6.26: 瞬きひとつ分の幻
自動ドアが、ため息みたいな音で開く。
吸い込まれるように中へ入ると、白々しい光が網膜に突き刺さった。おでんのつゆと清潔な洗剤が混じり合った、いつもの匂い。私の戦場は、いつもこの匂いから始まる。
かごは持たない。今夜買うものは、もう決まっているから。一番奥の棚、月曜と木曜に入れ替わる、少しだけ贅沢なプリン。それを一つだけ買う。レジへ持っていく。そして――。
「今日こそは。」
誰にも聞こえない声が、喉の奥で繭のように丸まる。
週に二度の、ささやかすぎる決意。
レジに立つ、あのひとに。いつも気だるげな、人形みたいな顔をしたあのひとに。「ありがとうございます」と、ちゃんと言うのだ。消え入るような声じゃなく。俯いたままじゃなく。できれば、ほんの少しだけ口角を上げて。
そんなこと、と思うだろうか。でも、私にとっては、海を泳いで渡るくらい途方もないことなのだ。
プリンの冷たさが、指先にじんと伝わる。決戦の合図。
レジには、先客が二人。私の心臓は、かごの中で暴れる鳥みたいに脈打ち始める。一人目が終わり、二人目が進む。ああ、もう駄目かもしれない。言葉はきっと、舌の上でかたちになる前に溶けてしまう。足がすくむ。逃げ出してしまいたい。
でも、逃げ出した先にあるのは、いつもと同じ、何も変わらない部屋と、私だけだ。
私の番が来た。
プリンをそっとカウンターに置く。バーコードを読み取る無機質な電子音。金額を告げる、体温の感じられない声。いつもと同じ。全部、全部、いつもと寸分違わない。
息を、吸う。
今だ。言うんだ。さあ。
その瞬間だった。
彼が、ふ、と。
ほんの僅か、本当に瞬き一つほどの刹那、その無表情な唇の端が、持ち上がったように見えたのだ。視線はレジのディスプレイに向けられたまま。私を見ているわけじゃない。多分、何か、彼の中だけで完結した、取るに足らない何か。流れ星みたいに一瞬で消えた、ただの幻。
でも、私はそれを見てしまった。
用意していた言葉は、熟しすぎた果実みたいに、ぽとりと内側へ落ちていった。
私は結局、いつもと同じように小さく会釈だけして、釣り銭を受け取った。ドアが閉まる音を背中に聞きながら、夜の空気の中に逃げ込む。
ああ、また、駄目だった。
アスファルトの湿った匂いが、肺を満たす。
負けた。私のちっぽけな戦争は、今夜も惨敗に終わった。
けれど。
ポケットの中のプリンの重さを感じながら、さっきの幻を反芻する。
あの無機質な人形にも、知らない表情がある。私の知らない時間、知らない感情が、あの白い光の向こう側で流れている。
そう思ったら、不思議だった。
胸を刺すはずの自己嫌悪が、少しだけ、輪郭がぼやけている。
夜風が、なんだか優しい。
今日こそは、言えなかった。
でも、明日の私は、どうだろう。
空を見上げる。星ひとつない、厚い雲に覆われた夜空。
それでも、その向こう側を、私は少しだけ信じてみたくなっていた。
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