6.27: やがて春に溶ける - 1話

タイトル: 終わらない手紙



 息をするたび、肺の奥に桜の花びらが音もなく詰まっていくような、甘い窒息感に襲われる。


 街は今年も、狂ったように春を謳歌していた。光は飽和し、あらゆる物の輪郭を白く溶かす。風は花の蜜と湿った土の匂いを孕んで肌にまとわりつき、世界から置き去りにされた私の心臓だけを、やたらと性急に煽る。


 スマートフォンの冷たいガラスの上を、私の指が滑る。

 それは物語の形をした、行き場のない祈り。私が「私」でいるための、唯一の呼吸法。


『一年前、君がいなくなった。小春。その名前の通りの季節に、君はあっけなく僕の世界から消えた』


 画面の中の「僕」は、私だ。私が捨ててしまった感情の、亡霊みたいなもの。

 二度目の春。なぎさが、いなくなってから。

 十三歳の私が手を伸ばし、やっと触れた光。十五歳のあなたは、そのすべてを私にくれた。そして、まるで最初からそこにしか居場所がなかったみたいに、あっけなく空の彼方へ還っていった。


『「春が一番好き。だって、全部が新しくなる気がするから」君はそう言って、桜並木の下で無邪気に笑った。その記憶が、今はガラスの破片になって胸の奥にちらばっている』


 病室の窓の外を眺めながら、あなたはそう言った。その声はもう、ガラス越しみたいにかすれていたのに、瞳だけはまっすぐに、未来の色をしていた。

 新しい始まりなんて、どこにもない。私にとって春は、あなたがいないという、あまりに広大な終わりを突きつけてくるだけの、残酷な季節だ。


 私の指が、物語を続ける。家庭という冷たい箱の中で、感情に分厚いガラスの蓋をして生きてきた私。そんな私の世界に、あなたは突然、陽だまりみたいに現れた。図書室で触れた指先の、忘れることのできない温度。雨宿りした軒先で交わした、どうでもいい話。なぎさ、あなたというレンズを通すと、埃まみれだったはずの世界は、まるで宝石を散りばめたみたいに、きらきらと輝いて見えた。


『君と初めて写真を撮ったカフェは、新しい店に変わっていた。ショーウィンドウに映る自分の顔が、ひどく疲れて見えた。初めて手をつないだ海辺は、やけに眩しい。寄せては返す波の音が、君の笑い声に似ていて、耳を塞ぎたくなる』


 私は、あの海辺へはもう行けない。あなたのいない砂浜に立つ勇気がない。だから、物語の中の「僕」に、私の代わりにそこを歩かせる。私の代わりに、心をずたずたに引き裂かせる。


『春に溺れそうだ。君の思い出という、深く、穏やかで、けれど決して抗うことのできない流れの中で』


 ふと顔を上げると、現実の桜並木が、まるで夢の続きのように広がっていた。風が吹き、薄紅色の吹雪が視界を奪う。その無数の花びらの一枚一枚が、あなたの言葉の欠片のようだ。


『君はね、もっと欲張っていいんだよ』

 海を見下ろす丘であなたがくれた言葉が、今も耳の奥でこだまする。

『自分のために怒って、自分のために泣いて、自分のために笑うの』


 できないよ、なぎさ。私の世界の真ん中には、いつだってあなたがいるから。あなたを失ったこの世界で、自分のために笑うことなんて、どうすればできるの。


 だから私は、物語を書く。悲しんでいる人が、少しだけ顔を上げられるような。そんな優しい嘘を、私は紡ぎ続ける。でも、本当は分かってる。これは、誰のためでもない。あなたに宛てた、届くはずのない手紙だ。

 ねえ、どうしたらいい?


『私の分まで、幸せになってね』


 最後にあなたが残した言葉は、温かい祝福であると同時に、冷たい鉄の枷だった。幸せになること。それは、あなたを忘れてしまうことじゃないか。この胸の痛みが、あなたを愛した唯一の証明なのに。この痛みが和らいでしまったら、私は、あなたがいなくても平気な、薄情な人間になってしまう。それが、何よりも怖い。


 指が、吸い寄せられるように一つの結末へ向かう。

「僕」を、救ってあげなくちゃ。私にはできないやり方で。


『桜並木の終着点。古びた花屋の錆びたドアを開ける。「……あの子に、似合う花を」。言葉が、勝手に出た』

『老婆が差し出したのは、一本のカスミソウだった。「どんなに綺麗な花束もね、これがないと、どこか寂しく見えるんだよ。でも不思議なもんでね、これ一輪だけでも、ちゃんと綺麗なんだ」』


 その言葉に、画面の向こうで「僕」が泣き崩れる。堰を切ったように、熱い雫が溢れ出す。

 違う。泣いているのは「僕」じゃない。私だ。

 スマートフォンの画面に、ぽつ、と水滴が落ちて、文字を滲ませた。


 ――ああ、そうか。あなたは、そうだった。

 私という色褪せた世界の隣で、あなたはいつも鮮やかに咲いて、私の人生を彩ってくれていた。でも、あなたはあなただけで、ちゃんと輝いていたんだ。


『悲しみは消えない。君を恋しく思う気持ちも、きっとなくならない。でも、君が愛したこの「始まりの季節」を、僕はもう、終わりの色に染めるのはやめにする』


 物語の中の「僕」は、海へ向かい、夕陽に染まる空を見上げる。灰色の世界に、小さな白い花が揺れている。そうやって、私は彼に、ささやかな救いを与えた。


 ひらり、と本物の花びらが、私の手の甲に落ちた。

 物語は終わった。でも、私の時間は?


 私は、溺れているんじゃない。

 息が詰まるほどの悲しみも、胸を締め付ける恋しさも、どうしようもないこの虚無感も。全部、あなたがくれたものだ。あなたが、私の灰色だった世界に、鮮やかな色を灯してくれた証だ。失われた色の残像が、私を苛むんじゃない。その色が確かに存在したという事実が、私を生かしている。


 幸せには、なれない。あなたの分までなんて、そんな大それたこと、できるはずがない。

 でも。この痛みと共に、生きていくことはできるのかもしれない。

 あなたを想うこの気持ちを、このまま抱きしめて。答えなんて見つからないまま、明日へ向かうことは。


 見上げた空は、泣き腫らした後のような、優しい青色をしていた。

 無数の桜が、祝福するように、あるいはただの自然現象として、静かに舞い続けている。


 分からない。

 どうしたらいいのかなんて、やっぱり、今も分からないままだ。


 でも、それでいいのかもしれない。

 分からないまま、私はまた、新しい物語を書き始めるのだろう。あなたに宛てた、この終わらない手紙を。


 春の光の中で、私はただ、静かに瞬きをした。

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