6.26: 名もなき琥珀

 白衣のポケットの中で、チョコレートバーが体温にぬるく溶けていく。ひび割れたそれを指先で弄びながら、私はガラスの向こうに横たわる老人を見ていた。


 私の仕事は、ひとの記憶を間引くこと。人生の最期に、最も美しい記憶だけを抜き出し、琥珀色のデータチップに焼き付ける。遺された者たちへの、ささやかな贈り物だ。けれど、美しい記憶を探して意識の海を潜るたび、私はその人の後悔や痛み、忘れたかったはずの澱(おり)にまで触れてしまう。感情の濁流に溺れぬよう、心を無にして潜行する。そのたびに、自分の中の何かが少しずつ削れていく気がした。


 仕事が終わると、身体が悲鳴をあげるのだ。糖分を、と。それも、上等なパティスリーのケーキなんかじゃない。ただひたすらに甘く、脳を痺れさせるような、安っぽいチョコレートの塊が欲しくなる。


「……結構です」


 老人は、か細い声で言った。皺の刻まれた瞼は、固く閉じられたままだ。


「私のような乾いた人生に、琥珀に閉じ込めるほどの記憶など、ありはしませんよ」


 拒絶は慣れている。私は無言でコンソールを操作し、彼の意識へと接続した。ノイズの混じる記憶の奔流。モノクロームの風景ばかりが、流れては消えていく。孤独な食卓、誰もいない部屋、窓の外を過ぎ去る他人ばかりの街並み。本当に、彼の言う通りなのかもしれない。心がささくれ立っていくのを感じる。早くこの仕事を終わらせて、ポケットのチョコレートを齧ってしまいたい。


 そう思った、その時だった。


 ふと、流れの片隅に、色を帯びた小さな泡を見つけた。そっとそれに触れる。


 途端に、世界が音と匂いを伴って立ち上がった。

 ざあざあと、アスファルトを叩く雨の匂い。バス停の錆びた屋根。青年だった頃の彼が、そこで雨宿りをしている。隣には、見知らぬ女の人が一人、困ったように空を見上げていた。


 ドラマチックな出会いじゃない。彼はただ、持っていた傘を無言で彼女に差し出しただけ。女の人は一瞬驚いて、それから、はにかむように小さく微笑んだ。ただ、それだけ。名前も知らない、二度と会うこともなかった誰か。


 けれど、その瞬間の彼の胸の高鳴りが、雨に濡れた紫陽花の匂いが、彼女の微笑みの眩しさが、洪水のように私の中に流れ込んできた。それは、成功でも、名誉でも、富でもない。本人すら忘れていたであろう、人生という長い道のりの途中に咲いた、名もなき野花のような記憶。


 私は、そっとその記憶だけを掬い上げた。


 接続を解除すると、老人の表情は穏やかになっていた。まるで、心地よい夢を見ているかのように。やがて、モニターの心電図が、一本の静かな線になった。


 病室を出て、冷たい廊下を歩く。

 無意識にポケットのチョコレートバーへ伸びた指が、ふと、止まった。


 いつもなら、包装を破るのももどかしく、無心で口に放り込むはずなのに。今日は、なぜかそんな気になれなかった。


 私は代わりに、窓の外を見た。さっきまで降っていた雨が上がり、雲の切れ間から、弱々しい西陽が射し込んでいる。水たまりに映る空が、ほんの少しだけ、いつもより鮮やかに見えた。

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