きを取り戻してそう言った。

「そうか」

 佐久間は短く頷いた。

 泣きたいだけ泣かせてやって、心につかえている言葉を聞いてやる、今の佐久間にはそれしかできそうになかった。

「母親になるって大変なことなんや。結果的には間違いやったけど、しばらくでもその気でいられてようわかった」

「辛い思いをさせたな」

「ううん、もうええねん。パパは、父親の気持ちって・・・そうか、もう子供いてるから経験済みなんや」

 佐久間に話しかけるというよりも、自分と会話をしているようだった。

「それでもうちなあ、女に生まれてよかった。自分のお腹に子供がいるかもしれん、て思うだけで、優しい気持ちになれるし、なんかぞくっとするような幸せ感じられた。これが本当で、どんどん大きく育っていったら、って思うとなあ・・・。病院で一緒になった妊婦さん、みんな幸せそうなええ顔してたけど、その気持ちようわかる」

「男は、嬉しさはあるが、それよりも責任が実感として大きくなっていく方が強いんじゃないかな。長男が生まれたときに、ああこれから自分の本当の人生が始まるなって思った。他の人生を選択する可能性がなくなって、その代わり確かな人生になる。普通は結婚するときにそう思うのかもしれないが、そのときはあまり感じなかった。おかしな表現かもしれないが、結婚の責任はお互い五十%ずつだが、子供への責任は二人とも一〇〇%だからね」

「やっぱり男の人は理屈っぽい。そういう意味では女の子は結婚するときに、全てが決まってしまうって思うんやろうなあ」

「なるほど」

「ちゃあんとお嫁にいくことも考えなあかんなあ、やっていけるかどうかは別にして」

 今年の春、詩乃は同じように嫁にいきたいと言い出した。どこまで真剣に考えていたのかはわからないが、そのときには、即座にそれは辛いと返事ができた。

 今でも感情としては、変わらず詩乃を手放したくはない。

 しかし、今はその思いを彼女に伝えるのは、やはりわがまま過ぎると思う。手放したくないと思う気持ちと同じくらい、幸せになってもらいたいとも思う。

 詩乃が言うように、周りから祝福される中で、子を産み育てさせてやりたいのだ。

 佐久間との間ではその望みは叶わない。

 いつかは別れる時がくるとわかっていた付き合いだ。

 ひょっとすると、今がそのときなのかもしれないとも思える。

 しかし、こうして傷つき弱っている詩乃を一人放り出すことはできない。

 そう考えると、何も言えなかった。

「なあパパ、さよならはうちが言い出だすまで待ってくれる?」

 詩乃はゆっくりと佐久間の胸から頭を持ち上げて、横座りになる。

 うつむいてハンカチで鼻を押さえながら、上目使いで申し訳なさそうに佐久間を見る。

 佐久間は驚いて身体を起こして、詩乃の顔を覗き込んだ。

「パパはきっとそう考えると思うねん。詩乃のために、別れなあかん、って」

「どうして」

「もう二年以上こうして近くでいるんやもん。パパがどんな風に考えるか、詩乃にかてわかる。けど、今さよなら言われたら、うち、壊れてしまいそうや」

 泣き顔を隠すように、詩乃は佐久間の肩に額をつける。

「パパは優しいし、こんな詩乃のこといっぱい好きでいてくれる。そやから詩乃が幸せになるためにはさよならを言わなあかん、けどこんな詩乃を一人ぽっちにもできへん、て」

「確かに、今、それを考えていた」

「けど、それは詩乃に決めさせてほしい。ずっとここでいさせてほしいとか、奥さんと別れてうちと一緒になってとかは、絶対に言い出さへん。それに、自分勝手かもしれんけど、うち自身のことを一番大事に考えて決めるから。なあ、それでええ?」

「ああ、もちろんだ。しかし、どうしても詩乃に悲しい思いをさせてしまうな」

「そんなのお互いさま。パパから愛情いっぱいもろてるし、贅沢させてもろてるし、幸せたくさん感じてるから、悲しい思いしたって、それで行って来いや」

「詩乃」

 佐久間は身体をずらせて彼女の肩を引き寄せて抱いた。

「いつの間にそんなに強くなった?私のほうが意気地なしだな」

「強いことなんてあらへん・・・でも、そうかな、母は強しって言うやろう。その予行演習したさかい」

「なるほど」

「うそや、弱虫やから無理してんねん。パパのばか、もう、また涙出そう」

「泣けばいい、今度は自分のためだ」

「どっかの歌のせりふみたい」

 ちょっと笑顔を見せたが、また俯いてくすんくすんと、静かに佐久間の腕に身体を預けて泣き始めた。

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