6.26: 古客
ひんやりと磨かれたテーブルの上、ぽつんと置かれた小さなアクリルの板。そこに印刷された黒い迷路のような模様が、源さんの顔を間抜けに映していた。
「ご注文は、そちらのQRコードからお願いします」
背後からかけられた声は、明るく、しかし何の抑揚もないメロディのようだった。顔を上げれば、髪を茶色く染めた若い娘が、作り物めいた笑顔を貼り付けて立っている。
きゅーあーる、こーど。
舌の上で何度転がしても、その言葉は馴染むことなく喉の奥でざらついた。源さんの分厚く節くれだった指が、ゆっくりとテーブルの縁をなぞる。この店には、もう二十年以上も通っている。昔は『喫茶カトレア』という名前で、カウンターの奥には紫煙をくゆらせるマスターがいつもいた。妻の澄子がクリームソーダを好きで、よく二人で窓際の席に座ったものだ。
周りを見渡せば、誰も彼もが手のひらサイズのガラス板を覗き込み、指先で器用にそれを撫でている。その画面の光が、まるで自分だけを責め立てるサーチライトのように感じられて、源さんは思わず目を伏せた。
持っていない。
そんなものは。
澄子が逝ってから、電話もめったにかかってこなくなった。息子からは盆と正月に葉書が来るだけだ。あんな小さな板きれ一枚で世の中と繋がれるだなんて、どうにも嘘っぽくて好かんかった。
だが、コーヒーの一杯も頼めずに、このまま追い出されるのはもっと好かん。
「……あの」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、掠れていた。
若い店員は、待ってましたとばかりに振り返る。その目に、一瞬だけ「面倒だ」という色が浮かんだのを、源さんは見逃さなかった。
「スマホ、持ってねえんだ。俺は」
意地を張るように、少しだけ声を大きくした。震えを隠すために握りしめた拳が、汗でじっとりと湿る。
娘は一瞬きょとんとし、それから何かを察したように、ふっと口元の力を抜いた。マニュアル通りの笑顔が消え、そこには困ったような、それでいて少しだけ優しい、年相応の娘の顔があった。
「……かしこまりました。少々、お待ちください」
彼女は踵を返し、カウンターの奥へと消えていく。やがて戻ってきたその手には、使い込まれて角が丸くなった、手書きのメニューが握られていた。一枚きりの、ラミネートされた紙だ。
「ブレンド、一つでよろしいですか」
娘はメニューを源さんの前にそっと置くと、少しだけ声を潜めて言った。
「昔からのお客様は、皆さんこれが一番だって、言ってくださるので」
その言葉が、強張っていた源さんの心を、じんわりと溶かしていく。
『昔からの、お客様』。
その響きは、まるで魔法のようだった。自分はまだ、この場所にいてもいいのだと、そう言われた気がした。
「……ああ。それで、頼む」
運ばれてきたコーヒーカップの温もりが、冷えた指先にじんわりと染み渡る。窓の外では、街路樹の葉がはらりはらりと舞い落ちていた。
一口、含む。
深く、濃い苦味。その奥に、昔は感じなかった微かな酸味。
それは、澄子と飲んだあの頃の味とは、やはり少しだけ、違う気がした。
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